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初めて響の家に行ってから、幸紘や玲人は度々その場所を借りるようになった。きちんと家主がいる時と、家主が講義のため勝手に入ってていい、と言われて図々しく邪魔している時がある。そんな時は幸紘が預かった合鍵が役に立つ。
何故幸紘が合鍵を預かったか。それは幸紘にもよく分かっていない。気付いたら響に意味深な笑顔を向けられ、手に握らされていた。返そうにも、受け取ってもらえずそのままになっている。
それが、響が講義を取っていて家に帰れない時があるからと予測していたのかは、未だに謎だ。でも使っていいなら遠慮なく使う幸紘だった。
今までのように外で時間を潰していてもいいが、幸紘は基本的に外にいるのは苦手だ。前髪で顔を隠しているからバレない。そう思っていても、やはり人目を気にしてしまう。そんな落ち着かない時間の後の仕事はなかなかに疲れるもので。言葉にこそしていないが、幸紘は響に、それなりに感謝していた。
「でもさ~琴森くんがまさかヒメルのベーシストだったなんてね~。世間は狭いなぁ」
初めて響の家に来た日。響はあっさりと幸紘たちに正体を明かした。大学に行く際も、特に隠しているわけではないらしい。ただ、キョウである時と響である時とは雰囲気が違いすぎるからかほぼバレていないようだ。髪型や眼鏡がどうのではなく、纏う空気が違うと幸紘は感じていた。
実は事務所が同じだと気付いたのは最近のこと。瀬間ひろととして仕事をしている時に会ったことはない。だから直接キョウの時の響を見たことはなかった。それでも雑誌やテレビで見るキョウは、一目で分かるほど酷く冷たい空気を放っていたのだ。
基本下を向いていて、質問の受け答えはほとんどしない。髪はセットされているが、長い前髪でその表情は見えにくい。口元に笑みを浮かべることはなく無表情。あげく前髪の間から目が見えたと思えば睨んでいるかのようなのだ。
幸紘の知る響とは重なる部分がほぼないのだった。
「でもたまにキョウが歌ってる曲は凄くいいよね~。あの顔であのスタイルでベースできて歌まで上手いとかやんなっちゃうよな~」
他人の家だというのに、玲人は気にした様子もなくソファにぐでんと沈んでいる。置かれたクッションを抱えて、愚痴っているのにどこか可愛らしく感じるのが不思議だ。
玲人の言うとおり、キョウはベース担当だが、たまにボーカルをしている。アルバムで一つあるかないかの曲は、そのレア度からかとんでもない人気だ。でも、歌番組では一切歌っていないらしい。
ヒメルのCDを一枚も持っていなかった幸紘が何故その曲を知っているのかといえば。響の防音設備完備の通称音部屋にあったのを聞かせてもらったのである。
歌には詳しくない幸紘も、いい曲だと思った。それぞれテンポも曲調もテーマも違うだろうたった数曲。どれもキョウの低く深みのある声がなぞるだけで引き込まれてしまう。
そんな曲を生で聞くにはライブに行くしかなく、いつでもチケットは数分で捌けてしまうらしかった。それだけ人気ならキョウがボーカルも担当できるのでは、と素人は思ってしまうのだが。
『ベースしながらボーカルやんのは、無理。音程取れなくなるし、テンポ狂うから。俺にはできない』
というのは響談だ。幸紘は楽器には詳しくないのでふーんと答えたまでだが、後日音部屋にあるギターを触らせてもらって少しだけ分かった気がした。
当然だが、ド素人の幸紘にとってはアコースティックギターでコードを押さえるのすら難しい。それをスラスラと行う響が言うのだから、そうなのだろうと素直に思えた。
ちなみに幸紘が苦戦した理由は、わざわざ後ろから幸紘を抱えるように押さえる指を教えてくれた響を、変に意識して集中できなかったのもあったりする。前から見るより教えやすいと響は言っていたが。ネクタイを結ぶのと同じような感覚なのだろうかと幸紘は疑問だった。
「琴森が歌ってる時はボーカルがベースやってるんだっけ」
「元々ボーカルの人は後から加入したんだって。でも琴森くんの歌声が好きすぎて、どうしても聞きたくてベース猛練習したらしいって、笹山くんが言ってたよ」
ヒメルのボーカリストは、曲からは想像がつかないような子犬みたいな人だ。インタビューでもテンション高くひたすら喋っている。そのおかげでキョウが一切話さなくても成り立っているようだった。
ボーカリストなのに素直にキョウの歌声が好きだと言っているのは凄いことだと幸紘は思う。現にキョウの歌はレアであることを除いても人気だ。同じグループだから嫉妬してもおかしくないだろうに。
同じグループだからこそ素直に褒められるというのもあるのかもしれない。でも、ヒメルのボーカルは自分だという自負もあるはずだ。幸紘は役者で、グループを組んで何かをすることは無いので想像しかできなかった。
「ただいまー」
「お邪魔しまーす!」
玲人がゴロリと寝転びソファを占領していたので、幸紘は遼愛用の人をダメにしそうなクッションに身を埋めていた。今日の講義を全て終えて帰ってきたらしい響と遼を、首を捻って出迎える。
それを見た響が途端眉を顰めた。つかつかと幸紘に歩み寄り、脇の下に手を入れて立ち上がらせてくる。幸紘は訳が分からないまま立ち上がって何事だと響を見たが、響の表情からは不機嫌ということしか読み取れなかった。
「ユキはこっち」
腕を取られて玲人の隣、いつもの位置に座らされた。玲人は響が幸紘を立ち上がらせた時点で姿勢を直してちょこんと座っている。その隣に幸紘が座ったのを確認して、響は満足そうに飲み物を取りに行った。
遼は空いた自分の席にダイブしている。着地地点がズレたらしく、床に顔面をぶつけたように見えたが、幸紘は見なかったことにした。隣の玲人は肩が揺れている。でも、笑っている理由は遼のことではなかったらしい。
「どっちの意味だろうね~」
「何が」
「笹山くんの席を空けるためって感じじゃないからさ」
「は?」
一頻り笑って大きく息を吐いた玲人が、そんなことを言ってくる。幸紘は意味が分からず首を傾げるしかできない。遼が座るからどかした以外の意味があるのか。玲人や幸紘がこの家に邪魔するようになる前から、遼はここに来ていた。だから遼の定位置が出来ているのは当然のこと。必然、残ったところに玲人と幸紘が座るのはおかしなことではない。
二人が帰ってきたのだから、定位置に。幸紘はそれ以外の理由がやっぱり思い浮かばなかった。
首を傾げたままでいると、顔面を押さえて蹲っていた遼がクッションに座り直して、ハッとしたように目を丸くしてから幸紘に視線を向けてきた。
「なぁ瀬尾」
「何」
「お前香水とかつけてる?」
「今日はつけてない」
「マジかー何かクッションがいい匂いするからさー」
「ヘアワックスの匂いじゃないの」
クッションに顔半分を埋めた遼が、何やら楽しそうにしている。幸紘は若干の気持ち悪さを感じてそれを眺めていた。すると、飲み物をテーブルに置いた響がそちらをチラ見してからどこかへ行ってしまった。
戻ってきた響の手には消臭スプレー。遼の顔面を躊躇なく掴んで退かすと、クッションにスプレーを吹きかけた。それを見て玲人は再び肩を揺らす。今度は声をあげて笑っているようだ。珍しいことだと、幸紘は玲人のほうをまじまじと見てしまった。
「あっはっは! そこまで徹底するんだ~!」
「ちょ、ひふぃき、いひゃい、ふつうにいたい……!」
顔面を掴まれた遼は響の腕を掴んで涙声で訴えている。満足した響に顔を解放されてクッションに沈めば、次には「冷たい!」と声をあげていた。クッションの表面の色が変わっているので相当の量のスプレーをかけたのだろう。幸紘のヘアワックスの匂いの話をした後だ。幸紘は何だか複雑だった。
響が幸紘の隣、ソファの短辺に歩いてきて座るのを眺めていると、座った響が幸紘のほうを向いた。その顔はどこか不満気だ。そんな顔をされる理由が思い浮かばず、幸紘は再び首を傾げる。
「ユキ」
「何」
「ユキはあのクッション使用禁止な」
「笹山専用だから?」
「ユキの残り香を遼が吸ってるのムカつくから」
「え、キモ」
幸紘は顔を引き攣らせて体を玲人のほうに引く。響の顔は真剣なものになっていた。先ほどの遼も、ジョークのつもりで言ったにしても気持ち悪いが、それ以上に響が気持ち悪い。これが今をときめく人気ロックバンドのメンバーなんて信じられない。信じたくない。
幸紘がドン引きしているのに構わず、響はにじり寄ってくる。幸紘はそれに合わせて後退していたが、とん、と背中が玲人に当たって、ごめんと振り返った所で腕に囲まれた。
ギターを教えてもらった時から距離感がバグっている響が、幸紘に抱き着いてきていた。腕を突っぱねて引き剝がしたいが、ソファについた腕を離すと玲人のほうに倒れ込みそうでできない。仕方なく好きなようにさせていると、満足したらしい響が幸紘の肩口から顔をあげた。
「ワックス関係なくユキはいい匂いがするから気をつけろよ」
「世の中アンタみたいな変態ばっかじゃないから」
幸紘から離れた響は、幸紘と玲人にコーヒーを勧めてから、自分もカップを手に取っていた。玲人は未だにクッションを使えない遼を見て笑いながらコーヒーを口にしている。
幸紘も元の場所に戻るとカップに口をつけて、中のコーヒーを見ていた。顔が熱いのはコーヒーの湯気のせい。ではこんなにも心臓がうるさいのは?
ちらりと重い前髪越しに響を見る。すぐに視線が合った気がするのが憎らしい。幸紘はコーヒーの苦みと一緒にモヤモヤを飲み込んだ。
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