母が恋に落ちたとき……

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広い施設、広い駐車場、結構な距離を歩いたはずなのに、駐車場までの時間が短く感じる。 永遠に続けばいいのに。 そんな願いが叶うわけもなく、私たちは行きと同じように車に乗り込む。 社長が静かに車を走らせ、私は無言で窓の外を眺めるともなく眺めていた。 そうして、あと10分ほどで帰り着くという頃、不意に社長は車を路肩に止めた。 えっ? どうしたの? 私は、社長に視線を向ける。 「平野さん、やっぱり俺、ちゃんと言いたい」 えっ、何を? 私がきょとんと目を丸くすると、社長は大きく一つ深呼吸してから話し始めた。 「平野さん、俺、平野さんが好きだ」 うそ…… 嬉しくて言葉にならない。 だって、私もずっと…… 「平野さん?」 社長の手が伸びて、私の頬の涙をそっと拭った。 あ…… 「平野さん、そんなに俺のこといや?」 社長にそう尋ねられて、焦った。 「ちがっ、嫌なわけない。これは嬉しくて……」 そこまで言って、私はふと我に返る。 私、何言ってるの? これじゃ、まるで告白じゃない。 ダメ。 私は、お母さんなんだから。 私は、自分を抑えて、言葉を飲み込む。 「平野さん……」 社長は、シートベルトを外すと、もう一度、私の涙を拭い、その手をそのまま私の頬に添えた。 私は、ただ頬にその温もりを感じていた。 そして、そのまま近づく社長の顔を眺める。 あ…… 気づけば、しっとりと唇を押し当てられていた。 私は、そっと目を閉じる。 柔らかい唇、頬に感じるあたたかな息づかい。 私が静かに社長を感じていると、わずかに唇を離した社長が囁く。 「愛してる。俺と付き合って」 その瞬間、私は、我に返った。 ダメだ! 私は、社長の胸を押し返す。 「ごめんなさい。私……ダメなんです。私、女である前に母親なんです。子供たちを傷つけるようなことはできません。ごめんなさい」 一瞬でも、なんで社長の唇を受け入れてしまったんだろう。 自分の弱さが、甘えが、悔やまれる。 「平野さん、ダメなのは、お子さんのため?」 社長は、胸を押されてもびくともせず、私の鼻先で話しかける。 「俺が嫌いなわけじゃないんだよね?」 嫌いなわけない。 だって、ずっと好きだったんだから。 だけど、それは思っちゃいけないこと。 蓋をしなきゃいけない思い。 私は、返事ができない。 「平野さんの下のお子さん、小学生だったよね? じゃあ、俺、10年待つよ。10年後、平野さんのお子さんが成人したら、考えてくれるよね?」 10年? そんなに待てるわけない。 人の心は変わるもの。 だけど、それを信じたいと思う私もいる。 私は、何も答えず、ただ無言で社長のシャツをキュッと握った。 ─── Fin. ─── レビュー・感想 ページコメント 楽しみにしてます。 お気軽に一言呟いてくださいね。
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