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病室を出て、左右を確認する。もう面会時間終了の八時手前で、病棟には静寂が訪れていた。看護師の姿も今のところない。病棟から脱出する際、ナースステーションの前を通らなければいけないことだけが少しネックだが、何とかしよう。
俺は静かな動作で、マツリのいる病室をノックした。いつものように返事はない。そっとドアをスライドして中の様子を伺ってみるが、物音等は聞こえなかった。
俺はもう一度廊下の様子をチェックして、看護師が通っていないことを確認してから、マツリのいる病室に身体を滑り込ませた。
前来た時と同じように、病室の奥にある窓は開けっぱなしだった。冬の涼しい夜風が、病室内の暖かい空気を混ざり合って中和されている。俺はそんな中、マツリのベッドの前に立った。
マツリは眠っているようだった。端正な顔立ちに、静かな寝息。彼女は安らかに眠っていた。起こしても悪いので、俺は静かにマツリの顔を見つめる。
これから俺は、かなり危険な綱渡りをする。自衛隊の施設への潜入など初めてだし、警戒のレベルも尋常ではないだろう。証拠を残さずにセレネを連れ帰るのはほぼ不可能だろうし、戦闘も免れないだろう。相手はアサルトライフルを持っている。それに武装されたら三八の弾など効かないだろう。とにかく危険度が高い任務であることは確かだった。そもそも、セレネを助ける義務など俺にはない。無視しようと思えば無視できるし、危険の回避を考えるのなら見棄てるべきだ。だけど俺はその選択を放棄した。セレネを見棄てることはできない。彼女を諦めることはマツリを諦めることと同じだし、それ以上にセレネには俺が忘れていた感情を思い出させてもらった。その感情が優しさというのなら、俺はきっと賞金稼ぎとして弱くなってしまったのだろう。だけど悪い気分じゃない。むしろマツリが健在だった時のような心持ちに戻れたんだ。そんなセレネを、俺は助けたい。リスクがあるにしても、マツリと同じくらい、大切に思っているから。
俺はマツリの髪を優しく撫でた。柔らかい髪質が、俺の指先をくすぐる。これで最後にはしない。必ず帰ってくるから。
「少し、出かけてくるね」
そう言って、マツリの髪から指を離した時だった。
「ダメよ。出かけちゃ」
聞きなれた声が響いた。ハッとして振り返ると、哀しそうな顔をした花菱さんが立っていた。
「そんな状態で病院から出るなんて言語道断。あなたはここで怪我を治すの。だから一緒に戻りましょ」
優し気に差し伸べられた花菱さんの手を、俺は後ずさって避けた。花菱さんは俺の意思を読み取ったのか、また悲痛そうに顔を歪める。
「――いいのよ、頑張らなくて。もうあなたは十分頑張った。だから休んでいいの。マツリさんの医療費のことは、また考えましょう。いくらだって方法はあるわ。だから――」
「違うんですよ、花菱さん。俺は今、マツリのためじゃなくて、自分のために動こうとしている。そう、自分のためです。だから止めないでください」
「止めるわよ。そんなにボロボロになって、それでもまだ戦うっていうの」
「これは俺の自分勝手な我儘です。助けなくても良い人を、俺は今から助けに行く。彼女は俺に感情を教えてくれたから。ロボ(Robot)だった俺を、人に戻してくれたから。そのお礼をしに行くんです。――だから、通してください」
俺と花菱さんは、互いに譲らないとにらみ合った。俺たちは争う必要なんてないのに、人は争ってしまう。ちょっとした勘違いやいさかいから。これは人間いつまで経っても拭えない本能だった。
「――譲る気はないのね」
俺は無言を返事にした。花菱さんは唇を噛み締めて、ポツリと呟いた。
「私は看護師である以上、重傷患者の脱走は黙認できません。だからあなたは、ここで私とは会わなかった。いいわね」
俺は感謝を込めて大きく頷いて、頭を下げた。本当に、色々な人に助けてもらってばかりだ。
「五分後、八時になるわ。他の病室へ面会に来ていたご家族が一斉に帰られる。その集団に紛れれば怪しまれないわ」
「はい。――ありがとうございます」
もう一度頭を下げると、花菱さんは無言で病室のドアの方へ向かって、
「必ず帰ってきて。しっかり怪我を治すのよ。あなたには、お姉さんがいるでしょう」
それだけ言い残して、病室から去っていった。
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