空にひろがる濃藍よ

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 幸紘が玲人に『友人の距離感とは?』という問いかけをして数日。やっぱり幸紘は頭を悩ませていた。 「ユキ、ここ。ここ違う」 「……ん」 「あとは大丈夫」 「どうも……」  昼時を過ぎた学食は、次の講義までゆっくりする学生や、軽食を頼む者、図書室と違って声を出せるからと勉強を教え合うグループなんかがいて、閑散とはしていない。  幸紘は勉強するのに音を気にするタイプではなかったので、学食で飲み物を飲みながら課題をしていた。簡単な数学の問題だ。三年になって一般教養の必修が出てきたことに驚きつつ、黙々と問題をこなす。  答えが連動しているタイプの問三で引っかかった。ということは問一の答えが間違っている可能性も出てくる。問一から見直すの面倒だな、と幸紘が片腕に顔を突っ伏して無駄な抵抗をしていると、背後に人の気配を感じた。  座る幸紘の後ろから覆い被さるように紙を覗いてきたその気配の主は、幸紘のペンを握ったほうの手を軽く掴むと、間違っていたらしい数式の所に持っていった。チラ、とその部分を見た幸紘は小さく頷いて礼を言う。  これは誰だ。だなんて敢えて後ろを振り向いて確認したりしない。後ろの気配の主、響も承知しているのか、幸紘が振り向かなくても何も言ってこなかった。  そこまではいい。幸紘としては後ろからくっつかれているのがまずゾワゾワして嫌だったが、いいとしよう。頼んだわけじゃないが、こうして間違っていた箇所を教えてもらった身であるので、文句は言えない。  だが、普通指摘が終わったら離れるものではないだろうか。幸紘に普通なんて分からないが、幸紘ならさっさと離れるだろう。そもそもここまでくっつくこうと思わないのは置いておいて。  幸紘の周りは学食だろうと人はいない。だというのに響はその場から動かない。人に見られながら問題を解くのは何となく嫌だった。間違っているのを見られるのは恥ずかしい。既に間違っていたけど、それとはちょっと違うのだ。 「……琴森、重い。邪魔」 「こっちのほうが見やすい」 「見てなくていい。解きにくい。どけ」 「えー」  渋々といった様子で幸紘から離れた響だが、離れた隣の椅子を引き寄せて幸紘のすぐ傍に腰かけた。取っている講義がほとんど被っているので仕方ないが、響もこの時間が空いているらしい。そのまま動く様子はない。 「あんた、課題は?」 「授業中にやった」 「は?」 「俺、数学得意」  ごそごそとバッグを漁って、ルーズリーフを取り出した響は、留められたそれを幸紘に見せてきた。ペンを置いて、ちらりと紙の端をつまんで中を見れば、確かに出された数学の課題。幸紘があと一問というところで引っかかっていた問題も、綺麗にまとめられてそこにあった。  指先を広げて、摘まんでいた紙を落とした幸紘は再び先ほどの問題と向き合った。 「答え見ないんだ?」 「見てどうすんの」 「間に合わない時とか、写させてって、なるじゃん」 「友だちいないから分かんない」 「俺友だちでしょ?」  響からそう問われて、幸紘は一瞬動きを止めた。友だち。トモダチ。幸紘にはその定義が曖昧すぎて分からない。未だに自信をもって響を友だちと言えない。そもそも友だちって何だ。思考が悟りでも開きそうになるのを誤魔化すように頭を振った。  確かに、教室でそんなやり取りを見たことがある。幸紘も休んだ授業のノートを玲人に見せてもらったことくらいはあったが、課題の見せ合いなんかは幸紘にはない経験だった。 「急いでないから自分でやる」 「あーうん。これ、提出来週だしな」 「つーわけで、邪魔だからあっち行ってて」 「嫌。次同じ授業じゃん。一緒に行こ」 「行かない」  幸紘が問題を解きながら適当に返事をしていると、突然賑やかな声が学食に響いた。人数が多いグループだったり、所謂陽キャなグループがくると起こる現象だ。幸紘はいつものように関係ないと問題に集中していたが、ふとその声が近くなった気がした。  重い前髪の間から、顔の向きを動かさずに周囲の様子を窺う。すると、その声の主たちがすぐ傍に来ていた。幸紘は大人数も声の大きな集団も苦手だ。発言権のないまま話が進んでいってしまうから、怖い。  嫌な汗を掻いていると、その集団は隣の響の傍で止まった。幸紘は顔も向けず数字に集中しようとペンを動かす。 「めっずらしー、響じゃん」 「何珍しいって」 「お前講義の前にフラッと現れて終わるとパッと消えるから、普通に学食にいんの初めて見たわ」 「マジで。知らんかったわー」 「お前のことだっつーの」  普通に話してる。幸紘にとっては傍にいるだけでも冷や汗ものだが、響にとってはそうではないらしい。やっぱり、付き合うタイプの違いを考えても、幸紘と響は友だちになるようなタイプではないのだろうと思えた。 「ね~響。その隣の子、だぁれ?」 「大事な子」 「そうなのぉ? 何か暗そう……。ま、いっかぁ、響の友だちなら紹介してよぉ。あ、初めてまして、わたし~、」 「え、絶対嫌だけど」  ピシリと幸紘の手が止まる。紹介されても困るわけだが、こうもバッサリ紹介しないと言われるのもどうなのだろう。幸紘は、自分でも意味が分からない傷を心に負った気がした。  固まった幸紘同様、響に声を掛けていた女子も固まっていたが、幸紘にはそれを見る余裕も、気にする余裕もなかった。 「え、え~? 何でそんな意地悪いうのぉ?」 「意地悪で言ってんじゃないけど」 「何だよ響、ノリ悪いな。別にこいつらだって取って喰おうなんて思ってねぇんだからいいじゃねぇか」 「あっはは。論外。つーかお前ら三限空きじゃねぇだろ。サボりなら別の所行けよ」  それだけ言うと、響は幸紘のほうに体ごと向いてしまった。幸紘でさえ、彼らが何か言いたそうな空気を出しているのを感じる。絶対分かっているくせに、響は答える気が一切ないようだ。自分がいる時にそんな面倒な空気にしないで欲しいで切に願う幸紘だった。  陽気な集団は簡単に空気を持ち直したらしく、またガヤガヤと楽し気な声を発しながら学食から去っていった。彼らが何をしにここにきたのか謎だ。響とのことがなければここで、何か飲みながら話でもする予定だったのかもしれない。 「……俺は友だちってよく分かんないんだけど」 「うん?」 「あんたの友だちではいたくないな」 「え」 「面倒くさ。なぁ友だち? っていうの、やめよ。別にバラしたきゃいいよ、俺のことバラしても」  少なくとも、彼らにとって響は友だちなのだろう。響の態度を見ていると、よく分からなかったが。そんな相手にあの態度はない。機嫌が悪いとか関係なく、無い。あの女子なんて、泣きそうな声音だった。  幸紘が横目に見た響に、罪悪感の類は認められない。簡単にそんな態度を取れる響は、正直怖い。いっそ全部捨ててしまえ、と行動した結果が、今の幸紘だ。響を見ていると、せっかく平穏を取り戻した日常を崩されそうで。これは幸紘の防衛本能が働いた結果だった。 『友だちになるって、多少の信頼関係は必要だなって僕思うんだよね』  友だちだからって、限度というものがあるだろう。そこに信頼関係があっても、これくらい言っても大丈夫という変な自信があっても、過ぎる言葉はただの暴言だ。  先ほどの言動を見る限り、そういう面を持つのだろう響の傍にいたいとは思えなかったし、そういうやり取りを傍で見たいとも思わない。加えて、それに巻き込まれるのだけは避けたかった。幸紘は基本、争いごとは嫌いなのだ。好きな人のほうが少ないだろうけれど。 「ユキは、勘違いしてんのか」 「何を」 「さっきのあれ。あの集団。別に、友だちじゃない」 「……は?」 「知らんうちにああやって絡んでくるようになったんだけど。俺、あいつらの名前も知らない」 「え、何、どういう……」 「だから、ユキを紹介とか意味わかんないし、絶対嫌だったし。近寄ってくんなって思ってるし」  世の中には幸紘には理解できない関係がまだまだあるらしい。初歩の初歩すら分からない幸紘には、響から聞いたそれは難易度の高い関係性だ。あれだけ普通に話しても、友だちじゃないのか。となるとあれか、クラスメイト、とか、同級生、とかいう括りになるのだろうか。  幸紘が頭を抱えてグルグル考え込んでいると、頭に響の手が乗った。そっと、頭の形をなぞる様に動くそれが、幸紘の頭を撫でているのだと、何往復かしてようやく気付いた幸紘は、ジワジワと自分の顔が赤くなるのを感じた。  玲人にはよくされるその行為が、響にされると全く違うものに感じられる。大きさも、温度も違うその手は、玲人よりも少し遠慮気味に幸紘の頭に触れていた。 「俺は、ユキに拒絶されるのは悲しい」 「……」 「ユキにあんな言い方しないし、あんな態度取るつもりもないし。まあ、普通のクラスメイトにも、あんな態度取らないけど。知り合いにカウントしてもあいつら失礼だから、こっちも同じように返してるだけ」 「……」 「ユキが許してくれるなら……俺の本当の友だちには、俺の大事な子だって“瀬間ひろと”じゃなくて“瀬尾幸紘”を自慢したいけど」 「何だそれ……」  急激に力が抜けて、机に突っ伏した。側頭部を抱えていた腕が自動的に後頭部を守るように動くと、幸紘の頭を撫でていた響の手が離れていったのが分かった。それを、少し残念だと思う。そう思った自分に、幸紘は驚いた。  響は少しすると頭を撫でていた手を背中に移動させたらしい。撫でるわけではなく、ポンポンと叩いてきて、あやされていると感じた幸紘はその手を払いつつ上半身を起こした。 「やっぱり絶交する」 「……!?」 「ぶっは!」  玲人と話していた内容をそのまま言えば、幸紘を見ていた響は分かりやすく絶望した顔をし、授業が終わっていたらしく、響たちを探して近くまできていた遼が吹き出した。その隣にいた玲人は笑うのを堪えようとしているが、口元を見る限り失敗に終わっている。 「さすがの僕も、本当に言うとは思わなかったな~」 「ちょっと、いろいろ、あって」 「……嫌な事?」 「うん、まぁ。でも……俺も、同じだなって」  友だちではないにしても、あの言動はどうかと思えた。でも、響としては関わってこないでくれという意志表示だったのかもしれない。嫌な相手に好んで関わろうと思う人は、多分少ないだろう。損得勘定を考えていて、どうしてもという場合を除いては。  だから寄ってきてくれるなと、わざと冷たく接している響になるほどと思った部分もある。幸紘は上手くあしらうことができないから、無言だったり隠れるという方法を取っていたのだが、方法が違うだけで理由は同じだ。幸紘も、同じなのだ。  その後、機嫌を取ろうと今まで以上にくっついてくる響に辟易した幸紘が、次の日には前言撤回した。遼は響を見るたびに思い出して笑ってしまうようで、何発殴られていたのかは数えられなかった。  やたらくっついてくる響に辟易したのは本当だ。でも、無視している時に気付いてしまったことがある。こうして響が諦めずに幸紘の傍にいるから、自分は甘えているのだと。響が分かったとすぐに離れていくような人間だったら、幸紘はこの言葉を軽々しく口にできなかっただろうと。  そんな自分の行動が恥ずかしかったのも、早々の撤回の理由だった。  教室でぼんやりと授業の開始を待っていると、響よりも先に遼が現れた。今では遼とも、何気ない世間話ができるようになった。元々芝居のことがあるので話すことは苦ではなかったが。  いつも明るく笑っている遼が、ふと真面目な顔をする。何だと幸紘も身構えたが、遼はそれを見て、少し表情を緩めた。そして、響は嫌な奴じゃないんだ、と切り出した。 『響はさーあの顔じゃん? しかもムカつくことに頭も悪くないし、運動だって苦手じゃない。だからお近づきになりたーいって奴はいっぱいいるんだよな。本人の知らないうちに自称友だちが大量発生してんの』 『自称、友だち』 『それに、ヒメルのキョウだって、勘づいてる奴もいる。芸能人の知り合いだ、友だちだって自慢したがる奴もいるから、余計に人が寄ってくる』 『……』 『でも、そういう奴って直接聞きには来ないんだよな。確認されないから、肯定も否定もできねぇ。勝手に言いふらしてんのを止めるなんて、無理なんだよ。一度回った噂話を消せないのと一緒で』  だからきちんと話した記憶もなく馴れ馴れしくしてくる人には、分かりやすく一線を引いているとのことだった。それが響の返事であり自衛方法なのだろう。  響の交友関係は狭く深くがモットーらしく、バンドメンバー以外では十人もいないとも言っていた。玲人と颯汰しかいない幸紘からすれば充分多い。  その後に教室に入ってきた響は、幸紘と遼の間に座ると、今度大学の友人を紹介すると言い出した。拒否したが、いざという時力になってくれるからと響に押し切られた。  友だちなんていらない。そう思っていても、響も遼も、傍にいるのが普通になってしまっていた。いざいなくなったら、きっと何日かは引き摺るだろう。ふと思う。淋しいとはこういうことを言うのだろうか、と。  役に入れば、いろんな感情が見える。でもただの幸紘になると、途端に何の感情も見えなくなってしまう。そんな幸紘に、感情を教えてくれる友人。今までは玲人と颯汰だけだった。 「なぁ瀬尾に飯島! 聞いてくれよ、響がさー」 「うるさい、黙れ、口を閉じろ」 「何々~? 面白い話?」  授業も終わり、一時間ほどの昼休み。購買で昼食を買ってきた幸紘と玲人に、遼がよく通る声を掛けてくる。  騒がしい遼の口を物理的に閉じようとする響、それを眺める玲人に、幸紘。それは何てことない日常なのだろう。でも、幸紘が今まで経験することができなかった日常だ。  教室にいた人は少なかったが、発声の良い遼の声のせいで目立っていた。普段の幸紘なら、絶対に目立つことは避けていたから、遼の傍には近寄らなかっただろう。でも今日は、何となく気にならなかった。ただ、友人の所に行くだけだから、と。  心が温かい。そんな気がして。ふ、と口元に笑みを浮かべた幸紘が、玲人に続いて遼達の元に歩く。それだけで、教室の空気が変わったようだった。  視線が幸紘に集まっていたのに気付いた響が、慌てて上着を幸紘の頭から被せる。怒る幸紘を抑え込んで教室中を威嚇する響に、遼はやっぱり笑ったし、玲人も耐えられないという風に声を出して笑っていた。  幸紘からは威嚇する友人も笑う友人も見えなかったが、遼と玲人の笑い声だけで何となく状況が思い浮かんだ。  響に被せられた上着の中で、幸紘はもう一度ひっそりと笑ったのだった。
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