新居編 7 貴方の音

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「……ぁ」  自然と、小さく声が溢れた。  敦之さんが来てる。  外回りを終えて、雪隆さんの恋人の環さんに偶然遭遇して、それから会社に一度戻って……なんてしていたら少し帰りが遅くなってしまった。  でも今日は……敦之さん、お仕事のはず……なんだけど。  気がついたら小走りで自宅に向かって、それで階段をトントンと急足で登ってしまう。 「おかえり」 「ぁ……あ、た、ただいま」  扉を開けたらそこに敦之さんがいる、それが早く知りたくて。  誰かと、その、つまりは恋人と一緒に暮らしている自分なんて想像したことがなかった。好きになるのは完全にノンケばかりで、しかも友人で、どう転んだって恋愛、両想いなんてことにはならない相手ばかりだったから。  好きな人と暮らす、それは夢物語だと思ってた。  仕事して、日付が変わる頃にようやく帰宅して、味なんて感じる暇もなく食べ物をお腹に詰め込んで、眠って、起きて、自分の身体を引きずるように会社へ向かう。鞄の重さにすら気持ちが沈むような。だから、いつも部屋の中は静かだった。  おかえり。  ただいま。  いただきます。  ごちそうさまでした。  おやすみ。  おはよう。  行ってきます。  そんな言葉達は言う必要はなかったし、疲れてへとへとになっているのに独り言なんて言う余力もない。 「あ、あの、今日は」 「あぁ、今日は帰りがとても遅くなりそうだったから、ここに来るのは控えようと思ってたんだ。明日も拓馬は仕事だろう? 俺は明日はオフだから、明日、来るまで我慢と」  敦之さんは柔らかく笑って、冷蔵庫から白い紙の箱を取り出した。 「雪隆が、そこのプリンがとても美味しいと教えてくれてね。拓馬はケーキ、とても美味しそうに食べてただろう? 甘いものが好きなんだろうから、買っていこうと思って」  プリンを? 「買ったら、食べさせたいだろう?」 「……」 「そしたら、食べさせるために早く仕事を終えたくなる」 「……」 「けれど終わらなそうだから、明日も仕事をすることにした。どうせ、拓馬が仕事の間は掃除するくらいしかやることがないし」 「…………っぷ」 「拓馬?」  世界一綺麗な人だと思う。この人の才能が活躍する場所はたくさんあって、それを望む人もたくさんいる。 「敦之さんにこの部屋の掃除なんてさせられませんよ」 「なぜ?」 「そもそも、掃除なんてせずに、ゆっくりしてください。いつも忙しいんですから」 「でも、どちらにしても明日は仕事だ」 「! そうでした」  また笑って、今度は俺を引き寄せた。引き寄せて、俺を仕舞い込むように腕の中に閉じ込めて、そっと額にキスをくれる。 「手を洗っておいで、温め直すから」 「夕食、作ってくれたんですか?」 「あぁ、今日は寒いからシチューがいいと思ってね」 「!」 「どうかした? 拓馬」  俺もシチューがいいなぁって思ったんだ。でも、一人だと思っていたから、シチューじゃなくて、何か別のもので済ませようと思ってた。 「いえ。俺も手伝いますね」 「あぁ」  同じことを大好きな人が考えてくれていたことが嬉しくて。  一人でも食べても大して美味しくないだろうシチューをこの人が作ってくれたことが、嬉しくて。  手をしっかりと洗いながら、口元がずっと嬉しさに緩んでしまっていた。 「ローリエを入れると風味がよくなるって教わってね」 「そうなんですか?」 「あぁ、だから美味しかっただろう?」 「はい。とっても」  食後は、敦之さんのお気に入りの炬燵に足を入れながら、のんびりと、お土産に買ってきてくれたプリンをいただいていた。  すごく有名なプリンなんだって。ちょっと硬めで、濃厚で。いただくと、その甘さに身体がほわほわに絆されてく感じがした。 「雪隆さんに教わったんですか?」 「いや、通りすがりの婦人に」 「通りすがりの婦人?」 「あぁ、近くのスーパーあるだろう? あそこで肉をどうしようか悩んでいたら、女性が話しかけてきて」 「……はぁ」  ――今夜はシチューかカレーがいいわよねぇ。あら、奮発して高いお肉! いいわねぇ。お肉にはローリエを煮込む時に入れるといいわよ。少しワンランク上の味になるから。  スーパーって、あそこの? うちの近くの? セレブの敦之さんが? あそこの精肉コーナーにいたの? 「それで教わったんだよ」 「……」 「拓馬?」 「もう、何をしてるんですか」 「? 何って、夕食の買い物を」  まるで王子様がお忍びで町人の暮らしを体験しているみたい。 「たまに話しかけられるよ」 「そうなんですか?」 「あぁ、イケメンって褒めてもらえる」 「…………っぷ、あははは」 「そんなに笑うことないだろう」  だって、そんなの笑ってしまう。 「敦之さんはすごくすごーくかっこいいですよ。イケメンです」  俺が褒めると、一段と嬉しそうに顔を綻ばせてくれる。おかしいの。貴方のことをかっこいいって百人いたら百人そう答えると思うのに。俺に言われて、そんなに大喜びなんてして。 「もっと褒めてくれ」 「えぇ? すごくかっこよくて、モデルみたいです」 「それから?」  まだ褒めるの? 「えっと、こんなに綺麗な男の人、他にいないと思います」 「そう? 拓馬の方が綺麗だよ」 「それはないです! あと、足が長い!」 「拓馬は足が細くて綺麗だ」 「俺のことはいいんですってば。それから声がセクシーでかっこいいです」 「拓馬の声は可愛い、特に夜、」 「うわあああああ!」  楽しそうに笑ってる。笑って、そして、慌ててる俺にキスをして、また笑って。 「もお……」 「ほら、可愛い」  一人暮らしは静かなんだ。いただきますって言わないし、ご馳走様って言わないし、これ美味しい、っていうこともない。  笑い声も、今みたいな叫び声もなくて、あるのは溜め息くらいかな。  すごくすごく静かだった。  けれど、貴方がいると部屋はとても楽しげで、いつも、音が、声が、聞こえている。帰るのが、とても楽しみな音が溢れている。
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