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晴天の空の下、満天の夜空が恋しくなったりする。
全部、ぜんぶ。
あいつのせいで、あいつのおかげ。
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通う大学の教室の一番後ろ。窓際で、瀬尾 幸紘はぼんやりと外を眺めていた。
一番後ろの席は比較的人気だろう。真面目な学生は前の席に行くし、階段教室なので教授から見えないことはないが、最後まで座席が残っていることはあまりない。
幸紘はそんな席の窓際にいたが、彼の周りには不思議なほど誰もいなかった。
彼はいつも一人で授業を受ける。名誉のために言えば友人がいないわけではない。ただ、一人でいたいだけだった。
マッシュショートボブの黒髪は、重く長めの前髪が目元をすっかり隠し、異様な暗さを演出している。外を眺めているが、俯き気味だ。見えない目元でどこを見ているのか、周りからはさっぱり分からないだろう。
そんな彼からは、常に近付きづらいオーラが出ていた。陰湿なそれとは何かが違う。明確に傍に来るな、というオーラを放っているのである。
既に三年生になって半年。同じ学部、学科の同級生は当然のように傍に座らない。暗黙の了解だった。勿論座席がなければ座るし、座っても幸紘が何か言うわけではない。それでもギリギリまで埋まることはなかった。
幸紘のそんな日常が崩れ始めたのはいつからだったか。
三年生に上がって数日経った頃だろうか。突然隣に人が座るようになったのだ。
「隣、座っていい?」
そう。まさにこんな風に。
億劫そうに右隣を仰ぎ見た幸紘の視界に入ってきたのは、夜空を思わせるネイビーブルーの髪を持つ男だった。ウルフカットのようだが襟足だけ異様に長い。いかにも適当にリボンで結われた毛束を手前に流していた。
多分目の前の男からは幸紘の表情が分からないだろう。しかし幸紘からは見えている。意外と前髪の間から見えるのだ。そしていつも思う。またこの不良か、と。
黒縁眼鏡をかけて、黒基調のシンプルなのにお洒落な服装を着こなす顔の整った男。しかし耳には大量のピアスがついているのだ。偏見であることは分かっていたが、幸紘にはそうとしか見えなかった。
声を発するのにも勇気がいるので、毎回こくりと一つ頷いている。というか近づくなオーラは出しているが、幸紘に席の決定権はない。勝手に座ればいいのに、なんて思っても勿論言えないし言う気もない。
「サンキュ」
不良男(仮)は、口元に小さな笑みを浮かべ、いつもそうお礼を言う。意外と礼儀正しい。それは幸紘を混乱させた。
講義よはやく始まってくれ。そう願う幸紘だが、時計の針はなかなか進まない。教授が来るまであと十分ほどある。この席をキープするのには早めに移動しなければならないのだ。なんなら昼食もここでとったくらいである。
午後一の講義を前にして、幸紘はすでに眠くなっていた。
暦の上では秋に突入している季節。エアコンはついていないようだったが、空いた窓から流れ込む風が気持ちいい。幸紘がそよ風を享受していると、突然強い風が吹き込んできた。
思わず顔を背け、目を瞑った幸紘の前髪がふわりと浮く。
「……え」
すると隣からこぼれてしまったかのような声が聞こえた。
幸紘が何事かと目を開けるとほぼ同時に、両頬を大きな手に包まれていた。
「っ、」
「この、黒子。あんた、瀬間ひろと?」
小さな声で呟かれた単語に思わず目を見開く。幸紘には右の目尻下に二つ泣き黒子がある。それのことを言ったのだろう。分かりやすい反応をしてしまったと気付いた幸紘は、途端に顔を歪めた。
目の前の男はそれに何を言うでもなく、慌てたようにまわりを見回してから息を吐いた。そして幸紘に向き直るとサッと前髪を直してくれる。
いつもならヘアスプレーで前髪はがっちり固めている。今日の行動を思い出すが使った記憶がない。朝急いでいたせいで忘れたのだろう。自分の失態に舌打ちしそうになったがどうにか堪えた。
「誰にも言わない」
「……?」
「俺は、誰にもお前のことを言わない」
目の前の男は鞄から出したヘアワックスで、幸紘の重たい前髪を更に重くしている。
勝手に髪をいじる男を放って、幸紘はちらりと教室内を確認した。どうやらこちらを見ている人はいない。バレていないようだ。先ほどこの男が辺りを見回していたのも、幸紘と同じように確認していたのだろう。
幸紘は、割と名の知れた俳優だった。“瀬間 ひろと”として活動を始めたのは小学生の頃だ。有難いことにその後も定期的に仕事を貰っていた。大学生になってセーブしているが、単発でドラマに出たりもしている。
幸紘はただ芝居が好きだった。あらゆる可能性を想像して、その役を自分に降ろして他人になる。その瞬間が面白くて役者になった。
楽しく芝居をしていただけの幸紘の周りの環境は大きく変わった。家族と幼馴染みこそ今まで通りだったが、友人も、親戚も、知らない人も。芸能人として幸紘を見た。当時の日々はトラウマ以外の何物でもないので思い出したくもない記憶だ。
だから幸紘はこんな格好で隠れて大学に通っていたのである。言いふらさないというのなら確かに幸紘にとっては僥倖だが。
「だから、」
「……」
「俺と友だちになろう」
「は?」
「後悔はさせない」
「日本語不自由か?」
幸紘は思わずツッコミを入れていた。『だから』もおかしいし、『後悔させない』に関しては意味が分からない。
顔は恐ろしいほど整っているが、多分日本人。髪の毛は光の加減で黒にも青にも見えるし、目は濃いグレーだけれど。染めているのとカラコンだと推測する。
満足したように幸紘の前髪から手を離した目の前の男は、さらに幸紘を混乱させる。整いすぎて冷たいイメージを受ける表情をガラリと変えて、男は笑っていた。驚くほど優しい、温かな笑み。
幸紘には、どうしてそんな顔を向けられるのか分からなかった。
「俺は琴森 響。これからよろしく、瀬尾」
名前は同級生だから知っていたのだろうか。分からないことだらけだ。
耳元で囁かれた声に聞き覚えがある気がする。学校ではない。ならば、どこか。
結局思い出せないまま、幸紘はおとなしく頷くしかなかった。
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