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「やった! 空きが出た!」
思わず、更衣室でそう呟いてしまった。誰もいなくてよかった、と思いつつロッカーにかけておいたジャケットを手に取った。帰り際、スマホを更衣室で見たら、生花教室のキャンセル待ちで一つクラスが取れたとアプリから知らせが届いていた。
本当に上条の生花教室の人気はものすごくて、もちろん、敦之さんが講師を務めた時のなんてキャンセルが出るわけなくて。でも、本当に申し訳ないんだけど、加藤さんが講師を務めるクラスの時はたまぁに、本当にたまにキャンセルが出て。
いや、全然教え方上手いし、丁寧だし、でも、敦之さんの方が教え方上手いし丁寧だし、かっこいいんだけど、いやいや、加藤さんもすごくかっこいいよ。うん。かっこいい。
「なぁに、一人で百面相してるんすか」
「あ、立花君、あ……あははは」
胸の内で一生懸命に加藤さんへフォローの言葉を探してたところを見られてしまった。笑って誤魔化すと、立花くんも笑っていた。
「今日はもう上がり?」
「そうっす。小野池さんが納期設定しっかりしてくれるんで、残業減ったんすよ。マジで、製造の全員めっちゃ感謝してます」
「いやいや」
前までの納期がおかしかったんだ。仕事を取るためだと、工程がありえない設定のされ方をしていて、しかもやっても利益なんて出ない安価での仕事。それじゃ、会社は利益も得られず、疲弊するばかりだ。まずは営業がしっかりした仕事を取ってこなくちゃって。
「小野池さんも上がりっすか? デートっすか?」
「あ、ううん。今日はこの後、生花教室があって。キャンセル待ちしてたら、今日取れたから」
「頑張りますねぇ」
「うん」
頑張るよ。
だって俺はあの人のパートナーだもの。それに、本当に素敵なんだ。敦之さんの生けた花は。あんな花が通勤路に飾ってあったら、毎日愛でられたら、元気が出そうだって、前、本当にヘトヘトになりながら仕事をしていた頃思っていたから。
「俺も、お花、生けられるようになりたいんだ」
「……すごいっすね」
「え?」
「なんでもないっす。ほら、教室あるんでしょ?」
「あ、うん! ありがと。それじゃあ」
「お疲れ様でーす」
時計を見ると、少し急がないといけない時間だった。
レッスンは一時間、敦之さんも確か、そう遠くないところで仕事をしている。そうだ、夕飯、外でって誘ってみようかな。俺から、デートとか申し込んでみたり、して。明日、俺も敦之さんも休みだから、お酒も外で飲んで……。
うん。
いいかも。
でもまだ仕事中だ。今日もスケジュールたくさんだったはずだから。メールにしていこう。仕事終わった後の待ち合わせ場所と、場所はできるだけ敦之さんの負担にならないように近いところにして、時間……は、適当にお仕事が終わったら来てくださいってして。レッスンの方が早く終わるから、そしたら、敦之さんの仕事が終わる時間までどこかブラブラしていよう。だからやっぱり時間は決めない方がいい。
きっと敦之さんは俺を待たせるの、あんまり好きじゃないと思うから。仕事を急がせてしまうだろうから。
「っ」
自分で思って、自分一人で照れてしまった。なんだか自意識過剰な人っぽいなって。だって、俺のために敦之さんが仕事を急ぐなんてさ、前ならそんなのありえないって思ったのに、今は違うから。
「そ、送信……と」
そして、照れをごまかすように一人で呟きながらデートのお誘いをメールしたところで、すごいタイミング。駅へと向かうバスがやってきた。
生花教室はやっぱり女性がほとんどだった。
「お名前とレッスンチケットを宜しいですか?」
「あ、は、はい」
「それでは席順等はございません。お好きな席にお座りください」
「はい」
アプリで取ったチケットを見せると受付の女性がにっこりと微笑んだ。
会場の中はもう半数以上の席が埋まっていた。そしてそれぞれのテーブルに生花の道具が並んでいる。
その席の中でも端のあまり目立たない位置にそっと腰を――。
「こんにちは……こんばんは、かな」
「……あ」
「今日は顔でわかってもらえた」
それは傘を渡してあげた人だった。今回はメガネはしていないけれど、髪型が同じだったから。
「こ、こんばんは」
「またいつか会えるかもしれないと、傘、持ち歩いていて正解だった」
「え?」
「ほら」
荷物はそれぞれが足元に置いている。まさか傘を。
「すみません。逆に気を使わせてしまって」
「いや……」
ずっと持ち歩いていてくれたのだろうか。
「あの」
全然気にしないでいてくれて構わなかったのに、そう言おうとしたところでレッスンが始まってしまって、お互いにその席に自動的に座ることになった。
(お隣、失礼してもいいかな)
(ど、どうぞどうぞ)
あとでお礼を言わなくちゃ。レッスンのたびに持っていてくれたのなら、邪魔だっただろうに。雨も降らないのにずっと傘を持ち歩くなんて。
むしろ、手間をかけさせてしまって申し訳ない。
そう思って彼をチラリと見ると、こっちを見て微笑んでいた。優しそうな笑顔をまっすぐこちらに向けられるとなんだか気恥ずかしくて、つい、俯いてしまった。
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