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哲男は空になった缶を持って立ち上がった。燈に缶をかかげて見せる。
「飲むか?」
「あたしはいい。まだ残ってる」
そうか、と言って哲男はキッチンにむかった。その後ろ姿に、燈は薄っすらと父に積りだした老いを見た――お父さんいくつになったんだろう。まだ老けてはいない。けれど、自分がおぼえているあの背中は、もうそこにはなかった。
哲男がソファにもどり、ビールを開けた。あの話をするいい機会かもしれないと燈は思った。
「ねえ、お父さん」
何気なく、明るく切り出す。深刻にはしないほうがいい。
「ん?」
「あたしがさあ、郁海を連れて帰ってきたら、おとうさん、どうする?」
哲男は飲みかけたビールを吹き出しそうになり、あわてて手で口元をぬぐった。
「何、おまえ、出戻ってくるってことか」
「うれしい?」
「うれしいはずないだろが。娘が離婚するんだぞ」
「お料理とかしてあげるよ」
「どうだか」
「お洗濯も」
「うそくさい」
「あたしだって、こうみえて主婦歴十年になるんだからね。家にいたころとはちがうんだからもう」
「ひどかったからなあ、おまえたちは」
「しかたないじゃない。あたしたちは、あたしたちで大変だったんだから」
「母さんが入院して、おまえたちが家のことをやりだしたとき、俺は奇跡が起きたと思ったね」
「お母さんに言われたからです」
「それまで、俺が言っても母さんが言っても、何一つ家のことをしなかったおまえたちが、当番を決めてちゃんとやりだしたんだ。うれしかったねえ、俺は」
「まあ、あたしたちも、もう高校生だったからね。何て言うの、なんとなくだめなんだろうなってわかってて、最後のいいつけくらいまもらなきゃって思ったのよ、ふたりで」
「ずっと続けろ、とは言わなかったのか、母さん」
「言わなかった、よ――言ったかな」
「ま、いいさ。何とかやってこれたんだ」
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