忘れるを忘れる

1/1
前へ
/1ページ
次へ
「あのぉ私のこと、覚えてますか?」  昼休み。退屈な必修科目を終えて学食で一番安い素うどんを食べていると、そこはかとなく可愛い女の子に話しかけられた。  絹のように艶やかな髪を揺らし、クイッと首を傾げてのぞき込んでくる。  淡い恋心を抱きそうな仕草ではあったが、残念ながらそんな美人と出会った記憶はなかった。 「ごめん、誰?」  ガックリと肩を落としてうな垂れる美人。かすかに香る良い匂い。  しょぼーん、という効果音が似合うくらいあからさまなへこみっぷりだった。 「そうですよねぇ、やっぱり覚えてないですよねぇ」 「悪いね。たぶん僕の記憶にないから初対面だと思う」 「そ、そんなはずはありません! 昨日駅前の公園で私のハンカチ拾ってくれたじゃないですか!」  トンとテーブルに置かれるピンク色のハンカチ。  けれどもやっぱり見覚えがなくて、とりあえずうどんを啜った。 「駅前の公園……」  確かに昨日、僕はそこにいた。  なんとなく早くに目が覚めて、無意味に早めに電車に乗って、講義が始まるまでの空き時間をそこで過ごしていた。  けれど。 「う~ん。空を泳いでいた渡り鳥の数から噴水の前で荷物を交換していたサラリーマンまで思えているけど、やっぱり君のことは覚えてないなぁ」  一瞬、美人の顔が曇った。が、どうやら負けん気は強い方らしい。 「でもでも! 私は確かに逢いましたよ!」  顔近い顔近い、それはもうキスの距離だから! 「わかった! わかったからちょっと落ち着いて」  直視できずに顔を背ける。  それでも譲らない美人に、言うか言うまいか一瞬ためらった。けれども学食で騒ぐのも良くないし、痴話げんかともてはやされるのもあまり好きではない。まぁ仕方ないだろう。 「それじゃぁ言うけど、僕は絶対記憶を持っていて一度見たことは忘れないんだ。昨日の公園に君はいなかった。だからたぶん人違いじゃないかな」  絶対記憶。生まれながらに持っている特技。  しかしそれを言うと珍しがって便利に使いたがる人ばかりが寄ってきた。一時は自惚れたこともあるが、利用されるだけの関係に疲れて今はあんまり言いたくはなかった。 「絶対記憶? それじゃぁ生まれた時のことは覚えているんですか?」  え? そんなの当然。 「覚えてないけど……」  鼻高々に得意がる美人。 「ほら! 絶対記憶でも覚えてないことがあるじゃないですか。だから昨日私とアナタは公園で出会ってます。絶対です!」  箸を持つ手を一旦下ろす。深く深呼吸をしてうどんを啜る。 「強引だね君」 「ええ、まぁ」  軽やかに美人は微笑む。褒めたわけじゃないのに一体何を聞いていたのだろうか。 「同じ大学だなんて奇遇です。お名前、聞いても良いですか?」  許してもないのに向かいの椅子に腰を下ろして問うてきた。  適当に名前を言うと、指で下唇をなぞりながら熱っぽく復唱された。  ゴクリとつゆを飲んで慌てて聞き返す。 「つ、次はそっちの番。君の名前は?」 「あっ! はい、私一回生のミクっていいます!」 「そうなんだ。僕は二回生だから先輩になるね」 「先輩……あっ!」  淡い色のハンドバックを漁ってプリントを一枚。ブツブツと確認しながら見せてくる。 「今必修の課題で困っていて、ここなんですけどーわかりますか?」  確かに去年やった内容だった。当然記憶はしているし教えることはできるけど。 「ごめん。その前にご飯食べ終わってからでもいい?」 「あっすみません! そうですよね!」  汗々と謝るミクを尻目につゆを啜った。 「ホントに強引だね君は」 「いえ、それほどでも」 「いやだから別に褒めてないって」  真っ当なことを言ったつもりなのにミクはクスクスと小気味よく笑った。  なんだか忙しい子だなと思った。  機嫌が悪くなったり、急に焦ったり、瞬きしている間に笑顔になったり。  正直、可愛かったのもある。小動物的で、少しほっとけない感じもした。  だけれど抱いてしまった下心にはウソはつけず、食器を返却口に戻した後、強引さに負けてミクの課題の手伝いをした。  内容は簡単で、ミクも飲み込みが早かったのですぐに課題は終わった。  その場の流れでお互いの身の上話なんかをして距離を縮め、ミクの方から連絡先を聞いてくれた。沸き立つ想いを隠しながらも冷静に交換。 「ありがとうございます! スゴイ助かっちゃいました」  立ち上がって頭を下げるミク。滑るように流れる髪からまたも良い匂いがした。 「べ、別に僕でなくても教えられたと思うけど」 「いえ先輩だから頑張れたんです」  力説するような熱視線に堪えられず明後日の方向へ目をやる。 「まぁそれぐらいいつでも言って。イヤじゃなければまた手伝うよ」 「はい! またお願いします! それじゃぁ私は次の講義があるので!」  振り返りながら「さよーならー!」と手を振るミク。  前を見て歩かないと危ないなぁ、と思った途端、床を磨いていた清掃員のおじさんと打つかってコケる。  遠目からではわからないが清掃員のおじさんと二言三言交わして立ち上がり、こっちを向いて「てへへ」と笑う。 「可愛い子だなぁ」  慌てて口を塞ぐ。思っていたことがそのまま口にでしまっていた。  ◇  ターゲットと別れた後、自然に清掃員と打つかって倒れた。  清掃員、もとい上司は端的に小声で。「どうだった」と続けた。  私もだから端的に答える。 「やはり公園での取引を目撃していました。今日中に消します」 「ああ、必ずだ……おいこっちを見ているぞ。適当に笑顔を返しておけ」  何事もなかったかように立ち上がり、ターゲットの好きそうな笑顔を振りまいた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加