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第12話 家庭教師
その日、陽斗は机に向かいながらも落ち着かない思いを抱えていた。
年の瀬もいよいよ押し迫ってはいるものの、屋敷の中はごく平穏で使用人達の様子もこれまでと特に変わった様子は無い。
クリスマスパーティーでは幸せな気分のまま眠りにつき、翌朝目覚めたときは夢を見ていたのかと不安になったりもしたのだが、リビングのテーブルに置かれていた沢山のプレゼントを見て現実の出来事だったと安堵のため息を漏らした。
そのプレゼントの中身だが、あの場で聞いていたとおり参考書や辞書、問題集、ボールペンやシャープペン、万年筆、ノートやマーカーなど、受験生への贈り物としてごく一般的(高級そうな万年筆はともかく)なもので、同時に陽斗にとって凄くありがたいものばかりだった。
特に新しい参考書や問題集は、これまでは年度遅れの中古品しか無かったので来年に入試を控えている身としてはより一層勉強に打ち込む事ができるものだ。
相変わらずの習慣で朝早くに起きたこともあり、早速朝食までの時間机に向かったのだった。
朝食後は少しの時間を重斗と話をしてから、また部屋に戻って勉強を再開させる。
そして昼食後や夕食後も遅くまで机に向かう陽斗に、重斗は『無理をしているんじゃないか』とそれはもう心配していたが、当の本人は念願の高校受験ができるということでテンションが上がりまくり、まるで疲れなど感じていない。
と、いうよりも実際は以前の、早朝から新聞配達をして、終わったら家事、すぐに学校、それが終われば家事、そしてまた仕事、夜8時過ぎて帰宅してからも家事、その後に隠れるように勉強し、わずかな時間睡眠を取ってまた仕事。時には理不尽な事で暴行まで受けるという生活と比べれば、栄養も量もたっぷりの食事が日に3度に加えて午後に軽食まで出され、仕事も家事もする必要もなく、同居している人間の顔色を窺わなくても良い今の環境では、ずっと机に向かっていたところで負担に感じるはずがないのである。
それに、学校の授業を除けば、全ての勉強はほとんど独学に近く、模試も受けていないため、陽斗は自分の学力がどのくらいか図る術が無い。
夢にまで見た高校受験なのだから失敗したくないし、重斗の勧めてくれた『黎星学園』のレベルがどのくらいなのかもわからず、合格出来なくて失望されたくもない。
そんなことを考えると不安になり勉強に打ち込む事で紛らわしている部分もあるのだ。
ただ、勉強は独学でするのには限界がある。
暗記系の科目ではポイントがわからなければ無駄な部分まで覚えることになってしまい時間がどれだけあっても足りないし、数学や英語は解き方考え方を知らなければ正答するのは難しい。
参考書である程度は学ぶことができるとはいえ、やはり詳しい人に直接教わる方が効率が良いのは当然だ。
特に『黎星学園』の入学試験まであと一月しか無いことを考えると集中的に教えてくれる人が必要なのである。
と、いうわけで、高校に行きたいと重斗達に打ち明けたとき、彩音が用意すると言っていた家庭教師をしてくれる人がこれから来ることになっているというわけである。
同級生はともかく、大人の人に勉強を教わるなど学校の先生以外には経験が無い(職場の大人達は揃いも揃って中一の問題すら解けない脳筋揃いだった)ので、陽斗は不安と緊張で落ち着かないのである。
特に陽斗は学校の教師に恵まれないことが多く、あの元母親の行状を嫌って陽斗とは距離を取るか冷淡な先生がほとんどだったのだ。一部には陽斗の境遇に同情的で何とか力になろうとしてくれた赤石先生のような人も居たが。
今はその頃と状況が大きく異なるのでそのような事にはならないと思っている一方で、やはり不安は拭えない。
コンコン。
参考書に目をやりながらも今ひとつ集中できていなかった陽斗は、扉をノックする音に一層鼓動が早くなりながら立ち上がりドアを開ける。
裕美が家庭教師が到着したことを告げ、陽斗はこの部屋のリビングまで通してもらえるように頼む。
といっても、これは事前に決められていたことであり、陽斗は裕美の言葉に頷いただけだ。
リビングのソファーに浅く腰掛けて待っていると、ほんの5分ほどで湊に連れられて女性が入ってきた。
「初めまして。本日より家庭教師として指導させて頂く予定の小坂 麻莉奈と申します。精一杯務めさせて頂きますのでよろしくお願い致します」
陽斗が立ち上がると、その前まで歩み寄ってきて頭を深々と下げた。
年齢はまだ20代前半だろう。活動的なショートカットで目鼻立ちがはっきりしておりかなりの美人だ。それでいて目尻はやや下がり気味で優しそうな雰囲気を持っている。
身長は小柄でおよそ150センチほどだろうか、陽斗が平均よりも大幅に小さく140センチちょっとなので、陽斗にとってもあまり威圧感を感じずにすむ身長差だ。ただ、身長の割に胸は大きくとてもスタイルが良いので、いったいどういう基準で人選したのか非常に気になるところである。
「あの、こちらこそ、よろしくお願いします!」
麻莉奈のあまりの低姿勢に困惑しながらも、陽斗としては教わる立場である。熱意が伝わるようにこちらもピョコンと頭を下げた。
「あ、えっと、よ、よろしくお願いします」
返された麻莉奈は焦ったようにワタワタと同じ台詞を繰り返した。
彼女としては相手は中学3年生の、それもこの受験が押し迫った中での突然の依頼であり、しかも男の子と聞いて余程の問題があるのだろうと覚悟してやってきたのだ。
麻莉奈は進学塾の正規講師として働いているが、家柄としてはそれなりの出自である。ただ、三女であり、家の後ろ盾や支援などほとんど無いので教師の道を目指して名の通った大学の教育学部を卒業したものの希望する私立学校の教員としては採用されず、講師として働きながら採用枠が空くのを待っている状況だった。
進学塾の正規講師というのは聞こえは良いが結構な難職でもある。
塾の講師は科目ごとの非正規講師が多くを占めており、正規講師は担当科目を持ちながらも、他の講師の代理や夏期講習などで受講者が増えたときに臨時で講義を受け持つこともしなければならない。
自分の科目のみならず、他の主要科目でも講義ができなければならないのである。特に最近は少人数制を売りにしている進学塾が多く、ほとんどブラックと言って良いような職場環境なのだ。
そんな中でほんの2日前に麻莉奈に名指しで声が掛かったのが今回の依頼であった。
麻莉奈は私立高校の教員を志望していることもあって、講義は準備も含めて懸命にこなしていたし、教え方や容姿も相まって生徒からも高い支持を受けている。
だからこその指名だと理解しているし、条件も破格のものだった。
採用された場合の報酬は一月で現在の年収とほぼ同等、しかもそれが受験が終了するまで続く。さらに、第一志望の黎星学園に合格した上で陽斗の麻莉奈に対する評価が高ければ希望する私立高校の教員としての推薦までしてもらえるという話だ。
麻莉奈は家柄もあって“皇”の名は知っている。並外れた資産家であることも国内外に大きな影響力を持つこともだ。どれほどの名門校であっても教員の一人や二人ねじ込む程度は造作もないだろう。
中学3年のこの時期に、新しく家庭教師を雇うなど普通はしない。
偏差値がわずかに足りず梃子入れしたいという場合は稀にあるかもしれないが、大部分は受験生本人に何らかの問題があるケースだろう。ましてや破格の待遇までセットであれば警戒するのも当然である。
相手も名の通った名家である以上、そこまで酷くはないだろうとは思いつつも、相応の覚悟を決めてやって来た。そしていざその受験生に対面してみれば、女性としても小柄な部類に入る自分よりもさらに小さな、どう見ても小学生程度にしか見えない背の、素直で性格も良さ気な、どこか小動物を思わせる可愛らしい少年である。印象としては問題がありそうには見えない。少々のセクハラさえ覚悟した麻莉奈としては拍子抜けだった。
ただ、そうなると残りの問題は実際の学力である。
「えっと、それではまず、早速ですが今現在の陽斗さんの学力を見たいので、模擬試験をやってもらいたいのですが、よろしいですか?」
どちらにしても麻莉奈としては全力でことにあたるしかない。
まず正式に家庭教師として採用されなければ始まらないのだ。ただ、不採用や受験失敗であっても、あり得ないほどの報酬と元の職場への復帰は約束されているので背水の陣とまでの危機感は無い。
とはいえ、既に麻莉奈としてはこの少年の力になりたいという気持ちが湧いてきている。
「は、はい! えっと、それじゃぁ隣の勉強部屋で、良いですか?」
陽斗としては異存などあるわけがなく、早々に書斎に移動することにした。
麻莉奈のために椅子を一つ用意してもらい、準備を整えると手渡された試験問題を解いていく。
通常の模試と同じように時間を計りながら1科目ずつ、小休止と昼食を挟みながら主要教科の模擬試験を終わらせる。
陽斗が模試の問題を解いている傍らで麻莉奈は終わっている科目の採点を行っていた。
そして、不安そうに麻莉奈の様子を窺っている陽斗の目の前で最後の科目の採点を終える。
「…………」
「あ、あの、どうでした?」
「え? あ、ええ、全部の採点が終わりましたが、正直驚いています。いくつかのポイントを押さえて苦手分野を克服すれば充分に合格圏内に入りますね」
言葉の通り、麻莉奈はかなり驚いていた。
黎星学園は中等部から大学まである名門私立校だ。
学力以外に求められている要素が多いために単純に比較することはできないが、高等部の外部受験に関しては有名進学校ほどではないにしろそれなりのレベルが要求されている。
大凡の目安として安全圏と考えられるのは全科目の科目別偏差値が65以上で総合偏差値は70以上、或いは特定分野特化でも科目別で最低60以上且つ特定科目で75以上の偏差値だと言われている。
今回の模試問題での陽斗の点数は国語が偏差値71、数学が69、最も低い英語でも65だった。黎星学園特有の科目である日本史も正答率が80以上だ。
試験問題は全国統一模試のもので、陽斗は受けていないということだったので純粋に現在の学力だと判断できる。
休憩中に聞いていた話では学校の授業以外はほぼ独学で、それも2年以上前の参考書や問題集で勉強していたという。
余程強い思いで勉強していたと見られ、参考書も問題集も擦り切れるほど使い込まれているのはわかったが、それでもここまでの成績を出すとは思っていなかった。
独学でここまでできるのであればまだまだ伸び代があると考えられる。実際回答を見ても考え違いやニアミスも散見されるのでそれが改善されるだけでも偏差値を2~3は上げることが出来るだろう。
黎星学園の入学試験まで一月しかないのは正直厳しいのは確かだが、項目を絞って集中的に弱点を潰していけば間に合う可能性が高い。
本採用になるかどうかの試用期間は今日を含めて3日間だが、麻莉奈は俄然やる気になっていた。
どうしてこんな差し迫った時期に家庭教師を募集したのかや、これまでの陽斗の生活などもある程度聞くことができたこともあり、何か問題があるのではないかという疑念も解消されている。
なにより、少し会話しただけでも陽斗が苦労してきたとは思えないほど素直で努力家で、これまでに見たことのないほど優しく純真であることがわかった。
そして、小さくて可愛い。
麻莉奈の男性の好みは渋めの年上だったのだが、今この瞬間に宗旨替えしそうである。今こそ声を大にして言いたい。可愛いは正義だ。
「あの、僕、大丈夫でしょうか」
「ええ! 基礎はできてるし応用も主要な部分はちゃんと理解できてるみたい。いくつか理解が弱いところや解き方が間違っている部分はあるけど、この分なら試験日までに間に合うと思います。
今の段階でも合格する可能性があるくらいのレベルだから、集中してやっていけば大丈夫です。一緒に頑張りましょう!」
「は、はいっ!」
パァッと花が咲くように喜びを表す陽斗に、鼻血を噴き出しそうになりながら、麻莉奈は『絶対にこの子を合格させる!』と気合いを入れる。
幸いなことに諸事情によって学校には行かず、受験まではこの邸宅で勉強するということであり、本採用の後は希望すれば敷地内にある使用人用宿舎に部屋を用意してくれるらしい。限度はあるがかなりの時間を指導に充てられる。
「とりあえず、今日の残りの時間は今回の模擬試験の間違ったところの解き方や考え方の解説をするわね。
じゃぁまず数学の7問目の部分なんだけど……」
鼻息荒く勢い込んだ麻莉奈に、少し驚きながらも陽斗は再び机に向かった。
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