0人が本棚に入れています
本棚に追加
/8ページ
貞治は店を出ると、次は教えてもらった『萬庵こだま』に足を運んだ。
まだ一度も入ったことのない店だったが、どこにあるのかは知っていた。
狭く小さい店で、最中が絶品だと地元では有名な和菓子屋だった。
「いらっしゃいませ」
店内に入ると、五十半ばぐらいの女性が笑顔を見せた。
「栗まんじゅうを、三つ、お願いしたいのですが」
貞治が言った。
「ごめんなさいねぇ、もうあと一個しか残ってないんですよぉ」
店員の女性は申し訳なさそうにそう言って、貞治に最中を奨めた。
最中じゃなくて栗まんじゅうが食べたいのだと、貞治は憤慨しそうになったが、無いものは仕方がないと自分を説得した。
一つだけでもいいから、早く食べたかった。
「それじゃあ、栗まんじゅうと、最中を、一つずつ、頂けますか」
その直後、隣から少年の声がした。
「栗まんじゅう一つください!」
財布を出そうとしていた貞治は硬直した。
最後の一つの栗まんじゅう。
この少年に譲るべきか、否か。
貞治はズボンのポケットに手を伸ばして固まったまま、ショーケースにぽつんと一つだけ置かれた栗まんじゅうを見た。
茶色い帽子を被ったようなその艶々した栗まんじゅうは、彼を見つめるようにちょこんと座っていた。
無欲で淡泊な貞治が、唯一「これだけは」と血眼になって探した栗まんじゅう。
もし、今日この日を逃せば、また「ただの栗まんじゅう」に戻ってしまうだろうということが、貞治には分かっていた。
この一つだけは、譲るわけにはいかなかった。
最初のコメントを投稿しよう!