1人が本棚に入れています
本棚に追加
午前八時、職場のデスクに赤いベビーカーが立て掛けてあった。
「なにこれ」
咲宮塔子は声にならない声でつぶやく。そして眼球だけをぐるりと回したが、社員はまだまばらだし、それらしい反応はない。
二十名足らずの営業所は交差点の角に建つ雑居ビルの三階にある。巨大な楔のような建物は葉陰に海風を遮られている。
始業時間が近づいてきたので、とりあえずベビーカーを畳むことを試みた。それは塔子の想像より遥かに容易に、コンパクトに収納された。
邪魔なのでデスクの下へ潜り込み押し込んだ。すると、後ろから「おはようございます」という囁きを耳にうけた。
「おはよう」
と返すと、すぐさま
「センパイ、新しくできたお店に一緒に食べに行きません? お昼」
と提案してきた。やや薄めの唇をほころばせながら。
「いいよ。伊武ちゃんの行きたいとこで」
塔子が答えると後輩はぱっちりとした瞳を揺らし
「とっておきの面白い噂があるんですよ」
と滑らかな足取りで去っていく。
電機メーカーの子会社で、主な業務は顧客サービス、クレーム対応や技術者の派遣がメインだが現場に行くこともある。女性は少なく今は二人しかいない。
塔子は三十歳。会社としては、いちばん使いでのある年齢だ。男の影もなく、八面六臂という感じの、多忙な毎日を送っていた。
だから塔子が結婚をしたことは、大いに周りを驚かせた。先の産休を報告した際も。しかし人一倍驚いたのが伊武だった。
塔子は、この後輩は単純な日常に飽きてしまっているのはないかと勘ぐっていた。きっと、妊娠という非日常を起こしてくれた「センパイ」のことを気に入っているのだろう。
始業の時刻だ。視線の端で、一瞬だけど部長が眉を寄せたような気がした。
最初のコメントを投稿しよう!