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■■山中にある別荘に着いた時、辺りは完全に日が落ちていた。周りの鬱蒼とした山林が、辺りに闇を落としている。木造二階建ての我らが別荘も、闇に包まれ佇む姿はなかなか不気味である。
元々この辺りはバブル景気で開発され、そして見捨てられたと聞く。ちょっと歩けば別荘の廃墟が幾つか見つかるほどだ。だから夫は周りに別荘持ちであると自慢はしても、そこに他人を誘ったことは一度もない。
とはいえ、今の私にとってはこの人気のなさがありがたかった。
あえて困ったことといえば、完全に夕食の時間を過ぎてしまったことだろう。サラダは作り損ねてしまった。
夫は怒っているだろうか。昨日までなら、きっと怒って、髪を引っ張って、殴って…。
だが私は死んだ。私を嘲笑う私は死んだ。私を罵倒する私は死んだ。夫を誘惑した私は死に、夫がけしかける者はない。そうだ、アボガドのサラダだって、アレが嫌ったから夫も嫌がったのだ。
もう、夫の愛は私に戻ってしかるべきだ。きっと、帰ったとき夫は私を笑顔で迎えてくれるだろう。昔のように抱きしめて、顔にキスをくれて、髪を撫でてくれる。
その光景を思い浮かべれば、力も沸く。私は別荘の駐車場に止めた車から降りて、まずは倉庫を目指す。中から取り出したのは菜園用の大きなシャベルだ。夫がすぐに飽きたから金属の一部が錆びついている。
とはいえ使用には問題なさそうだった。場所といい、備品といい、ここまでお膳立てされていれば、まるでこの別荘が私のためにあるようだ。
夫がこの別荘を買った時は渋い顔もしたものだが…ああ、なんだ、やはり夫は私を愛してくれていたのである。
私は山林の中へ、ぎりぎり迷わない程度まで奥に入ってからシャベルで土を掘っていく。こんな重労働、何十年ぶりだろうか。シャベルの淵にパンプスの靴をかけ、地面につきたてて土を抉る。額に汗で前髪がはりつき背中がびっしょりと濡れてくるのに、こんなにも楽しい。
ここ数年の苦痛が嘘のようである、人一人納められる程の穴が開くのもあっという間だった。
ふと、靴の中にごろごろと違和感を覚えて履いていたパンプスを脱ぐ。車を運転してきたからヒールの高いものではないが、やはり穴掘り作業に適した靴ではない。全体的に泥だらけ、裏に向ければボロボロと小石が零れて出てくる。履いてきたストッキングは破けて親指が露出していた。そのみっともなさがどうにもおかしくて、声を上げて大笑い。
ああ、なんと良い日だろうか。
しかし、私の死体を穴まで運ぶのがまた大変だった。とにかく重い。トランクの中で変な形に折れ曲がった腕をひっぱり、ずるずると穴の元まで引っ張っていく。
これでも若い頃はテニスなどやっていて、そこそこ体力もあったものだが今ではすっかり衰えたものである。
それに比べて私の死体は…。
今更、私が運んできたのは本当に私の死体であっただろうかなどと、奇妙な疑問が浮かんだ。
私は改めて私の死体を見る。間違いなく、そこにあるのは私の顔だ。夜の闇で見づらいが、長く美しい黒髪、抜けるような肌、桃色の唇、長いまつげ、美しい輪郭。全て私のものである。まったく馬鹿げた疑問を覚えたものだ。
ようやっと穴まで死体を運んで、穴の中へとその体を押し込む。ここまでくれば、あとはもう埋めてしまうだけだ。やれやれと長い溜息が洩れた。腰をトントン叩いて、痺れた腕を何度も撫で擦る。
そして最後の大締めと、シャベルを握って私の死体に土をかけた。鼻歌など歌いながらざっくざっくとシャベルと動かしていく。土を足元かけていったことに深い意味はない。ただ、結果として頭が残った。
最後にもう一度だけその顔を眺めたのは…予感だったのかもしれない。
――今日、私は私を殺した。
その、私の死体の顔を改めてじいっと見つめる。美しい顔だ。若々しい顔だ。丁度雲間が切れて月明りも照ってくる。
月明かりが照らしているのは、シャベルの表面もだ。一部錆びついているが、残った鉄の部分が鏡となって“生きている”私の顔を写す。
私の顔だ。車の中で身だしなみのために見たそのままの顔。
色の抜けた斑色の髪、深く刻まれた皴、削げた輪郭。
若く美しい私が死んでいる。老いて衰えた私が映っている。
私は、若い私と老いた私、両方の顔を見比べる。何度も、何度も。
次第、呼吸が荒くなってくる。ぜいぜいと喘鳴が鳴って、心臓がばくばくと荒れ狂う。
私が殺したのは私だ。私が殺したのは私だ。ワタシガコロシタノハワタシダ。――本当に?
ワタシハ、ダレダ?
月明かりに照らされて…確かに殺したはずの私の死体が私をみつめていた。確かに閉じられていたはずの瞳と、私の視線がかち合った。
死体のの唇が綻ぶ。
「お母さん」
私は迷わずその顔面に、シャベルを振り下ろした。
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