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第11話 初めてのクリスマス
呆気にとられたような重斗と彩音の顔を恐る恐る見ながら、陽斗は意を決してもう一度尋ねてみる。
「あの、駄目、ですか?」
その声に重斗は我に返り、陽斗を真っ直ぐに見る。
その目はどこか不安そうに揺れているように陽斗には思えた。
「その高校というのは、何か特殊な科目のあるところか? それとも海外の学校とか?」
重斗にそう聞かれて、今度は陽斗が一瞬ポカンとした表情になるが、内容は聞き取れているので慌てて首を振る。
「そ、そうか、では陽斗の学力では難しい学校とか、それとも入学には特殊な要件のある高校なのか?」
フルフルフル。
「? では、ここから通学するのが難しい学校か?」
これにはちょっとだけ考えて、結局陽斗は首を横に振る。
考えてみると、先日まで住んでいた県ならある程度調べていたし、そもそも中学3年生ともなればその手の話題は教室で当たり前のように交わされていたので進学を半ば諦めていた陽斗であっても近隣の高校のことくらいは把握していたのだが、この家(お屋敷と言ったほうが良いかと陽斗は思っているが)の周辺にどんな学校があるのか何も知らないのだ。
質問に全て首を横に振った陽斗を見て、ますます困惑した様子の重斗。
と、そこで、彩音がようやく陽斗の言いたいことの意味を理解した。
「そういえば、陽斗様はここに来る前、あの誘拐犯の女に高校受験をすることすら許してもらえなかったのでしたね? そして、この家に来たことで、高校に通うことが許されるかどうか心配になった、ということですね」
彩音の言葉にようやく陽斗は首を縦に振る。
そして、チラリと重斗の顔を覗き見ると、何とも言えない表情を浮かべていた。
「そういうことか。陽斗、すまなかったなぁ。儂達の中で、高校に進学するというのが当たり前すぎて、陽斗の状況を考えていなかった。確認するが、陽斗は高校に通いたいと思っているのだな?」
「う、うん」
陽斗が頷くと、重斗は希望する高校や将来の方向性など、具体的に質問を重ねていった。
ただ、陽斗自身は自分の将来にそれほどの選択肢があるなどと考えたことがこれまでなかったためにほとんど答えることができなかったが。
「うむ。では陽斗、儂からの提案なのだが、この家から通えるところに『黎星学園』という高校がある。レベルもそれなりだし、設備も充実している。なにより、陽斗には安全に過ごしてもらわねばならんからな、そこならばきちんとしたセキュリティもあるので儂も安心できる。そこに通ってはどうだ?
それに儂としてはせっかく陽斗と一緒に暮らす事ができるようになったのだから、通えないような距離の学校に行かれてしまうのは寂しいのでな」
重斗の言葉に、陽斗ははにかみながらも嬉しそうに頷いた。
「あ、でも、僕、あまり受験勉強できてないから、大丈夫、かな?」
元々いつかは大学入学資格検定試験を受けようと、高校受験を諦めてからも勉強は続けていた。だからこそ担任の赤石先生も受験を薦めていたのだ。
ただ、2年の時の担任であり、2、3年で教科担任を務めていた青山の影響で英語だけはあまり得意ではない。独学で勉強しているものの、周囲に(英語を)教えてくれる人もいなかったのだ。他の科目に関しても模試などはほとんど受けていないので自分の偏差値すら把握していない。
「それでしたら家庭教師を用意致しましょう。陽斗様の学力であれば問題ないと思いますし、黎星学園高等部の入試は1月最終週ですので集中的にやれば大丈夫かと。もちろん私も英語はできますが、受験のためのものですから専門の者の方がよろしいでしょう」
とんとん拍子に話が進んでしまい、戸惑いはあったがそれ以上に高校に行けるということが陽斗は嬉しかった。
それから昼食までは重斗と共に過ごし、仕事だという重斗を玄関まで見送っていると、『やはり午後の仕事はキャンセルする』と言いだした重斗を執事の和田が呆れた顔で強引に押し出すといった寸劇が繰り広げられた。そしてこれは陽斗が重斗を見送る度に繰り返すこととなる。
蒸し鶏のサラダとクロワッサン、たっぷりの果物という、これまでの陽斗の人生では考えられないような昼食を食べてから重斗を見送った後、夢を見ているかのようなフワフワとした気持ちで陽斗は部屋に戻る。
飛び上がって浮かれそうになる気持ちを抑えつけて寝室へ行き、クローゼットの中に置いてあるバッグを開く。
中に入っていたのは学校の教科書や職場の人に貰った辞書や参考書、ノート、文房具、ほんの少しの着替えなどだ。
昨日までの陽斗の全財産がこの安っぽいスポーツバッグに入っている。
そして教科書に挟まれる形で昨日社長から渡されたスマートフォンと付属品、それから封筒に入った現金が入っているのに気がついた。
お風呂騒動で動揺しつつもきちんと仕舞っていたらしい。ホッとすると同時に社長に連絡する約束を思い出す。
とりあえず陽斗はバッグから着替えなどを取り出して棚の隅に置き、残りをバッグごと持ち上げて書斎まで移動する。
そして教科書などをデスクの上に置き、部屋に戻る前に湊に渡された鍵でデスクの左側の書庫の下に収納されている金庫を開ける。
金庫は個人用とは思えないほどの大きさで幅と奥行きは70センチ、高さは1メートル程もあった。
鍵は金属製の物と5桁の数字をテンキーで打ち込む事の両方が必要なタイプのようだ。
陽斗はそこに重斗の部屋で受け取った陽斗名義の銀行通帳やキャッシュカード、証券や土地の書類関係、それから社長に渡された現金の入った封筒を仕舞い、金庫の取扱説明書を見ながら暗証番号を登録した。
金庫のロックを確認し、デスクに置いた教科書をチラリと横目で見る。
夢だった高校受験のためにすぐにでも勉強を始めたい気持ちをグッと堪え、陽斗はスマートフォンを手にする。
新聞販売店の社長からは落ち着いたら連絡するように言われている。
まだ来たばかりで落ち着いたとは言い切れないが、社長が心配したような状態にはなっていないし、これからもその心配はなさそうだ。
だからまず、社長に連絡をして今の状況と進学ができそうなことを伝えるために、陽斗は電話帳に登録してある社長の電話番号をタップする。
トゥルルルルル、プツッ。
『もしもし、達坊か?!』
わずか1コールで通話が繋がる。
確かに今の時間ならば販売店はほとんど人がおらず、普段の社長は身体を休めている頃合いだ。おそらくはすぐ側に電話を置いていたのだろう。
実際には陽斗のことが心配で寝るときでもすぐ側にスマホを置いていたのだが、そんなことを陽斗が知るはずもない。
勢い込んだような口調に気圧されながらも、陽斗は昨日新聞店を出てからのことを順を追って話していった。
『そうか、そうかぁ、良かったじゃねぇか。とりあえず達坊がそっちでやっていけそうなら安心できる。ただ、一緒に住んでいけば色々と見えてくる部分もあるだろうし、誰だって最初は良く見せようとするもんだ。とにかく当分は定期的に連絡しろよ。困ったことがあったら夜中でも忙しい時間帯でも構わねぇから必ず電話しろ
、いいな?』
相変わらずの乱暴な口調で、それでも精一杯陽斗を気遣った言葉に嬉しさのあまり泣きそうになるが、変なことで心配させたら申し訳ないので何とか我慢する。
社長との電話を終えて、その後は連絡先を教えてくれた人達ひとりひとりに電話をして状況説明とお礼を言っていく。
同じ話を何度もするのは大変だったが、陽斗にとって彼等は辛いときに優しくしてくれた大切な人達であり、誰ひとりとして適当に済ませることなどできなかったのだ。
結局全ての電話を終えたのは1時間以上経ってからであり、通話料金が社長の負担になっていることに気付いて申し訳ない気持ちになる。
今度連絡するときに給料から通話料分を引いておいてもらえるように頼むことを決めて、陽斗は夕食まで勉強することにした。
コンコン。
ノックの音に陽斗は頭を上げて問題集を閉じる。
デスクに置いてある小さな時計を見ると、時刻はもうすぐ8時を指そうとしていた。随分と集中していたようだ。
普段職場の事務所の騒々しい中でするか、部屋の片隅で隠れるようにしか勉強できなかったために、ここのように静かで整えられた環境での勉強は他の事に気を取られることがない分かなり捗るようだ。
といっても、参考書も問題集も職場の人から子供が使っていたという中古品を貰い、何十回となく読んだものなので問題集にいたっては回答もほとんど丸暗記してしまっているのだが。
コンコン。
再度のノックに、集中できた環境に感動していた陽斗はハッと我に返り、慌ててドアを開けた。
「は、はい!」
「大変お待たせして申し訳ありませんでした。夕食の準備が整いましたのでご案内します」
ドアの前には湊が言葉通り申し訳なさそうに頭を下げていた。
そういえば一度喉が渇いたのでリビングで水を飲んだのだが、その時には湊も裕美も姿が見えなかった。とはいえ、陽斗にとっては部屋にメイドさんがいないことの方が自然なことなので気にしていなかったのだ。
「あ、あの、大丈夫です」
湊の様子にそう言ったものの、そもそも普段ならこの時間は仕事をしているし、時折販売店の社員の人が差し入れを持ってきてくれるとき以外は夕食など食べていないので、待たされたという感覚自体がないし、そんなことで頭を下げられても困ってしまうのである。
「通常は7時頃から夕食の時間となっているのですが、本日は少々準備することが多くなってしまいこの時間までお待たせしてしまいました」
廊下を先導しながら湊が陽斗にそう説明する。
陽斗はこの家のルールというものを知らないので、聞く姿勢としては真剣だ。
今までがそうであったように、一度聞いたことは忘れないように食事の時間などを記憶していく。
階段を降り、朝食や昼食を摂った食堂に向かうと思いきや、湊はそのまま玄関へと足を進めていく。
「本日の晩餐は別の場所で行います。といっても同じ敷地内にありますのですぐですよ」
陽斗の疑問を察したのか、安心させるような笑みを浮かべて湊が言う。
靴を履いて玄関を出ると、すぐ前にリムジンが停まり、先日も空港から乗せてくれていた運転手の男性がドアを開けて待っている。
敷地内と聞いたのに車で移動というのに驚きつつも大人しく乗り込んだ。
外は既に真っ暗だったが、庭の所々に電灯が設置されていて敷地内がある程度見通せるようになっている。
改めて見ても個人の邸宅とは思えない広さの庭の脇に敷かれた道を通り、陽斗がここに来たときとは違う小ぶりな門を通ると、これまでいた邸宅よりもさらに大きな建物が見える。
「こちらの建物は迎賓館となっています。旦那様がお客様をお迎えしたりパーティーを催したりする場所ですね」
どうやら重斗が私的な空間と来客が滞在する場所を完全に分けたいという意向らしい。わざわざそのために別の建物を用意しているということ自体に陽斗はついていけないのだが、そんな感慨はよそに車が迎賓館の玄関に横付けされ、陽斗達は車から降りて建物に入っていった。
こちらの建物はホテルと同じように靴のままで良いようだ。
玄関ホールを通って正面の大きな扉の前まで行くと、湊が扉を叩く。そして一歩横にずれると陽斗を促した。
すぐに扉が大きく開かれ、中の様子が陽斗の目に飛び込んでくる。
学校の教室数室分はありそうな広い部屋には天井まで届きそうなほどの大きさのクリスマスツリーと、真っ白なクロスが敷かれたテーブルの上には大きなケーキやテレビでしか見たことのない七面鳥の丸焼き、その他数え切れないほどの料理の数々が並べられていた。
「え? え?」
「陽斗、待たせてしまったな。腹が減っただろう?」
予想外の光景に驚く陽斗に、重斗が優しげな笑みを浮かべて手招きする。
「あ、あの?」
「今日はクリスマスイブですからね。折角なので使用人達も交えてパーティーをしようということになったんですよ。
旦那様は陽斗様とふたりで豪華なディナーをと考えていたようですが、それでは馴れていない陽斗様は楽しめないでしょうし、私達使用人に気を使ってしまうのではないかということで、湊の提案でこのような形式にしたんです」
重斗のそばに陽斗が行くと、彩音がどこからか近づいて来てそう説明した。
「え、あの、彩音、さん、その格好…」
陽斗は説明の内容よりもミニスカサンタ姿の彩音に戸惑う。というか、目のやり場に困っている。
顔を赤くして俯いてしまった陽斗の様子を見て湊が呆れたように彩音を嗜めた。
「彩音は調子に乗りすぎです。
陽斗様、陽斗様はこれまで普通、とは言えませんが、市中に暮らしてごく一般的な価値観をお持ちですから、あまり使用人に傅かれるのには馴れていないでしょう? だから、こうして使用人も参加してのパーティーならばリラックスできるのではないかと考えました。
それにこうして交流すれば自然とこの家で働いている者の顔を知ることが出来ますし、互いの距離を縮めることができますから」
聞けば今給仕をしている人達も交代しつつ料理を食べたり談笑したりすることになっているらしい。
重斗も普段から、礼節と立場を弁えてさえいればあまり煩く言わないので割と和気藹々とした雰囲気だった。
陽斗は当然こういった立食形式のパーティーなどは経験したことがないのでどうすれば良いのか分からなかったが、湊がいくつかの料理を皿に載せて手渡し、立食用のテーブルに案内してくれた。
本来は立食にもそれなりのマナーやルールがあるのだが、今回は陽斗の親睦を兼ねたものだし人数も多くない。各自が自由に振る舞っているようだった。
陽斗も賑やかな雰囲気は嫌いではない。というか、アルバイトをしていた新聞販売店は明るくて豪快な従業員が多く、仕事中や時々誘われた食事でも実に賑やかだった。
だから陽斗も楽しげな空気は好きだし、人の笑顔を見て、自分もその輪の中に居られることが嬉しいと思っている。
まるで小鳥のようにチマチマと料理を突きながら、ご機嫌で陽斗や執事の男性達と談笑する重斗の側で幸せを噛みしめていると、ワイングラスを左手に持ち、右手は身体の後ろ側に隠した彩音が近づいて来た。
「陽斗様、楽しんでますか?」
「はい。すごく楽しくて、まるで夢の中に居るみたいです」
反射的に答えたものの、剥き出しの肩と大きく開いた胸元のせいで彩音を直視できず、誤魔化すようにグラスに入ったオレンジジュースを口に運ぶ。
重斗はそんな陽斗を微笑ましげに見るだけだ。
「ふふっ、みんな陽斗様に楽しんでもらいたくて準備しましたから、沢山食べてください。それと、はい! サンタのお姉さんから陽斗様にクリスマスプレゼントです」
悪戯っぽく前屈みで胸の谷間を見せつけながら彩音はそういって右手の包みを手渡してきた。
ようやく分かってきたのだが、どうも彼女のもともとの性格は明るく悪戯好きな気質を持っているらしい。
最初に受けたイメージとは大幅に異なる印象に戸惑いはしても、根底に優しさを感じている陽斗はもちろん悪い感情を持つわけはなく、心からの笑顔で「ありがとうございます」と包みを受け取る。
「はぅっ!」
そんな陽斗を見た途端、奇妙な声をあげて、何故か頬を染めた彩音はぎこちない笑顔を浮かべながらそそくさと離れていった。彩音の様子に陽斗は首を傾げ、他の者は苦笑いを浮かべた。
受け取った包みはそれほど大きな物ではないが、ずっしりとした重さがある。質感的にどうやら書籍のようだった。
中身が気にはなるがさすがにこの場で開けるわけにはいかない。後の楽しみとして取っておくことにする。
それを皮切りに、次々にメイド服姿や執事姿、警備員姿の人達が自己紹介と共に小さな包みを陽斗に渡していく。
そしてそれが落ち着いたのを見計らって湊と裕美がやってくる。
「驚きましたか?」
「えっと、はい。でも僕はプレゼントとか用意してなくて」
「それは気にしなくても良いんですよ。そもそもクリスマスプレゼントは恋人とかでもなければ、年上から年下に渡すのが普通です。それに、今回のはこれからお仕えする者達の自己紹介とご挨拶を兼ねていますから」
「そうそう。陽斗様が気にしないように、それほど高価な物ではなくて受験や高校生活で使える学用品ばかりですから。
それに、そのおかげで料理長が腕を振るった料理や美味しいお酒を楽しめるんですから、むしろ私達にとってはすごくお得なんです」
湊と裕美の言葉は事実かも知れないが、それでも陽斗にとって嬉しいことには変わりない。
堪えようもなくこみ上げてくる涙を浮かべながら精一杯の感謝を込めて笑顔を見せた。
途端にどういうわけか頬を染めて顔を背ける男性や鼻を押さえて慌てたようにその場を離れていくメイド達が幾人もいたりする。正面にいた湊と裕美にいたっては顔を俯かせてプルプルしている。
「結局儂はプレゼントが決まらなかったのですまなかったが、まぁすぐに高校の合格祝いもせねばならんからな、その時にまとめて何か贈ろうと思う。ただなぁ、儂が考えてもどういうわけか他の者が反対するのでなぁ」
この場で唯ひとり、渋い顔をしているのは重斗だった。
さすがに陽斗にもどうして反対されたのか想像できそうな気がしていたので、乾いた笑顔しか出なかったが。
その後も陽斗にとって初めてのクリスマスパーティーは続けられ、終始温かな雰囲気の中で幸せな時間を過ごせたことをずっと忘れることはできないだろうと、ベッドで眠りにつくその瞬間まで感じていたのだった。
その一方で、このパーティーを切っ掛けに陽斗を甘やかそうとする使用人の数はねずみ算的に増えていくことを、今はまだ、誰も知らない。
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