カフェの女

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妻が朝食の目玉焼きを焼く匂いがする。雄太は新聞を広げていたが、少しも読み進んではいなかった。雄太の頭の中にあったのは、女のことだった。背中のキッチンに立つ妻ではない、別の女だ。 その女は20代後半の長い髪の女だった。彼女とは昼下がりに職場の近くのコーヒーショップで出会った。出会ったというよりは、立ち現れたという方が適切だと雄太は心の中で訂正する。それは決してロマンチックなものなどではなく、また淫靡な昼ドラの始まりのように劇的なもでもなく、奇妙なほど自然に彼女は雄太の前に現れた。それは、雄太がいつものようにアメリカンのカップに口をつけようとしたその時のことだった。彼女は雄太の占有するテーブルを挟んで向かい側に座った。雄太は陶器のカップから一度唇を離して、周りを見たが特段混み合っているということもなかった。 『私のこと、憶えてますか?』 その女は確かにそう言った。雄太は反射的に過去に付き合った女性を思い浮かべようとしたが、直ぐに思い直した。彼女は47歳になる雄太の過去の女としては若過ぎるように見えた。雄太がしどろもどろしているのを女はしっかりと見つめていた。それから、『そうですよね。』とだけ言って席を立ち去ったのだった。 ただ人を違えただけなのだとも思えるが、しかし女の目はやけに確信に満ちていた。雄太は彼女のことを全く憶えていなかったが、彼女の方は雄太のことをよく知っている。そんな言い方だったと思う。それからずっと雄太が彼女のことを気にかけているのは、きっとその非対称な関係に気持ち悪さを覚えたなのだろうと雄太は思う。 トーストを齧ると新聞の紙面に屑が落ちた。玄関を出ていく娘の声が聞こえた。雄太はふと現実に引き戻される。 「あなたも早くしないと、遅刻するわよ。」 妻が少し不機嫌そうに言った。この頃の妻はずっと不機嫌だった。直接口には出さないが、雄太に対して何か不満があるのだろうと思う。 あるいはひょっとすると、あの出来事は全てただの妄想で、カフェで自分に声をかけた女なといなかったのかも知れないと雄太は思った。妻との関係の陰りのせいで、潜在的な不倫願望が妄想となって現れたのではないだろうか。だとすれば、早めに対応しなければならない。雄太はそうやって家族を守ってきたつもりだった。妻や娘との関係の中で、柔軟に考え方を変えて、最も良いと思えるかたちに落ち着かせる。ただ雄太は『どうかした?』と妻に聞いてやりさえすれば良かった。まずは妻の不満の内容を知り、それからやり方を変えてみるのだ。そういう試行錯誤を繰り返しすことが良好な家族関係を保つ秘訣である。雄太の友人の中にはそれが出来ずに離婚した者もいた。雄太はそれをとても不幸なことだと思った。 ※ ※ ※ 昼休みの後、雄太はまたあのコーヒーショップに行くことにした。第一に、その店でアメリカンコーヒーを飲むことは雄太の毎日のルーティーンだった。第二に、あの女のことを忘れるために店を避けるのは、かえって彼女のことを気にかけていることを認めているようなものだと思った。妻の不満を聞き出す前に、まずは自分の心を整理しなければならない。 いつものようにコーヒーを注文し、いつもの席に座ると、雄太は少し気持ちが落ち着いてくるように感じた。まるでそうした行動の一つ一つが雄太という人間に形を与えてくれるように感じた。 女が現れることを雄太は期待していたのだろうか。はたまた現れないことを期待していただろうか。しかし雄太の期待がどうであったにせよ、彼女は再び雄太の目の前に現れた。 「やあ。来たんだね。」 雄太は前よりもずっと落ち着いて、女に声をかけることが出来た。よく見ると目鼻立ちの整った美しい女だった。 「はい。いつもここにいらっしゃるのを知っていたので。」 女は表情を変えずに言った。それがどこかこの世のものならざる雰囲気を醸し出している。雄太はこれまで彼女のような人に出会ったことはなかった。 「だけど本当に君のことは知らないんだ。もちろん、この前ここで会った時のことを別にしてね。」 「いつも同じコーヒーを頼んで、同じ席に座ってますよね。」 女はわざと的を外したようなことを言って、そしてクスッと笑ってみせた。 「別に構わないだろ?」 「構いませんが、少し可笑しくて。まるで時間が止まってるみたいじゃないですか。毎日同じことの繰り返し。三月うさぎのお茶会みたいだなって。」 女は挑発するような目で雄太に訴えかけた。 「君にはそう見えるってだけのことじゃないかな。」 「そうですねぇ。」 女はその小さな顎を少し傾けて、頬に微かに笑みを作った。雄太は理不尽に非難されているような気になって、苦笑した。 「ともかく、私は君のことを知らないと思う。君はもしかすると誰かと勘違いしてるのかな?」 「いえ、忘れているだけですよ。あなたは私を思い出すべきです。」 女はそう言って、突然立ち上がった。しかし彼女の表情は決して怒っているようではなく、ただ少しだけ悲しそうだった。 彼女が去った後のテーブルの上には、メモ書きの入ったレシートが残されていた。 "文明館 風と共に去りぬ" 雄太はそれを手に取るか迷って、そして手のひらで丸めてポケットに入れた。くしゃくしゃした感情を押し込んだみたいに、ポケットの中が重く感じられた。
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