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たとえば。
目の前に咳込む人がいて、そうして自分がのど飴を持っていたら、一粒あげたりするのは普通のことではないか?
ちょっとした切り傷を作った人がいたならば、絆創膏を一枚渡してやるなんてことも、よくあることでは?
顔見知りのシャツのボタンが取れ掛かっていたとして、それを目にした自分が裁縫セットを携帯していたら、ボタンを付け直してやるということも、珍しいことではない筈だ。
「吉住さんって、お母さんっぽいですよね」
「……」
吉住菊音(よしずみきくね)二十七歳の働くスーパーに、つい二週間前、新しくアルバイトとして入った若奈樹里亜(わかなじゅりあ)十八歳。きらきらしい女子大生の彼女は働き始めた当初から、何故か菊音に対して挨拶もろくに返してくれない素気なさで、菊音はそのことで密かに淋しさを感じていた。しかし、「まぁ、十歳近く年上の女に馴れ馴れしくされても、ねぇ」と諦めてもいた。
それが、今日に限っては従業員控え室にいた菊音にアイドル顔負けの微笑みを向け、このコメントだ。菊音は現状把握のために直近の自分の有り様を顧み、自分の手元を見た。そこにあるのは、職場指定の白いシャツ。しかし、このシャツは菊音のものではない。菊音は、控え室の隅にあるパイプ椅子に座りスマートフォンを弄る男子大学生に、シャツを投げつけた。
「そういえば、どうして私がボタン付けるとこまでやってあげてんの?ほら、裁縫セット貸してあげるから、自分でやったやった」
「えぇ~、やりかけてくれてたじゃないッスか」
「私、車谷(くるまや)君のお母さんじゃないので」
「ボタン付けなら、私、しましょうか?」
さっきまで菊音と向かい合っていた若奈は、いつの間にか先輩アルバイトの車谷由時(よしとき)のすぐ傍へと移動していた。
「……いや、いいです」
由時は若奈から顔を背け、不器用に針仕事をし始めた。あらら、人見知りはまだ治っていなかったか。菊音はこのスーパーに入りたての頃の由時を思い出した。
今ではすっかり職場に馴染み、自分とは性別も年代も違う年配のパートさん達とも打ち解けた様子の由時だが、以前は話し掛けてもまともに返事を返してくれない、少々コミュニケーションを取りづらい青年だった。てっきり年上の人間が苦手なのかと思っていたが、年代が近い若い子に対しても、よく知り合わないうちはつっけんどんになってしまうようだ。
「吉住さぁーん、やっぱ、俺ムリ。やってくれませんかぁ?」
若奈が売り場に出て行った途端、由時は態度を変え、また菊音に頼りだした。
「そんなんなら、さっき若奈さんにやってもらえば良かったでしょうが」
「若奈さん?」
「若奈さん…さっき、ボタン付けしてくれようとしてた子」
「ああ」
こいつ、二週間も前に入ったバイト仲間の名前、憶えてないな。
「あんな可愛い子でさえ、君は憶えられないのかぁ」
「あ、なんかそういうの、セクハラっぽい」
「はいはい、サーセン。じゃ、ボタン付け、頑張って」
売り場への扉を開ける寸前、「痛っ」と針を刺したらしい呻き声が聞こえてきたが、無視した菊音であった。
「お母さんっぽい」とは、なんだろうか。
このスーパーでは、子育て真っ最中の母親、そして子供が既に大きくなっている年配の女性たちも、大勢働いている。彼女達の方が、独身子なしの菊音よりもずっと「お母さん」だと思うのだが。あ、そうか。あの人たちは真の「お母さん」であって、「ぽい」とは違うのだ。
では、「お母さん“ぽい”」とは?菊音は子供がいても全然普通の二十七という年齢にはなってはいるが、その年齢だけが、そう形容される理由ではないだろう。
もしかして、あまり考えたくはないが「お母さんっぽい」とは暈した言い方で、実際には「おばさん臭い」という意味か?
ここのスーパーの従業員は四十代以上が多数派だ。客の年齢層は幅広いが、商品の案内等で店員に話し掛けてくるのは、もっぱら老人。そういった年配の人々と接する機会が多い環境で、菊音自身も徐々に見た目や仕草や行動言動が老け込んできているということか?
「それ、賞味期限やばいッスか?」
「賞味期限…それって、女としての?」
「はぁ?」
そこで、意識が現実に戻った。そう、今は仕事中。ここは調味料の棚の前で、菊音が手にしてるのは売り物のつゆ(希釈用)。そうして、話し掛けてきたのは学生バイトの車谷君だ。
「あ、全然、全然大丈夫!でも、このシリーズ、なかなか動かないんだよね」
「吉住さんって、たまにどっか飛ばしちゃってますよね。意識」
……この子、コミュニケーション能力はイマイチなくせして、意外としっかり観察してるんだよな。取り繕いに失敗した菊音は言い訳もできず、ただ苦い顔をした。
「大丈夫ですか?賞味期限じゃなくて、吉住さんが。なんか手伝います?」
「こっちはいいや。えーっと、若奈さんの方、手伝ってくれます?」
「若奈さん?」
「だからさぁ、……まぁいいや。お菓子の棚の方、手伝ってきて」
「やっぱり、吉住さんってお母さんですよね」
「……」
またしても、従業員控え室で若奈に貴重な笑顔を向けられ言われ、既視感を感じつつ、やはり菊音は前と同じく自分の手元を見た。
今度は、手元に白いシャツは無い。代わりに、左手に箱ティッシュ、右手には大量のティッシュの束。そうして、ティッシュの束の奥には、そういえば以前にも現場に居合わせていた男子大学生の顔面。
「えっ?これ?いや、だって、気付いたら車谷君、鼻血出してるし、たまたま私の近くにティッシュあったし、始業前にシャツとかエプロンとかに血が着いたら面倒だろうし…」
何故、菊音が必死に状況を説明しているかというと、若い女の子にオバサン扱いされたくない一心からだ。
「車谷君、ほら、ティッシュ持って。自分で押さえてて。あ、上は向かないで」
「はひ」
二人の間でティッシュの引継ぎを無事終えたところで、若奈が畳みかけてきた。
「本当に面倒見が良くて優しくって、お母さんキャラですよね。吉住さんって」
なんで他の時は素気ないのに、こと「吉住≒お母さん」説となると、こうも絡んでくるんだ、この子は。関わってきてくれること自体はいいのだが、この話題は正直、菊音にとってあまり嬉しくない。
「ええっ?そうかなぁ?そうでもないよぉ」
うん。自己評価で否定しても、説得力まるで皆無。こういった場合、客観的な第三者意見が効果的である。
「ね、ねぇ、車谷君?私、お母さんって感じでもないよね?結構、冷たい所も厳しい所もあるし」
菊音はその場に一人しかいない第三者、由時に助けを求めた。どうか、空気を読んでくれ。読まなきゃ、シメる。
「吉住ざんが?いや、優じいでじょ」
よし、後で倉庫裏で待ってろ。
「でも、母親っぽいって思ったごとないじ。一般的にはどうが知だないけど、ウチの実家の親なんがは、自分のごとは自分でやれって主義だっだがら。むじろ、俺にどっては、吉住ざんは彼女になっで欲じいタイプ」
よくぞ、「吉住≒お母さん」説を否定してくれた!車谷!今度、旅行先のお土産多めにあげちゃう!それにしても、この子、親に与えられなかった優しさを、恋人に求める系か。結構面倒臭い子なのかもしれない。
「どうだ、わかったか!」顔で菊音が若奈を振り返ると、彼女は既に話題に興味を失くしていたのか、菊音に背を向け控室から出て行くところだった。
「……トイレかな?」
「吉住ざん、俺、本当はタイプとがっでいうんじゃなぐで」
「うんうん。わかってるわかってる。援護ありがとう」
「……………ドウイダジマジテ」
品出しの割り当てについて話し合おうと菊音は控室で若奈を待ったが、彼女はなかなか戻ってこなかった。由時の鼻血がようやく止まった頃、控え室のドアを開けたのは、若奈ではなく副店長だった。
「若奈さん、なんかあった?」
「えっ?なんかって?」
「辞めちゃったんだよ、彼女。突然」
菊音は顔を見合わせようと由時の方を見たが、彼はティッシュに付着した自分の鼻血を凝視していた。先輩として思う。もっと周りに興味を持ってほしい。
「特に何かあったってことは、なかったですけど」
「そっかぁ…」
副店長が事務室に戻りがけに「俺の癒しが…」と続けたのは、聞かなかったことにしておこう。役職に就いてはいても、彼も二十代半ばの男だ。
「若奈さん、どうしちゃったんだろうね」
「若奈さん?」
「だからさぁ、…あっ」
菊音は突如として、全てが腑に落ちた。何故、若奈が「吉住≒お母さん」説に固執していたのか、ようやく理解できたのだ。
「若奈さん、淋しかったのかな」
「はい?」
「職場に馴染めなくて、悩んでたのかも…」
「吉住さん?」
「だから私に、『お母さん』みたいに優しくしてもらいたかったんだ」
「もしもーし」
「それなのに、私ってばろくに話も聞かずに、『お母さんじゃない』だなんて…。今からでも相談に乗ってあげれば、もしかして…」
「やめましょう」
由時が、立ち上がって若奈を追おうとした菊音の腕を掴み、止めた。
「無駄です。若奈さんはべつに職場の人間関係で悩んでなかったし、今から吉住さんが彼女を止めに行っても逆効果だし、多分、彼女と何か話したところで吉住さんが嫌な思いをするだけです」
菊音を見つめ諭す青年は、数分前まで鼻血を垂らしていたとは思えぬ毅然とした表情だった。
「……名前、ちゃんと憶えてたんじゃん」
由時のあまりの豹変ぶりに、菊音はそこしか突っ込めなかった。
「吉住さん、人のコミュニケーション能力どうのこうの言いますけど、自分だって相当ですよ。鈍すぎる」
いくらかの怒りを籠めたように由時は鼻血付きティッシュをゴミ箱に投げ捨て、自分の腕時計を見た。
「仕事の時間です。俺、飲料の方からやるんで」
そう言って後輩バイトは先輩バイトを控え室に残し、さっさと売り場に出て行ってしまった。菊音とっては、その直前に理由もわからぬまま年下の子らに辞められるわ説教されるわで、なかなかに凹む、その日の始業となった。
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