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自宅アパートの近くに立派な桜の樹がある。そばを通ると、木漏れ日をスポットライトに、花びらがスローモーションで舞っていた。こんな軽やかに散ることができるといいなと思う。
来年の春がアパートの契約更新になるが、役者を辞めるなら更新することもないな、とふと思った。東京にしがみつく握力は、自分でも不思議なほど残っていなかった。もう、実家のある長野へ戻ろう。夏公演が終わったら部屋を引き払おう。仕事も、向こうで探そう。両親には早めに話をしておいたほうがよさそうだ。
自宅に戻ると時計が三時を示していた。お母さんが買い物に出る時間まではまだ余裕がある。私はスマホを取り出し、実家に電話をかけた。
呼び出し音が鳴る。メールでは毎日のようにやりとりしているが、会話となるとお正月に帰省したとき以来かもしれない。やや緊張してきた。
呼び出し音が続く。まともな役柄をもらったら両親を公演に招待しよう、などと考えたりもしていたが、考えるだけで三年が経ってしまったなとふと気づいた。
呼び出し音が連なる。最後ぐらいは招待したほうがいいのだろうか。でも、あんな端役では、逆に肩身が狭い思いをさせてしまうのではないか。
「茜か?」
不意に電話がつながった。意外にもお父さんが出た。
「あれ? お母さんは?」
「便秘気味で、今日はずっとトイレだ」
言いながらも「ガハハ」と笑う。「でも普通、何で俺がいるのかを先に聞かないか?」
お父さんは地元の家電メーカーに勤めている。基本的には本社で事務仕事をしているが、工場を手伝ったり、販売店で接客したり、あちこちに駆り出されることも多い。でも隙を見つけては、自宅に寄ってちゃっかり休憩していたりもする。
「どうせまたサボってるんでしょ」
「ばーか。忘れ物だよ」
「はいはい」
こちらのリアクションを待たずに、また「ガハハ」と聞こえた。
「それでどうした。母さんに用事か?」
「う、うん、そんなとこ。急ぎじゃないんだけどね」
想定が少し狂った。実家に戻ることは、まずはお母さんに言いたい。そこからお父さんに伝わって、いつの間にか既定路線となっている形が理想だ。お父さんからは何かにつけて「帰ってこい」と言われ続け、そのたびに突っぱねてきた。だから実家に帰りたいと言い出したら、まんまと言いなりになってしまうようで気に入らない。
「仕事は順調か?」
「うん、相変わらず」生返事をしながらも、あの口癖を言われる予感に胸が疼く。「夏の公演に出ることも決まったんだ」
「そうか。そろそろ音を上げて戻ってくるかと思ったけどな」
「そんなことあるわけないじゃん」
この流れは間違いない。「帰ってこい」がくる。また電話するよ、と通話を終えようとするが、想像もしていなかった言葉を聞かされた。
「茜、その部屋に時限爆弾を仕掛けてあるから気をつけろよ」
「は?」
電話は一方的に切れた。
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