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7月に入り、ここ布礼別も本格的に夏を感じさせる気候になって来た。
壁の掛け時計が十一時を過ぎた頃、本田は日課である地域巡回に出かける為駐在所の机の上に警察官が不在である事を知らせるプラスチックの札を置き、電話機を札の横に置き直した。
『ただいまパトロール中です。
御用の方は、この電話でお話しください。
富良野警察署につながります。
ここは富良野警察署 布礼別警察官駐在所です』
札には警察官の不在を知らせる文言と一緒に北海道警察のマスコットである『ほくとくん』のイラストが描かれている。
北の夜空に輝く北斗星にちなんで名づけられたマスコットキャラクターだが、全体的に汚れが目立つ札に描かれたキャラクターはどこか不機嫌なように感じられた。
「この不在案内板は、そろそろ新しく作り直さなきゃな……。今度富良野署に行った時に地域課長に頼むか」
そう独り言を言うと、駐在所に配備されているジムニーシエラのパトカーに乗り込んだ。
彼が一軒目に向かった先は富良野農協布礼別支所の所長である及川の家であった。
本田がパトカーから降り、玄関口に向かって歩いていると軽トラックに乗った及川が戻って来た。
本田が回れ右をして軽トラックに駆け寄ると、運転席から降りてきた及川は本田の方を見て眉を顰めた。
「こんにちは、地域巡回で来ました!」
務めて明るく振舞った本田に、及川はめんどくさそうに「おう」と応じた。
「こないだの歓迎会は大変だったな、布礼別の皆はあんたの事警戒してるよ。
見た目が外国人だからさ」
「私は生まれも育ちも日本の生粋の日本人です。
……まあ、農業の事は正直何も分からないので、これからイロイロと布礼別の皆さんに教えてもらいながら勉強していくつもりです。
そうだ、何か農作業とかお手伝いすることはありませんか?」
本田の申し出を及川は「フン」と鼻で笑った。
「手伝い? こんな昼近くになって来たって、何も手伝ってもらう事なんて無いよ。
今の時期、農家の朝は早いんだ。
こんな時間になってノコノコやって来たって、昼寝の邪魔になるだけだ。
それならいっその事、来ないでもらった方がありがたいね。駐在さん。
あんた……、農業ナメてるだろ?」
「あ、いや……、ナメてるだなんて……、そんなつもりは……」
「とにかく、本気で農業の事、そして農家の事、布礼別の事を勉強したいって言うんなら朝早くに出直して来な。
こんな時間に来られちゃ、どこの農家にも煙たがられるだけだぜ」
及川は本田にそう告げると、家の玄関に向かって歩いて行った。
本田は及川の背中を見つめながら言った。
「すいませんでした。
改めて明日、朝早くに出直して来ます!」
本田は及川に言われた「こんな時間に来られちゃ、どこの農家にも煙たがられるだけだぜ」の一言が気になり、他の家への巡回を諦め、ただパトカーで地域内を一周して駐在所へと戻って来た。
本田が戻って来た事に気が付いた亮子が住居部分から駐在所部分に顔を出した。
「あら、お帰りなさい。地域巡回に出かけたんじゃなかったの?
随分と戻ってくるのが早いじゃない」
本田は制帽を脱ぐと、スラックスの後ろポケットからハンカチを取り出し、額の汗を拭った。
「あぁ、農協の支所長の……、及川さんの家に行ったら怒られちゃってさ。
こんな時間に来られたって迷惑だって」
「あら、どうして?」
「この時期の農家は朝が早くて今は一息ついて昼寝したりしてる時間帯なんだって。
どこの農家に行ったって煙たがられるってさ。
本気で農業の事や布礼別の事について学びたいんなら、朝早くに出直して来いって……、そう一喝されちゃったよ」
「へぇ、そうなのね……。でもこれで一つ勉強になったじゃない」
「んー……。まあね。まずは地域住民に認められないと田舎の駐在さんは勤まらないからね。それまでは苦労しそうだよ」
本田は亮子にそう答えるとスチール製の書類棚のガラス戸を開け、中から業務日報が綴られているファイルを取り出し、開いたファイルにシャープペンで地域巡回の結果、異常が無かった旨を書き込んだ。
「……明日、朝早くに出るから!」
住居部分に戻ろうとした亮子の背中にそう話しかける。
亮子が振り返って「早いって……、何時頃に出るの?」と問いかけた。
「そうだな……、5時……、いや、4時には駐在所を出て改めて及川さんの家に行ってみるよ」
「そんなに早くなくてもいいんじゃない?」
「いや、明日また朝早くに出直して来ますって言っておいて遅かったら、こっちのやる気を疑われちゃうからね」
「分かったわ。じゃあ、今日は夜のうちにあなたの朝食用におにぎりでも作っておくわね」
「あぁ、ありがとう。頼むよ」
亮子にそう伝え、本田は本来地域巡回しているであろう時間を駐在所の整理整頓でもして時間を潰そうと考えた。
「こんちは!」
書類棚の整理をしていたところに不意を突いて駐在所の入口からYASUのマスターが顔を覗かせた。
「あぁ、こんにちは。どうしたんです? 昼時はお店が忙しいんじゃないんですか?」
「ちょっと、ケチャップを切らしちゃってね。ホラ! 富良野市内まで行って買ってきたの。それより本田さん、頑張ってる?」
マスターが手に下げたビニール袋から業務用のトマトケチャップの大きな缶を取り出して本田に見せた。
「えぇ、頑張ってるつもりなんですけど、どうにも地域の勝手が分からなくて……。
早速、及川さんの家に行って怒られちゃいましたよ」
「え? 怒られたって? あんたも大変だねぇ。
ま、ここで話し込むのもなんだから、店においでよ。冷たい飲み物でもサービスするから詳しく聞かせてよ」
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて……」
本田は制帽を手に取ると、彼のトレードマークとでもいうべきアフロヘアーの頭に被りマスターと共にYASUに向かった。
昼時という事もあってか、夜とは打って変わって店内は昼食を食べに来た地域住民を中心とした客で混雑していた。
「相変わらずお昼は繁盛してますね」
カウンター席に腰かけた本田は店内を見回してそう言った。
「夜もこれくらい繁盛してくれるといいんだけどね。ステージで俺がギターの弾き語りなんかをしながら、みんなでワイワイ盛り上がって貰いたいんだけど……。
まあ、富良野市内の繁華街でも無きゃ、そんな事は無理だけどね。後はそこの神社の縁日の夜にちょっとお客が来るくらいだからね」
マスターはそう言うと、本田の目の前にコルクのコースターとアイスコーヒーの入ったグラス。そして紙に包まれたストローを置いた。
「メニュー下さい。ちょうどお昼だから、何か食べて行きます」
本田にそう言われ、マスターが茶色い革のカバーが付いたメニューブックを差し出した。
「うーん……。ふわとろオムライス一つ!」
「はいよ、ふわとろオムライスね!」
マスターは威勢の良い返事をしてボールペンを片手にオーダー表に書き込みをすると、厨房に向かってオーダー表を差し出しながら「ふわとろオム一丁!」と声を掛けた。
「……で、さっきの話の続きだけど……、何さ、及川さんの所で怒られたんだ?」
本田はグラスに直接口を付け、アイスコーヒーを一口飲むと、一瞬店内を見回し、すぐさまマスターに向き直った。
「ちょっと、マスター! 声が大きいですよ」
「なーに、こないだも言ったけど、ここはすぐに噂が広まるから遅かれ早かれ皆が知ることになるんだよ」
マスターはそう言って微笑んだ。
「で、一体何があったの?」
マスターが本田にそう問いかける。
「十一時過ぎに地域巡回で及川さんの家に行ったんですよ。
……そうしたら、「こんな時間になってノコノコやって来たって、昼寝の邪魔になるだけだ。」って怒られちゃいました……」
マスターは腕組みをしながら、本田の話を聞いてウンウンと頷いた。
「今の時期は、農家は朝早くに農作業をするからね。
ミニトマトやアスパラなんかがちょうど旬の時期だし……。
それにほら、昔と違って今は流通が発達してるから、農作物に付加価値を付けるために『朝取り野菜』とか言って、朝早くに収穫した野菜を札幌や旭川なんかの大消費地に出荷するのさ。
一部は旭川空港に運んで、航空便で東京のレストランやホテルなんかにも出荷したりするんだよ。
それに昼間の炎天下で作業をするよりも、朝の涼しいうちに作業をした方が体力の消耗も少ないしね。
今は夏野菜の収穫以外にメロンの摘果なんかの農作業もあるからさ」
「え? 何です? ……て、てきか?」
「間引くんだよ。メロンを見栄えよく大きく育てる為に、実がなっても全部の実を育てるわけじゃないんだ。大きく育てる実を選んで、それ以外は小さいうちに摘んでしまうんだよ。それを摘果って言うんだ。摘むに果実の果と書いて摘果」
「へぇー。せっかくなった実を摘んで捨ててしまうなんて、勿体ないですね……」
マスターがニヤリと微笑んだ。
「いや、摘んだ実は捨てないよ。漬物にするんだよ」
「え? メロンの漬物!?」
「そう、摘果メロンの漬物。今の時期の名物さ。熟したメロンと違って甘くはないし、パリパリとした食感で美味いんだよ。塩で浅漬けにしたり、麺つゆで浅漬けにしたり、鷹の爪を入れたり……、変わったところだとビールで漬けたり、味噌漬けにしたり……、それに炒め物にしたり……、家によってイロイロとアレンジされてるんだよ」
「へぇー……、農村地帯ならではですねー……」
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