空にひろがる濃藍よ

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「お邪魔しまーす」 「お邪魔します……」 「はいどうぞー!」 「お前が言うのはおかしい」  響の提案からほぼ強制的に連れられてきた幸紘は、何の迷いもなく通された部屋に入って行く玲人に続いて中に入った。  学生が住むにしてはセキュリティの万全そうなマンションの一室。家が金持ちなのか。そんなことを考えていた幸紘が案内されたのは、玄関から入ってダウンライトが優しい廊下の先。  一人暮らしとは思えないリビングダイニング。響が好む洋服と同じような、モノトーンでまとめられた落ち着いた空間だ。テレビの前にローテーブルを挟んでL字の大きな黒いソファ。敷かれたカーペットの上には人をダメにしそうなクッションが無造作に放られているのも見える。  対面式のカウンターキッチンには、足の長い木のスツールが二つ。キッチンの奥には壁一面の棚やら冷蔵庫。棚は中が見えない仕様で、綺麗に片付けられているため料理をするのかしないのかは謎だ。とりあえず綺麗にしている、ということを幸紘は意外に思った。  学生の一人暮らしなど、部屋が散らかっていても仕方ないと幸紘は思っている。現に幸紘の部屋は片付いているとは言い難い惨状だ。学校に仕事にと忙しいのも間違いないが。 「へぇ~綺麗にしてるんだねぇ」 「響はすげぇ綺麗好きだぜ。散らかそうもんなら部屋から蹴り出される」 「お前は酷すぎるからだ。汚れた手をソファで拭こうとするわ、食べかすを当然のように床に落とすわ、ラグに涎垂らしながら寝るわ、最悪だ」 「いいじゃんル〇バ走ってんだしー」  腕を響に取られたままだった幸紘は、響に促され黒い革張りのソファに座った。玲人はその隣に座ってくる。遼は人をダメにしそうなクッションにダイブしていた。あれは遼専用のようだ。  響はキッチンに行くとコーヒーメーカーをセットして棚からカップを出していた。淀みない動きを見る限り、お飾りキッチンではないのだろう。住んでいるのだから当然であるが。  出されたコーヒーを有り難くいただきながら、幸紘はL字ソファの短辺に座った響をぼんやりと眺めた。その響は遼から強奪した雑誌を眺めている。見えても気にしないのだろう。組まれた長い足に乗せて開かれたページには瀬間ひろとが無表情で写っていた。 「本当に瀬間ひろとのファンなんだ~」 「響の音部屋はもっと凄いぜ! 雑誌やらDVDにBDが所狭しと並べられてるからな!」 「音部屋?」  玲人と遼の会話を聞きながら響の雑誌を眺めていた幸紘は、捲られた次のページに見えたそれに、固まった。  見えたのはとあるロックバンドの特集記事だ。デビューした当初はメンバー全員高校生という若いバンドだった。それからもう四、五年経っているが、相変わらず高い人気を誇っている。  音楽関連に疎い幸紘でさえ知っているくらい、日常でよく聞く音楽を作る人気バンド。そのページになって響は飽きたのか雑誌を閉じてしまったが。幸紘は閉じられた雑誌を凝視し続けていた。 「あれ、気付いてなかった?」 「何に?」 「響だよ。何だ、知ってると思ってた」  音部屋と言って分からない様子の玲人に、遼は意外そうに言った。知ってると思ってたという、遼の言葉を聞きながらも、幸紘は視線を動かせない。  自らが持つ雑誌を凝視している幸紘に気付いた響が、フッと、笑みを浮かべた。自然な、嫌味のない笑みだ。 「響、お前二人に言ってねーの?」 「言ってない。気付いてくれたら嬉しいなって思ってたし」 「それなら俺も言わないほうがいいのか?」 「今更じゃない? それに、ユキは気付いたみたいだからいいよ。言っても」  意味深な会話をする響と遼に、玲人は首どころか上半身が傾いていてソファに倒れ込みそうだ。幸紘は視線をウロウロさせるしかできない。でも、響の言う通り気付いてしまった。いや、まさか。勘違いだと言い聞かせていたが、本人が認めてしまった。 「何々どういうこと~? 幸、何に気付いたの?」 「今考えてるので合ってるから、教えてやんなよ」 「……、玲人。俺らと同じ歳くらいの、ロックバンド、あるじゃん」 「Himmel(ヒメル)? それがどうし……、え?」  メンバーを思い浮かべていたのだろう。人気なだけあってテレビにもよく出ているヒメルというバンド。特に人気なのがボーカリストとベーシストだ。順番に思い浮かべて何か思うことがあったらしい。幸紘を通り越して響を見て、幸紘同様固まった。  響は結っていた長めの襟足を解き、黒縁の眼鏡も取っていた。それはテレビでも見たことのある顔だった。 「……ヒメル、の、キョウじゃん……」 「意外と気付かないもんだな?」 「仕事の時のお前すっげー感じ悪いせいじゃね? 何つーの? 偉そう? あ、これ普段もだわ」 「うるせぇ」 「無表情に無言で顔隠しがちだしなぁ。カラコンもしてんだっけ? 普段は髪ボッサボサのまま結って終わりだから、顔整ってても同一人物とは思えねぇよなー」  そう言って笑う遼に、幸紘も玲人もついていけない。幸紘もそうだ。だから響のことをどうこう言うつもりはなかったが、まさか同じような境遇の人間がこんな傍にいると思わなかったのだ。しかも、気付かなかった。挙句、瀬間ひろとのファンだという。もう意味が分からない。 「え、笹山くんは? 一般人だよね?」 「おう。劇団には入ってるけど、劇団の公演にしか出てない一般人だぜ!」 「それ一般人かなぁ?」  だから芝居が好きだと言っていたのかと、幸紘は納得した。自分の演技について、同じ役者からの意見は新鮮な反面照れくささを感じる。話していたあの時に知らなくて良かったと思った。  遼から視線を響に戻した幸紘は、予想以上に響が近くに来ていて思わず仰け反った。振り向けば拳一つ分くらいの距離に顔があったのだ。隣の玲人にぶつかることはなかったが、心臓はバクバクである。 「ユキ。遼に言ってもいい?」 「な、何を……」 「ユキのこと」 「俺の、こと?」 「あいつね、憧れてるんだって。あんなんでも、口は堅い。まぁ、ユキに質問攻めするとは思うけど、ダメ?」  遼に聞こえないようにだろう。顔を寄せて聞いてくる響に、幸紘の頭は上手く回らなかった。眼鏡を取った顔が、分かっていたが整っていて。目が離せない。頭が真っ白だった。  顔を赤くして固まった幸紘を、響は笑みを深くして観察しているようだった。重い前髪で目は見えないが、視線は響の顔を見ているとバレているだろう。  幸紘の眼前に迫っていた響の手は、一度動きを止めると、幸紘の重い前髪をひと房掬った。それに幸紘がピクリと反応すれば、響は息を吐いたようだった。妙な艶めかしさを出し始めた響にハッしたように幸紘の思考能力は復活する。 「言ってもいい? ユキが瀬間ひろとだって」 「……はぁ。どうせいつか、言う気だろ。なら、今でも同じじゃん」 「まぁね。ありがとう」  何度も確認されたが、求められた答えはほぼ一つだったように思う。きっとここで幸紘が駄目だと言ったところで、数日後にはまた同じ会話がなされるだけだ。予想通り、幸紘が目を細めて答えれば、響は肩を疎めた。 「二人に気付かないとか言ってるけど遼、お前も気付いてないぞ」 「俺は響のことは知ってたぞ?」 「馬鹿。ユキのことだ」 「んん? 瀬尾?」  一人少し低い位置から幸紘を見上げる遼に、響は見せつけるように幸紘の前髪をあげた。言葉で言うより間違いなく早い。瀬間ひろとを知っている人間になら。  案の定、遼はすぐに気付いたようだ。面白いほど目が見開かれていく。震える手で幸紘を指さし、口はパクパクと動いている。役者だからなのか。オーバーリアクションな上に何とも分かりやすい動き。観客は、彼が驚いていると一目で分かることだろう。 「せ、せ、せ……瀬間、ひろと……!?」 「琴森くん、笹山くんには言ってなかったんだ」 「勝手には言わない。そんなことされたら俺だって嫌だから」 「お前の聞き方、許可を取るようなもんじゃなかったけどな」  幸紘の前髪を持ち上げる響の手を払い、幸紘は頭を振って髪型を戻した。響にバレた日以来、ヘアワックスをこれでもかと使用している。ちょっと触られたくらいでは形状記憶された前髪は崩れない。  瀬間ひろとから瀬尾幸紘に戻った。遼はその様子を眺めながら、未だに動けないでいる。幸紘や玲人の驚きが可愛かったと思えるような驚きようで、それは逆にわざとらしく見えてくる。 「驚いてんのは分かるけど、リアクションが長すぎ。日常だからアレだけど、舞台(いた)の上でそんなことしてたら場がシラケるよ」 「元々素直すぎる男だから許してやって」 「それにしても長いよね~。驚くのは分かるけど」  思わずツッコんだ幸紘に、響は再び肩を疎めた。響の言うことは本当らしく、幸紘の言葉を聞いても遼は動かない。向けられた指も震えているわりにそこから上がりも下がりもしない。ここまで動かないと心配になってくる。 「笹山くん」 「……」 「お~い。笹山くん。笹山く~ん? さーさーやーまーくーんー」  一番近い玲人がひたすら声をかけるが、遼は固まったままだった。視線も幸紘に固定されている。そのせいで幸紘はひどく居心地が悪い。 「俺ってそんなに仕事中と違うか? こんなに固まるほど衝撃的?」 「どっちでも可愛いと思うけど。あれじゃん、遼にとっては憧れの人だから」 「キモ。聞かなきゃよかった」 「その蔑んだ眼もいいと思うよ」  見えてんのかあんた。そんな言葉が口から出そうになった幸紘だった。  いやに綺麗な顔をした響に、真顔で言われたせいで幸紘の頭はバグっている。どうにか自然な感想を告げられたが、可愛いと言われて少し動揺していた。  その後、懸命に呼び続けた玲人のおかげか、遼は復活した。復活して、怒涛の質問攻めを始めた。響の予想通りである。演技全般のことから、幸紘が出ていたドラマや映画の小さなシーンの芝居の理由まで。  幸紘が白目になりながら答えたり答えなかったりしていた間、響は再び手に持っていた雑誌の瀬間ひろとのインタビューを眺めていた。それを見た玲人は、響に先ほど感じた疑問を投げかける。 「琴森くん、その雑誌買ってなかったんだよね? 笹山くんが読んでないだろうって言ってたし」 「うん」 「何で? 結構ロングインタビューだし、ゲットしてそうなのに」 「……自分たちが載ってる雑誌って、見るの好きじゃないから」 「見本貰えそうなのに」 「他の奴らは貰ってんじゃない? でも、これなら貰っておけばよかった」 「その写真の幸、可愛いよね」 「うん。でも、ま、切り取るからいいや」  他人の雑誌を切ろうとしている響と、それを止めることなく「そっか~」なんて言って笑う玲人に、幸紘も遼も気付かない。遼が好きなのは瀬間ひろとの演技なので、写真がなくても問題ないだろう。ということにしておく。  遼による質問攻めがやっと終わった頃、気付けば響は幸紘を抱き込んで遼を睨んでいたし、玲人は隣で丸くなって熟睡していた。
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