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最初は逃げ出してしまったっけ。
抱いてくれて、抱かれ方を教えてくれて、ありがとうございますってメモ紙に書き残して、そっと帰ってしまった。
ボディミストなんてものも知らなかった。
なんて言うんだろう、自分をさ、大事にするようなことなんてしたことなかったんだ。肌を大事にしてみたり、食事に気をつけてみたり、そうやって自分をケアするのなんて。
今はしてる。
だって、貴方にとても大事に扱ってもらっているから。
貴方が大事にしてくれるから。
「やっぱり送ろう、と言っても今日は車じゃないから……タクシーを呼ぼう」
「出勤するのにタクシーなんて使えません。大丈夫です。全然、ほら」
玄関先ですくっと立ち上がって見せても、まだ心配そうに敦之さんが俺を見つめてる。
「たくさんして欲しいって言ったの、俺ですよ?」
「……」
昨夜、貴方に、もっとと次を数回ねだったでしょう? 貴方にももっとたくさん気持ち良くなって欲しいからって、言ったのは俺でしょう?
「平気です……朝ごはん、ありがとうございました」
履き慣れた革靴のつま先をコンって一回玄関タイルで打ち鳴らして、使いふるした鞄を受け取った。敦之さんに、この鞄をみすぼらしいと思われやしないかって心配したこともあったっけ。
ブランドものの、俺には信じられないような金額の鞄を持っていそうな、実際、持っているんだろうけど、そんな人にこんなぼろぼろのバッグなんてって。
けれど、敦之さんはそんなことこれっぽっちも思わない人だった。
「それに、敦之さん」
「?」
「あまり俺のこと甘やかさないでください」
ずっと一人だったのに、ずっとこの靴や鞄と同じようにオンボロでくたびれてたのに。
「癖になっちゃいます」
「……困ったな」
「?」
「拓馬を甘やかすのは俺の楽しみなのに」
そう言って、敦之さんはとても、とっても困ったように顔をしかめた。
「……っ、もぉ」
「仕方ないだろう? 可愛い拓馬が悪い」
「あの、それも、俺、全然ちっとも可愛くないですよ。こんなただのサラリーマン」
「あぁ」
「聞いてますか? 敦之さん」
「あぁ、聞いてる」
そう言う割にはただ嬉しそうに微笑んでて、くすぐったくてたまらなかった。
「そ、それじゃあ、行ってきます」
「すぐそこの路地まで送る」
「いえ、ここで」
「いや、しんぱ、」
敦之さんの胸に手を当てて、少しだけ寄りかかるように身体を傾けると、そっと唇にキスをした。
「路地のところじゃ、キスできないですから」
何もできなかったんだ。欲しいもの、他人が持っていて羨ましいものは、絶対に手に入らないと思っていたから、見ないように、考えないように、欲しくならないように気をつけてた。
「それより、ちゃんと、お休み確保してくださいね。一緒に、その、暮らす部屋探すの」
キスも、セックスも、愛され方も知らなかった。知りたくても、どれ一つだって一人じゃ、もらえないものばかりだから、そもそも手に入らないだろうと諦めてた。
貴方が教えてくれたんだ。
キスも。
セックスも。
愛され方も。
「お仕事、急に入れたりしないでくださいね。今度の週末」
「もちろん」
愛し方も。
「絶対にですよ」
「あぁ」
「急遽、仕事になったら、俺、すごく勝手に決めますからね」
「あぁ」
我儘の仕方も。
「なんでそこで嬉しそうに笑ってるんですか」
「いや、もう一つ、楽しみなことが、これから一緒に暮らしたら、毎日あるんだと思ったんだよ」
「?」
「君の可愛い我儘を叶える」
全部、貴方が俺に教えてくれた。
「早く一緒に暮らそう」
そう言って、子どもみたいに楽しそうにはしゃいでキスをくれる貴方が俺に全部、教えてくれたんだ。
「また、炬燵探してるんすか?」
立花君だった。
「お疲れーっす。炬燵なかなかないんすか?」
「あーいや、なんというか」
「?」
休憩に入ると、敦之さんからメッセージが入っていた。今日、帰ったらすぐにご飯になるように準備をしておいてくれるって。今日のご飯はポトフとサラダとサーモンのソテーにしようと思います、だって。寒いから、ポトフがいいだろうって。
「一緒に暮らすことになって」
「ええええ? マジっすか」
コクンと、頷いてしまった。気恥ずかしくて、俯いて、スマホをギュッと握って。
「そっかぁ、なんか、すごいっすね」
「……って、あの、ごめ」
少し、寂しそうな声色に慌てて、彼の心情を、俺なんかに察せられても嫌だろうけど、でも、謝ろうと。
「羨ましいなぁ……なんて」
「……」
「俺が、もしも、付き合えてたら、そんな顔してくれたんすかね」
「……」
俺がもしも、立花君と。
「…………なぁんて、わかんないっすよね。けど、羨ましいのはホントです。そんな顔、俺もいつか誰かにさせてやりたい」
「……」
「そんくらいの男に」
「あ、あの」
「?」
「立花君が、嬉しそうに笑ってしまう人と、その、付き合えば、いいんだよ」
させてやりたいとかじゃなくてさ、自分が嬉しくてくすぐったくて、幸せでたまらないと笑ってしまえたら、きっとその人も同じように笑ってくれると、思うんだ。
多分、俺の部屋でゆっくり過ごしているだろう敦之さんはこのメッセージを打ちながら、きっと今の俺みたいに笑っていただろうから。そして、早く一緒に住みたいって、今、俺が住宅情報をネット検索しまくってたみたいに、山のように雑誌を集めていそうだから。
「そ、その、俺なんかが偉そうに言っても」
「そんなことないっす」
「……」
「俺もそう、思います」
そして、にっこりと笑ってくれる立花君に、俺も穏やかに笑い返した。
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