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 翌朝、その日は前任者の藤田が同行して富良野警察署に出頭し、着任の諸手続きや富良野地域の実情などを学ぶ『地域教養』を受講する予定が入っていた。  それが終わると布礼別に戻り、地域住民が集まった公民館での歓迎会があるとの事であった。  本田は昨日の歌声喫茶YASUでの出来事を思い出し、どうか歓迎会を上手く乗り切れますように……と、頭の中で繰り返し念じていた。  薄野(すすきの)交番での勤務以来、久しぶりに白バイ隊員ではない一般警察官の制服を着用すると、新天地での初日という緊張感もあってか自然と気持ちが引き締まった。  本田家のマイカーに乗って、萌を富良野市内の学校に送り届けた亮子が帰って来た。壁の掛け時計を見ると、針は8時30分少し前を指している。  少しして藤田家のマイカーであるブルーのカローラフィールダーと、白黒ツートンカラーのスイフトのパトカーが連なって駐在所にやって来た。  フィールダーからは恵美子が、スイフトのパトカーからは前任者の藤田が制服姿で降りてきた。 「おはようございます」 「おはようございます。本田さん、あんたやっぱ背が高いし、スラっとしてるから警察官の制服が似合うね!」  本田と藤田、互いに敬礼を済ませると藤田が開口一番にそう言った。 「そうですか……、ありがとうございます。藤田さんは札幌では捜査課で刑事になるんですもんね。制服はこれが着納めですね」 「いやー、そうなんだわ。希望は前々から出してたんだけどねー……、まさか叶うとはねー。  あ、いや、本田さん。今回は本当に、大変だったねぇ。  ほら、例の暴走車のドライバー、遺体の体内から覚せい剤が検出されたって聞いたよ。  あんたも災難だったねぇ……」 「えぇ……、とは言え私が暴走車の追跡を止めるように山田警部補に進言していれば事故は防げたかもしれませんし……。  一方で、追跡を止めていたら一般市民に死傷者が出ていたかもしれませんし……。  正直なところ、どうすることが正解だったのか……。  今でも分からないんです」 「んー……、難しい。難しいなぁ」  藤田はそう言うと制帽を脱ぎ、もじゃもじゃの髪の毛を掻いた。 「ホレ、あんた。本田さんとくっちゃべってねぇで、サッサと富良野署に行って引継ぎやら、本田さんの着任の手続きやらやらないといけないべさ。  今日は午後から会館で本田さんの歓迎会もあるんでしょ? 早く2人で本署に行っといでよ」  恵美子にそう諭されて、藤田は笑顔で「大丈夫だ。何とかなるっしょ」と言って本田にパトカーの助手席に乗るように促した。  運転席のウィンドウを開けた藤田に、恵美子が駆け寄る。 「したら、あたしは亮子さんを手伝って荷物の片づけやらしてるからね」 「んー。それじゃ行ってくるわ」  藤田はそう恵美子に告げ運転席のウィンドウを閉め、富良野警察署に向けてパトカーを発進させた。 「そう言えば高橋署長……でしたっけ。富良野署の署長って、どんな方なんですか?」  本田の問いかけに、藤田が前を向いたまま答える。 「んー。高橋署長かい? あの人は元々民間からの転職組らしくてねー……。  確か大学を出て大手化学メーカに就職したらしいけど、1年かそこらで直ぐに辞めて道警に転職したんだってさ。  元々根っからのインテリタイプみたいだったのと、上の偉いさんに可愛がられたのもあってノンキャリにしては、あれよあれよと出世して行って、45歳で警視。富良野署の署長ってワケさ。  あんまり署員個別の事情とかには興味が無い人だけど、問題が起こるのを嫌うタイプだねー……。ほら、事なかれ主義っていうやつさ。  本田さん、あんた最初に署長から釘を刺されるかもしれないね。  ……ま、何とかなるっしょ。大丈夫、大丈夫。」  藤田はそう言うと、本田の方を一瞥して人懐っこそうな笑みを浮かべた。  この『何とかなるっしょ』というのは、きっと藤田の口癖に違いない。  それにしても、早くも署長の高橋に目を付けられているらしいというのが気にかかる。  高橋とは、今まで電話で少し話しただけであり、会うのは今日が初めてでどんな人物か分かりかねていたのだが、藤田の話を聞く限りでは絵に描いたような神経質なタイプなのだろうか?  本田の口から思わずため息が漏れた。 「大丈夫、何とかなるっしょ」  藤田が早くも今日3回目の『何とかなるっしょ』を口にした。  そうこうしているうちに、パトカーはいつの間にか富良野市中心部に入り、昨日、萌のバイクを買ったバイク屋の目と鼻の先にある富良野警察署の敷地に入って行った。  藤田が署の前にある駐車スペースにパトカーを停め、彼と2人連れ立って車から降りる。  鉄筋コンクリート2階建ての庁舎は、正面玄関を覆う様に大きく張り出した(ひさし)金色(こんじき)の輝きを放つ旭日章(きょくじつしょう)と、通称『赤灯(あかとう)』と呼ばれる赤い球体の形をしたランプが掲げられており、それだけでもここが警察署である事を主張しているのだが、庇を支える太い2本の円柱状の柱の一方に黒い梨地(なしじ)に金文字で『北海道警察 富良野警察署』と書かれた金属のプレートが掲げられていた。  庁舎に入ると2人は玄関で別れ、本田は1階奥にある署長室に向かった。  日本全国どこの警察署でも同じなのだが、署長室というのは警察署の1階にあり、そして署長の勤務時間中は常にドアを開けておくという決まりがある。  部屋に近づけば自ずと来訪者の存在を中の人間に知られてしまうというのが、どうにも慣れない。  これでテレビの刑事ドラマのようにドアが閉まっていれば、まだ一息ついて気持ちの余裕を持たせることが出来るのに……。  本田はそんな事を考えながら、署長室の開け放たれているドアの前に立ち、気を付けの姿勢をした。 「失礼します。本田省吾巡査部長。布礼別警察官駐在所着任の為、出頭致しました」  本田がそう言って敬礼をすると、部屋の奥にあるプレジデントデスクに置かれたノートパソコンに向かい、黒い革張りのマネージメントチェアに腰を掛けている男が顔を上げた。  彼はノートパソコンを閉じると、椅子に座ったまま一言「どうぞ」とだけ言った。  男の背後の壁には『道心(どうしん)堅固(けんご)』と毛筆で書かれた書が額に収められて掲げてある。  署長室や本部長室という、偉いさんの部屋にはどうして必ずと言っていいほど四字の故事成語(こじせいご)が書かれた書が掲げてあるのか?  これがロイ・リキテンスタインなどのアメリカンポップアートや、マウリッツ・エッシャーなどの騙し絵などであれば随分と雰囲気が和らぐものなのに……。  あまり耳にしない故事成語の書などは、ワザと息苦しく感じさせ、来訪者を威圧する為に掲げてあるとしか思えない。  本田は『署長』と書かれた木製のプレートが置かれたデスクの前まで歩いて行った。  男は夏服である青いワイシャツを着用し、その胸には警視である事を示す階級章が付けられている。 「富良野署 署長の高橋(たかはし)雄一(ゆういち)です。はじめまして」  高橋はそう簡潔に自己紹介をすると、椅子に深く腰を掛けたままデスクに両肘を付き指を組んで、手を頂点とした三角形を構成する仕草をした。   「札幌ではいろいろと大変だったようだね。  ここ、富良野は君も知っていると思うが、日本国内はおろか、今となっては国際的にもそこそこの知名度を誇る観光の町だ。  そんな町で派手にドンパチをやられると道警だけではなく、地域にとっても大変なマイナスとなる。  どうか、地域警察官として職務に励んでほしい」  高橋が『地道に』の部分を殊更強く発音したのが気にかかったが、ここで変に言い返して話が長くなるのも困る。  それになにより彼が本田に対して言いたいのは「大人しくしていろ」という事なのだから、それさえ守っていれば、彼にとっては自分の事などどうでもいいのだろう。  本田は喉まで出かかった言葉をぐっとこらえて、一言「はい」とだけ答えた。 「よろしい。何か質問はありますか?」 「いえ、ありません」 「では、着任の手続きと、それと前任の藤田巡査部長と引継ぎ……、それから地域教養を受講して下さい」 「はい、では失礼します」  本田はそう言うと、高橋に敬礼をして署長室を後にした。  自分はもう札幌で花形の白バイ隊員をしていた時の自分ではなく、ここ富良野の町の郊外にある駐在のお巡りさんなのだ。  今は一刻も早く地域住民の信頼を得て、地域の一員としてのどかに過ごせるように歩んでいくしかない。  本田は警務課に向かって歩きながら、自分に言い聞かせるように何度も頭の中で同じことを考えていた。  やがてドアの上に『警務課』と書かれたプレートが掲げられた部屋の前で立ち止まり、ドアを軽くノックした。  本田がドアを開けると、中に居るほぼ全員が、本田の顔を見て一瞬ギョッとした表情をした。 (ヤレヤレ……、また珍獣扱いか……) 「布礼別警察官駐在所に着任しました本田省吾です。よろしくお願いします」  本田はそう言って、室内に向けて一礼をした。  特に何か反応があるわけでもなく、皆こちらに目を合わせないようにしているように見受けられた。  天井から『総務係』と書かれた樹脂のプレートが吊り下げられている一角に歩いていき、事務机に向かっている女性職員に声を掛ける。 「すいません。着任の諸手続きをしたいのですが」  本田にそう話しかけられた女性職員が、一瞬困惑したような表情を浮かべた。 「え? あぁ、はい。ほ、本田さん……、ですね」  女性は机の上に上げられた書類の束からピンクの付箋が付いた角型2号の茶封筒を取り出すと、席から立ち上がり「じゃあ、あちらで記入をして下さい」と部屋の隅にある応接セットの方へ本田を案内した。  応接セットのソファに座り、テーブルの上に広げられた異動関係の書類にボールペンで記入をしていると、先ほどの女性職員がお盆に湯飲みを載せてやって来た。 「どうそ、お茶でも飲みながら記入――、あっ! 本田さん、緑茶よりもコーヒーの方が良かったですか? お国では日本茶って飲んでました?」 「あはは。私は黒人ですけど生まれも育ちも日本ですから、緑茶でもコーヒーでもよく飲みますよ。それに日本から出たことありませんしね。  英検3級しか持ってないから、海外旅行にでも行ったら、どうしようなんて心配してるんです。  ……まあ、緑茶だったら、おはぎでもあるといいんですけどね。好きなんですよ、おはぎ。  祖母が良く、つぶあんのおはぎを作ってくれましてねぇ」 「え? あぁ、そ、そうだったんですか……。やだ、あたしったら、ご、ごめんなさいね。あはは……」  こういったやり取りは本田にとって、もうすっかり慣れっこになっていた。  そして今頃、転校したばかりの富良野の高校で、クラスメイト達の好奇心の的になって、似たようなやり取りにすっかりウンザリしているであろう娘の萌の身を案じた。  書類の束への記入を済ませ、警務課の居室を出た本田は無意識に首を左右に傾げた。  コキコキと首の関節が鳴る音が体内に響く。  ある程度予想はしていた事であるが、皆と見た目が異なるマイノリティの自分は、やはり新天地では珍獣扱いをされ好奇の眼差しに晒される。  これはもう一種の通過儀礼なのだ。  ただ……、これがアメリカを始めとした欧米諸国ならどうだろうか? 黒人の警察官、一般市民など別に珍しくもなんともないのだろうから、今自分が経験しているような事などは殆どないのではないだろうか?  度々マスメディアなどが取り上げる人種差別問題とはまた違い、かの国々では全体に占める黒人やヒスパニック、アジア系など、いずれもそれなりの割合が存在し、コミュニティを形成するまでに至っているので、自分と違う人種が居たところでイチイチ珍しがってなど居ないのだろう。まさに人種の坩堝(るつぼ)とは、よく言ったものだ。  いずれ、日本でもそのような社会情勢にはなっていくのであろうが、はたして自分が生きているうちにそのような時代がやってくるのであろうか?  テレビドラマに黒人の役者が普通に出てくるようになるには、あと何年かかるのだろうか……?  それだけではない。バスの運転手、役所の窓口、政府の官僚、学校の教職員……、例を挙げればキリがない……。 「本田さん、遅いじゃないの。警務課で油売ってたの?」 「わっ! ふ……、藤田さん! ど、どうしたんです?」 「どうしたって……、本田さんが遅いから迎えに来たんだよ。  警務課で油でも売ってたんじゃないかなって思って、迎えに来たんだよ」  廊下で考え込んでいたところに不意を突いて藤田が話しかけてきて、本田は思わず驚嘆の声を発してしまった。 「あ、いや、思ったよりも記入しなきゃいけない書類が多くって……。  時間がかかってしまいました」 「あー……、そうだったの。それはそうと、ほら、地域教養を受講しなきゃいけないでしょ?   午後から集落センターで本田さんの歓迎会があるから。早いとこ済ませちゃいましょう」 「そうですね」  藤田はそう言うと本田に対し、自分の後に付いてくるように促した。  2人で廊下を歩きながら、本田は藤田に問いかけた。 「藤田さん、私のような黒人が……、黒人警察官が布礼別の地域に馴染んで行けるでしょうか?」  そう問いかけられた藤田がピタリと立ち止まり、本田の方を振り返ると人懐っこそうな笑みを浮かべた。 「本田さん、そんな事考えてたの?  ……大丈夫、何とかなるっしょ」  藤田は今日4回目の『何とかなるっしょ』を口にして、本田の左肩をポンポンと叩いた。  藤田と2人連れ立って地域課の居室に入る。  先ほど警務課の居室に入った時のように室内のほぼ全員が本田に注目をしたが、先ほどのそれに比べると、幾分かマイルドな印象を受けた。  きっと藤田が後任の本田の事をイロイロと話していたからに違いない。 「皆さん、ちゅうもーく! こちらが先ほどお話ししました、私の後任で新しく布礼別駐在所に着任した本田省吾巡査部長です!」  藤田が手をパンパンと叩いて地域課の皆に本田を紹介した。  すぐに全員が拍手で本田を迎えた。  思いもよらず、拍手で迎え入れられ、本田は頬がカァーっと熱くなるのを感じた。 「よ、よろしくお願いします!」  本田がそう言って頭を下げると、鳴り止みかけていた拍手がもう一度盛大に鳴り響いた。こんなことは初めてなので、なんだかとても照れ臭い。 「ね? なんとかなるって言ったっしょ?」  藤田がそう本田に耳打ちをした。  拍手が鳴り止み幾らかも経たぬうちに、2人の元に恰幅(かっぷく)のいい中年男性が歩み寄って来た。男の胸元には警部の階級章が誇らしげに付けられている。 「富良野警察署 地域課長の山谷(やまや)です。本田さん、ようこそ富良野へ!  さ、藤田くんと引継ぎと、それに地域教養をやりましょう」  山谷は本田にそう告げると、藤田の方を向き「藤田くん、2階の会議室の準備は出来てる?」と聞いた。  藤田が「はい、できてます」と答えると、「じゃ、行きましょう」と2人に先立って地域課の居室を後にした。  富良野一帯の地域の事情について学ぶ『地域教養』であったが蓋を開けてみれば何のことは無い、雑談交じりで日々の警らのルートについてや、住民からよく寄せられる相談事、地域特有の事件事故の傾向などを小一時間教えられたり、後は藤田から本田への簡単な引継ぎなどであった。  本田は山谷に一礼をし富良野警察署を後にすると、藤田と共にスイフトのパトカーに乗り布礼別へと向かった。  駐在所に着くと時刻は12時30分を少し回ったところであったので、藤田と共に駐在所の住居部分でカップラーメンと、おにぎりの簡単な昼食を済ませた。  壁に掲げられた時計の長針が45分を過ぎようとした時、藤田が本田の方を見て「じゃ、本田さん。歓迎会に行くかい」と声を掛けた。    座布団から立ち上がった本田に亮子が話しかける。 「私は富良野市内に行って買い物と、それから銀行に寄って、昨日のバイク屋さんに  バイクの代金を支払って来るわね」 「あぁ、分かった。 ……そうだ、どうせ後で萌を学校に迎えに行くんだろう?  それなら、学校が終わる時間までどこかでお茶でも飲んで時間を潰して、萌と一緒に富良野市内で晩飯を食べておいでよ。俺は隣のYASUで適当に何か晩飯を食べるからさ」 「そうね……、そうするわ」  同じく座布団に座ってグラスに注がれた麦茶を飲んでいた恵美子が本田に向かって笑顔で手を振りながら「じゃ、本田さん。私もこれでお(いとま)するから、がんばってね!」とにこやかに言った。 「はい。すいませんね、藤田さんのところも札幌への引っ越しで忙しいのに、イロイロと手伝ってもらって……」 「なんもなんも、気にする事ないっしょや。こういうことはお互い様。  本田さんがいつか布礼別から別の何処かへ異動するときは後任の人の引っ越しを手伝ってやればいいんだ」  恵美子にそう言われ、本田は咄嗟(とっさ)に自分が別の何処かへ異動するのは何時になるのだろうか? ひょっとしたら、もうずうっと布礼別に居る事になって、このままココで警察官人生を終えることになるのではないか……。なんだかそんな予感がして黙り込んでしまった。 「じゃ、本田さん、行こうか」  藤田にそう声を掛けられ、本田は慌てて「あ、はい」と返事をし藤田の後に続いた。    布礼別警察官駐在所から、歓迎会の会場である布礼別集落センターまでは距離にして3~400mほど、まさに目と鼻の先にある。  車など使わなくとも十分歩いて行ける距離なのだが、警察官としての勤務時間中である為、藤田が乗って来た本署のパトカーと、それに駐在所のパトカーの2台を無人の交番に置いていくわけにもいかず、藤田はスイフトのパトカーに、本田はジムニーシエラのパトカーにそれぞれ分乗した。  本田達に続いて駐在所の住居部分の戸締りをした亮子と恵美子が外に出てきて、それぞれのマイカーである白いエスクードとブルーのカローラフィールダーに分乗をした。  布礼別地域唯一の公民館である集落センターに2台のパトカーで向かうと、既に前庭兼駐車スペースには無難な黒いボディカラーのクラウンなどの国産高級車や軽トラック、それにヤリスなどの国産コンパクトカーが十数台停められていた。 (……車種のチョイスが農家だな)  本田はそんな事を考えながら、藤田に続いて集落センターの中に入った。  会場である多目的ホールに入ると、集まった地域住民がそれぞれに雑談などをしてざわついていたのが一気に静まった。  住民たちは皆一様に警察官の格好をした黒人青年である本田の一挙手一投足を固唾を呑んで見つめていた。  多目的ホールの壁には手書きの筆文字で『歓迎 本田省吾巡査部長 ありがとう 藤田啓介巡査部長』と書かれた横断幕が掲げられていたが、この状況はどう見ても歓迎されているようには思えなかった。  沈黙を破るように藤田が威勢よく住民たちに向かって話しかけた。 「もなさん、お忙しいところお集まりいただいて恐縮です。  ご存じの通り、この度私、藤田啓介は札幌へ異動となり、念願叶って刑事になることになりました!」  一斉に拍手が起こり、誰かが藤田に向かって「あんたに刑事が勤まるんかい!」とヤジを飛ばし、それを聞いた皆が一斉に笑った。 「えー……、さて、布礼別警察官駐在所の後任の警察官ですが、こちらにいらっしゃいます本田省吾巡査部長がこの度着任されました」  藤田に紹介され、本田が制帽を脱いで住民に向かって頭を下げた。  頭を上げた本田は制帽を被ると、住民に向かって精いっぱい愛想よく話しかけた。 「ご、ご紹介に預かりました本田省吾です。この度札幌からこちらの布礼別に異動となりました。  ……えー、札幌では交通機動隊に所属しておりまして、白バイ隊員として主に白バイに乗務して交通違反などの取り締まりなどをしておりました。  皆様、よろしくお願い致します」  先ほどとは打って変って会場は静まり返ったままであった。  やはり皆、例の事故の件を知っているのだろうし、それに黒人であるよそ者の自分の事を警戒しているのだろうか?  突然会場の後方で一人の男が立ち上がった。  男は顎と鼻の下に立派な髭を生やしているが、髭を含め頭髪や眉毛など全てがすっかり白い色していて、深い皺がいくつも刻まれた顔は70代を思わせる顔立ちであった。  それに反して眼光は妙に鋭い、一見して厄介そうな『頑固ジジイ』と言った風貌である。 「こいつは外人じゃないか! ただでさえ得体の知れないよそ者が来るのには反対だったのに、その上外人だなんて!  俺は認めん。外人の駐在なんて認めないからな!」  本田は男に対して必死の弁解をした。 「あ、あの、私は外国人じゃありません。帰化したわけでもないんです。  日本で生まれ、日本で育ちました。もちろん生まれた時から日本国籍です。  確かに父親はアメリカ人ですが、私が物心つく前に帰国してしまいました。  日本の学校で、日本語で教育を受けた日本人です」  男が怒りを露わに本田に言い返す。 「そういうことを言ってんじゃねぇ! 大体外人は平気で人の畑に入ってきて作物を踏み荒らしていく! おまけにトラクターまで勝手に乗る奴もいるんだ! お前はそんな連中と同じだろう!」 「私はそんな事しません。農業の経験はありませんので布礼別の皆さんに教えてもらう事は沢山あると思います。それに私は地域の安全を守るために来ました」  本田の必死の弁解も虚しく、男には全く届いていないようであった。 「大体お前は札幌で不祥事を起こして布礼別に飛ばされてきたそうじゃないか!  そんな奴は断じて認めない! 札幌に帰れ!」  男はそう怒鳴りつけると怒り心頭と言った様子で多目的ホールから出て行った。  残された他の住民たちはそれぞれに顔を見合わせてざわつき出した。 事態を収拾しようと藤田が住民達に向かって話しかけた。 「み、みなさん。とにかく、この本田巡査部長が私の後任として布礼別駐在所の後任となりますから、よろしくお願いしますね」  藤田はそう言うと、本田の腕を引っ張ってそそくさと会場を後にした。 「本田さん、とりあえず駐在所に戻ろう! ね!」  本田は藤田にそう言われ、ただ一言「はい」とだけ答えた。  2人でそれぞれのパトカーに乗ると、まるで逃げるように目と鼻の先にある駐在所に向かった。  駐在所に戻った本田は制帽を脱ぐと、それをスチール製の事務机に置き椅子を引き出して腰を掛けた。自然と「ハァー……」とため息が漏れた。 「こんなことになってしまって、これから先上手くやって行けるだろうか……」  本田がそうつぶやくと、藤田がお得意の「何とかなるっしょ」の言葉を本田に言った。 「何とかなるっしょって、藤田さん。あなたもさっきの爺さんの剣幕を見たでしょう?  とても何とかなるような雰囲気じゃなかったでしょう。  ……全く、他人事だと思っていい気なもんだよ」    藤田は戸棚から急須と緑茶の茶葉が入った缶を取り出し、お茶を淹れる準備をしながら呟いた。 「俺も布礼別に来た時は横尾(よこお)の爺さんに罵倒されたもんだよ……」 「え? 横尾? あの爺さん、横尾って言うんですか?」  藤田が駐在所に備え付けの電動ポットで急須に熱湯を注ぎながら、本田の方を向いた。 「あぁ、横尾の爺さんは偏屈な爺さんってことで布礼別じゃちょっとした有名人なんだ。  それにさ、本田さん。集落センターの多目的ホールに横断幕が掲げてあったでしょ?  『歓迎 本田省吾巡査部長』って。  あれは他でもない、布礼別の住民が書いたんだよ。それに歓迎会だってこちらからお願いしたわけじゃないんだ。住民が自主的に開いてくれたんだよ。  本田さんを罵倒したのだって横尾の爺さん一人だけでしょ?  基本的には皆、新しい駐在さんである本田さんの事を歓迎しているんだよ」  藤田は緑茶の入った2つの湯飲みと急須をプラスチック製のお盆に乗せて事務机に置くと「よいしょ」と言って本田の対面にある椅子を引き出して腰を掛けた。 「とても歓迎されているようには見えませんでしたけど……」  本田は湯飲みを手に取り、緑茶を一口飲んだ。 「布礼別は田舎だからさ、皆テレビや映画でしか黒人を見た事が無いんだよ。  ALTの教員だって白人ばっかりだしさ、……そもそも農家のおじさんおばさん連中は、そのALTの教員ですら直接会ったり話したりしたことが無いからね。  本田さんみたいに日本生まれ日本育ちの生粋の日本人の黒人って存在に初めて会って面食らってるだけさ。  まあ、それと例の札幌での暴走車の一件、……あれがテレビのワイドショーなんかで大袈裟に報じられたりしたからね……。  大丈夫、なんとかなるっしょ」 (※ALT:外国語指導助手の事。外国語を母語とする外国人を各地の教育委員会が小中高校に派遣している) 「……珍獣扱いされるのはもう慣れっこと言えばそれまでですけど、……傷付くんですよね。  マイノリティであるが故の宿命……、それに横尾さんは別として、他の人たちには悪意が無いからこそ尚のこと傷付くんですよ。  私は普通の日本人として、そして普通の警察官として極々平凡に暮らしたい。  ただそれだけなんです」  緑茶を飲み終えた藤田が湯飲みを事務机に置いた。 「それには時間がかかるよね。  ……時間がかかるけど、いつかきっと本田さんみたいにハーフの警察官が珍しくも無い世の中が来るよ。  何事も先陣を切って進んで行く者ってのは大変なんだろうね。  でも、本田さんはこれから一人で布礼別の平和を守って行かなきゃならないんだ。  泣き言も言ってられないっしょ?  ……俺もさ、昔から刑事に憧れてて、念願叶ってついに札幌で刑事になれるって聞いた時は嬉しかったけど、すぐに喜びが不安に変わったんだよ。  いままで10年、ここ布礼別で田舎の駐在さんをしていた俺が札幌で刑事なんて勤まるのかなってね。  ……でも泣き言は言っていられない。そうでしょ?  だから「なんとかなるっしょ」で過ごして行くくらいの面の皮の厚さが無いとね。  俺で良かったらいつでも相談に乗るし、互いに愚痴でも言い合おうよ。  いつでも電話ちょうだい」  藤田は制服のポケットからスマートフォンを取り出すと何やら操作をして本田に画面を見せた。 「これ、俺の私物のスマホの電話番号とメールアドレス。  今ワンギリしてよ。アドレス帳に登録するからさ。  まあ、俺の方が本田さんに電話やメールで愚痴る事の方が多いかもしれないけどね。  ハハハ……」    本田は制服のポケットから私物のスマートフォンを取り出し、藤田が差し出したスマートフォンの画面を見ながら表示されている番号に電話を掛けた。  藤田のスマートフォンの通知ランプが緑色に点滅し、スピーカーからはOfficial髭男dismのPretenderのサビの部分が流れ出した。 「藤田さん若いなぁ、着信音が髭男(ひげだん)だなんて……」  藤田がスマートフォンを手に人懐っこそうな笑顔を浮かべる。 「気持ちだけでも若く居ないとね。ハハハハ……」  藤田がスマートフォンを何やらいじると、次の瞬間に本田のスマートフォンから山下達郎のRide on Timeが流れ出した。 「わっ!」  本田が驚いている(さま)を見て藤田が笑った。 「本田さん、着信音が山下達郎とは……、あんたいいセンスしてるねぇ」 「……意外でした? 俺、黒人だからよくソウルミュージックとかヒップホップが好きなのかって聞かれるんですけど、……ソウルミュージックなんて聴いたことないんですよね。ヒッピホップに至っては、あのノリには付いていけませんもん。  警察学校じゃ同期にジェームスって渾名を付けられてましたから、ハハハ……。  酷いですよね、黒人だからジェームス・ブラウンにちなんでジェームスだなんて。  好きなのは断然J―POPです。80年代、90年代……そこら辺のが好きなんですよね。  山下達郎とか、小田和正とか……、あ! レベッカとか杏里なんかも好きなんですよ」 「全然意外じゃないよ。そりゃ日本で生まれて日本で育ってきたんだもん。  それにしても本田さん、あんたジェームスって渾名、実は気に入ってるんじゃないの?  なんだかうれしそうな顔してるよ」   「あ、分かります? 最初は嫌だったんですよね。だってジェームスなんて渾名、俺の見た目だけで付けた渾名じゃないですか。  ……でもね、警察学校の初任科で同期と一緒に厳しい訓練に耐え、同じ釜の飯を食って生活していくうちに同期が俺の事を『仲間』だと認めてくれている証なんだなって……、コイツらと俺を繋ぐ絆みたいなものなんだなって、そう思えるようになったんです。  本庁で偶然同期と会った時に、久しぶりにジェームスって呼ばて本当に懐かしい気持ちで胸が一杯になりました。  暴走車の一件の時も同期を始めとして交機のみんなが俺の為に嘆願書を書いてくれましてね……。 本当にありがたくて……」  本田はそこまで話して、急に目頭が熱くなるのを感じ、俯いてしまった。  藤田が黙って本田の肩にポンと手を置いた。 「本田さん、あんたいい仲間を持ったじゃないか。俺もあんたに会う事が出来て良かったよ。あんたは一人じゃない。応援してくれる仲間が居るんだ。  大丈夫、布礼別でもやっていけるよ。  なんとかなるっしょ」  本田は顔を上げて藤田を見つめた。 「藤田さん、あんた本当に「なんとかなるっしょ」が口癖だねぇ」 「え? そうかなぁ? そんなに言ってる?  ま、なんとかなるっしょ」 「あ! ほらまた言った!」  本田と藤田は互いに顔を見合わせて笑った。 「じゃあ、頑張って!」 「藤田さん、あんたも頑張って!」  本田と藤田は固く握手を交わした。    藤田がスイフトのパトカーに乗り駐在所を去った後、本田は駐在所の中で書類に目を通したり、片づけをしていた。  ふと左手に嵌められた腕時計に目をやると時刻は午後6時を少し過ぎた頃であった。 「もうこんな時間か……。そういや亮子には萌と一緒に富良野市内で夕食を食べてくるように言ったんだっけ」  そう独り言を呟いた後で空腹感を感じ、ふと頭に隣の歌声喫茶YASUのマスターの顔が浮かんだ。 「よし、じゃあYASUで何か食べるか……」  制服のまま、駐在所を出た本田はものの数十秒で歌声喫茶YASUの看板の下に居た。  店のドアに手を掛けたところで、彼は取っ手を引くのを一瞬ためらった。 (もし、店内に布礼別の住民が居たらどうしよう……。昼の歓迎会に居た住民が居たら気まずいなぁ……)  その時、不意を突いて本田のお腹が『グゥー』と鳴って、主人に空腹である事を知らせた。 (腹が減ったまま駐在所に戻るのも嫌だな……。ええい、ままよ!)  本田は意を決してドアの取っ手を引いた。  店内は昼間の賑わとは打って変って客が全くおらず、マスターがアンティークな風合いのバーカウンターの中で黙々と白いふきんでグラスを磨いているだけだった。 「いらっしゃい! お! 本田さん、早速来てくれたんだね!」  マスターがグラスを磨く手を止め、入口の本田に向かって愛想の良い笑顔を見せながらそう言った。 「さ、そんなところに突っ立ってないで入って! 入って! ほら、カウンターでもテーブル席でも、何処でも好きな所に座って」    マスターにそう促され、本田は「あ、はい……」と言ってカウンターの席に着いた。  「昼の歓迎会は大変だったみたいだね。早速、横尾の爺さんの洗礼を受けたんだって?」  マスターは本田に背を向けて、棚にグラスを仕舞いながら言った。 「え? どうして知っているんです? ……マスターはたしか、歓迎会には居ませんでしたよね……?」  グラスを仕舞い終え、本田の方に向き直ったマスターが笑いながら右手を団扇のように顔の前で左右に振った。 「そりゃ、こんな田舎じゃ何でも筒抜けだよ。噂が広まるのも早いからね」  マスターはそう言い終えると氷水の入ったグラスとコルクのコースターを本田の前に置いた。  本田は氷水を一口飲むとマスターから視線を逸らし、その場に俯いた。 「もう散々でしたよ……。横尾さんには外人だの何だのって、すごい剣幕で罵倒されましたし……」 「前任の藤田さんも、布礼別に来た時は横尾の爺さんにガツンとやられたからね。  『よそ者に何が分かる! 札幌に帰れ!』ってね。  まあでも、横尾の爺さんも悪い人じゃないんだ。あの爺さん、ああ見えて苦労人でね。  爺さんは横浜生まれで、戦後の食糧難の為に母親の親類を頼って一家で布礼別に来たんだけど、農地の開拓に随分と苦労したらしいよ。既にいい土地は地元の農家が持っていて、横尾一家は木が鬱蒼(うっそう)と茂っている原始林を、イチから開墾していったって言うんだから、想像を絶する困難だっただろうね。  それに農業の『の』の字も知らないド素人がいざ農業を始めようってんだからさ。  最初のうちは(ろく)に作物が育たなくて、その日食べる物にも困るようなありさまだったらしい。  それに横浜から来た都会のよそ者っていうんで随分とイジメられたりもしたらしい。    それでも一家で一所懸命に畑を耕して働く姿に、やがて布礼別の住民も心を打たれて横尾一家を手伝ったり、農業のノウハウを教えて行ったりしてそうだよ」 「横尾さんが苦労人だってのは良く分かりました。それに自分自身も、よそ者だって事で苦労したんなら、なぜああやってキツく当たるんでしょうかね? もう、すんごい剣幕でしたよ。まるでよそ者に親でも殺されたのかってくらい」  マスターは茶色い革の表紙のメニューブックを本田の前に置いた。 「横尾の爺さんは……、いや、布礼別の農家、それに富良野や美瑛(びえい)の農家はみんな『よそ者』には苦労させられているからね。特に『外国人』には手を焼いているんだよ」 「え? 苦労させられているって……、一体何があったんです?」  本田にそう聞かれて、マスターは腕を組みながら答えた。 「本田さんも知っていると思うけど、富良野や美瑛は観光地として日本国内だけでなく外国でも有名なんだ。  ただ、他の観光地と違うのは観光の目玉が起伏の激しい丘に畑が広がる風景だって事なのさ。  よそから来た観光客の連中はカメラやスマホを片手にずかずかと畑に入りこんでくるんだよ。  そうやって畑に入られると、農作業の邪魔なだけじゃなくて作物に有害な病原菌や害虫の卵なんかを畑に持ち込んでしまう。  それに中には畑にゴミやタバコの吸い殻なんかを捨てて行ったり、作物を引っこ抜いたり、土地の境界線に植えてある樹木に自分たちの名前なんかを刻んでいったり、畑に停めてあるトラクターに勝手に乗って作物をトラクターで踏み荒らしていくような悪質な連中まで居るんだ。  それを見つけて注意をしたら逆上して殴りかかってくるようなヤツまで出てくる始末さ。  全く、観光地として有名になるってのも善し悪しだよねぇ。  農家の人らにとっちゃ、とくに恩恵があるわけでもないしね」   「へぇー……、そうなんですか。そりゃ横尾さんだけじゃなくてもよそ者が嫌いになりますね」 「あぁ、特に外国人観光客の連中には言葉も通じないし、手を焼いているってのが現状なのさ。  だから、横尾の爺さんは本田さんの見た目で思わず頭に血が上っちゃって『外人』って罵倒しちゃったんだろうね」 「何処へ行ってもですよ。日本人としては見てくれない。  私は日本生まれ、日本育ちで、日本語で教育を受けてきた、日本人なんです。別に特別な事は望みません。ただ普通に……、普通の日本人として、普通の警察官として平凡に暮らしていきたい。ただそれだけなんです」 「まあ、それを変えていくのは他でもない、本田さん。あんただよ。  これからさ、あんたと同じように日本各地で様々な人種の警察官が……。いや、警察官だけに限らず、消防士、教師、政治家が誕生するだろう。  何事も道を切り開いていくものってのは大変なもんさ」  本田はふと、交通機動隊時代の上司である山田に掛けられた言葉を思い出した。 (……お前が黒人っちゅうんは死ぬまで変わらんやろ? それをあれこれ悩んでもしゃーない。ほな、開き直ってこれから続いてくるやろうハーフの警察官の後輩達の為に、お前がその存在を世間に知らしめてやればええねん。  何事も先陣を切るっちゅうんは難儀なこっちゃで。せやろ?  今が踏ん張りどころや。つまりな、フロンティアスピリッツっちゅうこっちゃ! 開拓者精神で今の難局を乗り切らなアカンで!  なーに、心配せんでも歳取ったら笑い話になるやろ、笑う門には福来たるっちゅうやっちゃ!)  本田は急激に目頭が熱くなるのを感じ、とっさにメニューブックを開いて顔を隠した。 「……かつ丼、一つ」   「はいよ。かつ丼ね」  マスターはそれだけ言うと厨房へ向かった。
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