空にひろがる濃藍よ

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「……騒がしい……」  幸紘がぽつりと呟いた言葉は、誰の耳にも入っていないようだ。    幸紘が響と出会って約二週間が過ぎた。相変わらず響は講義が被れば隣に座ってくる。たいていそこには遼がついてきて、幸紘を心配した玲人が様子を見にくるのが日常になりつつあった。  玲人は学部こそ違うが被っている授業は多い。講義が被っていても、今まではあまり傍に来ないようにしてもらっていた。悪いほうに目立っていると自覚していた幸紘が、玲人を気遣っての対応だ。  住んでいる部屋は近いし、昼休みや空きコマなんかは一緒にいたので、幸紘としては充分だった。これからもそんな日々が続いて、卒業までにもう少し玲人に頼らず生きる精神を養うつもりだったのだが。 「こっちの時のほうがいい」 「え~? 僕はこっちの時のほうが好きだな~」  学食で、四人掛けのテーブルに仲良く四人で座っていた。幸紘としては嫌でしょうがなかったが、響に引っ張られて見に行ったランチが美味しそうだったから残っただけだ。  食事は早々に食べ終わった。しかし教室に移動するにはさすがに早すぎる。ペットボトル片手に幸紘がぼんやりしていると、隣に座っていた響がおもむろに芸能雑誌をテーブルに出していた。幸紘としては、そんなことより響に問いたい。どうしてお前がそこに座っているんだと。  幸紘の視線による文句を軽く流した響は、今日発売だったと言いながら、瀬間ひろとがラジオにゲスト出演した時の記事を眺め始めた。どんなことを喋っていただろうか。収録自体は一ヶ月前のもので、幸紘は内容をすぐに思い出せなかった。  思い出そうと前に向き直ると、玲人がファッション雑誌を読んでいる。いつの間に。しかも幸紘が載っているもの。玲人に関しては昔からチェックしてくれているから、まぁ分からなくもない。  次第にお互いの雑誌を見せ合うように動かした二人は、何着かモデルをした幸紘を見比べて好きなことを言っている。  静かな大学生活を返してくれ。幸紘がげんなりしていると、何も知らない遼が雑誌を眺めながら疑問を投げてきた。 「お前ら何で突然瀬間ひろとの出てる雑誌並べ始めたんだ? 響が集めてんのは知ってたけど飯島もかよ」 「俺は知ってるぞ。遼、お前も鞄に雑誌入ってるだろ」  幸紘にとって予想外の言葉が聞こえた。響は自分で瀬間ひろとのファンだと宣言していた。だから今更雑誌一冊取り出してきたところで何も言う気もない。しかし、遼は興味がなさそうだった。響がファンであることを冷静に見てるだけ、という様子だったのに。 「笹山くんもひろと好きなの?」 「芝居がな。あいつの演技ってわくわくするんだよ。いつだって自然にそこにいるのに、ちょい役でも意識にきちんと残ってる。なんつーのかな。悪い意味で全部本人に見える役者っているじゃん。その反対? どれがほんとか分かんないその演技力! すげーいい」 「遼は演劇馬鹿だからな」 「瀬間ひろとって絶対舞台映えもすんのに映像作品ばっかなんだよなー。いや、何回も見れるのは有り難いんだけど」 「学生だから無理かって前に自分で言ってたじゃねぇか。卒業したら舞台だって出るだろ」  幸紘が舞台の仕事をしていないのは、二人の予想通りだ。特別公演ならまだしも、通常の公演に二日で終わるような日程のものはほとんどない。当然土日だけ、なんてものもない。加えてマチソワがあるのが普通だろう。  稽古期間も夜だけというわけにはいかないし、夜公演の通しは昼間するものだ。ぶっつけ本番で大変なのは自分だけではすまない。絡みのある役者や裏方全てに迷惑がかかる。  だからこそ幸紘は、役者業をセーブ中の今は単発の仕事のみにしていた。 「ミュージカルとか見たいよなー。瀬間ひろとって歌も上手いんだろ?」 「当然」  響が遼の質問に自慢気に答えている。幸紘としてはツッコミどころ満載だが、複雑そうな顔をするだけにとどめた。相変わらず顔の上半分は前髪で見えていないはずだ。周りから見ればその表情の変化は認められないだろう。  そんな幸紘の前で、玲人は不思議そうな顔を響に向けていた。そして、疑問に思ったことを素直に口にする。 「琴森くんって、ひろとの歌聞いたことあるの?」  幸紘も気になって顔を響のほうに向けた。  子役と呼ばれていた頃には、確かにミュージカルにも出たことがあった。たった一度だったが。都内の小劇場で、期間はたったの四日。だからこそ参加できた演目だ。  幸紘の両親は、彼らなりに幸紘のことを一生懸命考えてくれている。子役時代にキャリアを積むのも、将来役者として生きていくのなら大事なことだろう。それを承知で、幸紘にそうさせなかった。  普通の子どもに当然のように与えられる学校生活を奪いたくない。そう言って、当時から仕事を詰めようとしていた事務所と交渉していた。それで嫌な経験をしなかったわけではないが、感謝はしている。  本当に能力があるなら、本当にやりたいことなら、少し遅れても努力で先に進めるだろう。それが彼らの言い分だ。本人たち曰く言い訳、らしい。幸紘はそれを初めて聞いた時には笑ってしまった。自分の不器用なところはこの人たちにそっくりだ、と。役者として上手くいかなかった時の言い訳を作ってくれたとすぐに分かったから。  そんな両親と幸紘の願い通り、未だ学生の幸紘は仕事をセーブしている。その一度以来ミュージカルに出たこともなければ、どこかで歌ったこともない。それなのに、響が知っているというのは何故なのか。 「あ、なぁ。午後休講っぽいぞ」  玲人と幸紘の視線を集めていた響の前の席で、気の抜けるようなマイペースな声が聞こえた。  途端に、視線はそちらに集まる。スマホで大学の掲示板を見ていた遼は、手元を覗き込んでくる玲人に画面を見せながら詳細を探していた。 「え~休講?」 「何か……二号館を使う授業、全部休みっぽい。あーこれだ。二号館改修工事だって」 「教室の振り替えが間に合わなかったってことか」 「元々調整してないんじゃないか? 週一しかこない教授いるし」  幸紘たちの学部は基本二号館を使うことが多い。講義が被りやすい玲人も同じなのだろう。今日の午後は三限と四限があったが、どちらも二号館だった。ちなみに二限も二号館だったがそんな話は出ていない。教授や大学の情報共有がどうなっているのか幸紘は疑問を持つのだった。  明日からの教室は学部ごとリンクができているようだ。玲人もスマホを出して、自分の学部の教室を確認している。幸紘は遼から明日の一限の教室だけ聞くと、アラームを設定してからスマホをしまった。 「よっしゃー帰れる!」 「僕バイトなんだよね。家帰ると往復になって面倒だな~。幸は?」 「俺も。玲人、どっかで時間潰そう」 「……なら、俺の家来る?」  幸紘は単発の声の仕事が夕方からあった。スタジオは家よりも大学のほうが近い。時間があると言っても家に戻るのは面倒だった。  玲人も同じらしい。平日だしファミレスなら少し長めにいても文句を言われないだろうか。そんなことを考えていると、響がぽつりと提案する。幸紘と玲人がきょとんとしていると、遼が楽し気に言った。 「響の家、ここから徒歩十分かからないでつくもんな! お前ら集まるんなら俺も行っていい?」 「お前は来んな。キモい」 「ファンを装ったストーカー野郎にキモいとか言われんの屈辱なんですけど。いいぜー別に。お前が読んだことないだろう雑誌、今日持ってきてるけど貸してやらんからな」 「すみませんでした」 「素直でよろしい。で、お前らはどうすんの? っていうか来るよな?」  ほぼ決定事項のように遼に言われ、幸紘は玲人と顔を見合わせた。玲人はさきほどのきょとん顔から復活していない。響の家に行きたいかと聞かれれば、行きたくない。幸紘は友人になったつもりもないのだから。  しかし、ここから近いというのは捨てがたかった。何時間いても迷惑そうな顔をされない場所というのも有り難い。しかも無料だ。幸紘も玲人も生活苦なほど金がないわけではなかったが、使わなくていいのならそれに越したことはない。 「ユキ」 「え」 「行こ」  響に腕を引かれ、幸紘は立ち上がった。そのまま移動しようとする響を止めて、慌てて玲人のほうを見れば、何でか遼と仲良く繋いだ手を振りながらこちらに来ていた。面倒が減ってご機嫌になったらしい。  くい、と手を引かれて響に向き直れば、幸紘が前を向いたのを確認して歩き出した。仕方なく幸紘も歩き出す。腕は離されないが、力は込められていない。振りほどこうと思えば、幸紘は簡単に解放されるだろう。  ちらりと後ろを見て。変わらず手を繋いでブンブン振り回している二人。注目されるほどではないが、こちらを見た学生たちの視線は、動きがついた玲人たちにいくだろう。  なら、まぁいいか。幸紘は流されることに決めた。  引っ張ってくれと言わんばかりに力を抜いた幸紘に、前を行く響が小さく笑っていたのは、彼を見ていた人しか知らない。
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