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息子さんが運ばれてきたのは、昨日の昼間の事でした。
私は看護師をしています。
息子さんは自宅のキッチンで足を滑らせて頭を打ったとの事で、
午後に救急車で運ばれてきました。
医師の診察では、幸い目立った外傷はなく、
後頭部に少しこぶができたくらいだったのですが、
看護師歴10数年の私でも初めての事態が起こりました。
なんと、息子さんは一か月前後の記憶がないとおっしゃっています。
そう、記憶喪失というやつですね。
よく小説などではありがちな設定ですが、
現代でそういったことが起こることはまずなく、
私自身、先ほども申した通り患者さんとしては初めての事態です。
しかし、原理としては、
頭を強く打ち付ければそういったことは起こりえるという事で、
脳に異常がないかの精密検査が行われました。
ですが、結果的に異状は見つかりませんでした。
医師も首をひねるばかりですが、
人体にはまだまだ不思議な部分が多いですし、
突発的な健忘症というのは十分にありうるということで、
一晩検査入院するという事になりました。
もう一つ気になったのは、息子さんのお母様ですね。
まあ、私が息子さんと表現している以上は、お母様がいるのは当然でしょう。
ただ、息子さんは大学生くらいだとは思うのですが、
お母様の方はまだ三十代中ごろくらいに見える美しい女性でした。
こんなに大きなお子さんがいるとは思えないほどです。
最初は、あんまり顔立ちが似ていないこともあり、
お父様の若い後妻かと思ったのですが、
事情をお聞きしたところシングルマザーらしく、実子だということです。
正直、今年で32になる私よりも若く見えましたし、
女の私が見とれてしまうくらいの美人でした。
ただ、どことなく薄幸な感じがして、
母親特有のはつらつとした強さは見られませんでした。
お母様はしきりにぼーっとしている(頭を打たれたので無理はないですが)息子さんの手を握ったり、話しかけたりして、
親身に心配をしている様子が胸をうたれました。
すごくいいお母様なんだろうなと思います。
私は、正直言って母とはあまりいい関係性を築けていないので、
羨ましいと感じてしまいました。
息子さんは結局、検査の結果何の問題も発見されなかったため、
翌日の昼にはお母様に付き添われて退院されていきました。
何事もなくてよかったと思います。
お母様が女手一つで育ててきたんでしょうから、
精いっぱい幸せに過ごせるといいですね。
さて、次の患者さんのお世話をしないと。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
僕はもともと、人と話したり、仲良くするのが苦手だ。
それでもどうにか高校を卒業し、大学へと進学したのだが、
そこでぽっきりと心が折れてしまった。
何の興味もなく、ただただ高校時代の担任教師に勧められて進学した大学は、モチベーションの在りどころがまるでなく、
外に出ることすら億劫になってしまい、一年ほど引きこもり生活をしていた。
始めてしまうと、これほど快適な事はなく、もっと早くにやっておけばよかったと思ったくらいだ。
思えば、中学、高校とも友達なんて一人も出来なかったし、
女子と喋ったことなんてすべて記憶しているくらい少ない。
母さんに少しでも似れば、僕も楽しい学生生活を過ごせたと思うのだが。
僕が存在している以上、父という存在はいたのだろうが、
会ったことないどころか顔すら知らない。
何でも、僕を妊娠してすぐに父は何処かへ蒸発してしまったらしく、
写真すらまともに残っていないという。
あれだけ綺麗な母さんを残して消えるなんて、
とんでもないクズだったんだろう。
しかし、その遺伝子は僕にしっかり受け継がれているようで、
それが憎しみにすらなっている。
まあ、いもしない父の事なんてどうでもいい。
今は、僕と母さんの事が重要だ。
引きこもり生活の最も楽しい事は、母さんといる時間が増えたことだ。
といっても、一緒に話したりするのは三度のご飯の時くらいで、
あとはもっぱら、物陰から母さんの様子を見ている。
母さんが仕事をしているのは見たことがない。
子供の頃から、家で悠々自適に暮らしていた。
基本的に料理や家事をこなして、後の時間は雑誌を読んだり、
エクササイズをしたり、ガーデニングなんかをして過ごしている。
何でも、両親の遺産が結構残っているらしく、全然働かなくてもいいらしい。
今住んでいるのも、そんなに大きくないとはいえ立派な一軒家だ。
二階建てで庭もある。小さなエレベーターだってあるのだ。
母さんにとっての両親、それは僕にとっての祖父母にあたるのだろうけど、
僕が生まれる前から二人は亡くなっていた。
つまり、家族は僕と母さんしかいないって事。この世で最も深い絆だ。
僕にとってかけがえのない、幸せな生活にわずかな変化があった。
三か月ほど前から、何故かはわからないが、
どうも母さんがバイトを始めたらしい。
そのうえ、バイト先で新しい男を見つけたみたいだ。
相手は僕と同じくらいの学生らしい。許せない。
そしてつい一週間前、母さんは僕に信じられないことを言ってきた。
大学に行く気がないのなら、家を出て行ってほしいという事だった。
絶縁宣言に等しい。もう一年も行っていない大学になど、
今さら通えるはずもない。
勉強にはついていけないだろうし、
それを手助けしてくれる友達だっていない。
僕の低い学力では、三流大学であっても卒業できるわけがない。絶望的だ。
僕と母さんはこの世界で唯一の家族なんだ。
離れて暮らすなんて許されるわけがない。
優しい母さんがそんなことを言うはずがないんだ。
きっと、新しくできた男のせいだ。
優しい母さんを騙し、僕を追い払って、この家で暮らすつもりなんだ。
そんなこと許せない。許せるはずがない。
あの日。僕は珍しく二階の自室を出て、一階のキッチンに行ったんだ。
のどが渇いたからね。
すると、キッチンで僕のご飯を作ってくれている母さんに、
抱き着いている男がいたんだ。
母さんはお手製のうどんを作っている途中だった。
僕はとっさに、その調理過程で使う麺棒を握りしめ、
男の後頭部に叩きつけてやった。
男はうめき声をあげながら、倒れた。
僕はとどめを刺すために、もう一度麺棒を振りかぶった。
その時、足元が急に掬い上げられるように動いた。
興奮していたこともあるし、
もともと運動神経が悪いこともあるし、
引きこもり生活で全く運動をしてなかったこともあり、
受け身など取れるはずもなく僕は転倒し、
天井が見えた途端に意識が暗転した。
目を覚ますと、僕は病院のベッドで寝ていた。
目の前に、僕の手を握る母さんの顔があった。
相変わらず綺麗だ。正面から見るのは久々な気がする。
心配そうな顔を向けてくる。
どうやら、頭を打ち付けて病院に運ばれたらしい。
何があったかを、そのあとに来た医者に聞かれた。
僕は、少し考えたのち、記憶がありませんと答えた。
もちろん嘘だ。でも、頭を打ったのは事実なので、まあ通るかなと思った。
実際、医者は首をかしげながらもそういうことはあると否定はしなかった。
うまくいった。
嘘をついたのには、もちろん理由がある。
母さんと浮気相手の事をうやむやにするためだ。
それを追及するようなことをしたら、
僕と母さんの関係はぎこちなくなってしまうだろう。
そうなってしまったら、
僕のコミュニケーション能力では修復は不可能に等しい。
午前中の記憶ではなく、一か月前からとしたのももちろん計算ずくだった。
母さんが言ってきた、家を出ろという事実も消すためだ。
あの浮気男は、おそらく僕の一撃で死んでいるはずだ。手ごたえはあった。
母さんは僕のために、彼の死体を処理しただろう。
僕に対する後ろめたさもあるだろうから、
今後はもっと献身的になってくれるはずだ。
僕はなんて幸運なんだろう。そういう意味では、
あの浮気男に少しくらいは感謝しなければならない。
これで、母さんは僕の奴隷だ。一生、息子として養ってもらうんだ。
翌日、色々と検査をされた後に退院することとなり、
母さんに連れ立ってもらって実家へと帰ってきた。
住み慣れた我が家は、やっぱり落ち着く。
もうしばらくここから出たくないほどだ。
やっぱり記憶喪失を装うのは成功した。
母さんはこれまでになく僕を心配してくれている。
僕が一番好きな、クリームシチューを作ってくれるらしい。
夕食まではまだ時間がある。自室に戻って、今後の作戦を考えよう。
僕は、実は頭の回転が速かったのかもしれない。
表情が緩むのが止められない。
見慣れた部屋のドアを開ける。
すると、何か様子が変だ……。
見慣れたはずの部屋だけれど、余計なものが散乱している。
何だこれは……、よくわからない。
スコップとか、バールとか、カッターナイフや金属バット?
どれも、庭にある小さな用具小屋にあったものだ。
こんなものを出してきた覚えはないのだけれど……。
まあいいか。後で片付けよう。時間ならいくらでもある。
僕は一息つくため、座りなれたゲーミングチェアを力いっぱい引いた。
* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *
どこをどう間違ったのかしら。
思えば、自分自身の人生について流れに身を任せ過ぎてきた気がする。
早くに両親をなくし、知り合いに誘われて水商売を始めたところ、
その店の倍以上も年の離れた常連客と愛人契約をし、
その子供を身ごもってからは、生活費や養育費、さらには住居までもらえて、悠々自適な生活が送れたのまでは運がよかったと言える。
しかし、子供は引きこもりになってしまうし、
信じられないくらいコミュニケーション能力が低い。
母親である私のことすら目を見て話せず、
一緒にご飯を食べても会話なんて成立したためしがない。
それに、あまり好きではなかった愛人の顔にそっくりなので、
見るたびに嫌な気分になってしまう。
成長するにしたがって、それが特に顕著になってきた。
息子には、こういった事情は適当にはぐらかしてある。
あまり詮索してこない事を考えると、自分のルーツに興味もないのかしら。
というか、あの子が何に興味を持っているのかすら、私は知らない。
二か月ほど前、息子の父である愛人が病死してしまった。
出会った時点でかなり不健康な生活をしていたのだから、
長生きした方かもしれない。
出会ってから息子ができるまではものすごくお盛んな人だったけれど、
ここ十年くらいは連絡すらなかった。
でもきちんとお金は送ってくれていたので、全く文句はなかった。
しかしその日を境に、お金が全く入ってこなくなってしまった。
本妻にかけあったが取り合ってもらえず、
今まで散々いい思いをしたのだから、
あとは自分で何とかしろと言われてしまった。
私の存在自体は、これまで知っていても目をつぶっていたくせに、
夫が死んだ途端に強気な態度。
あの男の妻だけあって、ひどい女だわ。
まだ生活資金には余裕があるけれど、実入りが絶たれた今、
息子のような不良債権を抱えていてはとてもではないけれどこの先、
生きてはいけない。
やりたくもなかった労働を始めなければならなかった。
私には、息子のほかにもう一つ悩みがあった。
それは、仕方なく始めたバイト先のスーパーで面倒を見てくれた若い大学生、タカシだった。
その子は、早くに母を亡くしているらしく、
私の世話をしているうちに好きになってしまったと、
しつこく言い寄ってくるようになった。あしらうのも面倒になったので、
一度夜の相手をしてあげたら、もっと粘着質になってきた。
一度きりという約束で縁を切るつもりが、これも失敗だった。
これだから、若い男は嫌いなのよ……。
真面目でいい子なのだろうけれど。まさか家にまで押しかけてくるなんて。
私が未亡人だと勘違いさせていたことも原因の一つみたい。
息子がいることも伝えてなかったし。
夫を失った寂しい独り身の女を慰めようとした気持ちが働いたのかしら。
実際は、有り余る歪んだ性欲を満たそうとしただけだろうけれど。
いずれにせよ、勝手に家に入ってきて料理をしている私に、
彼は抱きついてきた。
私を喜ばせるサプライズのつもりかしら。
私は本当の意味で驚いて、包丁を取り落としてしまった。
指をケガしなくてよかったわ。痛いのは嫌いだもの。
息子に聞かれたら困ると思って静かに抵抗していたのだけれど、
まさかあんなことになるなんて。
息子が勢い余って彼を殺しそうだったので、
とっさにキッチンマットを引っ張ったのは正解だった。
二人の若い男は、私のキッチンで揃って気絶していた。
息子の方が泡を吹いていたので、救急車で運ばせ、
タカシの方は息子の部屋のベッドに寝かせておいた。
なかなか重かったけれど、
我が家には簡易のエレベーターがあるのでどうにかなった。
驚くべきことに、息子は記憶喪失になっているらしい。
到底信じられないけれど、事情を説明するのが面倒だったので、
よかったかもしれない。でもタカシをどうするべきか。
息子が脳の検査をしている間、家に戻るとタカシはまだ寝ていた。
息はしているので問題はないと思う。
後頭部に小さなこぶが出来ているくらいだ。
息子が彼を殴るのに使った麺棒は柔らかい木製だし、
そもそも力もまるでなかったからだろう。
タカシの方も、もやしのようにほっそりしているので撃たれ弱かったみたい。
次の日になっても、彼は起きなかった。
気絶というか睡眠に代わっている感じかしら。のんきなものね。
病院から電話があり、
命に別状はないとのことで息子が退院することになった。
精密検査にやたらとお金がかかってしまった。今は出費を抑えたいのに。
あの子を迎えに行かなければならないけれど、まだタカシは目覚めなかった。
やはり、決断するという事は難しい。
私の人生はいつだって、他の誰かが決断してくれていた。
それである程度うまくいっていたのだ。
だからこそ、二人に決めてもらうことにした。
私が愛を注ぐべき相手はどちらか。
決めるのが面倒なので、残った方に、そうすることにする。
前夜ベッドで寝ていたタカシを、息子の椅子に座らせておいた。
周囲には、家に置いてあった色々と物騒なものを並べて。
息子はタカシを見て何をするか、タカシは息子を見てどうするか。
ぐつぐつと煮立つ鍋。
さっきから、二階で騒がしい音がする。
私はシチューの用意をする。料理は下ごしらえが肝心。
シチューが出来上がった頃には、二階から全く音がしなくなっていた。
鍋の中身をお玉でかき混ぜながらふと思う。
そういえば考えていなかった。
二人とも残らなかった場合は、どうしましょうか。
……誰か、決めてくれないかしら。
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