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自宅から十分に離れた路上の路肩に車を止めて、とりあえず私は身支度を整えることにした。ダッシュボードからウエットティッシュを取り出し顔や髪についた返り血をふく。後部座席に普段から備えてあるカーディガンを上から羽織れば血にぬれた服も隠せた。念のためバックミラーで自分の状態を確認していると――とん、とん、とが叩かれた。
窓の方を見れば黒い帽子に青いシャツ。警察官だ。
どきり、と心音が跳ねる。私は深呼吸を一つすると、自分の状態におかしな部分はないことをもう一度確認してから窓を下ろした。相手は「すみません」と困り眉。
「最近この辺りで車上荒らしが頻繁に発生していまして」
「はあ」
「そのぉ…いい車ですね」
警察官は見たところかなり若い。うまく言いたいことが説明できないらしく、もごもごと唇を動かしている。
「○○社製の、××といいますの」
「あ、聞いたことあります」
持ち物に拘るのは夫の方だ。特に人目につくものにはとことん金を注ぎ込む。家、時計、スーツ…一緒に歩く女。より価値があり、見目のよいものを。
車だって、これ一つで安い家が購入できるほどの値がある。
「最近の車上荒らしはタチが悪くて。いい車を見ると中を物色せず家まで後をつけていくんです。で、今度はその家を狙う」
「それもう、車上荒らしの域じゃありませんこと?」
「そ、そうですね。先輩がそう呼んでたから、つい。
で、ですね…もうすぐ暗くなるので、あまり長時間こんなところにそんないい車を止めていると目をつけられやすくなるので…注意喚起を」
「ああ」と私は頷いた。どうやらこの警官さんはとても良い人のようだ。私はにっこり微笑んだ。有閑マダムに相応しい、上品な笑みだと自負している。
「ありがとうございます、警官さん。ちょっと身だしなみを整えていただけですの。すぐに出発いたしますわ」
私は丁寧に警官さんにお礼を言って、エンジンをかけ直す。警官さんがぺこぺこ頭を下げながら車から離れてくれた。私も一礼だけ送って車を発進させる。
――ごごんっ。
トランクの中で、とても重くて硬いものがぶつかる音が響いた。背後に残された警官さんの顔はすぐに見えなくなった。
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