白鯨の詩

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 海へ行きませんか、と後輩が笑った。  何をしに行くのかと問えば、やはり笑って「白鯨に逢いに行くのです」と言う。  その目はただただ黒くきらきらと光って懐かしい心地がしたので、それでつい頷いてしまった。大学の車をこっそり拝借するのにも慣れたものだ。耳に馴染んだひそやかな周波数を聞くともなしに聞きながら、車は夜道をおろおろと踊り、やがて真っ暗な波止場へと辿り着いた。  潮のにおいが肺に満ちた。海鳴は硝子のようだった。月は半月の姿をして水面にばらばらと破片を零し、匙に掬ってそっと口に含みたくなる色と香りとを大気に溶かしている。闇夜に消えかけの影がふたつばかり、灯りも持たずに微かに濡れたコンクリートの上を行く。  前方で危なっかしげに跳ねる後輩はやはりきらきらとした目で、夜との境目が曖昧な海を見詰めていた。暗いばかり、黒いばかりの海を、だ。生き物の鳴き声も聞こえない向こう側を、しかし彼女はじっと眺めている。 「だから言ったろう」 「なにがです?」 「白鯨だよ。見られるわけがないだろう。絶滅危惧種ⅠA類だぞ」  白い尾の影も形も見当たらない海を、無感情に見遣りながら呟く。 「最新鋭の調査船が精鋭の研究者を乗せて一年かけて調査したところで、一匹見付けられれば上々だというのに。だいたいそんなもの、見てどうするつもりだったんだ。論文にでも記載するつもりか、サンプルでも採るのか」  すると彼女は立ち止まり振り返った。距離は少し空けたまま、まだいとけない顔立ちが、今度は私をじっと見詰める。海を見ていた眼差しとは少し違うそれを見詰め返すうち、やがて、彼女が口を開いた。口頭試問に答えるような顔をしていた。 「賭けをしていたんです」 「賭け?」 「今夜白鯨に逢えたら、私、一世一代の告白をしようと思っていたんです――先輩に」  微かに瑠璃色をした波が、すぐ足下で音を立てて砕けた。  遠く岸壁に構えた灯台が、規則正しく回転して我々の頭上近くに光を寄越す。暗がりにでもそれと解る、頬を紅潮させた後輩が照らし出された。口は真一文字に引き結んで、緊張した面持ちをしていた。視線は真っ直ぐに私へと向かい、やはりきらきらと目眩みそうに瞬いている。不出来な後輩にしては可愛らしい顔じゃあないか、と私は感嘆した。なるほど真面目な話をしているようだ、とも悟ってしまった。  それで数拍、反応が遅れた。最初に出した音は息継ぎのそれになった。これは弱った、なんと答えればいいものか検討もつかない。 「――それはそれは」  灯台の灯りは、やはり規則正しく去っていった。足下は黒々として心地がよかった。 「たいそうな賭けだ。する気がないのも同然だろう」 「なぜです?」 「そりゃあお前、白鯨なんて見られるわけがないからだよ。現に、ほら、見てみろ、影も形もないだろう」言いながら両手をいっぱいに伸ばし、四方の海を指し示した。ひたすら暗い景色の中でのその動作が、彼女に見えていたのかは定かではない。見えていなかったのかも知れない、彼女はせっかく示してやった海の方角には一瞥もくれず、こちらばかりを見ていたのだから。 「……いいえ」  潮騒と一緒に、小さな否定が耳に届いた。また、灯台が頭上を照らす。微笑む彼女の姿が煌々と浮かび上がった。いいえ、ともう一度囁くのが聞こえた。 「白鯨には逢えました」 「どこにもいないだろう」 「だって、先輩は一緒に来てくれましたから」  灯りが往った。  海が遠のいたように、一瞬、なにもかも聞こえなくなった。頭が理解するよりも先、心臓の方が先に狂って早鐘を打つ。まさか。そんな筈はない。思い違いだ。己を嗤いながら闇夜の先の彼女を凝視する。微笑んだままの顔はなにもかも見通し、そして許すような、まるで宗教画じみた様相だった。何故。酷くぐちゃぐちゃとした疑問符が、思考を闇雲に引っかき回していく。何故。何故知っている。何故知られた。何時知ったのだ、何時から知られていた? 何処で知ったのだ? 努めて人であらんとしていた筈だ、気付かれぬように、見破られることのなきように、何故、何故、何故?  知っていたのか。掠れた声は潮風に攫われる。それは確認であると同時に、祈りでもあった。否、と答えてほしかった。なんのことです、と何時ものように馬鹿正直に首を傾げた姿で応えてほしかった。 「薄々、そうじゃないかなって、思っていたのです」  現実は非情だ。言葉を選ぶような後輩の姿に、私は声もなく立ち尽くす。知られていたのだ。その事実がひたすら、私を滂沱と打ちのめす。 「だから、調べました。白鯨の生態について。行動形態について。生息域、生涯、それから歴史について」 「……禁書だろう、あれは」 「閲覧禁止の書架に潜り込むのには苦労しました」  苦笑いの声色が、それが中々に困難な課題であったことを物語る。後輩のくせにたいしたものだ。そう労ってやる気力は、生憎持ち合わせていなかったが。 「……先輩、野菜が嫌いですもんね。ご飯食べに行っても、お肉ばっかり食べてる」  後輩はぽつりと零した。いかにも私は野菜が嫌いだ。白鯨はあんなものは食べない。あのようなもの、海原には生えていないからだ。無言の私に、しかし後輩は言葉を続ける。 「それに、昼が苦手ですもんね。朝は得意なのに、昼は苦手で、夜が好き。前に夜の散歩が好きって言っていたのは、散歩をしながら月光を食べるからでしょう。白鯨の好物です」  そうだ、と未だ戻らない波音を探しながら、微かに頷く。  いかにもそれが、我々白鯨の在り方だった。早朝に一度起きるのは、透きとおった大気を吸いに水底より浮上するため。昼間は音の無い場所でうつらうつらと揺蕩いながら過ごし、夜更けと共に黒い大海を悠々と征く、暗闇に棲まう生き物。生き物の肉を主食とし、黒曜石の夜へ溶け出した月光の冷たく甘い口どけをなによりも好む。生涯にただ一匹の伴侶と添い遂げ、どちらかの死の間際には共に極夜の海へと赴き、月にその身を溶かして消える定め。かつてその身の美しさ故、人に狩られ、数を減らし――他ならぬ人の姿に身をやつして、どうにかして生きながらえることを選んだ種族。  同胞の尾が海面を叩く様を見出すことすら叶わない、寂しい存在。それがまぎれもない、白鯨の、そして私の生き方であった。  知られてしまった。今や人の言葉も忘れ、その一点ばかり、頭の中でとぐろを巻く。正体が知られた時、どうするのが人の世でのしきたりであったか。鶴は飛び去ったのだったか。人魚は泡になって死んだと聞く。それでは私も逃げなければなるまい、と白鯨の思考が警句を鳴らした。彼女が私を、どこぞの蒐集家へ売り飛ばす前に。研究機関へ送りつける前に。否、否、彼女はそのようなことをする人間ではないと、人間の思考が金切り声を上げた。愚かしい、と白鯨の思考がそれをねじ伏せる。何故我らがかくの如き憂き目にあっているか、それこそ人の成せる非道故、この女とて例外ではない、と白鯨は言う。否、否、とまた人間が泣いた。そうではない、あの馬鹿で純朴な後輩に、そのような悪事が働けるものか。嗚呼もう酷い気分だった。いっそ四肢など避けて四つにでも五つにでも分かれてしまえばいいと思った。足が覚束ない。焦点が定まらない。波音はいつまで経ってもこの耳に戻ってこない。靴を履いた足が蹌踉めいた。不自由な人の軀は、そのままコンクリートの地面に崩れ落ちるかと思われた。けれど、そうはならず。  腕に人の手が触れた。いつの間にか、後輩は私の目と鼻の先に居り、傾いだ私の軀をそっと支えるのであった。  黒い目は憂いの色を乗せて、物言いたげに私をそっと見上げていた。この距離であれば、人の目にも私の表情が解ることだろう。彼女の深潭に映し出された私はきっと、渇いた砂浜に打ち上げられた小魚の顔をしている。焦燥と、恐怖と、絶望と、諦観。それらがすべてぐちゃぐちゃになった、むごたらしい表情をしているのだろう。  先輩、と彼女は囁いた。海鳥のような音だった。 「私、先輩と夜の散歩がしたいのです」  灯りが来た。至近距離にある彼女の姿が、柔らかな輪郭を露わにした。 「先輩が月の光を食べている隣を、私は歩いていたいのです。私、いつかに、たったひとりで月夜を歩いている先輩を見ました。その隣に居たいと思ったのです。私は月の光を食べることはできません。先輩が好むものを、一緒に味わうことはできません。私にできるのは、先輩が月の光を食べるために歩く夜道を、一緒に歩くことだけです。美味しそうにそれを食べている先輩を見て、美味しいですか、って聞くことしかできません。それでも」  灯りは征く。腕を掴む手に力が籠もる。人肌の熱は、白鯨の皮膚には熱すぎる。 「先輩、私、隣を歩いてもいいですか」  心臓はもう、さっきからずっと狂っていた。  嗚呼、本当に、人の鼓動は白鯨には早すぎる。  耐えがたさに軀は揺らいだ。軀と大気の境が不明瞭になる。手は掴むべき質量を見失い、驚いた様子で夜を跳ねる。意識は仰向けにまろび、落下し、それから遂に水音を聞いた。波だ。海だ。我が故郷。終の棲みかであった筈の場所。人工物は間遠くに、そして波が戻ってくる。瑠璃色の溟海が軀に染み入る。我が身は海との境界を明確に描き出した。足の代わりに尾鰭を。手に代わって胸鰭を。生きるため喰らうための口腔はそれに見合う大きさに。大海を征く、骨格の造形はすべてそのためのもの。  私は浮上した。  人の足では大きすぎる人の世は、もはや取るに足らない小さな箱庭になっていた。波間に恍惚と揺蕩いながら、私はコンクリートの波止場を見下ろす。人の女が居た。あれは後輩だ、と未だ居座る人間の私が思う。後輩はただでさえ丸く子供のような目をさらにまあるくして、突如として目の前に現れた白鯨を見上げていた。  彼女の目に、純白の私が映っているのを見る。巨体はしかし長く海を離れていた所為で窶れて痩せ細り、流木のように生気がなかった。水分を失った皮膚は焼け爛れ、辛うじて骨に引っかかり海風に吹かれて不安げに靡く。湾曲した上顎の上部に光るふたつの目のみ、かつて宝玉と称えられ狩られた時代の名残を残していた。夜陰の只中に在ってそれと解る、虹を帯びたオーロラピンク。この白鯨の姿を、彼女は黙して見上げていた。何を思っているのだろう。恐れているだろうか、人とは懸け離れた異形の姿を。その目は相変わらず黒くきらきらと、懐かしい夜の海の色をして光っている。  「馬鹿だ、お前は、本当に」  彼女が身を竦める。冬の嵐のような声だった。 「私は白鯨だ、白鯨なんだ。見ての通り、お前の頭など一瞬で噛み砕ける。化け物のような図体だ。かつて人に狩られた故にこうして人に紛れて生きてはいるが、海に生き月光と肉を食らう、お前とまったく別の生き物だ。死の間際には伴侶を連れて極夜の海へ赴き、月にその身を溶かして消える異形のものだぞ」  私は一人で居たかったのだ、と思った。  私は海を捨てられない。海に焦がれてやまない身では、人としては生きられない。けれど私はまた、人であることを止められないでもいた。もう数十年も陸の上にいる。コンクリートの歩き方も知っている。靴の履き方、野菜を食べないでいい口実、月の美しい屋上だって知っている。私は海から遠ざかりすぎた。恋しいひとを今際の際に凍える海へと誘う術を、私はとうに忘れて久しかった。  人にも白鯨にも成れないのなら。私はたった一人で居たかったのだ。 「お前、解っているのか。この馬鹿が。なんて馬鹿な後輩だよお前、もっと利口かと思っていたのに」  オーロラピンクから、ぼろぼろと塩辛いものが零れ落ちる。これはなんだろうかと、白鯨と人の思考が首を傾げた。海の水だろうか。久しく海に居なかったから、過剰な海水が溢れ出したのだろうか。私は困惑した。海でなら、白鯨の姿でなら、我が身の煩わしさも潰えるかと思われたのに。この姿ですら惑うなど。やはり私は半端な存在なのだ。きっとなににもなり得ない。悲嘆に呉れれば呉れるほど、眼からは潮が転げ落ちて止まない。どうすればいいのだ。どうすればいいのだろう。 「先輩」  声がした。後輩の声だ。  彼女は私に触れていた。小さな軀をうんと伸ばして、丁度、骨張った下顎に。つい先ほど、私が人の姿であった時と同じように、それと全く相違ない調子で。かつては大理石と称えられた、今や乾ききって罅だらけの白鯨の皮膚に、熱い人肌が押し当てられていた。いやにむず痒かった。軀を揺らして吠えたくなった。  灯台の灯りが照らすまでもない。異形の巨体を目の前にして、彼女は――本当に小さなただの人である彼女は、だというのに恐れもせず、ただただ微笑んでいた。 「私、先輩と一緒に極夜の海が見たいです」  指先がそっと、白い軀を撫でていく。 「気が向いたらでいいです。いつか、連れて行ってくれますか」  きっと私は、正しい戻り方を忘れてしまったのだろう。白鯨のそれである筈の心臓は馬鹿のようにどくどくと、人である時とたいして変わらずに跳ね回っていた。これほど綾なす波に安堵しているというのに、コンクリートの地面を懐かしんでいた。彼女と並んで歩くという行為を、ほんの少し前まで当然のように甘受していた人としての行いを、どうしようもなく恋しがっていた。  本当に、お前、馬鹿な後輩だよ。ぽつりと零した言葉に、後輩がふ、と息を零した。そのまま重心を傾けると、その小さな軀をまるごと、私の白い体軀へ押し当てる。なんと熱いことか。なんと苦しいことか。私は呻いた。白鯨の私も人である私も一緒になって、人には聞こえない音で、小さな人の軀に向かって泣いたのだった。
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