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貞治は絶句した。
こういう場合にはどうするべきなのだろうかと、財布の中を念入りに確認しながら考えた。
男の店員は眉根を寄せて貞治を見ていた。
その後ろで、二人の店員が十四個の栗まんじゅうを丁寧に袋詰めしている。
「もう、いらん!」
貞治は顔を真っ赤にしてそう言うと、逃げるように店から出た。
我を忘れていたせいで、こんな失態を演ずるなんて。
きっと店員も他の客も、呆然としているに違いない。
もうこの店には来られないなと貞治は思った。
それでも尚、栗まんじゅうを食べたいという欲求は消えなかった。
貞治の知る和菓子屋は次で最後だった。
和菓子屋『紅桜』は、貞治の家の近くにあった。
店内で和菓子を食べられるようになっていて、いつもそこそこ繁盛している。
これまで避けていた店だったが、この際仕方がないと踏ん切りをつけた。
「いらっしゃいま……あら、貞治さんじゃないの」
店に入ると、貞治の元妻であり、『紅桜』のオーナーである幸江がにっこりと笑った。
貞治と幸江が離婚して、今日でちょうど十年。
定年後はこつこつと貯めてきた貯金と年金で、ゆったりとした日々を過ごしたかった貞治と、定年後は自分の店を持ちたいという夢を叶えようとした幸江。
定年後の在り方についての相違により、二人は別々の人生を歩むことを決めた。
「……栗まんじゅう」
貞治が小さな声でそう言うと、幸江は「まだ好きだったのね」と言った。
貞治は栗まんじゅうが好きだった。
幸江の作った栗まんじゅうが、この世で何よりも好きだった。
今日ほど強く食べたいと思ったことはこれまで一度もなかったが、貞治は好物を聞かれると、必ず「栗まんじゅう」と答えた。
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