カフェの女

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その日の出来事を妻に話そうか雄太は迷って、結局やめた。まずどう説明して良いか分からなかったし、妻はその夜も少し不機嫌に見えた。 妻はビールを2杯のグラスに注いで、その片方を雄太に渡した。妻が酒を飲むのは珍しいことだった。 「最近、ユキが帰ってくるのが遅いでしょ。あなたから少し注意してもらえないかしら。」 妻の不機嫌の原因はどうやら娘のことであるらしかった。妻は娘を大切に育ててきて、そして少しばかり過保護なきらいがあった。妻はまだ娘が大人になっていくということを受け入れられていないのかもしれないと雄太は思った。 「ああ、そうだね。」 「本当にそう思ってる?」 「うん、ユキには言っておくよ。」 「そうじゃなくてさ。あなた自身が本当にそう思ってるかってこと。」 妻は頬を赤く染めて、ビールを雄太のグラスに注ぎ足した。雄太は椅子に座り直して、妻に向かう。妻の目がカフェの女の目と重なる。それは雄太に向けらた明確な非難であった。 「私、ユウタくんのこと、たまに分からなくなるんだよね。」 妻が雄太のことを名前で呼ぶのも久しぶりだった。妻とは大学生の時からの付き合いで、ユウタくんと呼んでいたのは、まだ出会って間もない頃だった。"ユウタくん"はそのうち"ユウタ"と呼び捨てになり、結婚してからは"あなた"になった。妻との関係性の変化の中で、雄太は自分自身も変わっていったように思う。だから、妻が未だに雄太の中に"ユウタくん"を見出していることは、雄太にとっては驚きを伴って受け止められた。 「そんなことないさ。君は何でもわかってるように思う。」 「何も分かってないよ。ユウタくんが仕事辞めてロンドンから戻ったのだって、私たちの為だって分かってるけど、でも本当にそれで良かったのかなって。ずっと海外で働きたいって言ってたのに。本当はどう思ってるのかなって。」 雄太は妻と結婚した後、海外駐在のチャンスを得た。若い頃の雄太にしてみれば、念願叶ったということであっただろう。初めはシンガポールで、その後はロンドンだった。シンガポール時代は妻も娘も楽しくやっているように見えたが、ロンドンでは上手く馴染めなかった。先に家族が帰国して、そして雄太も仕事を辞めてロンドンから帰国したのだった。その時はそれが家族にとって1番良いと雄太は思ったのだ。父としての役割を果たすべきだと思った。海外で働きたいと憧れていた若者の自分はもうそこにはいなかった。 「私、ユウタくんが、私の求めるユウタくんを演じているだけなんじゃないかって思うの。ユウタくんって本当はどんな人なの?」 雄太には妻の言っていることが全く理解できなかった。雄太は確かに変わっていったが、それは誰しもそうなのではないかと思う。人は変わるのだ。それも非連続的に。 「私はさ。ユウタくんみたいに上手くは変わっていけないよ。」 妻は飲みかけのグラスをシンクに流して、寝室に行ってしまった。雄太は椅子に座ったままポケットに手を突っ込むと、丸められたレシートの感触を確かめた。 『あなたは私を思い出すべきです』 ※ ※ ※ 文明館は再開発された街の中心にポツンと取り残されたように立つ小さな劇場だった。外壁の塗装は所々剥げ落ちていて、コンクリートの灰色が剥き出しになっている。 その劇場は、かつては新作の映画を上映して、若者たちが集まる文化の最先端だった。周りには飲食店が集まり、休みの日ともなれば多くの人で賑わった。もしかしたら小さい頃に雄太も来たことがあったかもしれない。しかし今は過去の遺物となって、古い映画やマニア向けのインディーズものを映す寂れた場所になっていた。時代が変わり、その役割が変わり、そしていつか消えてなくなることを待っている。 メモにあった通り、文明館では"風と共に去りぬ"が上映されていた。カフェの女が示した場所はそこに違いなかったが、しかしその先どうすべきなのか雄太には知りようもない。雄太はしかたなく1枚1,500円のチケットを買って、劇場の中に入った。小さな劇場だが客入りは疎らだった。低い機械音の後でスクリーンに光が投影される。古いが美しい映像と時代ごとの価値観の重層的なズレとを雄太は大いに興味深く観たが、しかし一通り映画が終わった後も、雄太が期待したような何ごとかは起こらなかった。 映画が終わると客は引けて、雄太は独り取り残された。待つ以外に、他にどうしたら良いか分からなくなっていた。 雄太がようやく諦めて席を立とうとした時、横から誰かがぶつかってきた。拍子にカバンの中から名刺入れが飛び出してしまった。 「あ、すみません。」 劇場のスタッフと思しき若者がそれを拾い上げた。 「あ。」 雄太は名刺入れを受け取ろうと手を伸ばしたが、若者はすぐにはそれを渡してはくれなかった。 「あの。鈴木雄太さん、ですか。」 若者は名刺の名前をじっと見つめて言った。 「そうですが。何か。」 「いや、俺も。スズキユウタって言います。もしかして、ユキさんのお父さんじゃないですか?お父さん、俺と同性同名だって言ってたから。」 彼はスタッフジャンバーの胸ににつけた名札を引っ張って見せた。 「俺、ユキさんの大学の同級生で、鈴木雄太って言います。って名前はさっき言いましたね。」 雄太はその偶然に少し驚いたが、しかし"鈴木雄太"などというのはありふれた名前なのだから、そういうこともあるだろうと思った。 「ユキの同級生でしたか。いつも娘がお世話になってます。」 雄太は軽く頭を下げて劇場を出ようとしたが、若者のスズキユウタに呼び止められた。 「あの!お父さん!海外で働いていらっしゃったってユキさんから聞きました。俺、海外で働きたいってずっと思ってて、良かったら少しお話出来ませんか?」 雄太は振り返って、一瞬どう断ろうかと理由を探したが、中々上手い言い訳は浮かんでこない。その日は他に予定なんてなかったし、陽はまだ高いようだった。メモに書かれた場所に来て、雄太は何かが起こることを期待してていたのかもしれない。でも一体何を? 雄太はまるで凍ったように動かなかった。 考えごとがあると時々そうなることがあった。思考の世界に絡めとられて、いま自分のいる場所が分からなくなるような、そんな感覚だった。あらゆることが相対化されて散らばっていく。散らばった欠片の一つを雄太は掴むのだが、それが本当に元のそれなのか雄太には分からなかった。 どれだけ固まっていただろうか。雄太は視線を感じて我に返った。スズキユウタが真っ直ぐ雄太を見据えていた。10秒か、1分か、あるいはもっとだったかもしれない。その間、スズキユウタは何も言わずにただ待っていたようだった。雄太には彼の視線が世界を繋ぐ糸のように感じられた。
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