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ひすい橋。翡翠橋。雄太はその場所を良く知っていた。メモを見て、すぐに思い出した。その橋は雄太が小学生の頃の通学路にあった。
しかし夕方とは。待ち合わせにしては随分と大雑把ではないか。雄太は迷った末、翌日に休みを取ってその橋に行くことにした。夕方の通学路なら平日の生徒が帰宅する時間が良いだろうと直感的に理解したのだ。
カフェの女は二度と現れず、スズキユウタも存在しなかった。それでもコトは確実に前に進んでいる。その行き着くところは雄太にも想像がつかなかったが、だからと言って引き返す術もなかったのだった。
夕方の通学路は、しかし雄太の期待とは裏腹に子どもたちの姿はなかった。もう夏休みに入っているのか、あるいは時間がずれていたのか、翡翠橋の上は時折車が通るだけであった。
雄太は欄干に肘を突いて、そして川の向こう側の住宅の間に夕日が落ちていくのを眺めた。川は本当に流れているのかわからないくらいに、静かで濁っていた。昔はもう少し透明な水が流れていたようにも思うが、雄太の記憶は薄い。あるいはその記憶さえも、本当にあったことなのかどうか、雄太には定かではなかった。それはもしかしたら、雄太が何かの拍子ですり替わってしまった記憶なのかもしれない。一度相対化された記憶を再び現実の世界に結びつけようとすると、雄太はどこか違和感を感じてしまうのだ。断絶した欠片を無理に継ぎ接ぎして、鈴木雄太を形成しているのだが、それが本当に自分だと言えるのか雄太には自信がない。それよりはむしろ、瞬間瞬間で生まれ変わり続けているのだという方がまだ実感が持てるような気がする。
また固まっていただろうか。陽も半分ほど沈んだところで、雄太は何かにジャケットの裾を引かれるのを感じた。張力の方向を見ると、ランドセルを背負った男の子が立っていた。身体の大きさに比して大きく感じられる名札には'鈴木"と書かれていた。
「もしかして、すずきゆうたくん?」
雄太はしゃがんで男の子に尋ねた。
「うん。おじさん、どうして僕の名前を知ってるの?」
「いや、文脈というか。何となくそう思ったんだ。」
「ぶんみゃく?」
すずきゆうたは可愛らしく小首を傾げて見せる。それを見て、雄太は彼が他でもない小学生の頃の自分であるということに気がついた。ああ、そういうことか。すずきゆうただけではない。大学生のスズキユウタも、雄太自身だった。
「ねぇ。ゆうたくんはどうしてこんなところにいるの?お友達は?」
雄太が言うと、すずきゆうたは視線を落とした。
「ママがいなくなっちゃって。探しに来たんだけど。見つからなくて。おじさん、ママのこと見なかった?」
そうだった。小学生の頃、母が死んだ。しかし母が死んだことを小学生の頃の雄太は上手く理解することが出来なくて、暫くの間母を探し続けたのだった。
すずきゆうたは雄太に彼の母親のものと思しき写真を渡した。雄太はその時理解した。写真に写っていたのは、あのカフェの女だった。女はすずきゆうたの母であり、鈴木雄太自身の母だった。
『あなたは私を思い出すべきです。』
雄太は思い出した。雄太は母の死という悲しい記憶を受け入れる代わりに、母の存在そのものを消していたのだった。
すっかり暗くなった翡翠橋の上に、小学生の男の子はもういなくなっていた。すずきゆうたも、スズキユウタも、誰もいない。そこにいるのは雄太だけだった。
「ふふっ。」
雄太は可笑しくなって、思わず口元が緩んだ。過去から断絶しているように思えて、実は過去に囚われている。過去の幻影を追って分かったのは、それだけだった。
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