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第9話 甘やかされ生活のはじまり
「ん……」
小さな声をあげて数秒、陽斗はゆっくりと目を開ける。
といって、ぱっちりとではなくうっすらと片眼を開け、右手でいつも時計を置いていた場所をまさぐる。
が、感じたのは触ったことのないような滑らかで柔らかい感触。
「あ、あれ?」
ぼんやりとした違和感が徐々に意識を覚醒させていき、ガバッと身体を起こした。
「え? あ? あ、そうか」
一瞬自分がどこに居るのかわからなかったが、すぐに昨日の記憶が蘇ってきた。
といっても昨夜この部屋に入ってからの記憶はかなり曖昧だ。
何ヶ月分かの出来事を一日に凝縮したかのようなめまぐるしい展開に、想像以上の疲労が溜まっていたらしい。
祖父である重斗と夕食を摂っている頃から意識がぼんやりとしてきて、部屋に入って着替えたのは何とか憶えているが、そこから先は思い出せない。
多分、ベッドに倒れ込んでそのまま眠ってしまったのだろう。その割にはきちんと布団を被っていたのが幸いだった。
陽斗は改めて部屋を見回してみる。
以前の家では新聞配達のために暗いうちに起きても電気を点けたり音をたてたりすると怒られてしまうので自然と夜目が利くようになってしまった。
それにベッドの下にうっすらと足元を照らす常夜灯が取り付けられているので周りを見るのに不自由はなかった。
部屋はおよそ10畳ほどの面積で、奥の壁際中央にダブルサイズのベッドがあり、その左側(ベッドに寝ている状態だと右側)にサイドテーブル。その上にはタッチセンサー付きのライトとデジタル式の目覚まし時計が置いてある。
そしてベッドの対面側の壁には畳1枚分くらいの大きさのテレビ。
テレビの左脇に開き戸、部屋の左側には壁一面にわたる引き戸、右側は同じく一面のカーテンだった。
目に入るのはそのくらいだ。
恐る恐るベッドを降りる。
素足にまるでクッションのような柔らかなカーペットの感触が伝わってくる。
開き戸のそばまで歩いていき、壁のスイッチを入れる。
途端に間接照明の柔らかな光に部屋が満たされる。蛍光灯の光と異なり、暗さに慣れていた目にも眩しく感じない。
ベッドを降りた側とは逆側にスリッパを見つけ、ちょっと恥ずかしくなって急いで履く。
昨日、入浴を終えた後に彩音にこの部屋まで案内され、ここが陽斗の私室だと説明されていた。
ただ、その時は恥ずかしくてまともに彩音の顔を見ることができずにずっと俯いていたし、落ち着く暇もなく夕食の準備ができたということで呼ばれてしまったのでほとんど部屋を見ることはできなかったのだ。
(私室、つまり僕の部屋、ってことで、良いんだよね? でも何かまだ夢でも見てるみたいだ)
何度頬を抓ってみても変わらないことから夢ではないとわかるのだが、これまでの生活とのギャップがありすぎていまだに現実感がない。
虐げられていた子供が大富豪に引き取られて、なんてのは創作の世界か妄想の産物くらいしかあり得ないという、ごく普通の感性の持ち主なのである。
時計を見れば、いつもならそろそろ新聞配達に出かける時間である。といっても、普通の人はまだまだ寝ている時間なのだが、習慣となっているため陽斗の眠気はすっかり消え去っている。
(他の人の迷惑にならないように、できるだけ音をたてずに部屋を見てみることにしよう)
陽斗はそう考えてまずカーテンを開けてみる。
そこは広い、およそ奥行きが5メートルはありそうなバルコニーだった。
バルコニーの床から50センチほどまでは目隠しを兼ねた壁(足元笠木天端)になっていてそこから飾り格子の手摺りが高さ150センチ程で続いている。部屋側から半分ほどの範囲は屋根があるようだった。
ただ、今は真冬だし外は真っ暗なので外に出たりはしないでおく。
カーテンはそのままにして、今度は逆側の引き戸を開いてみる。
そこはクローゼット、いや、もはや衣装部屋と呼んで良いような場所になっていた。幅は寝室と同じで奥行きは2メートルほど。壁に沿って棚や衣装箪笥が備え付けられていて、その他のスペースは洋服を掛けられるようにハンガーパイプが幾本も取り付けられている。
既に数十着の洋服が掛けられていて、陽斗は『お祖父ちゃんのかな?』などと思っているが、実際には調査によって判明しているサイズで陽斗のために最低限(あくまで重斗及び使用人の主観による)の服は揃えられているのである。
そして、その棚の片隅に、陽斗が昨日着ていた制服と、家から持ち出した数少ない陽斗の私物が入ったバッグが置かれていた。
たかが服のためのスペースひとつが桁違いなのに圧倒されてとりあえず引き戸を閉める。
と、左側にもう一つの引き戸があるのに気がつく。丁度寝室の入口の対面側だ。
そこを開けてみると、脱衣所のようなスペースとトイレ、奥側にシャワールームが備えられていた。
おそらく浴室にいく前にここに案内されていたら風呂ではなくここを利用していただろう。もうこの部屋だけでも生活するのにほとんど不自由はなさそうな設備である。
次は寝室を出て隣の部屋へ。
そこはまた圧巻だった。
学校の教室2つ分ほどはありそうなリビング、見た印象では最初に案内されたリビングよりも広そうだ。
そして1階のリビングにはなかった巨大なテレビ、数百本は揃っていそうなDVD? Blu-ray? が並んだラック、その横には箱に入ったままのいくつものゲーム機らしき物。
ローテーブルに複数のソファー、バーカウンターのようなものまである。
驚いたことに、リビングにもトイレが設置されていた。
ただ、調度品や装飾品のようなものはほとんど置いておらず、どちらかといえば都会的でシンプルに抑えられている。
そのリビングを挟んだ反対側にも扉がある。
開けてみると、そこは窓のない部屋で広さは4畳半ほど。
桁違いな広さの色々を見てきただけに、ずっと落ち着いた雰囲気がある。
窓はなく、左側にもう一つの扉、正面には大きめのデスクがある。
デスクの上にはパソコンのモニターとキーボード、小さな時計に電話の子機のようなもの、左右の壁は天井まで書架になっている。ただ、意外にも書架には一冊の本も置かれてはいなかったが、ここは書斎或いは勉強部屋といったところなのだろう。
そして、最後は左手側の扉だ。
開けると紙とインクの匂いがする。
「す、すごい!」
陽斗の唯一といっていい趣味は読書である。
学校の図書室や市の図書館で借りた本を読むのが辛い日々の中で数少ない楽しみになっていた。
それに、さすがのあの(元)母親も図書館で借りてきた本だけは捨てたり破いたりしなかった。今考えると弁償の請求をされたり身元を確認されたりするのが嫌だったのだろう。
ともかく、そんな陽斗にとって、扉の向こうの光景は胸をときめかせるのに充分なものだった。
広さ自体は寝室と同じかそれより少し広い程度だったが、その全ての空間が、通路と書庫で占められ、数え切れないほどの本が並んでいる。
専門書や辞書、図鑑、文芸書だけでなく、ライトノベルやマンガまでほぼあらゆるジャンルの本が並んでいた。数にして数万冊では利かないだろう。
実はこれも陽斗の生存を知った孫バカ老人の暴走の産物である。
中学3年生ともなればゲームやアニメ、映画が好きだろうと、その時点で販売されていた全ての種類のゲーム機と一定以上人気のあるゲームタイトル、様々なジャンルのDVDなどを買い集め、報告で本が好きだと知ってからは、今度は一般に販売されているあらゆる書籍を用意させた。(ただし、教育上よろしくない書籍や、宗教、政治関連は資料として使えるもの以外は除かれている)
ここに置いてあるのは検索が掛けられるように分類・整理がされているもののみで別の場所にもまだまだあったりするのだが、それはまた別の話。
一通り部屋を見て回り、どこか呆然としながら陽斗はソファーにちょこんと腰掛ける。そんな状態でもドサッと座るのは遠慮しているのだ。
全てが夢のような空間。だからこそどこか現実感がなく、同時に不安にも思ってしまう。
それもまた健常な精神を持っているからこそだろう。人というものは環境の振り幅が大きければそれだけ馴染むのに時間が掛かるのだ。
コンコン。
「失礼します」
ノックの音に我に返る。
咄嗟に壁に掛かっていた時計を見るが、まだ5時前である。
「何かお飲み物をお持ちしましょう。温かいミルクティーはいかがですか?」
「え、あ、はい、ありがとうございます」
部屋に入ってきたのはメイド服の女性だった。メイド服といってもスカートは長いし胸元も開いていない、純粋な作業服としてのものだ。
おそらくは20代後半位だろうか、長めの髪をサイドアップにした落ち着いた雰囲気の優しげな女性である。
「あの、もしかして起こしてしまったんでしょうか」
バーカウンターはギャレーキッチンも兼ねているのか、そこで飲み物の準備を始めた女性に陽斗は尋ねる。
「いいえ、陽斗様は先日まで新聞配達のお仕事をしていたとお聞きしていたので、習慣で早く起きてしまうのではとシフトを調整していたんです。ですから私にとっては通常業務の範囲ですのでお気になさらないでください」
そう言って微笑みを浮かべ、少し大きめのマグカップにミルクティーを注いで陽斗の前に置いた。
お礼を言ってカップを持ち上げる。
ソファーに浅く座ったまま両手でマグカップを持ちフーフーと息を吹きかけながら飲む。
少し熱い程度のミルクティーは猫舌気味の陽斗でも飲むことができ、優しい甘さが身体を温めてくれる。
考えてみれば、真冬でパジャマのままでいるというのにそれほど寒くなかったのは全ての部屋に空調が効いているからだろう。
それでも温かい飲み物は身体と心を温めてくれるようだ。
「申し遅れました、私は陽斗様のお世話をさせて頂きます、霧崎 湊と申します。生活面のサポートはもちろん、疑問や悩みなど、どんなことでも気軽にご相談ください。ああ、私はカウンセラーでもありますから、相談された内容はたとえ旦那様であったとしても決して漏らしませんのでご安心ください」
そう言って湊は優しげに陽斗を見つめると頭を下げた。
「あの、よ、よろしくお願いします」
普段異性といえば同い年の同級生以外は職場関係者の家族、商店街の人などのオバちゃんばかりである。
にもかかわらず昨日から出会う異性は皆年上の、それも妙齢の綺麗な人ばかり。陽斗としてはどう接して良いやらドギマギするやらでいっぱいいっぱいである。
とはいえ、そこはやはり思春期の少年、嬉しいという気持ちもないわけではないのだが。
「そ、それで、僕はこれからどうすれば良いのでしょう。それに、昨日ここが僕の部屋だと言われたんですけど、本当に良いんでしょうか」
朝早くから新聞販売店での仕事をし、家の家事を全てこなし、学校にも行く。帰ってからも仕事や家事、宿題などの勉強と、自分の時間などほとんどない毎日を過ごしてきたのだ。
環境が変わり、自分が何をしたらいいのかまったく想像がつかず、ただ戸惑いと不安があった。もちろん、祖父に会えて、孫だと認めてもらえた喜びは大きいので来たこと自体は後悔していない。
「そうですね。まず、この部屋、寝室や書斎も含め陽斗様の私室となります。ですので現在ここにある物は全て陽斗様の所有物であり、どのように扱っていただいても問題ありません。もちろん掃除などは私共が行いますが、引き出しの中などの収納場所には手を出しませんのでご自分で管理なさるか個別に指示をいただくことになります。
後ほど書斎に設置されている金庫の鍵と暗証番号、これは陽斗様の任意に変更することが出来ますが、それをお持ち致しますので、絶対に触れられたくない大切な物はそちらに保管されると良いと思います。
それから、何をするか、ですが、とりあえずはこの家に馴れていただくのが先決かとは思いますが、それだけでは落ち着かないでしょうし、時間を決めて屋敷内や庭の散策をしたり、学校や受験のための勉強をなさってはいかがでしょう」
湊の言葉に陽斗はホッと息を吐いた。
充実しすぎている部屋は完全に持て余してしまうだろうが、あの書庫はやはり魅力的だ。もちろん全部読むことなど何年かかっても無理だろうが、本に囲まれる生活というのは陽斗にとって夢でもあった。と同時に、別の、とても重要な望みが叶うかもしれないことに思い至る。
「あの、お祖父ちゃんは今日は話をする時間あるんでしょうか」
「旦那様ですか? 確か午後に外出する予定となっていましたが、午前中と夕方以降はいらっしゃるはずです。朝食も陽斗様と一緒にお摂りになると聞いておりますので、その時に確認なさるのがよろしいかと思います」
それを聞いて、重斗に会うのを心待ちにすることにした。
それから、ミルクティーを飲み終わった陽斗は、湊が用意してくれた服に着替え、朝食の時間まで書庫の本を眺めることにした。読むのではなく眺めるだけだ。時間に余裕がないし、重斗の返事次第で読むのを後回しにすることになるかもしれないからだ。
もっとも陽斗にとっては本のタイトルを眺めるだけで充分幸せを感じていたので、時間はあっという間に過ぎてしまったのだが。
時計が7時をまわった頃、一度部屋から退出していた湊が呼びに来て陽斗を案内する。行き先は昨日の夕食を摂ったのと同じ場所だ。
そこには既に重斗の姿があった。
「お、おはようございます」
「おはよう陽斗。よく眠れたか?」
何かの書類のような紙を真剣な目で見ていた重斗は陽斗を見ると相好を崩して尋ねてきた。陽斗は頷いて返す。
陽斗が席に座ると、すぐに料理を載せたワゴンが運ばれてくる。
一瞬昨日の夕食が思い出され、また沢山の料理が並べられたらどうしようかと思っていたが、出されたのは目玉焼きと鶏の胸肉のソテー、サラダ、スープ、トーストと、朝食として無理のないものだった。量も夕食をみて把握してくれたのかそれほど多くはない。
陽斗は普段朝食を食べる習慣がないのだが、準備してもらった以上それを言うのは失礼だし、彩りも良くてとても美味しそうだ。
「あの、お祖父ちゃん、あ、ごめんなさい、お祖父様?」
朝食を終え(トーストは半分ほどしか食べられなかったが)、食後の飲み物が出されたタイミングで、陽斗は思いきって重斗に話しかける。
「陽斗の呼びやすい呼び方で良いぞ。だが、儂としては“お祖父ちゃん”と呼んでもらえると嬉しいが。それで、どうした?」
「えっと、少しお祖父ちゃんと話がしたくて、その」
言い淀む陽斗に、重斗は実に嬉しそうに笑みを浮かべる。
「午前中は空いているからそれで良いか? 何なら午後の予定をキャンセルしても構わんし、儂からも少し話すことがあるからな」
「あ、あの、午前中だけで大丈夫、です」
自分のために時間を空けると言われて慌てる陽斗。
重斗からの話というのも気になるが、まずは自分のこれからのことについて話をしたいと告げると、30分後に重斗の部屋に来るように言われたのだった。
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