夕立ちは夏の季語

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「ねえ、わたしのこと覚えてる?」 「いや全然」 「嘘ヘタなの?本当に覚えてない人は、思い出そうとして少しくらい考えてくれるものよ」 にっ、と唇を吊り上げた笑顔は、あの頃と何も変わっていなかった。 夏の始まりはいつだって突然で、昨日までパーカーを羽織っていたのに、今日はTシャツ一枚でも暑くて仕方がない。 季節の変化と同じくらい、綾は突然現れた。 涼しげを通り越して寒そうなノースリーブワンピースは、夏の始まりを予測していたような青。 夏の空の下では保護色になってしまいそうだ。 ここが灰色に湿る団地の玄関先だから、その青は綺麗に見える。 「何しにきたんだよ、いい思い出なんてないだろ」 平日の昼間に突然訪ねてきた女は、我が物顔で何年も掃除していない玄関で靴を脱ぐ。 「うーん、君に会いたくなったから?」 「嘘ヘタかよ」 「ばれたか」 「何しにきたんだよ」 「んー、会いにきたのは、本当」 綾は、小学生六年生の一年間だけ、僕の姉だった。 同い年なのに、誕生日が二ヶ月早いというだけで年上ぶって世話を焼いてきて、それが嫌だったのを覚えている。 バツイチとバツサンの再婚は一年で破綻し、綾は母親と共にどこかに引っ越して行った。 息子の僕からみても、いい旦那とかいい父親になれそうもない男だった父は、出稼ぎにいくと言い残して僕を祖母に任せて消えた。 それから会ってない。 またどこかで、勝手に家族を作っては壊しているんじゃないかと思う。 祖母は、僕が高3の時に施設に入った。 僕が介護しなくていいように、前から色々と準備していたらしい。 そんな周到さがあるのなら、自分の息子のことももう少しどうにかできなかったのだろうか。 僕は高校の進路指導の先生が同情で推薦してくれた会社を半年で辞めた。 父親がいて、一年だけ母親と姉がいて、祖母がいた団地の一室で、今は一人暮している。 仕事は、気が向いたときだけ。 自分一人を養うために必要な金さえあればいい。 誰にも寄りかからず寄りかかられず生きるだけなら、大金はいらない。 綾はかかとを履き潰した跡があるスニーカーを揃えもせず、小学校から帰ってきた時みたいに、まっすぐ部屋に入って行く。 「懐かしい。相変わらず狭いなあ」 「あの頃から狭いと思ってた?」 「うん。だって私たち、布団並べて寝てたんだよ。嫌じゃん、小6で。同級生は自分の部屋とかあるのにさ」 僕はそんなことを他人とくらべたことがなかった。 キリがないから。 懐かしいなんて声に出るほどの思い出もないのに、綾は一つ一つ何かを確認するように、窓からの景色を眺めたりしている。 「…何か忘れ物でもしてた?」 「そんなわけないじゃん。ちょっと帰ろうかなって思ったらここしかなくて。ほら私、故郷ないから。気がついたらお母さんに連れ回されて、あっちこっち家変えて、名字変えて。生まれた街なんて覚えてないし。嫌になっちゃって」 「うん」 「もう、名字変えたくないんだよね。手続きとか面倒だし。テストとかも、変わってすぐだと間違えてたし」 「うん」 「だから、結婚しようと思って。一生、この名字でやっていくつもり」 「それは…おめでとう」 「ありがと。だから、その前に会っておこうかなって。弟に」 「…そう」 「まだ、ここに住んでてくれて良かった」 「他に行く場所がなかっただけだよ」 「でも、おかげで私は帰ってこれたから。ありがと」 綾は昔と同じように唇を吊り上げて笑っているのに、さっきまであの頃のままだと思っていたのに、もう知らない女の顔をしていた。 お父さんはどうしたのかとか、お母さんはどうしているとか、そんな質問も報告もない。 みんな、幸せになりたいだけなのにな。 胸の奥にそんな言葉が浮かぶ。 声に出すことは出来なかった。 帰る場所。 結婚から逃げたくなっても、ここにだけはこないで欲しい。 綾の人生が僕に寄りかかってくるのは、耐えられる気がしない。 綾は一回り狭い家をウロウロして、僕の顔をみて、それから玄関で、かかとを潰してスニーカーを履いた。 「…じゃあ、ね。ばいばい」 力なく手を振る綾に、黙って頷く。 幸せそうにみえないのは何故だろうとか、本当に結婚したいのかとか、言いたいことも聞きたいこともあるのに、何も声には出せなくて。 古びて嫌な金属音がするドアの向こうに、綾が消えていく。 心も体も、ずぶ濡れになったみたいに重くて、しばらく動けなかった。 夕立の後に、虹なんていらない。 せめて晴れてくれよ。 僕たちの人生を乾かしてくれよ、夏。
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