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第8話 傷痕
ようやく陽斗の涙が収まり、メイドさんが淹れてくれた紅茶を飲みながら、祖父である重斗と少しずつ会話を試みていた。
といっても、もともと陽斗は社交的な方ではないし、祖父とはいえほぼ初対面の初老の男性相手に自分から話しかけるのはハードルが高い。
なので会話は主に重斗が陽斗にこれまでの暮らしについて質問し、陽斗がそれに答えるといった形で進んでいく。
おそらくは事前に相当細かなことまで調べ上げていたのだろう、陽斗が辛いことを思い出す必要がないように、巧妙にそういった話題は避けられていた。
もっとも陽斗自身はそのことに気がつかなかったし、陽斗としては少ないながらも楽しかったことや優しくしてくれた人、新聞販売店での出来事などを嬉しそうに語っていた。
「失礼します。旦那様、宮藤様からお電話が入っております」
不意にリビングの扉がノックされ、メイドさんが扉を開くと陽斗を案内してくれた執事さんが恭しく頭を下げながら重斗にそう告げた。
「む? ああ、もうそんな時間だったか。まだまだ話を聞きたいが、それはまた夕食の時にでもするとしよう。これからはいくらでも時間があるのだからな。
電話は書斎で受ける。
陽斗も疲れただろう、案内させるから風呂にでも入ると良い」
そう言って陽斗の頭を撫でると、重斗はリビングを出ていってしまった。
中学3年生の男子としては幼子のように頭を撫でられるのは恥ずかしい気持ちがあったが、祖父に会えたことで緊張し高揚していた陽斗はそれほど気にならなかった。
見ていた側としては陽斗がほとんど小学生としか思えない外見なのでまったく違和感なく受け入れられていたりする。
重斗が出ていってしまってどうしようかと悩む間もなく再び扉がノックされ、今度はそのまま扉が開かれた。
「失礼します。陽斗様を浴室までご案内させていただきます」
「は、はい、って、え?!」
掛けられた言葉に返事を返して、陽斗はそのまま驚きで固まってしまう。
「どうかなさいましたか?」
そう尋ねながらも悪戯っぽく笑みを浮かべたのはメイド服姿になった彩音だった。
「え? 渋沢さん? あ、あの?」
陽斗としては最初に弁護士と名乗り、ビジネススーツで颯爽とした印象だった彩音と、目の前のメイド服姿の彩音が結びつかずに混乱している。
「うふふ、私は確かに弁護士ですけど、この皇家と専属契約を結んでいます。ただ、普段からそれほど弁護士としての仕事があるわけではないので、空いている時間はメイドとして働かせていただいてるんです。といっても週の半分ほどですが」
確かに専属としてひとつの家に雇われているのならそれほど仕事は発生しないだろう。それほど頻繁に弁護士として仕事をしなければならない家など、そちらの方が余程問題である。
それにしても、どこかの弁護士事務所と顧問契約を結ぶならともかく、専属で弁護士を雇うなど普通はしない。どこまでもスケールが違うのだ。
「ですから、この服を着ているときはただのメイドとして扱ってくださいね。精一杯ご奉仕させていただきます。それと、私の事は“彩音”と呼び捨てでお呼びください」
「え、あ、あの、はい……」
見た目がどうであれ、陽斗も年頃の男の子である。妙齢の美女にそのような事を言われればドギマギしてしまうのはどうしようもない。
恥ずかしくなって俯く陽斗を、彩音は浴室へ促す。
浴室は廊下の一番奥まったところにあった。
大きな扉を横に開くとまるで銭湯のように広い脱衣所がある。
「お着替えはこちらに用意してあります。洗濯する物はこちらの籠に入れてください。それ以外はこちらの棚に。タオルはこちらにございます。それと、お風呂から上がったらお部屋へ案内しますね。何かご質問はございますか?」
「い、いえ、大丈夫です」
脱衣所に彩音も一緒に入ってきたので驚いたが、単に説明をするためだったらしい。
一礼して脱衣所を出る彩音を見送り、小さく息を吐くと服を脱ぐ。
今まで意識していなかったが陽斗は学校の制服のままだった。しかもあちこちが擦り切れ、みすぼらしいボロボロの学ラン。
この姿でリムジンに乗ったり高級中華料理店に入ったりプライベートジェットに乗っていたのかと思うと今更ながら恥ずかしくなる。
ポケットに入れたままだったスマートフォンと封筒を出し、脱いだ上着を簡単に畳むと見えないように間に挟む。その上にズボンも置いた。
そのままの勢いでシャツと肌着、下着を脱ぐと、それを持ったまま浴室へと繋がる扉を開ける。
お風呂場は脱衣所の大きさに見合った広さだった。
湯船は大人数人が余裕で浸かることができそうなほど大きいし、躰を洗う場所も複数ある。少し規模の小さな銭湯や温泉のような感じだ。とても個人の家とは思えない。
陽斗は思わずキョロキョロと見回してから一番隅の洗い場を選んで椅子に腰掛ける。
そしてシャワーを手にとってコックを捻ると勢いよくお湯が流れ出た。
普通の人の感性ではごく当たり前に感じられることだが、陽斗は家でお湯を使うことが許されていなかったのでこれだけで感動ものだ。
シャワーから流れるお湯の湯気に感動しつつ、陽斗は洗面器にそれを溜め、持っていたシャツや肌着を濡らしていく。
(あ、洗濯用の洗剤がない。えっと、ボディーソープを少し使わせて貰ってもいいかなぁ)
気が引けながらも並べてあった容器からボディーソープをほんの少しだけ出して洗面器のお湯に溶かし、襟や袖、脇などの部分を浸けて丁寧に洗い始めた。
カラカラカラ……。
「失礼します」
不意に浴室の扉が開かれ、声と共に誰かが入ってきた。
が、お湯を使えるということに喜んで鼻歌を歌いながら洗濯に集中している陽斗は気付いていない。
なので真後ろの至近距離から改めて声を掛けられて跳び上がることになった。
「陽斗様、何をされておられるので?」
「うひゃぁっ!」
突然の声に驚いて奇妙な声をあげながら振り向く陽斗。
そこには屋敷に陽斗が到着したときに先頭で出迎えてくれ、中に入ったときも祖父の待つリビングへ案内してくれた初老の男性がタオルで前を隠しながら立っていた。もちろん執事服は着ていない。
「え、あ、あの」
ここにいることを怒られるとでも思ったのか、陽斗は慌てて何かを言おうとするも言葉にならない。
だが当然執事さんが陽斗を咎めるなんてことをするわけが無く、顔には穏やかな微笑みが浮かんでいるのに気付くと、陽斗は驚いてバクバク激しく打ちつける鼓動を抑えようとする。
「驚かせてしまったようでございますね。申し訳ございません。
あ、まだ名乗っておりませんでした。
わたくしここ皇家で執事頭を務めさせていただいております、和田と申します。お見知りおきくださいませ」
和田と名乗った執事(全裸)が椅子に座ったまま固まっている陽斗に向かってピシリと気をつけの姿勢を取り、恭しく一礼する。
「あ、あの、こ、こちらこそ、よろしくお願いします」
陽斗も慌てて立ち上がって頭を下げる。
祖父である重斗と同じような歳に思える男性が立っているのに陽斗が座ったままなどあり得ない。
けっして丁度目線の高さにブラブラされているのが嫌だったわけではない。はずだ。
陽斗のそんな態度に、和田の笑みが一層柔らかいものになる。
だが、フイッと先程陽斗が座っていた椅子の横に視線を向けて首を傾げた。
「それより、陽斗様は何をなさっておられたのですか? 見たところまだ身体などは洗っておられないようですが」
彩音が陽斗をここに案内してから多少の時間が経っている。
湯船に浸かっているか、既に身体を洗い始めていると思っていたのだが、陽斗にそんな様子は無い。
「あ、あの、下着とかを洗ってて」
「え? あの、ご自分で洗濯を? お風呂場で?」
「は、はい」
入る前に洗濯物は籠に入れるように言われてはいたものの、そもそも陽斗に自分のことを誰かにしてもらうという発想がないし、自分の身体を洗うときに自分の服を洗濯するのは当たり前の習慣として身についてしまっている。むしろ洗濯にお湯が使えるというだけでテンションが上がってしまうほどなのだ。だから陽斗の言葉を聞いて和田が一瞬何ともいえない表情をした理由がわからなかった。
ちなみに職場の人に何度かスーパー銭湯に連れて行ってもらった事はあり、その時はさすがに風呂場で洗濯をしようとはしなかったのだが。
結局、洗濯は中止して係の者に任せるように言われ、陽斗は身体を洗い始める。
以前の家では頭や身体は水だけで洗っていたので最初はシャンプーもほとんど泡立たない。3回ほど洗うとようやくしっかりと泡が立ち、陽斗は初めて感じたようなスッキリした感触に嬉しそうな笑みを浮かべる。
頭を洗い終わると次は身体を、となったところで和田が「お背中をお流ししましょう」と言った。
初対面の人にそんなことをしてもらうわけにはいかないし何より気恥ずかしいので断ったのだが、結局和田に笑顔で押し切られてしまった。
柔らかなスポンジで優しく擦られるのは気持ちいい反面とても恥ずかしい。
洗い終わって身体を流すとそのまま出ていこうとした陽斗に、きちんと湯船に浸かるように和田が言う。
気恥ずかしさと普段の習慣で湯船に入らずに済ませようとしていた陽斗だったがそう言われれば従うしかない。
それに滅多にないことなのでやはりお湯に浸かりたいという気持ちもある。
タオルで前を隠しながら湯船まで行き、ゆっくりと身体を沈めた。
数ヶ月ぶりに入るお風呂はやはり気持ちが良く、色々と強張っていた身体を伸ばして大きく息を吐く。
すぐ後に自分の身体を流し終わった和田も陽斗のとなりに座る。
「このお風呂はいかがですかな?」
「えっと、とても気持ち良いです。なんだか銭湯みたい、あ、あの……」
陽斗の貧相な経験と知識では他に比べるものがなかったが、こんな立派な浴室を銭湯と比べるのも失礼な気がして言葉を濁す。
「ははは、確かに個人宅としては少々大きめではありますな。ただ旦那様は割とシャワーだけで済ますことが多く、使用人達も住居に浴室がありますので、折角常に入れるようにしていても勿体なかったのです。
これからは是非陽斗様にご利用いただけると嬉しいですなぁ」
確かにこれだけの浴槽に常にお湯が張られているのならかなり無駄な気がしてしまうが、この屋敷だけで既に陽斗の常識からはかなり外れてしまっている。
とはいえ、大きなお風呂は陽斗も嬉しいし気持ちがいいので時々は入りたいなどと考えていた。
「折角のお風呂にわたくしのような爺と一緒というのは申し訳ない気がしますが。
実は最初彩音がお風呂の説明がてら陽斗様と一緒に入るなどと言いだしたのですがね。
……もしかして陽斗様はそちらの方がよろしかったですかな?」
「え? うぇぇぇぇ? ぼ、僕、そんな、えっと、あ、彩音さんはとても綺麗な人だけど、でも、あの、その……」
和田の言葉にアワアワしながらしどろもどろの返答をする陽斗。
一瞬、ほんのちょっぴり想像してしまったらしく、見ていて心配になるくらい頭のてっぺんまで真っ赤になってしまっている。
が、和田の悪戯めいた表情を見てからかわれただけだということに気付いて、別の意味で顔を赤くして口元までお湯に浸かって目を逸らした。
コンコン…。
「入りなさい」
「旦那様、失礼致します」
入室の許可を得て重斗の部屋に和田と彩音が入る。
リビングには重斗の他にもうひとり、40代くらいの女性が重斗の座るソファーの隣に立っていた。
他のメイドと似たお仕着せだがどことなく貫禄がある。この屋敷のメイド長だ。
「陽斗はどうしてる?」
「さすがに疲れてしまったようで、横になってすぐに寝てしまわれました」
「そうか……」
和田にからかわれながらの入浴を終え、宛がわれた部屋で一休みした後、陽斗は重斗と共に夕食を摂った。
レストランでしか食べられないようなものから庶民的なものまでお抱えの料理人によってこれでもかとばかりに並べられた料理に驚きつつ、食べきれなくても残った物は使用人達の食事に使われると聞かされて安心して満足いくまで食べた陽斗だったが、様々な出来事があった一日に疲れたのだろう、食後に重斗と話す間もなく眠そうな素振りを見せたために早々にお開きとしたのだ。
パジャマに着替える際も手伝おうと言いだした彩音を頑張って部屋から追い出し、高級そうなベッドに恐る恐る横になった瞬間、電池が切れたかのように眠ってしまっていた。
「報告を聞こう」
重斗が促すと、彩音は手に持っていたファイルを開きながら報告を始める。
「大旨は事前調査と齟齬はありませんでした。ただ……」
そう言って、彩音は陽斗を迎えに行ったときの詳細を重斗に語っていく。
陽斗にも告げたように、重斗は陽斗の存在を知った直後から徹底的に陽斗とその周辺を調査させた。
それこそ学校関係者や職場の従業員、陽斗が配達したり勧誘したりした顧客のひとりにいたるまで徹底的にだ。
ただ、陽斗に、というよりも母親と偽っていた佐藤明子に気取られないように接触するのは避けていたために細かな内容や陽斗の心情までは調べることができていなかった。
そしてようやく全ての調査を終えて、佐藤明子及び同居していた男を拘束することができたために陽斗を迎えに行く事ができたのである。
本来ならばDNA検査の結果が最初に出た時点で陽斗を保護したかったのだが、皇家は日本で、いや世界でも有数の資産を持つ家だ。万が一人違いだったときの影響が大きすぎるし、なにより、陽斗を誘拐した本人である佐藤明子を逃がすわけにも、他人を拘束するわけにもいかない。
結局、井上達也という名で呼ばれていた少年が“西蓮寺陽斗”であるとほぼ確信しながらも決定的な証拠を掴んで調査が終了するまで断腸の思いで耐えていたのだった。
もちろん陽斗にこれ以上の危険が及ばないように常に監視はしていたのだが。
「そうか、その新聞販売店の経営者や従業員などには何らかの方法で報いねばならんな。陽斗に優しく接していた他の者にもだ」
「はい。それに関しては現地の調査員に遺漏なく調べるように指示してあります」
彩音が報告を終えると、次に和田が口を開いた。
「浴室で確認しましたが、陽斗様の体中に痣や怪我、火傷の痕が無数にありました。報告以上に日常的な虐待が繰り返されていたと思われます。
それに平均と比較しても明らかに身体が小さく痩せています。食事量も少ないので普段からほとんど食事を与えられていなかったのではないかと。おそらく日常で十分な食事ができたのは学校の給食と職場の方々が時々食事に連れて行った時くらいだったのではないでしょうか」
和田が陽斗の入浴に乱入したのは陽斗の身体を確認するためである。
陽斗本人も身体の痣のせいで検診が受けられなかったことがあったと言っていたし、現在の状態を確認する必要があった。
もちろん明日にでも医者の診察を受けてもらうつもりではいたが、何らかの怪我をしていたことを考えれば簡単でも見ておくに越したことはない。
ギリッ。
重斗が奥歯を噛みしめる音が彩音にまで聞こえてくる。
椅子の肘掛けを掴んだ手は白くなり血管が浮かんでいる。
顔は、言うまでもないだろう。怒りのあまりただでさえ厳しげに見える顔がまるで悪鬼のようだ。
「……身体の方はもちろん、心も癒してやらねばな。皆にもくれぐれも陽斗を悲しませたり寂しがらせたりすることの無いように伝えておきなさい。これ以上陽斗を苦しめるのは儂が許さん」
しばらくして一旦心を落ち着かせた重斗がそう命じると、和田、彩音、メイド長はしっかりと頷いた
。
「もちろんです。ただ、陽斗様は辛い境遇であったにも関わらずとても綺麗な心根をお持ちですわ。外見も本当に愛らしいですし、既に機内でCAとしてお世話をした者達はすっかり魅了されていましたもの。他の者もすぐにそうなると思います」
陽斗自身がこれを聞いたらかなり微妙な思いをするだろうことを彩音は言ってのける。少なくとも愛らしいとかは普通、中学3年生の男の子に対して使う形容ではないだろう。
「そうですな。お風呂でもわたくしの不躾な質問にも丁寧に答えていましたし、素直で真っ直ぐな気性だと思います。
これまでの環境を考えると奇跡と言えるかもしれませんな」
和田も穏やかに微笑みながらそう太鼓判を押す。
「そ、そうか、うむ。確かに陽斗ならそうであろうな。儂も一目見ただけで可愛くてならなかったほどだからな」
世界でも指折りの資産家にも関わらず、すでに爺バカ全開の祖父である。
「ああ、それから……」
「ん? まだ何かあるのか?」
和田が何かを思いだしたような表情をしながら呟くと、可愛い孫のことだけに重斗はすぐに聞き返す。
が、和田と付き合いの長いメイド長のほうは呆れたような溜息を漏らしていた。
「はい。陽斗様ですが、あれほど愛らしいお姿ですけど、なかなかご立派なモノをお持ちでした。
それに、彩音が一緒に風呂に入りたがっていたと伝えると初々しく真っ赤になっておりましたな」
「そんな情報はいらんわ!」
「え~?! じゃ、じゃあ次は私が一緒に入…」
「許すわけがないだろうが!」
なんにせよ、陽斗の初日は温かく迎え入れられた、らしい。
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