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第3話 突然の訪問者
「失礼します」
二学期の終業式とホームルームも終わり、下校時間になってから少年は生徒指導室に来ていた。担任の赤石先生に呼ばれたからだ。
「井上君、ごめんなさいね、忙しいのに」
「あ、いえ、今日はアルバイトが休みなので大丈夫です」
はにかむように笑みを浮かべる少年にホッとしたような表情で対面の椅子に掛けるように促す赤石美也先生。
生徒指導室に呼ばれたとは言っても別に何か問題を起こしたとかそういうことではない。
前年の担任だった青山と違い、赤石先生は少年に対して冷たく接したりはしない。それどころか多少なり少年の事情を知り何かと心を砕いてくれている。
産休の先生の代わりに来た2年間の臨時教師で、少々ドジなところはあるが生徒のために一生懸命に考えてくれる良い先生なのだ。
だから少年も心配することなく赤石先生の言葉を待つ。
「えっと、井上君はやっぱり進学じゃなくて就職希望?
期末試験の結果を見たけど、どの教科もかなりの点数が取れてるし凄くもったいないと思うのよ」
「……進学は、できればしたいと思ってるんですけど、親が許してくれなくて……卒業したら働けって。でも就職して余裕ができたら大検を受けたいと思ってます」
3年生ともなればこれまでに幾度も進路指導を受けてきている。
その度に繰り返されたやり取りだった。
そして少年の母親はこれまでに一度も面談に訪れたことはない。それどころか進路の話題すら家で出すことは許されなかった。
だから、少年はいつもの返答を繰り返す。
「う~ん、でも進学したいって気持ちはあるのよね? だったらね、受験だけでもしてみない? 井上君の学力なら県内でそれなりの偏差値の学校でも合格出来るかも知れないじゃない。例えば公立のK高校かT高校に合格するなら親としては誇らしい気持ちになるんじゃないかしら。
公立だったら経済的な負担もそれほどじゃないし奨学金制度もあるわ。今までのように働きながら通うこともできる。
それに、中卒と高卒、大卒だと得られる収入もかなり差が出やすいの。それなら多少働き始めるのが遅くなったとしてもより収入を得られる方に魅力を感じると思うのよ。
実際に合格出来たら説得に先生が行きます。どう?」
少年は言われた内容を考える。
進学したいという気持ちはもちろんある。
それを諦めたわけではないし、高校は無理でも大学には何年かかっても行きたいと思っている。
けれどあの母親が認めるとは思えなかったが、同時に虚栄心が強い部分があるのも確かだ。
県下でも有数の進学校に合格すれば将来的な打算も働いて、もしかしたら認めてもらえるかも知れない。ただ、その場合でもアルバイトを継続したり掛け持ちしたりして学費などを稼ぐ必要はあるだろうが。
ただ、その前に大きな問題が立ちふさがっている。
「あの、受験費用が出せないです。それにそもそも受験すること自体を許してもらえないと思うので願書を出して受験票が送られてきても捨てられてしまいます」
少年の言葉に絶句する赤石先生。
さすがにそこまでとは思っていなかったのだろう。
腕組みをしてウンウンと唸りながら考えを巡らす。
少年もそう言ったものの、もしかしたらという希望がほんの僅かに芽生えたので、明日にでもアルバイト先の社長に相談してみようかと考えていた。
「あっ、そうだ! それなら願書に書く住所を先生の所にすれば良いわ! そうすれば受験の前日に渡してあげられるし、受験料も公立ならそれほどしないから、いつか返してくれれば良いわ。あ、でも模擬試験は受けておいた方が良いから1月に大手塾のに申し込んでみましょう。2カ所くらい受ければある程度の目安になるはずよ。その分の費用も先生の方でなんとかするから、20年ローンくらいで返してちょうだい」
冗談めかして笑いながら、それでも真剣に提案してくれる姿に少年の目が潤む。
「え? あ、あの、井上君? き、厳しいようだったら40年でも良いし、催促とかもしないわよ? え、えっと」
「あ、そ、そういうことじゃなくて、先生が僕のためにそんなにしてくれて、嬉しくて、その……」
感激のあまり言葉を詰まらせて潤んだ目で赤石先生を見つめる少年。
見ようによってはかなり危ない光景である。
実際、赤石先生の頬は赤らみ、掻き抱くのを堪えるように指がワキワキしている。
(何この子、可愛すぎなんですけど?! ヤバイ、お持ち帰りしたい! 親はDQNみたいだし、いっそうちの子に)
……通報した方が良いかもしれない。
赤石先生が理性と欲望の全面戦争を辛うじて理性の勝利で終え、改めていくつかの確認をしてから少年は生徒指導室を出る。
「あ、そうそう、メリークリスマス! というにはちょっと早いかしら? でも良いことがあるといいわね。また休み明けに元気な姿を見せてね」
扉を閉める直前、赤石先生はそう言って少年を笑顔で見送った。
カバンを教室に取りに戻り、少年は帰路についた。
今日は販売店のアルバイトは休みの日だ。
新聞の販売店の休みなど休刊日だけだというイメージがあるが、実際にはローテーションで休みを取っている。
といっても週休2日ではなく1日だけだが、アルバイトである少年も社長から週に一度休日を与えられている。
ただ、今日は終業式だったために給食は出ていない。
そんな日でもアルバイトがあれば何かと食べる物を職場の人達が持ってきてくれるので何とかなるのだが、さすがに休日ではそうもいかない。
もちろん、販売店自体は開いているので顔を出せば優しい人達ばかりの彼等は喜んで迎えてくれるのは分かっているが、そんなことを期待して行くのは恥ずかしいことだと思っている少年は我慢を選択する。
昨日は給食を食べることができているので今日一日くらいなら問題ない。
それにクリスマス目前なので母親はきっと今頃既に家を出て馴染みの客に会っていることだろう。
毎年売り上げが良くなるこの時期は母親の機嫌が良い日が多い。そんな日だけは家で食事をしても怒られることはないのだからそれに期待しよう。
それに家に居る男もこの時期だけは夜まで出かけていることが多い。
少年がそんなことを考えながら自宅であるアパートの前まで帰ってくると、道路脇に大きな白い乗用車が駐まっているのが見えた。
(すごい車。リムジンっていうのかな? でもどうしてこんな所に停まってるんだろう)
このあたりは庶民的な住宅街でアパートも多い。とてもこのような高級車が来るような場所ではないし、実際に少年も見たことはない。
それでも自分に関わることとは思ってもいない少年は、初めて間近で見る高級車にちょっと得したような気分でその横を通り過ぎ、アパートの敷地に入ろうとした。
「あの、井上 達也さん、ですね?」
「え?」
不意に後ろから声を掛けられ、慌てて少年は振り向く。
そこには、リムジンのドアが開かれ、その前に立つ女性が居た。
女性はまだ若く、キッチリとしたスーツ姿、ほんの少しウェーブしたセミロングの髪、そして驚くほど整った容姿をしている。
テレビドラマや映画に出てくるキャリアウーマン役の女優さんのようだと少年はぼんやりと考えてしまっていた。
「井上 達也さんですね?」
女性が再び同じ質問を投げかける。
そのことにハッとして慌てて少年は返事を返した。
「は、はい、そうですけど」
見とれてしまったことを恥ずかしがる様子の少年に女性は柔らかく笑みを浮かべる。
「突然申し訳ありません。私は渋沢彩音と申します」
女性はそう言って名刺を少年に差し出した。
少年は慌てて手に持っていたカバンを地面に置いて、両手で名刺を受け取る。
これは別に名刺交換のマナー云々ではなく、両手で差し出されたから同じように両手で受け取ろうとしただけだ。
渡された名刺には渋沢彩音という名と連絡先の住所や携帯番号、それに“弁護士”という文字が記されていた。
「えっと、弁護士さん、ですか?」
思わず疑問を口にする。
こんなに若くて綺麗な人が弁護士なのにも驚いたが、何より弁護士が自分に何の用なのか、心当たりがまったくない。
「はい。お話ししたいことがあるのですが、お時間を頂けますでしょうか」
わざわざ呼び止めたのだから自分に用があるのだろうし、今日はアルバイトも休みだ。ただ、それでもまずは家事を済ませなければ後で間違いなく酷い目に遭う。母親が途中で帰ってくることもあるかもしれないし、同居している男も必ず出かけているとは限らないのだ。
「あ、あの、先に家のことをしなければならないので、後からでもいいなら」
おずおずとそう告げた少年に、彩音は優しげな微笑みを浮かべる。
「同居されている井上雅美と名乗っている女性と白井孝司という男性を気になさっているようですが、ご安心ください。お二人は本日お帰りになりません。
それと、私がお伺いさせて頂くこともお二人にはお伝えしておりますので、何も心配なさらなくて大丈夫です」
「そういうことなら、はい、わかりました」
言葉に少々引っかかるものを感じながらも、あの人達が居ないのであれば少しくらい話をする程度は問題ないと少年は頷く。
その言葉を聞いて彩音は嬉しそうに笑みを深めると、少年をリムジンに誘った。
「立ち話というわけにもいきませんので場所を変えましょう。どうぞ乗ってください」
乗ってくださいと言われても、少年はリムジンなど見るのも初めてで気後れしてすぐに動くことはできない。
それでも急かすことなく安心させるように優しげな目で少年を見る彩音の態度に、少年も意を決して開かれたドアから車内に乗り込む。
自分なんかを騙したところで何も得することなんてないだろうという気持ちもあったし、何より、彩音の微笑みが限りなく優しく見えて信用しても良いのではないかと思ったからだ。
乗り込んだ車内は、人が充分に横になれそうな幅のシートが向かい合わせに2列あり、その間にはテーブルや冷蔵庫のようなものもある。
ガラスは外から中は見ることはできなかったが、内側からは意外に明るくて開放感があった。
運転席と後部座席の間には仕切りがあり、一部分だけ窓のように透明なガラスがはめ込まれている。
少年に続いて彩音も乗り込み、少年の対面、運転席に近い側に座る。
膝を揃えて斜めに傾けた長い足が俯き気味の少年の目に飛び込んできて慌てて横を向いた。
彩音はそんな少年を気に留めた様子もなく運転席に向かって少し頷くと、リムジンは音もなく走り出した。
「突然で脅かせてしまいましたね」
外の音はおろかエンジン音すら聞こえない車内で、落ち着きなくそわそわしている少年に、彩音は優しい声音でそう言った。
「あ、いえ、えっと、そ、それで話って」
「すこし込み入った内容もありますので、その前に食事に致しましょう。食べられないものはございますか?」
「え、あの、ないです、けど、ぼ、僕お金を持ってなくて、その」
食事ももらえないような少年がお金など持っているはずがない。いや、実はアルバイトを始めたばかりの頃、社長から『何か困ったことがあったら使いなさい』と一万円札を1枚バイト代とは別に渡されていて、それは常にベルトの内側に縫い付けて隠して持っている。
しかしその優しさが嬉しかった少年はそれをお守りとして大切にしていて使ったことなどないし、本当に命に関わらないかぎりは使うつもりもないのだ。
少年の言葉に一瞬キョトンとした表情を見せた彩音だったが、すぐにクスリと笑みを溢すと少年の心配を打ち消す。
「お誘いしたのはこちらですからそんなことは心配しなくても良いのですよ。中華料理はお好きですか?」
どう返して良いか分からず曖昧に頷いた少年を乗せたリムジンが、ほどなく街の中心街にあるホテルに到着した。
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