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彼は、遠く水平線を見つめながら、過去の記憶を振り返っていく。
「最初は、去年の春。入学したばかりで教室がわからなくて、焦っていたらペンケースを落としてしまって。それを拾い上げてくれたのが、通りすがりの茜さんだったんです」
「そうだったんだ……」
「その時、僕の指から血が出ているのに気づいて、『大丈夫?』って笑いながら絆創膏をくれて。教室の場所も『あっちだよ』って教えてくれたんです……」
うーん、そんなこともあったような。
「ごめんね。やっぱり、あまり覚えてなくて……」
はは……と苦笑する私に、彼は伏し目がちに微笑んだ。
「いいんです。それくらいの些細な出来事ですから。でも、僕にとっては、忘れられない出逢いだったんです」
そう話す瞳は、海を映してキラキラと輝いて見えた。
「指の怪我とか、小さなことに気づいてくれる優しさが、嬉しくて……。あの時、僕に向けてくれた笑顔も……素敵で。素敵な人だなぁって、気になって。それから、人づてに名前やSNSを知って、『おむらいす』なんて名乗って、茜さんに近づいていきました。……ごめんなさい、気持ち悪いですよね……」
私は、首を横に振る。実際、彼に対して悪い印象は抱かなかった。
でも、もし相手が彼じゃなく、他の人だったら————。
「大学で茜さんを見かけると、いつも遠くから目で追っていました。直接話しかける勇気がなくて、知らない人のフリしてSNSで話しかけて。そんなふうに、遠回りにしか関われなくて……」
彼は苦笑いを浮かべた後、すぐに真剣な表情になる。
「……でも、昨夜の茜さんのつぶやきを見て、『今しかない』、『勇気を出そう』って思ったんです」
これはまさか……本当に…………?
「……じゃあ、さっき雄介に言ってた言葉も……」
「『庇った』わけでも、『優しさ』でもない。僕はそんなに優しい人間じゃないし、ケンカする勇気だってない。ただ許せなかった。茜さんを傷つけるあの人が。だって僕は…………!」
何かを言いかけて、彼は口を閉ざす。
思わず、息を呑む。こんなに感情的な彼を、初めて見た。
…………これは、何だろう。
目の前のきらめく海も、風にそよぐ木々も、潮の匂いも、今ここにいる自分でさえも、全てが現実味をなくしていく感じがした。
全てがスローモーションのようにゆっくりと流れ、私たちだけ時間が止まったかのようだった。
「僕…………は」
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