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「頼む……!」
「えぇっと……」
幸紘は困っていた。目の前で手を合わせて頭を下げる友人に、どう返事をしたらいいか分からない。
三限で講義が終わりだったため、帰ろうと荷物をしまっていると、隣にいた響に声を掛けられた。
「な、今日も仕事?」
「いや。何にもないから帰る」
「ならうち来ない? 親から大量の洋菓子送られてきて、困ってんだよ」
「僕行きたーい!」
「あ、俺も」
幸紘がどうしようか悩んでいると、幸紘たちの前の席に座っていた二人が勢いよく振り返る。それに驚いていると、響からもう一度問いかけられる。一応幸紘の意思を尊重してくれるらしい。
しかし三人から向けられた視線は拒否を許されるものではなかった。特に甘いものが好きな玲人からはキラキラと期待の籠った目を向けられている。断れるわけもなく、幸紘は苦笑しながらも頷いた。
響の家につくと、いつものように響はコーヒーと、送りつけられたという箱をテーブルに置く。フィナンシェやマドレーヌ、クッキーなどの焼き菓子の詰め合わせのようだ。しかし響が困るというだけある。そこには結構な量が詰められていた。
「別に甘いものが嫌いなわけじゃないんだけど、この量はさすがに無理」
「これケータリング用だったんかな」
「知らん。せめてもう少し賞味期限の長いもんにして欲しかった」
遼の様子から、こういうことがよくあるのだろうと察せられた。
玲人ははやくも嬉しそうに焼き菓子を頬張っている。リスのように膨らんだ頬を思わずつついてしまったが、玲人はにこにこ笑うだけだ。
「ユキは甘いもの大丈夫か?」
「うん。苦手じゃない」
「得意でもない?」
「生クリームはあんまり」
そっか、と言いながら響は一番シンプルなプレーンクッキーを幸紘の手に乗せてきた。手始めにどうぞ、といったところだろう。その後も幸紘が食べ終わるたびに違う種類の焼き菓子を手渡してくるので、気にしなくていいからと断ったのに聞き入れられなかった。
その間にも遼と玲人はこれが美味しい、こっちも、なんて食べ比べて感想を言い合っていた。箱の中の大半が遼と玲人の胃に収められたが、響は予想していたのだろう。平然としている。
「こういうのが届くと、いつも遼に食ってもらってたから」
「響は音部屋に引きこもった時くらいしか甘いもんなんて食わないからな」
「飯島もきてくれてよかった。さすがに全部遼に食べさせたら、こいつの健康が心配だったし」
「おい」
「僕は甘いもの大好きだからまた呼んでね~」
「ユキもサンキュ」
「こちらこそありがと。美味しかったよ」
響が手渡ししてくれたおかげで、多分全部の種類を食べられた。玲人と遼が休む間もなく手を伸ばしていたし、幸紘にはこだわりもない。自分で選んでいたら、きっと同じものばかり食べていたことだろう。
分けてくれたこともだが、いろんな種類を取ってくれたことも。そう思って幸紘は響に礼を言った。
その後も響がコーヒーを入れ直してくれて、まったり四人で過ごしていた。しかし、何かを思い出したらしい遼が突然立ち上がって、自分の荷物のほうに駆けていく。
何だ何だと三人が視線だけを向けていると、遼は鞄から冊子のようなものを手にして戻ってきた。そのまま定位置に戻るのかと思いきや、何故かテーブルを挟んで幸紘の前に立った。
「……何?」
「瀬尾。お前に頼みがあったんだ……」
「うん?」
「おい、遼?」
玲人はきょとんとしているし、響は訝し気に遼を見ている。当事者の幸紘は頼まれるようなことなんてあっただろうかと考えていた。しかし思いつかない。考えることを諦めて遼に向き直れば、手にしていた冊子を幸紘に差し出してきた。
幸紘がそれを受け取って表紙を眺める。幸紘にとってはタイトルこそ知らないが、その冊子は見覚えのあるものだった。
「……これって、台本?」
「え、台本~?」
「そう! 今度うちの劇団でやる公演のなんだ」
「で?」
「読み合わせ、付き合ってくれないか……?」
遼も、幸紘が俳優瀬間ひろとであることを知っている。しかも、瀬間ひろとの演技を気に入っているという。だからチャンスだと思ったのだろう。さすがに自分の劇団の公演に出てくれないかとは言えない。幸紘は既に事務所に入っていて、セーブしているとはいえ、取る仕事もスケジュール管理もマネージャーがしているからだ。
なら一緒に芝居をするにはどうしたらいいか。読み合わせだ。過去の台本でもよかったが、せっかくなら新しい話を。一般人ならどうかと思うが相手も俳優。読み合わせをした台本の内容を吹聴することなんてないだろう。
刺激を貰えると確信した様子の遼に、幸紘は困ってしまった。本読みの手伝いをするだけなら、とも思うが、芝居をしろと言われると中途半端にしかならない。声の仕事もしている分、幸紘自身に変なモヤモヤが溜まりそうで嫌だったのだ。
それをどう伝えればいいのか悩んで何も言えず、冒頭に戻る。幸紘は困っていた。
「遼。お前はユキがただ読んでくれりゃいいのか?」
「え、できれば演技つけてほしいけど?」
「お前らの舞台って原作なしのオリジナルだろ? 読み込む時間もないし、人物像も不明。情報ゼロの状態で確実に中途半端になるのに、ユキがやりたがるわけねぇじゃん」
「響はこの役な!」
「話を聞け」
響はベーシストだ。それなのに、やけに役者のことを分かっている気がする。それを不思議に思いながら、響に怒られ続けているのに顔が満面の笑みの遼を暫し眺めた。幸紘が響に視線の先を変えると、気付いた響が眉尻を下げた。
「あーもう……ごめん、ユキ。こいつ、こうなると周り見えなくて。ちょっとでいいから、付き合ってやってくれないか?」
「え、あ、うん。多分、前後の繋がりがクソみたいな演技になるけど」
「そこは実際に稽古入ってから修正するだろうし、気にしなくていい。こいつはユキと掛け合いしたいだけだから」
響の言う通り、未だ幸紘の前に立つ遼を見る限り折れる気はないようだ。仕方なく渡されていた台本を一枚めくる。すると、前から手が伸びてくる。上半身を乗り出してテーブル越しに遼が手を伸ばしてきていた。
「ここ。ここのシーンを瀬尾とやりたいんだ」
「……何このシーン。ていうか、簡単な設定とあらすじ教えて。あとテーマ」
「今回の脚本書いた人がどうしても悲恋にしたいって言ってできたやつでさ。俺今回主役なんだ。瀬尾は主人公を振って恋人に慰めてもらう役」
「何か、とんでもない話だねぇ……。大丈夫、幸?」
「…………」
「ユキ?」
遼の話を聞きながら、指定されたシーンのページをパラパラと読む。幸紘が頼まれたのは、確かに主人公を振る役のようだ。主人公がずっと仲良くしていた友人で、主人公の気持ちに気付いて距離を取る。友人には既に恋人がいたから。それが友人なりの優しさだった。
それに気付いた主人公は、せめてきっぱり振ってほしいと頼む。友人はそれに応じて、恋人がいること、主人公をそういう意味で好きにはなれないことを伝える。主人公は、これからも友だちでいてほしいと告げて、去る。その後、隠れていた友人の恋人が友人を慰める。
それを主人公は見ていて、複雑な思いを抱えながらも前を向いていく、そんなシーンらしい。
幸紘は思う。救いはどこだ、と。前を向くのはいいが、ラストに向かって誰かいい人が現れるのだろうか。このシーンは話のちょうど途中あたり。前後は知らんと言ってあるので、この後のページを読む気はなかった。
しかも、だ。眉間に皺を寄せ始めた幸紘に、玲人と響から心配そうな声がかかる。
「……なぁ笹山。あんたの役って男だよな」
「勿論」
「あんたに言われたこの友人の役、一人称が僕なんだけど……」
「男だからな」
「えっ」
「はぁ!?」
驚いた玲人と響の声が同時に左右から聞こえた。
つまりこれは男同士の恋愛ものなのだろう。最近流行ってるからさ、なんて軽い調子で遼は受け入れているようだ。幸紘も偏見はないし、当人同士が惹かれ合ったのならいいと思う。だが、それを自分が演じられるかと言われれば答えはNOだ。
「響は親友の恋人役な。お前慰めるの得意だろ?」
「おい、俺のイメージどうなってんだ? つうか、何。これ全員男?」
「そう。瀬尾の役は女の人が演じるけどな。あ、でも主人公は最後『この子との明るい未来を』っていい感じの相手ができて終わるんだけど、その相手役は女の子」
「……ダメそう……俺さすがに男の恋人いる役は想像できない……」
台本に突っ伏すように上半身を折り曲げた幸紘の背を、玲人が撫でる。既に慰められている。
演じるのに体験したことがないことのほうが多いので、考えて考えて役を自分におろす幸紘には、想像もできない人物になることは途方もないことだった。
一週間読み込んで考えてその手の資料を熟読してその役になれるかどうか。それくらいの役だった。真剣に時間を取って向き合えば演技の幅は広がるだろう。だが、今の幸紘に与えられた時間は十分もない。
「……ユキ、ちょっとこっちきて」
「何……」
立ち上がった響に呼ばれ、よろりと力なく立ち上がる。響の前に立てば、思ったよりも真剣な顔に驚いて固まる。
「嫌だったら言って」
「……な、にっ?」
幸紘が問う前に、伸びてきた両腕に包まれた。幸紘の身長は一七五センチほどあるが、響のほうが十センチ以上高い。身長のわりに細い幸紘は、少し上から覆うように響に抱き締められていた。
背に回った腕に力がこめられる。そんな小さな動作に、心臓が跳ねた気がした。誰かを抱きしめたり、抱き締められたり。子役の頃からそういった芝居はあった。なのに、同じように抱き締められているだけなのに、幸紘はうるさく主張する心臓に動揺が隠しきれない。
するりと手から台本を取られ、響が幸紘越しに台詞を確認しているようだ。ぼそぼそと口に出しているせいで、息が耳にかかってピクリと肩がはねる。
「ユキ。自分に暗示かけて。ユキは今、恋人から抱き締められてる。男とか女とか考えないで、抱き締めてきてるのは、ユキの好きな人」
「……すきな、ひと」
「そう。ユキの恋人。えーっと、何々、つらい時に傍にいてほしい人で、隣にいると落ち着く存在。ユキを支えてくれる優しい人だよ」
「おい、待て。どうしてそうなった。設定適当すぎる。部分的すぎて繋がんねぇ」
「そこは頑張って補完して」
台本に書いてあったのか、遼が書き足したのか。親友役の恋人はこんな人、みたいな設定をぽろぽろ溢す響の胸元を軽くたたいた。もう少し想像しやすい人物像を寄越せと不満をもらすが、響は笑って幸紘の背を撫でるだけだった。
響は役に入るきっかけをくれたのだろう。全て想像できるものではないけれど、響に言われた設定をもう一度思い浮かべていく。そして、自分に言い聞かせる。この人は、好きな人。
響の背に手を回すほど役には入れなかった。だから、脇腹あたりの服を掴んで、幸紘のほうからも身を寄せる。それに気付いても、響は幸紘の背を撫でるだけだ。待ってくれる。甘やかしてくれる。慰めてくれる。少し高い肩に頬を寄せて、息を吐く。
「いけた?」
「後は親友。……親友?」
「飯島思い浮かべれば?」
「設定が強すぎて逆に想像できない」
「なるほど」
親友に惚れられる。しかも自分には恋人がいる。気まずいな。絶対応えられない。あぁ、だから距離を取ったのか。今まで通りに接しても、好意と勘違いされかねない。かといって相手は親友。わざと冷たい態度を取りたくない。どう転んでも傷つけるなら、離れてしまえ。
人と向き合うのは怖い。傷つけたくないし、傷つきたくない。大切な人なら、なおさら。でも主人公は承知した上で向き合うことに決めた。前に、進むために。
何て浅い読み込みだろう。そう思いながら、幸紘は響に合図を出して離してもらう。
女性が演じるような、一人称が僕の男の子。可愛いというより、優しい雰囲気かな。そんなことを考えながら、がっちり固めて作っていた前髪を苦労してほぐした。目が合った響が驚いた顔をしていた気がするが、今は気にしない。
口元に気持ち程度の笑みを浮かべ、遼に向き合う。役に入ったことに気付いた遼が、慌てて深呼吸し、既に覚えていたらしい台詞を口にする。さすがに覚えられなくて幸紘は本を見ながらだったが、どうにか指定されたワンシーンを演じた。
本読みなので動作はつけない。声の仕事に近いが、それともちょっと違う。雰囲気を出すために表情だけは作って、片手は台本、片手は……気付けば響の服の裾を握っていた。
「……すっご~い……」
「俺、今、胸が痛い……」
「俺は幸せで死にそう」
「しんどい……」
玲人は間近で見たただの本読みに拍手を送っていた。興奮しているらしく紅潮した頬が何とも可愛らしい。遼はがっつり主人公の心情とリンクしてしまったらしく、ダメージを受けたように心臓に手を当て蹲っている。
響は最後のシーンに動きがつけばそうなるのだろう、ソファに崩れた親友役の幸紘を腕に抱えて隣に座っていた。幸紘はといえば、遼同様親友になりきったせいで神経をすり減らしていた。響に抱き締められても気にせず脱力して寄りかかっている。
「やっぱ瀬尾はすげーよ! 俺、マジで泣きそうだったもん」
「本番は泣くの~?」
「泣かないな。ここで泣いたら親友は傷つくだろ? だから耐えるだろうと思ってる」
「ユキ、平気?」
「あぁ、うん。多分……。ちょっと、抜けきらないだけ」
悲恋てしんどいんだな。そんな風に思いながら、響の肩口に額を置いて、幸紘は深呼吸を繰り返す。響は頭を撫でたり背中を撫でたり。ただただ幸紘を待ってくれている。
それにしても、響は演技も上手かった。幸紘と同じように初めて台本を見たはずなのに。遼が当然のように役を振っていたあたり、よく本読みを手伝っているのだろうか。
幸紘は、響のおかげで絶対に無理だと思った役に一歩足を踏み入れられた気がしていた。傍に恋人の存在があったから、あの親友役も主人公に向き合えたのだろう。
わりとくっつかれていることが多かったからか、先ほどのように急にではないからか、今の幸紘は抱き締められていても落ち着いていた。もしかして暗示が抜けていない証拠かもしれない。
すぅっと心に染入る何かを感じて、そこからじんわりと熱が広がる。それが何か、幸紘には分からない。
ただ、他人の腕の中が心地好いと思ったのは初めてだと、ぼんやりと思った。
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