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6月29日、本田は亮子と萌の3人で富良野市郊外の布礼別市街地にある警察官駐在所の住居部分に居た。
ここの住所表記は一応『市街地』となっているが、如何にも北海道らしい農村地帯の中を通る道道253号線沿いに、駐在所を始め、消防団の集会所兼車庫、農協の支所と倉庫、馬頭観音を祭った神社……、それに食料品や様々な雑貨を扱う個人商店、そしてなぜこんな場所にあるのか場違いな感が否めない『歌声喫茶』の看板を掲げた軽食・喫茶の店があるだけで、おおよそ市街地という響きから想像される場所とは程遠い場所であった。
ある程度の田舎だと覚悟の上で赴任してきたものの、まさかここまでの田舎とは……。
「ハァ~……」
本田の口から思わずため息が漏れる。
「あれ、どうしたの? 札幌からの長旅で疲れちゃった?」
ここの駐在所の前任者である藤田啓介巡査部長の妻、藤田恵美子が派手なペイズリー柄のスカーフを頭巾のように頭にかぶり、手にピンクのはたきを持ちながらそう話しかけてきた。
「え? えぇ、ちょっと疲れが出てしまいましてねぇ」
「そっかい。でも、引っ越し屋が来る前にサッサと掃除を済ませてしまわないと、あずましくないっしょや」
(※あずましくない:北海道弁で落ち着かないの意)
「そうですね、サッサと掃除を済ませてしまいましょう」
藤田家の家財一式は一足早く札幌の警察官舎に向けて既に搬出済みであり、入れ替わりに詰め込まれる本田家の家財一式は、それを積んだ引っ越し業者のトラックが昼頃にはこの場所に到着する手筈となっていた。
前任者の藤田は降って湧いた異動の話の為、引継ぎなどの各種手続きに忙しくて、ここには居らず、代わって藤田の妻である恵美子が本田一家の引っ越しを手伝ってくれることになった。
「恵美子さん、ごめんなさいね。うちの主人がこっちに異動する事になったせいで、藤田さんが急に札幌に異動することになっちゃって。
それにご自分の引っ越しの作業もあって忙しいのに……」
「なんもなんも。あの人、札幌に異動するのと、今度は捜査課に配属になって刑事になるのが嬉しいみたいで、はっちゃきこいてたから、いいんだ。
なんもあんた達が気にすることないっしょ。
それに今日と明日は富良野市内のホテルに泊まるしさ、なんだか久しぶりの旅行みたいでちょっと楽しいのさ。
それより本田さん、あんたんとこの方がイロイロと大変だったねぇ。」
(※はっちゃきこく:北海道弁で張り切るの意)
「いえ、もう……、こうして主人が警察官を続けられるだけで本当に幸せなんですよ」
恵美子と亮子が警官の妻同士、話に花を咲かせているのをよそに、本田はバケツの水に浸けた雑巾を取り出すと、水を絞って窓ガラスを拭いた。
「ねぇ、お父さん。あたしのバイク、早く買いに行こうよ」
早くも掃除に飽きたと顔に書いてある萌が、けだるそうに本田に話しかける。
以前からバイクに乗りたいと言っていた萌であったが、札幌に居る分には乗る必然性も無いのだから成人してから自分で働いて買いなさいと許可をしなかった。
だが富良野郊外に引っ越すこととなり、交通の便が不便な場所から富良野市内の高校に通うための通学の足として原付バイクを買って欲しい、必然性があるのだから、と再三にわたる彼女からの要求に根負けして、ついに許可を出したのだった。
萌が本田から許可を貰って僅か数日で運転免許試験場で試験を受け、一発合格を果たしたところを見ると、前々から本屋で原付免許の試験対策本でも買って勉強をして虎視眈々と機会を窺っていたのだろう。
自分のせいで入ったばかりの高校を転校することになったのだから、これは仕方のない事なのだ。本田はそう自分に言い聞かせた。
「ねぇ、お父さん! 私の話、ちゃんと聞いてる?」
「ん? あぁ、聞いてる。ちゃんと聞いてるさ」
「絶対ウソ。だって上の空って顔してたもん。ねぇ、バイク! あたしのバイク買いに行こうよ!」
「まず引っ越しを終わらせなきゃいけないだろう。
それにお父さんは富良野警察署に出向いて着任の手続きをしたり、イロイロと忙しいんだ」
「えーっ! じゃあ、私のバイクはどうなるの? ここから富良野市内に毎日通うのは大変だよー。バイクが無きゃ、大変!」
「分かった、分かった……。引っ越しが終わったら、お母さんと一緒に買いに行きなさい。
それにナンバープレートが付いて納車されるまでは、お母さんにウチの車で学校まで送り迎えしてもらいなさい」
本田は萌にそう言うと、亮子の方を向いた。
「なぁ、亮子。悪いけど、引っ越しが終わったら萌と一緒に富良野市内のバイク屋に行って原付バイクを買ってやってくれないか?」
恵美子と談笑していた亮子が本田にそう告げられて困惑の表情を浮かべた。
「えぇ……。一緒にバイク屋さんに行くのはいいけど、私、バイクの事なんか何にも分からないわよ?
第一、魚屋さんでお魚を買うのと違うんだから、そんなに気軽に買ってこられるものと違うんじゃないの? そもそも、バイクなんて幾らするの?」
「新車なら20万以上はするけど、初めてのバイクだし、通学用だから中古車でいいんだ。それなら20万以下であるから。
バイクの事はバイク屋のオヤジに聞けばいいさ。それに萌の様子じゃ、バイク雑誌なんかを読んで、ある程度の知識を仕入れているんだろう」
本田がそう言うのを聞いて、恵美子がウンウンと頷いた。
「そーだねぇ。ここはバスの本数も少ないし、汽車も通っていないから、市内まで毎日通うならバイクがいいよねぇ」
(※北海道では一般に電化区間であっても鉄道車両の事を汽車と呼ぶことが多い)
恵美子がそう言ったのを聞いて、萌は、はにかんだような表情を浮かべて「ヘヘヘ……」と笑った。
「さ、サッサと掃除を済ませて、午後からの荷物の搬入もさっさと終わらせてしまおうや。そしたらその分早くバイク屋さんに行けるっしょ」
「はい!」
恵美子の呼びかけに、萌が俄然やる気を漲らせて返事をした。
時計の長針と短針が共に12の位置に重なる前にすっかり奇麗になった住居部分を見て、恵美子が大層満足そうな表情を浮かべている。
「いやぁー。日々の掃除はキチンとしてたんだけど、10年も住んでるといろんなところに汚れが溜まるもんだねぇ」
「藤田巡査部長はここで10年間、地域警察官をしていらしたんですか?」
「そんな巡査部長だなんて堅っ苦しい呼び方しなくていいよ。大体本田さん、あんただってウチの旦那とおんなじ巡査部長だべさ。
……でもまぁ、ほんと振り返ると10年なんてあっという間だったねぇ」
恵美子がしみじみと感慨深そうに言った。
本田は恵美子の様子を見て、自分の胸の内に不安の種が芽吹いてゆくのを感じた。
自分に地域警察官が勤まるのだろうか? ましてや黒人である自分が地域住民の信頼を得て、地域に根付くことが出来るのだろうか?
この先何年ここの駐在所に居るのか分からないが、自分は前任の藤田のような『駐在さん』として上手くやっていくことが出来るのだろうか?
「ねぇ、お腹空いたー」
先ほどとは打って変わって張り切って掃除に参加していた萌が再びけだるそうな声でそう言った。
「そうね、もうお昼ですもんね。……お昼ご飯、どうしましょう。
恵美子さん、ここら辺ってコンビニとかあるのかしら?」
亮子にそう聞かれた恵美子が顔の前で手を左右に振った。
「いやいや、あんた。こんなとこにコンビニなんかあるわけないっしょや。
富良野市内まで行かないと無いよ。
でも、ご飯なら、ほら、隣の歌声喫茶YASUで食べられるから、皆で食べに行こうよ」
恵美子の案内で本田達3人は駐在所の隣にある『軽食・喫茶 歌声喫茶YASU』の看板が掲げられた店に入った。
「こんちわぁ」
「おぉ、恵美子さん。いらっしゃい! ……えーと、そちらは?」
ロマンスグレーの頭髪をした60代前半と思しき男性のマスターは垂れ下がった目尻をしており、愛想の良い笑顔と掠れた声で恵美子にそう尋ねた。
「こちらはね、ウチの旦那の後任で新しく布礼別の駐在所に赴任してきた本田省吾巡査部長。それに奥さんの亮子さんと、娘の萌ちゃんだよ」
歌声喫茶の名の通り、店の奥にはステージが設けられ、壁には数多くのギターが展示されている。
マスターはアンティークな風合いの木製のバーカウンターの中に居り、その後ろには様々な洋酒の瓶が並べられた棚があった。
恐らく夜になると酒類を提供して奥のステージでライブなどが行われているのだろう。
店内は田舎の店としては意外にも客が入っており、昼時という事もあってかそれぞれのテーブルにはナポリタンや、お好み焼き、カツ丼、ポークチャップなど……、様々な料理が乗せられていた。
恵美子とマスターの会話を聞いてか、皆談笑をしながら食事をしていた店内がシーンと静まり返った。
やはり皆、見慣れぬアフロヘアーの黒人男性と、黒人の少女が店内に入って来たのを見て一体何者なのか? そう思っているのだろう。
本田は店内の客に向かって「布礼別駐在所に赴任してきました、本田省吾です。よろしくお願いします!」と自己紹介をし、頭を下げた。
静まり返っていた店内の様子が一転して、今度はざわつきだした。
本田が萌の方を見ると、彼女は何事も無かったかのようにすました顔をしている。
しかし、ごく僅かではあるが彼女の表情に不快感が滲んでいるのを彼は見逃さなかった。
(結局、どこへ行っても珍獣扱いか……)
本田の落胆を敏感に察知した恵美子が、一際明るい声で一家に話しかけてきた。
「あー……、ほら! 萌ちゃん、お腹空いてるって言ってたっしょ?
テーブル席に座る? それともカウンターがいい?」
「カウンターで良ければどうぞ」
マスターはそう言うと、何やら恵美子に目配せをした。
それを受けて恵美子が率先してカウンターチェアを引いて座る。
「さ、みんな座って! 座って! あたしもお腹空いちゃったんだよねー。アハハハ……」
4人がチェアに座り終えると、マスターが茶色い革のメニューブックを一人に一冊ずつ手渡し、続けて氷の入ったグラスに麦茶を注いでカウンターに並べてゆく。
中を開いてメニューを見てみると、洋食の比率がやや高い印象を受けたが、それでも和洋中と、実にいろんな種類のメニューが掲載されていた。 とても『軽食・喫茶』というレベルでは無い。
「ウチはね、ランチメニューが売り上げの大半を占めているのさ。
農作業の繁忙期になるとイチイチ自宅で作るのは面倒だし、それにありがたいことに皆が、ここの料理は美味しいって言ってくれるおかげで、こうして店を続けていられるんだ。最近じゃわざわざ富良野市内や旭川の方なんかからもお客さんが来てくれるんだよ」
本田はマスターの話にウンウンと頷いた。
「表の看板に歌声喫茶って書いてありますよね? それに……。お店の奥には、ああやって立派なステージまでありますけど、夜はライブかなんかを開催しながら、お酒の提供もしてるんですか?」
「うん、そうなんだ。……そうなんだけどね。ここは見ての通りの農村地帯だろう? 夜は皆早々に寝てしまうから、表の通りも人っ子一人居なくなって、昼の客入りとは打って変わって閑古鳥が鳴いている有様なんだよ」
そう言いながらニコニコ笑っているマスターに続けて、恵美子が口を開く。
「全く変わりもんだよ、ここのマスターは。富良野の繁華街にでも店を開いた方が観光客相手に断然稼げるのにさ」
「恵美子さんにゃ敵わないな。
そりゃ、富良野の中心部に店を構えた方が稼げるさ。でもね、俺はここの景色や空気、そして人が気に入ったの。
群馬から初めて北海道に来たとき、たまたま布礼別に寄って、そしてここに住もうって決意をしたのさ」
「へぇ、マスターって北海道の人じゃないんですね」
本田がそう聞き返すと、恵美子が横から口を挟んできた。
「マスターはね。群馬出身で一時は東京でバンドマンをやってたの。
一応芸能事務所に所属してたし、ギターを弾くのが上手くてねぇ。
それにCDも何枚か出してるんだよ」
「恵美子さん、あんた『一応』ってのが余計だな。一応ってのが。
こう見えても俺はプロのミュージシャンだったんだからね」
マスターと恵美子が顔を見合わせて笑っている。
「へえー、今度夜にお店に来てもいいですか? 私はお酒は弱いんですけど、何かソフトドリンクでも飲みながらマスターの歌を聴いてみたいです」
「そうかい。うれしいこと言ってくれるじゃないの! いつでもおいでよ、夜は暇してるからさ……。
おっと、それよりも何食べるんだい? お嬢さんが大分ご立腹の様子だよ……」
マスターにそう言われ、恐る恐る萌の方を振り向くと、彼女は膨れっ面をして本田の方を睨み付けていた。
「あぁ、そうそう。萌は何を食べたいんだ? 何でも好きなものを頼みなさい。なんでも。
あー、ほら、恵美子さんも今日は私がご馳走しますから、何でも好きなものを頼んで下さい」
本田がそう言い終えるや否や、萌はメニューブック越しにカウンターの中のマスターに向かってオーダーをし始めた。
「富良野産黒毛和牛のポーターハウスステーキ 500g ソースは照り焼きソースと、厳選野菜ソースで! あ、それとライスも!」
「萌ちゃん、ステーキの焼き加減はどうする?」
「うーん……。ウェルダン!」
萌がオーダーするのを聞いて、本田は慌ててメニューブックのページをめくった。
『富良野産黒毛和牛のポーターハウスステーキ 400g ¥6,500
(100g増すごとに¥1,000追加となります。最大600gまで)
※ライスかパンが無料で付きます。どちらかをお選びください。
ソースは和風醤油ソース、照り焼きソース、厳選野菜ソース、おろしポン酢ソース、塩┃麹ソースの中から2種類をお選びください』
本田はメニューを見て、軽く眩暈がするのを覚えた。
(そういや、道警本部庁舎の食堂で南城と一緒に食べた田舎カレー大盛は300円だったよなぁ……)
まあ仕方がない、何でも頼んでいいと言ったのは自分なのだ。男に二言は無い。
本田はそう自分に言い聞かせつつ、自分の料理をオーダーした。
「私は塩チャーシュー麺、それに半ライス。恵美子さんと亮子は、もう決まったのかい?」
本田にそう問われた亮子がメニューブックを覗き込みながら「私は天津飯」と呟いた。
続けて恵美子が「あたしはミックスフライ定食ね」とマスターに向かってオーダーをした。
マスターはボールペンを忙しなく動かしながら、今受けた注文をオーダー票に書き込むと、奥の厨房に向かって威勢のいい声でオーダーを伝えた。
麦茶のグラスに口を付けながら、萌がそわそわとした様子で奥の厨房の方を見つめている。そりゃ誰だって7,500円のステーキが食べられると思ったら、そわそわしてしまうに違いない。
やがて奥の方からスカイブルーのエプロンを身に纏った女性が、出来上がった料理をお盆に載せて運んできた。
「お熱いのでお気を付け下さいね」
女性がそう言いながら、分厚い鋳物のプレートの上でジュウジュウと音を立てているステーキを萌の前に置いた。萌は目の前のステーキに釘付けになっており、給仕の女性の事など、まるで眼中にないといった様子だった。
すぐに各自が注文した料理が揃い、皆揃って「いただきます」と食事に箸をつける。
空腹であるという事もあるのだが、それを差し引いてもここの料理は美味かった。
なるほど、これは確かに立地の不利さ加減に目をつむっても来る価値がある店だ。
それに加えて近隣の農家や、道を挟んだ向かいにある農協の職員が昼食を食べにやって来るのだから、こんな田舎でもしっかりと経営が成り立つのだろう。
本田が麺をすすりながらそんな事を考えていると、カウンターの上に置いたスマホが山下達郎の『さよなら夏の日』を奏で、電話の着信を知らせた。
慌てて麺を飲み込んで電話に出ると、それは引っ越し業者からの電話だった。
「あと30分ほどでそちらに到着しますので」
「あ、はい。よ、よろしくお願いします」
そう言って電話を切ると、亮子が天津飯を乗せたスプーンを皿に置き、「誰から?」と今の電話の主を訪ねてきた。
「引っ越し業者。あと30分くらいで来るって」
本田はそう言いながら箸でつまんだメンマを口に放り込む。
「さ、午後からも、もうひと頑張りしなきゃねぇ」
恵美子が醤油のかかったエビフライを一口齧り、そう呟いた。
萌は無言でステーキを切り、白磁のココットに入れられたソースに肉をディップすると口に運ぶを繰り返し、その度に満面の笑みを浮かべていた。
すっかり空腹を満たした一同は、サービスで出してくれた食後のアイスコーヒーを堪能し、本田が代金を支払い、マスターに今後もよろしくと挨拶をして店を出た。
(まさか昼食に1万円以上払うことになるとは……)
萌の満足そうな顔とは裏腹に、本田は複雑な心境であった。
やがて午後1時を10分ほど過ぎて引っ越し業者のトラックが駐在所に到着した。
業者はトラックのドライバーを含め4人体制で皆一様に、業者のシンボルカラーのツナギを着ていて手慣れた様子でトラックから家財を降ろし、次々と住居部分に運び込んで行った。
まず業者が簀巻きのように巻かれた何本かのカーペットを運び込み亮子の指示で床に敷いていく。
次にタンスや食器棚、ソファ、テレビ台、洗濯機や冷蔵庫など大きなものを運び込み、これも亮子の指示の下、業者がそれらを所定の位置に置いていった。
そして1時間もしないうちに衣類や本、食器などが入った段ボールを全て降ろすと、リーダーを勤めているドライバーの男性が「ご利用いただきありがとうございました」と、まるで高校球児のように爽やかな挨拶をし、粗品の洗剤を渡して帰って行った。
流石はプロだな。きっと相当な場数を踏んでいるに違いない。
本田は彼らの鮮やかな仕事ぶりに感心しながら、首に掛けられた手ぬぐいで額の汗を拭い、すっかりぬるくなったペットボトルのお茶を飲み干した。
その後、4人で段ボールを開封して中に詰め込まれた食器や衣類、本などを然るべき場所に入れていくのだが、それはそこじゃない、やっぱりこっち等々……、ワイワイ賑やかにやっているうちに、気が付くと時計の針は間もなく午後5時を過ぎようとしていた。
洗濯機に水道のホースをつないだり、テレビの配線をしていた本田は壁に掛けられた時計を見て、もうこんな時間になってしまったのかと、先ほどの業者の仕事と自分たちの仕事を比較して、改めてプロがプロである所以を実感した。
「大方片付いたし、今日はこのくらいにしよう」
本田の呼びかけに皆、異口同音に「うん」と言って頷いた。
「じゃ、バイク屋さんに行こうよ!」
萌が明るい顔をしてそう言った。
「おいおい、こんな時間じゃバイク屋なんて店仕舞いをする時間じゃないのか?」
萌が待ってましたとばかりにスマホを本田に見せつけた。
「ここのバイク屋さんは夜8時までやってるって。 ね! 行こう、行こうよ」
「いつの間に調べたんだ? ……全くしょうがない奴だな。じゃあ、せめてこれから行ってもいいかどうか電話をして確認をしなさい」
本田がそう言うと、萌は喜び勇んでスマホの画面をタッチしてバイク屋へ電話を掛けた。
「銀行のATMは午後6時で閉まるわよ。はじめて行く場所なんだし、今から行ったってギリギリか、もしかしたら間に合わないんじゃないの? バイクの代金なんて、そんな大金は用意してないわよ」
亮子が心配そうに本田に告げた。
「まぁ、できればその日のうちに全額支払うに越したことは無いけど、どのみち今日買って今日持って帰れるものじゃないんだ。
バイクを登録してナンバープレートを交付してもらうとか、バイク保険の手続き、それにヘルメットやグローブなんかも用意しなけりゃいけない。
気に入ったバイクがあれば1万か2万の手付金を払っておけばいいよ。
それに、そもそも萌のお眼鏡に適う中古車が都合よく店にあるとは限らないしな」
本田が亮子とそんなことを話していると、早々に店への電話を済ませた萌が興奮を抑えきれないといった面持ちで話し出した。
「今日行ってもいいって! これから行きますって伝えておいたよ」
「え? これから行くって言っちゃったの?」
「うん、だって今日行っていいかどうか電話しろって言ったのはお父さんでしょ?」
「そりゃそうだけど……」
本田と萌のやり取りを見ていた恵美子が、萌に助け舟を出した。
「行くって言っちゃったんなら、早く行かないとね。お店の人を待たせちゃ悪いよ。
それにホラ、ついでだから富良野市内で晩ご飯食べて、ついでにお風呂も入ってきちゃいなよ」
「それもそうねぇ。今日は疲れたから晩ご飯作るのが億劫だなぁって、ちょうど思ってたの」
亮子は恵美子の提案に、すっかり乗り気のようだ。
「市街地からはちょっと外れるけど、島ノ下の方に『ハイランドふらの』っていうスーパー銭湯みたいなのがあるから、そこに行けばいいんでないかい?」
「よし、……じゃあ、バイク屋に行って、帰りにスーパー銭湯に寄ってくるか」
本田はバイク屋の後で、恵美子から聞いたスーパー銭湯に行くことを決め、駐在所を出た。
今日は富良野市内のホテルに泊まるという恵美子と別れ、一家3人で自家用車に乗り込んで富良野市内に向けて走り出す。
萌がスマホを観ながら道案内をして、市内のバイク屋に着いた時には、腕時計の時刻は5時40分を少し過ぎていた。ふと見れば、目と鼻の先には富良野警察署があった。
本田は亮子と2人で店の主人に挨拶をした。
突然、流暢な日本語を話す黒人が店を訪れたので、いつもの如く驚かれるのかと思いきや、本田の予想に反して店の主人はさほど驚かず、むしろ本田一家の来店を歓迎してくれ、握手まで求められた。
聞けば、本田の事はテレビや新聞などの報道で知っている他に、バイク雑誌の取材記事を読んでよく知っているとの事だった。
本田と亮子が店の主人と話しをしている間、萌はさっそく店の外や店内に並べらているバイクを真剣な眼差しで品定めをしていた。そして、ものの5分もしないうちに興奮した様子で本田達の元に駆け寄ってきた。
「決めた! あたしのバイク、あれに決めた!」
萌が指さす方を見ると、そこには原付らしく小型ではあるものの、独特の存在感を誇示するアメリカンバイクが、見る者の目を惹く、いぶし銀のような輝きを放っていた。
「マグナ・フィフティか……。まったく誰に似たんだかマニアックなチョイスだな。
スクーターと違ってマニュアル・ミッションだぞ、大丈夫か?」
「大丈夫、練習するし! あのバイク、すっごく可愛い! あれに決めた!」
萌の様子を見ていた店の主人が彼女に親指を立てて見せた。
「流石は本田さんの娘だね、マグナ・フィフティはもう生産してない上に人気があるんだ。今萌ちゃんが買わなかったら、きっとすぐに売れてしまうよ。
それにエンジンはスーパーカブの流れを汲むエンジンだから、丈夫だし、扱いやすい。うん、いい選択だと思うよ」
(まったく、この親父は商売上手だな)
本田はそう思いながらも、やはり親子である故のセンスの近しさを実感した。
いつしか、萌と同じようにこのバイクを見てワクワクする気持ちが芽生えていたのであった。
「へぇー、今の原付バイクってこんなカッコイイのがあるのねぇ」
「いや、奥さん。マグナが生産中止になったのは、もうかれこれ14年ほど前ですよ」
主人がそう答えたのを聞いて、亮子が途端に不安そうな表情を浮かべた。
「え? そんな古いバイクに乗って大丈夫なのかしら?」
「大丈夫さ亮子。この店のバイクは見たところ、どれもきちんと整備されているし、それに中古のバイクで14年前なんて、まだ新しい方だよ。
あとは値段が手頃だといいんだけど……」
本田は自分が一番気になっていた値段を確認しようと、マグナに掲げられたプライスボードを見た。
『15万円』
希少な絶版車にしては、それほど高くはない。これなら、一警察官である自分であっても十分に買ってやれる額だ。
希少な車種になると、中には新車当時の定価を遥かに上回るプレミア価格が付いていることがあるので、そうではない事が分かっただけでも安心できるというものだ。
「本田さんがうちの店に来てくれたんで、サービスするよ。15万円でヘルメットとグローブも付けよう」
店の主人がそう本田の耳元で囁いた。まったく、本当に商売上手なオヤジだ。
「じゃあ、これに決めます。……それと、すいません。急にお店に来ることになったのと、時間が時間なので、全額お支払いするだけの手持ちがないんです。
今日は手付金とバイク保険の保険料だけお支払いして、明日にでも妻に持ってこさせますので、それでもよろしいでしょうか?」
本田の申し出に、主人はコクリと頷いた。
「ええ、もちろんいいですよ。手付金は1万円になります。
さ、あちらのテーブルでまずは必要書類への記入をお願いします。
……それと、萌ちゃんにはあっちの棚に展示してあるヘルメットとグローブから、好きなのを選んでもらおうか。但しヘルメットは2万円以下ね。
おーい、この子にヘルメットとグローブを見せてやってくれ」
主人は近くにいた従業員を呼び、萌と一緒にヘルメットやグローブを選びに行かせた。
亮子と二人、テーブルの上に広げられた書類に必要事項を記入していく。
しばらくして書類の記入を終え、手付金の1万円を支払って領収書を受け取ろうかとしたその時に、なにやら萌がモジモジした様子で本田達の元にやって来た。
彼女は胸元に、オレンジを基調とした派手なグラフィックデザインが施されたジェット型ヘルメットを抱えている。
「おぉ、これまたカッコイイヘルメットじゃないか。こんなカッコイイヘルメットが2万円以下なんて、随分とお買い得だな」
「えーっとね……。よ、4万1,000円なんだ……」
「4万1,000円!?」
萌が言いづらそうに言った金額に、本田と亮子の2人が思わずその金額を口に出して言った。
確かに有名国内メーカーのヘルメットで派手なデザインが施してあるようなものはそれくらいの金額はするし、有名バイクレーサーとのコラボモデルともなると10万円を超えるモノもざらにある。
それにヘルメットはケチらない方がいいというのもバイク乗りのあいだでは常識な話だ。……かと言って4万円。予算を2万円もオーバーしている……。
「ねぇ、あたし、このヘルメットがいい!」
萌がモジモジしながら懇願するような視線をこちらに向けている。
「うーん……、まあヘルメットとしては特別高い訳ではないけど、そのヘルメット、ウィンドシールドが付いてないじゃないか。それとは別にゴーグルを買わなきゃいけないぞ」
すかさず、主人が口添えをした。
「あぁ、そのヘルメットのウィンドシールドなら、オプションになっていてね。
クリアタイプとスモークタイプの2種類があるんだ。
どちらも値段は同じ、5,200円。
ヘルメットの棚の下の方に置いてあるから、試着しておいでよ。ほら、棚の隣に鏡もあるよ」
それを聞いた萌が、再び笑顔で店員と一緒にヘルメットの棚に向かった。
「も、萌! スモークシールドはダメだぞ! 買うならクリアシールドにしなさい!」
本田は萌にそれだけ告げると、頭の中に電卓を思い浮かべて計算を始めた。
(えーっと、4万1,000円だから、差額が2万1,000円、それにウィンドシールドが5,200円でバイクの代金と合わせて……、17万6,200円。
あとは、萌が差額の発生するようなグローブを選ばなければいいんだけど……)
「200円はまけとくよ。それと、グローブも5,000円を超えるやつは差額を頂戴しますのでね……」
主人がすかさず、本田の気になっていたことをズバリと言った。
「あぁ……、はい」
本田は主人に向かって愛想笑いをした。
ほどなくして、萌が再びヘルメットとライディンググローブをもって本田達の元にやって来た。彼女の手にはヘルメットと同系統のオレンジ色に染められたレザー生地に同じオレンジ色の糸で菱形ステッチが施されたグローブがあった。
「……それ、高いんじゃないの?」
「こちらは合成皮革製ですからそれほど値は張りませんよ。3,500円です」
本田の疑問に、萌の隣に立っている店員が答えた。
「あぁ、その値段なら差額は要らないよ」
主人の口から出た言葉に、本田がホッと安堵の息を付いた。
「ヘルメットとグローブは今日持って帰るのかい? それとも納車の時に一緒に受け取るかい?」
「納車――」
「今日持って帰ります!」
主人の問いかけに、本田が「納車の時で、お願いします」と答えようとした声を遮って、萌が今日持って帰ると言った。
「じゃあ、本田さん。ヘルメットとグローブの受領書にサインをもらえるかな?
差額はバイクの代金と一緒でいいから」
「あぁ、はい……」
本田はヘルメットと、ウィンドシールド、それにライディンググローブの品名や型番、数量が書かれた納品伝票にサインをした。
その後、一家は主人や店員に丁重に礼を言って店を出た。辺りはすっかり暗くなっている。
先ほど恵美子に教えてもらった、島ノ下地区にあるという『ハイランドふらの』をカーナビで検索すると、すぐに検索結果が出てきた。
本田は目的地にハイランドふらのをセットして車を発進させた。
ルームミラーに写る後部座席の萌が両手にライディンググローブを嵌め、愛おしそうにヘルメットを抱きかかえている。
思えば自分が警察官になれた上に、まさかの白バイ隊員にまでなれるとは思っても見なかった事だ。
ただ、こうして白バイから離れ、田舎の駐在所でお巡りさんとして再スタートを切る事に関しては正直な所、一抹の寂しさと不安を感じる。
とは言え、歌声喫茶YASUのマスターや、先ほどのバイク屋の主人のように自分と好意的に接してくれる人間も居るのだ、布礼別の住民からの信頼を得るまでにどれくらいの時間が掛かるかは全くの未知数だが、全力で事に当たれば必ずや道は開けるに違いない。
「――お前が黒人っちゅうんは死ぬまで変わらんやろ? それをあれこれ悩んでもしゃーない。ほな、開き直ってこれから続いてくるやろうハーフの警察官の後輩達の為に、お前がその存在を世間に知らしめてやればええねん。
何事も先陣を切るっちゅうんは難儀なこっちゃで――」
ふと頭の中で、以前山田にかけられた言葉が流れた。
(今の不甲斐ない自分を山田警視が見たら「シュッとせんかい! シュッと!」って怒られてしまうな……)
ステアリングを握る両手に、自然と力が入った。
カーナビの案内通りに車を走らせ、15分ほどで目的地であるハイランドふらのへと到着した。
恵美子はスーパー銭湯のような所と言っていたが、外観を見た感じでは自治体が経営している研修施設のような印象を受ける。
しかし、外観の事などどうでもいいのだ。今は早くひとっ風呂浴びて、夕食を済ませたい。ただそれだけだ。
館内に入ると広い吹き抜け構造となっているエントランスホールがあり、ホールの隅には富良野の特産品などが並べられた売店コーナーがある。
3人分の入浴料金を支払い館内に入る。マガジンラックに入れられていたパンフレットを読むと、ここは富良野市内唯一の天然温泉で、他には宿泊棟や軽スポーツが出来る多目的ホール、研修会などに利用できる広い和室、レストラン、売店、露天風呂付きの大浴場、そして車椅子などの要介助者が利用する事の出来るリハビリ温泉施設までを備えているとの事であった。
札幌でよく利用していたスーパー銭湯と違い、凝った造りの装飾などは一切ないものの、機能的で無駄を排したモダンな造りの建物は、やはり研修や合宿などに利用されることに重きを置いた施設なのかもしれない。
3人で話し合った結果、まずは入浴をしてから2階のレストランで食事をしようという事になり、本田は大浴場の入り口で亮子と萌の2人と別れた。
脱衣所からガラス張りの引き戸を開けて大浴場に入ると、平日の夜にも関わらず結構な人数の地元住民と思しき人たちが見受けられた。
市内唯一の天然温泉という事もあり、地元の者に親しまれている証拠なのだろう。
洗い場で汗を流し、高い天井とガラス張りの壁に囲われた大きな浴槽に入ると、自然と口から「あー……」という声が漏れた。頭を左右に傾げるとコキコキと首の関節が鳴る音が聞こえてきた。
(いよいよ明日から、駐在さんとしての生活のスタートかぁ……)
頭に載せたタオルがずり落ちそうになるのを右手で押さえ、本田はぼんやりとそんなことを考えていた。
(萌や亮子も上手く地域や学校に馴染んでくれるといいんだけど……)
温泉の心地よさで、ついうっかり寝てしまいそうになるのを堪えていると、雑多な事が頭の中をよぎっていく。
本田はしばらくの間、そうして明日への英気を養った。
風呂から上がり、大浴場入口の前に置かれたマッサージチェアに腰を掛けていると女湯の入り口から亮子と萌が姿を現した。
「じゃあ、レストランに行くか」
本田はそう言うと、重い腰を上げて3人で2階のレストランへと向かった。
売店横にある、緩いカーブを描いた半円形の階段を上ると、そこは高い天井と、ラベンダー畑に面した大きなガラス窓を備えた空間であった。
今は夜なので、景色を楽しむといった事ができないのが残念な所だが、昼間であれば一面に広がる紫色の絨毯のようなラベンダーを眺めながらの食事が楽しめるのだろう。改めて別な日の昼間に来てみよう。そう思っていると、係の者が3人を席に案内してくれた。
萌が目を輝かせてメニューブックを眺めている。本田は危機感を覚えて、ザっとメニューブックを眺めてみたが、どれも手事な値段であったので財布の心配をすることが無いと知り、思わず「ふぅ……」とため息をついた。
「どうかした?」
亮子の問いかけに「い、いや、別に……」と平静を装う。
「お刺身定食が美味しそうねぇ……」
「あ、いいね。俺もお刺身定食にしよう。……萌は決まったのか?」
「うーん……。じゃあ、あたしもお刺身定食!」
ウェイターを呼び、オーダーを告げる。するとオーダーを聞き終えたウェイターが「お箸ではなくナイフとフォークもご用意できますが、如何なさいますか?」と尋ねてきた。
本田は一瞬、このウェイターが何を言っているのか理解できなかったが、黒人である自分と萌を見て、海外からの観光客であると勘違いをしたらしい。
こういった事にはもう慣れっこだったのだが、引っ越しの疲れと入浴後という事もあり、すっかり油断をしてしまったのだ。
「いや、箸で大丈夫ですよ。私も娘も日本生まれの日本育ちですから」
本田がそう答えると、ウェイターは「大変失礼いたしました。……他にご注文はございますか?」と答えた。
「そうだな……、じゃあ、ウーロン茶を。亮子と萌は何か飲むかい?」
「私もウーロン茶を」
「あたしは……、ジンジャーエール!」
3人のオーダーをウェイターが確認して、オーダー票をテーブルの上に置き、厨房へと去って行った。
「ナイフとフォークで刺身かぁ」
本田がそう言うと亮子と萌がクスクスと笑った。
(いつか、こんな事があったねと笑い話になるような日が来るといいな)
本田は切にそう願った。
食事を終えて駐在所に帰ると、その夜はすぐに眠りに就くことが出来た。
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