空にひろがる濃藍よ

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 あの日以来、響は自由席の講義では幸紘の隣に座ってくるようになった。たいていは一人で。たまに友人らしき人も一緒に来るが、何故か頑なに幸紘に接触させない。  挨拶もしようがないので、幸紘は目が合った時だけ会釈するようにしている。向こうは合ったかも分からないだろうが、律儀に会釈を返してくれる。 「こいつは放っておけ。瀬尾は関わらなくていい」 「ひっでぇ。まったく、その我が儘な性格いつになったら直んだよ」 「先に言っといたのについて来たのはお前だ」 「あーはいはい。悪ぅございましたね。でもお前一人にしとくと何があるか分かんねぇもん。後始末より先手を打ったほうが楽なんだよ」  幸紘は机に肘をついて台をつくり、その上に顔を乗せて言い合いを続ける隣を眺めた。随分気安い関係のようだ。名前を知らない彼……、長いから友人君と呼ぶことにする。友人君の言動から、長い付き合いなのだろうと思った。  随分な態度の響に、友人君は怒るでも呆れるでもなく、仕方ないな、という顔をしている。そして言葉から、今までも尻ぬぐいをしてきたのだろう。この不良の友人にしては見た目も普通の好青年。良い人そうだ。 「うわ……かっわ……」 「やだひーくんったら変態みたい」 「殺すぞ」 「……ひーくん?」  響が友人君から幸紘のほうに向きなおった瞬間、幸紘を見て何やら呟いた。幸紘には聞こえなかったが友人君には聞こえたらしい。キッと響が睨むが、口元を押さえながらも目元が笑っている友人君には効果がなさそうだ。  不思議に思いつつ首を傾げ、幸紘は友人君の発した中で一番気になった言葉を復唱した。すると、響は呆けた顔で幸紘を見て、その後両手で顔を覆って机に突っ伏した。遮るものが無くなって見えた友人君はドン引きしている。  友人君は害虫を見るような目で響を眺めていたが、幸紘が見ていることに気付いたらしくすぐに表情を変えた。 「俺、笹山 遼(ささやま りょう)。実家がこいつの家の隣でさ。幼馴染みなんだけど、何の因果か大学まで同じで今もお守りしてんの。ひーくんてのは、俺たちの親がそう呼んでて……あーまぁ、嫌がらせなんだけど」 「はぁ、どうも。瀬尾幸紘です。何と言うか、大変そうですね」 「はは。ほんとそう。挨拶もさせないような奴だけど、根は悪い奴じゃないからさ。よろしくな」  屈託のない笑みで言う遼に、幸紘はとりあえず頷く。正直よろしくする気は微塵もなかった。しかし弱味も握られているし、笹山は第一印象通り良い人そうだ。最悪彼を頼ろうと算段を立てる。 「こいつとは仲良くしなくていい」 「……はー、お前はほんと」 「あ、いたいた。幸」  幸紘の定位置はたいてい一番後ろの窓際だ。だから探すのは当然楽である。幸紘に声を掛けた男はそのまま、幸紘の隣に座った。響とは反対側を、今日はわざと空けてあった。風が要注意だと認識したからというのもあったが。 「……誰」 「こんにちは~飯島 玲人(いいじま れいと)っていいます。幸の幼馴染みです。僕は商学部だから取ってる授業は微妙に違うけど」  玲人は昔から幸紘を知っていて、態度が一切変わらなかった、今では唯一信頼できる友人である。とりあえずどこか大学に行こうと思った幸紘は、玲人がここを第一希望にすると言うので合わせただけだった。  玲人は商学部を選び、幸紘は経営学部を選んだ。学部まで同じにする必要はないと思ったからで、決して、幼馴染みでもここまで一緒にするか? と我に返ったからではない。でも全く会えなくなったら淋しいかも、とも思っていない。  幸紘が心の中で言い訳をしているうちに挨拶は終わったらしい。玲人と遼は気が合ったのか真ん中の二人を通り越して会話を続けている。ちなみに響はぼんやり机を眺めていた幸紘の髪をいじって遊んでいた。 「なぁ、瀬尾」 「何」 「俺もユキって呼んでいい?」 「……好きにすれば」  面倒臭くてそう言った幸紘に、響は嬉しそうに笑った。隣から分かりやすく喜びのオーラを感じられて居心地が悪い。ふと重い前髪の内側から前に視線をやれば、数名がチラチラこちらを見ていた。  全員女子だ。幸紘は顔の向きはそのままにチラリと隣で笑う男を見て、まぁそうかと納得する。何度も言うが、整った顔立ちをしているのだ。黒縁眼鏡でも野暮ったく感じないし、癖毛なのかワックスなのか不明のボサボサした髪も気にならないほどに。 「……あぁ嫌だ……」 「どうした?」 「何でもいいけど隣に来んのやめろ」 「え、嫌だけど」  確実に、響といると視線を向けられる。その分幸紘はバレるリスクがあがるのだ。響が誰かに言おうが言うまいが関係ない。目立ってしまったら意味がない。  机に突っ伏して、くぐもった声で言った幸紘の声を、響は簡単に拾う。そういう所は楽でいい。大きな声を出したくないから。被せる様に返ってきたのは拒否だったけど。 「やっとユキに会えたのに、何でわざわざ離れなきゃいけないわけ?」 「……何お前。ファンかなんか?」 「ファン……ファン? そうか。俺、ファンかも」 「どういうことなんだよ……」  顔の下に敷いていた両手を後頭部にまわして頭を抱える。幸紘の手に払われるように幸紘の髪から手を離した響は、遼と話し始めた。 「なぁ、俺ってファンだった?」 「んん? お前のファンはいっぱいいるな?」 「違くて。俺、ユキのファンだった?」 「瀬尾の? いや、ファンってよりストーカーだろ。広い意味で言えばファンだろうけど。気持ち悪いほうの」  幸紘は頭を抱えた姿勢のまま、耳も覆うことに成功する。遼ははっきりものを言うタイプだということだけ確認し、その後の会話は聞くことをやめた。質問したのは幸紘だが、聞きたくないものを聞く必要はないという判断だ。 「幸、幸」 「何」 「あの二人って、知ってるの?」  幸紘に合わせるように、机に片頬をつけた玲人が小さな声で聞いてくる。幸紘も玲人のほうに、顰めた顔を向けて答えた。 「怖いほうにはバレた」 「えっいつ?」 「先週」 「……そう。それなら大丈夫だよ、幸」 「何が」 「これは僕の勘だけど。琴森くんだっけ。彼は大丈夫だよ」  玲人が言うのなら、そうなのだろう。そう思うくらいに、幸紘は玲人と過ごしてきたし、信頼している。だからと言って、はいそうですね、とはいかない。  幸紘は自他共に認める人見知りだ。というか、人間不信だ。卑屈で疑り深い性格も、ぶっきら棒な言動も、そうなった理由は分かっている。思い出したくない例の記憶だ。  だから信頼する玲人がそう言ったとしても、簡単に受け入れられない。  苦しそうに目を閉じた幸紘の背を、玲人はぽんぽんと軽く叩いた。まるで、小さな子どもに大丈夫と言い聞かせるように。 「考えてみて。彼は幸が張ってるバリアに簡単に入ってきてるよ。さっきだって、普通に話してた。僕、これでもびっくりしてるんだから」 「…………」 「彼でしょ? 幸が前に言ってた、たまに隣に座ってくる人って」 「気付いて寄ってきてたのかもしれないだろ」  芸能人だから友だちになりたいという人は、昔からよくいた。幸紘だからではなく、芸能人の友人という立場が欲しかったのは明らかだった。他の俳優のサインが欲しいだとか、誰か紹介して欲しいだとか。マウントを取るために幸紘を利用する。そんな友人もどきに嫌気がさしていた。 「ねぇねぇ琴森くん」 「ん?」 「幸は、瀬尾幸紘だよねぇ?」 「え、違うことあんの?」 「遼は黙ってろ。俺にとってはどっちもユキ。笑顔振りまいてても、つっけんどんな態度でも、この髪型も、全部ユキだから可愛い」 「何の話か分からんが、気持ち悪さが吹っ切れてんなお前。とりあえず可愛いはやめてやれよ。嫌われるぞ」  響が遼の頬を引っ張っている。反対を向いている幸紘には見えなかったが、日本語にならなかった謎の言葉と共に、痛そうな声が聞こえていた。玲人はそれを面白そうに見ている。  幸紘は分からないでいた。響と会ったのは大学生になってからのはずだ。それなのに、響は大学生でも俳優でもない幸紘を知っているかのような口調の時がある。 「可愛いはやめろ。あと今も普通に嫌いだ」  もやもやする。見えないと分かっているのに眉間に皺を寄せ、そう告げる。幸紘は、これではまるで威嚇のようだと自己分析していた。警戒して、踏み込まれたくなくて、敵意を前に出す。冷静に自分のことを見られるのに、言動に反映されない。  いつだって幸紘の言動はちぐはぐだ。俳優という職業ゆえかもしれない。自分の他に別の人格を飼っている。どれが本当の自分だろうと悩んだことも一度や二度ではない。 「充分嬉しい」 「あげくドMかよ……」 「お前ほんと黙れ。嫌いってことは、俺のこと認識してるってことだろ? どうでもいいって言われなかったんだから充分」 「お前のその我が道を行く精神、嫌いじゃないぜ」 「遼から好かれても嬉しくない。あ、嘘、嬉しくないわけじゃない」 「知ってる知ってる」  軽口を言い合う二人から、幸紘は視線を逸らした。顔ごと。 「別に何だっていいんだ。玲人がいれば」 「ほら~幸の悪い癖だよ、それ」 「……うん」  小さく、頷く。でも分かったでしょ、と玲人はいたずらっ子のような顔で幸紘に言った。幸紘は、それにも小さく頭を揺らした。  今まで芸能人の瀬間ひろとに寄ってきた友人もどきとは違う。響は本当に幸紘と友人になりたいようだった。  先週会ってから、まるで普通の大学生の友だちのようだった。授業の話をして、昼ご飯の話をして、ちょっと勉強を教え合ったりして。午後一のコマが空きだからと近くの喫茶店に連れていかれたりもした。人が少ない穴場だった。きっと、幸紘に気を遣ってくれていた。  幸紘が上半身を起こすと、ちょうど教授が教室に入ってきた。ざわざわと騒がしかった教室内が、少しずつ静かになっていく。幸紘は、今は授業に集中しようとノートを広げた。  教授が話し始めてすぐ、隣の気配が動いたのが分かった。 「ちょっとずつ信じて。俺は、簡単には離れてやらないから」  耳元から聞こえた声が、やっぱりどこかで聞いたことがある気がして。幸紘はそれがいつだったか考えることに集中した。そうでなければ、頭の中を先ほどの言葉が占領しそうだったから。
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