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9
地図に書かれた先には、大きな石造りの建物があった。
看板はおろか、窓すら一切無く、入口に頑丈な鋼鉄の扉があるだけだ。
扉には細長い覗き穴がついているが、鋼鉄の仕切りで塞がれている。
審問騎士達はマデリーンの指示に従って店を包囲する。
それが済むとマデリーンは、ダグボルトとカレナを連れて鋼鉄の扉の前に立った。
マデリーンが合図すると、カレナが扉を勢いよく叩いた。
すると覗き窓の仕切りが開いて、店の用心棒らしき男のやぶにらみの目が、カレナを胡散臭げに見る。
「何だ?」
「あたし達、友達にとっても素敵なお店があるってここを紹介されたんだ~。だから入れてよ~」
カレナは甘えるような猫なで声で言った。
だが男は冷たい眼差しのままだ。
「ここは会員制だ。入りたかったら会員証を出せ」
「え?」
カレナが返答に詰まると、男は何も言わずに仕切りを閉じてしまった。
後ろにいたマデリーンはため息をつくと、今度は自分で扉を叩いた。
覗き窓の仕切りが再度開く。
「何だ?」
「さっきは私の知り合いが失礼した。これが会員証だ」
マデリーンは腰に佩いたレイピアを抜くと、男のやぶにらみの目に突き立てた。
悲鳴を上げる間もなく男は絶命する。
「今だ、カレナ。扉を開けろ」
「は、はい!」
すぐにカレナは、懐から長い糸のついた大きめの釣り針を取り出した。
レイピアによって、仕切りが空いたままになっている覗き穴から糸を垂らす。
どうやらカレナは糸を巧みに動かして、扉の向こう側にある閂に釣り針を引っ掛けようとしているようだ。手慣れた仕草を見る限り、こうした事を何度も経験しているらしい。
しばらくして、手ごたえを感じたカレナはニヤッと笑った。
糸を引っ張ると閂が外れ、扉がゆっくりと開く。
マデリーンが覗き窓からレイピアを引き抜くと、左目から血を流した男の死体がどさりと倒れた。
マデリーンを先頭にして、三人は店内に踏み込んだ。
天井のシャンデリアの明かりで仄かに照らされた店内には、日中にも関わらず酔客がぎっしり詰まっている。
店の奥には小さなステージがあり、楽士が奏でるハープの調べに乗って、際どい衣装を纏った女が妖艶な踊りを披露していた。
「いたぞ。あいつだ」
ダグボルトは店の隅を指差す。
金髪の男はテーブル席のソファーに一人で座り、ステージをじっと眺めながら、黙々と酒をあおっている。警戒している様子は全くない。
三人は金髪の男を囲むように、どかっと腰を下ろした。
「何だよ、あんたらは!?」
金髪の男は、いきなり席に乱入してきた三人に目を丸くする。
「おいおい、俺の事を忘れたのか」
「お前はダグ――」
そこで不意に金髪の男は沈黙する。
「腹に穴を開けられたくなかったら大きな声を出すな」
金髪の男の隣に座るマデリーンが冷酷な口調で言った。
男の脇腹には、短刀の鋭い切っ先が押し当てられている。
「な、何が目的だ?」
「我々の質問にいくつか答えて貰いたい。だが絶対に嘘はつくな。もし我々を欺こうとしたら、痛い目を見る事に事になるぞ」
「……分かった」
「それでいい。ダグボルト、あれを出してくれ」
ダグボルトは、懐から白の仔竜のペンダントを取り出す。
「まず最初の質問だ。あのペンダントをどこで手に入れた?」
マデリーンの問いに、男は困惑した顔で必死に言葉を絞り出そうとする。
「それは……。ええと……確か南エリアで拾っ――」
さっと短刀が閃き、男の脇腹に真紅の筋が現れる。
「…………!!」
男は悲鳴を上げまいと必死に堪える。脇腹から鮮血がだらだらと滴り落ちる。
「私の言葉を聞いてなかったのか? 嘘はつくなと言ったのだ。今度は理解したか?」
青ざめた顔をした男はぶんぶんと何度も頷いた。
「ではもう一度聞く。あのペンダントをどこで手に入れた?」
「ボ、ボスにそいつを渡されて、ダグボルトの目の前でわざと落とせっていわれたんだ。それからペンダントをどこで見つけたか聞かれたら、南エリアに落ちてたって答えろってね。それで俺は指示に従って、そいつが入院している病院に向かったんだ。だけど病院を抜け出したって知って、慌てて街中探し回ったんだ。そりゃあもう必死にさ」
「そして南エリアでダグボルトを見つけ、計画を実行した訳だな」
「ああ、その通りさ。俺はただ指示に従っただけで、そいつが誰の物か知らないし、何でボスがそんな命令をしたのかも分からないんだ。本当だよ、信じてくれ」
男は声を震わせて必死に訴える。
「分かった。そこまで言うなら信じよう。では次の質問だ、お前に命令を下したボスは今どこにいる?」
男は少し躊躇った後、店の奥の両開きの扉を指差す。
「あ、あそこの扉の先にあるVIPルームだよ」
必要な情報を聞き終えたマデリーンは、男の首筋に手刀を放つ。
意識を失った男の身体がソファーに崩れ落ちる。
マデリーンはカレナにそっと耳打ちする。
「すぐに部下を突入させてここを制圧しろ。こいつらのボスを捕える千載一遇のチャンスだ」
カレナが立ち去ると、マデリーンは今度はダグボルトに耳打ちする。
「さて、我々は一足先にボスとやらの顔を拝みに行くとしよう」
ダグボルトは無言で頷いた。
二人は両開きの扉に向かう。
扉の両脇には、それぞれ傭兵崩れと思われる大柄で柄の悪そうな男が立っている。
二人共、革鎧を身に着けシミターを佩いている。
「ここは一般客は立ち入り禁止だ。さっさと回れ右して自分の席に戻んな」
片方の男が警告する。
だが次の瞬間、男の腹部にダグボルトの膝がめり込んだ。
革鎧ではその衝撃を吸収できず、よろめいた男の後頭部にダグボルトの拳が叩きつけられる。
男は意識を失ってぐったりと倒れる。
その間にマデリーンは、もう一人の男の喉にレイピアを突き立て、音も無く始末していた。
両開きの扉を開くと短い廊下があり、その先にさらに新たな両開きの扉があった。
二人は頷きあうと、その扉を蹴り破る。
するとそこはまるで別世界であった。
六ギット四方の広々とした部屋で、床には虎皮の絨毯が敷かれ、壁には高級酒が詰め込まれた酒棚がある。中央にはゆったりとしたソファーがあり、大理石のテーブルの上には、飲みかけの高級酒が置かれていた。
またマデリーン達が入ってきたものの他に、部屋の奥に小さな扉がある。
部屋の中には五人の人間がいた。
矯声を上げる四人の若い全裸の女と、その女達に囲まれてにやけ顔で酒をあおる中年の男が。
男は聖地防衛隊の制服をだらしなく着崩していた。
「何だ、お前ら?」
男は突然の闖入者にきょとんとしている。
するとマデリーンが一歩前に進み出て、男に向かって軽くお辞儀をした。
「お初お目にかかる。私は審問騎士団の団長を務めるマデリーン・グリッソムだ。そして私の隣にいるのは――」
「ダグボルト・ストーンハート!? な、何で聖堂騎士のお前が、審問騎士と一緒にいるんだ!?」
男は大声で叫んだ。
聖地防衛隊の入隊式で一度だけ見た事のある顔だった。
「北エリア部隊の隊長ヌティエ・ストレイキンだな。お前を拘束させて貰う」
そう言うとマデリーンは、懐から小型の手枷を取り出した。
「はあ? 俺を拘束だと? あんたにゃ俺が魔女にでも見えんのか? え?」
ヌティエはからかうように言った。
周りにいた女達も、つられてくすくすと笑っている。
「いや、お前に掛かっているのは魔女の容疑ではない。レウム・ア・ルヴァーナを荒らす窃盗団の主犯格としての容疑だ」
「ヌティエ隊長が? 窃盗団の?」
ダグボルトは思わず聞き返した。
しかし当のヌティエは涼しい顔をしている。
「おいおい、俺を誰だと思ってるんだ。グレイラント公国のラドウィン公王の従弟だぞ。そんなケチな犯罪に手を染めるような、下等人種とは格が違うんだよ、格が」
「そのラドウィン公王は大分手を焼いていたようだな。酒と女とギャンブルに嵌り、王家の財産を食い潰すお前にな。だからワレンツに相談して、こんな娯楽の少ない陸の孤島に封じ込めたのだろう。しかしお前は、それでおとなしくなるような男ではなかったようだな」
ヌティエの顔色が変わった。
無言のままマデリーンを睨み付けている。
「我々の調査の結果、聖地防衛隊の北エリア部隊の隊員の約半数が、正規の試験ではなく、いわゆるコネ枠で入隊した者だと分かった。王侯貴族であっても軍隊経験の無い者は、世間では臆病者と見られがちだ。そこでワレンツはそういう連中に、一、二年くらい聖地防衛隊の隊員になって、箔をつけないかと話を持ちかけているのだ。そうやって世界各地の王侯貴族に恩を売っておけば、聖地防衛隊のもうひとつの仕事である銀行業で、優遇措置を得られやすくなるからな。もちろん王侯貴族を危険にさらす訳にはいかないから、名無き氏族の襲撃が一番少ない北エリアに配置し、市内のパトロールなど比較的安全な任務に従事させていたのだ」
マデリーンが話す情報は、聖地防衛隊の隊員であるダグボルトですら知らないものであった。
審問騎士団の情報取集能力に改めて驚かされる。
「コネ枠で入隊し、北エリア部隊の隊長に就任したお前は、市内をパトロールする隊員の報告で、東エリアを中心に窃盗を繰り返していた犯罪組織の存在を知った。そして犯罪行為の方が、隊長の仕事よりもよっぽど旨味があると気付いたお前は、北エリア部隊の隊員を仲間に引き込んで、その組織を乗っ取り新しいボスとなったのだ。だからこれまで窃盗団の存在はほとんど明るみに出なかったのだ。窃盗行為を取り締まる立場にある人間なら、いくらでも事件を揉み消せるからな」
「黙れッ!! そんなもん全部貴様の憶測だろうが!! 俺が窃盗団のボスだって言うのなら証拠を持ってこいよ、証拠をッ!!」
「証拠ならここにあるぜ」
レンビナスが縛られた男を連れて部屋に入って来た。
男の服はボロボロに裂けていて、身体には鞭打ちの跡とみられるミミズ腫れが無数に残っている。
男の顔は紫色に変色し、ぱんぱんに腫れ上がっていて誰だか分からないような状態だ。
尋問の際に、かなりひどく殴られたようだ。
「こいつは北エリア部隊の隊員だが、同時に窃盗団の幹部でもある。尋問したら全部吐いたぜ。あんたが窃盗団のボスだってな。そうだな?」
「ああ、そうだ……。ヌティエが俺達の……窃盗団のボスだ……」
レンビナスに尋ねられた男は、息も絶え絶えに答えた。
するとヌティエは激昂して、勢いよく立ち上がった。
「知らん!! 俺はそんな奴知らんぞッ!! こんなのはでっち上げだ!! 俺を貶めるための陰謀だ!!」
ヌティエは容疑を否定しながら、そのまま部屋を出て行こうとする。
しかしその前にダグボルトが立ち塞がった。
「俺にリンジーのペンダントを見せて、南エリアで拾ったと言え、って自分の部下に指示しただろ。それについてはどう説明するんだ?」
「何を言ってやがる。俺はそんな命令を出した覚えはないぜ。リンジーとかいうシスターが行方不明になっている事は、ワレンツ総長から聞いているが、あれはきっと名無き氏族にさらわれたんだろう。俺とは何の関係も無いね」
「待て。リンジーが名無き氏族にさらわれたって、どうして言い切れるんだ?」
ダグボルトが指摘すると、ヌティエは蔑むような笑みを浮かべる。
「鈍い奴だな。そんな事も分からんのか。ペンダントには『助けて。鬼が――』と刻まれていた。鬼とは鬼面を被った奴ら――つまり名無き氏族以外に考えられんだろうが」
その瞬間、マデリーンの目がきらりと輝いた。
「ほう。一体どこで、お前はペンダントに刻まれた文字を見たのだ? お前があれに触れる機会などなかったはずだがな」
口を滑らせた事に気付いたヌティエの顔が青ざめる。
「そ、それは……」
「今のお前の発言でようやく分かった。あの文字はお前が刻んだのだな。あの晩、シスター・リンジーはダグボルトと別れた後、東エリアで避難する市民を誘導していた。おそらくその後、自分も避難しようとした時に、窃盗団の犯行を偶然目撃してしまったのだろう。それで口封じのために拉致されてしまったのだ。だが窃盗団の存在が明るみに出てはまずいとお前は考え、名無き氏族にさらわれたと思わせるために、部下に偽装工作を行わせた。そうだな?」
「………………」
ヌティエは陸に上がった魚のように口をぱくぱくと動かすが、言葉が全く出てこない。
もはや反論のしようが無い所まで追い詰められていた。
「どうやら今ので間違いないようだな。では改めてお前をレウム・ア・ルヴァーナを荒らす窃盗団の主犯、並びにシスター・リンジーの誘拐容疑で拘束させて貰う」
マデリーンはヌティエを乱暴に蹴り倒すと、手際よく後ろ手に手枷を嵌めた。
全裸の女達は悲鳴を上げて壁際に逃げる。それを見てレンビナスはニヤニヤと笑う。
「タダシーーーーッ!! 早く俺を助けろーーッ!!」
部屋から連れ出されようとしたヌティエが突然絶叫した。
一瞬の沈黙。
続いて奥の扉が勢いよく開いて、大柄な男が部屋に飛び込んできた。
東方諸島特有の赤銅色の肌、顔はごつごつと骨ばっていた。
東方諸島の人間は小柄な者が多いが、この男は二ギットを越える長身の持ち主だ。
木炭のような黒い長髪を後ろで雑に結っている。東方諸島の着衣であるキモノを着崩していて、その下からは鎖帷子が露出している。
腰帯には使い込まれた太刀を差していた。
「人が気持よく糞をひり出してる時に騒々しいンですよ。あンたが大声で呼ぶから、こっちは尻を拭う暇がなかったじゃねェですか」
東方諸島の男――タダシは尻をむずむずと動かしながら不満をこぼす。
「ケツならこいつらを殺してから好きなだけ拭けッ!! お前を雇うのに、こっちはいくら払ってると思うんだ!!」
「へいへい、分かりやしたよう」
がなり立てるヌティエに肩をすくめてみせると、タダシはマデリーン達の方に向き直った。
腰に佩いた太刀の柄に軽く指を三本乗せる。
「何なんだよ、あの気違い野郎は?」
レンビナスが呆れたように呟いた。
だが隣にいるマデリーンは、緊張した面持ちで腰のレイピアに手を掛けている。
「あれは狂人ではないぞ。東方諸島の剣客、サムライだ。東方諸島の人間は、しばしばああいう奇妙な言い回しをするのだ」
「どっちだって似たようなもんでしょう。あいつは俺が片付けますよ」
レンビナスはシミターを構えてタダシに近づいた。
「待て!! サムライの間合いに不用意に踏み込んでは――」
マデリーンの警告を一陣の旋風がかき消した。
レンビナスの腹部にぞくぞくと冷たい感覚。
下を見ると、身に着けていたレザーメイルごと腹部がぱっくりと切り裂かれていた。
肉の裂け目からは、赤黒い筋肉とぷつぷつとした黄色い脂肪が見えている。
レンビナスの身体から力が抜け、その場に尻餅をついてしまう。
タダシはパチリと音を立てて太刀を鞘に納めていた。
「おい、しっかりしろ!」
マデリーンはレンビナスに駆け寄って傷を確かめる。
幸いな事に傷は内臓には達してはいないようだ。
マデリーンは上着を裂いてレンビナスに渡し、傷を押さえておくように言った。
「ンー、ちょいと間合いが足りなかったみたいですねェ。本当なら今の一撃で殺れてたンですが。糞のこびり付いた尻の穴が、痒くて痒くていまいち集中できねェンですよう」
レンビナスを殺し損ねたタダシは悔しそうに言った。
「だったら今度は俺が相手だ」
そう言うとダグボルトは腰のスレッジハンマーに手を伸ばす。
だがマデリーンがそれを止めた。
「待て、ダグボルト。この男は私が倒す。部下を傷つけられた以上、上官として黙っている訳にはいかん。……それに正直言えば、久しぶりに戦いがいのありそうな相手に出会えて私は嬉しいのだ」
マデリーンは漆黒のレイピアを抜いた。
いつも通り無表情だが、強敵の出現に歓喜するかのように黒き瞳が煌々と輝いている。
「私と一対一で勝負しろ、タダシ。東方諸島で言うところの果し合いというやつだ」
マデリーンの提案にタダシはニヤリと笑う。
そして高らかに名乗りを上げた。
「お控ェなすって! あっしはタダシ・タダカと申しやす。以後お見知りおきを」
理解不能な言い回しだが、どうやら一騎討ちには応じるようだ。
マデリーンもそれに応えて軽くお辞儀をする。
「マデリーン・グリッソム。不肖、審問騎士団の団長を務める者だ」
簡潔に自己紹介すると、マデリーンはレイピアを構える。
「……ところで先程の居合(イアイ)の腕を見る限り、お前はそれなりに名のあるサムライのようだ。東方諸島では、どこの藩国のメジャー・ダイミョー(東方諸島の藩国を治める大貴族の呼称。一般の貴族はマイナー・ダイミョー)に仕えていたのだ?」
「お嬢さン、あンたは東方諸島の剣術や社会にずいぶんと詳しいようですねェ。けどあっしは一匹狼なンで、ダイミョーになんざ仕えた事なんてありやせンよ」
「そうか。それは残念だ。では行くぞ!」
そう言うなりマデリーンはタダシの間合いに踏み込んだ。
同時にタダシの太刀が鞘走り、鋭刃が疾風となってマデリーンの身体を吹き抜ける。
マデリーンを切り裂いた刃は瞬時に鞘に戻った。
「今度こそ殺りましたよいィ!!」
必殺の一撃を放ったタダシは狂喜の叫びをあげる。
だが次の瞬間、タダシの左肩に鋭い痛みが走る。
「あ?」
鎖帷子を貫通して、左肩に刺さっているレイピアをタダシは呆然と見つめた。
レイピアを持つマデリーンの身体には、不思議と傷一つついていない。
「どうした? 私はこの通りぴんぴんしているぞ」
マデリーンはからかうように言った。
屈辱を受けた怒りでタダシのこめかみがぴくぴくと痙攣する。
「チェストーーー!!」
気合の叫びと共に再び放たれる斬撃。
だがやはりマデリーンの身体には傷一つつかない。
何度、居合を浴びせようとも同じ事だ。
そしてその度に、漆黒のレイピアがタダシの身体を貫き、新たな傷を増やしていく。
「こ、これは一体どういう事ですかいィ!? 攻撃は当たってるはずなのに、まるで霞を斬るように手ごたえが無いじゃねえですか。まさかあンた、幻術の使い手なンですかい!?」
「違うな。これは幻術ではない。ただの剣術だ」
身体中が血に染まり、荒い息を吐くタダシとは対照的に、澄ました顔でマデリーンは答えた。
周囲にいる者は皆、何が起こっているのか分からず呆然としている。
だがこの場において、ダグボルトだけはマデリーンの技を見抜いていた。
マデリーンの眼球運動と、服の上からでも分かるしなやかな筋肉の動き。
それらを総合して導き出される結論は一つ――。
(タダシの太刀はマデリーンには当たっていない。マデリーンはタダシの攻撃を完全に見切り、ごく最小限の動きでそれをかわしている。だが髪の毛一本程の、極限までぎりぎりの差でかわしているから、あたかも攻撃が当たっているように見えてしまうんだ。それを可能にしているのは、おそらく人並み外れた動体視力と、それに付随する超人的な反射神経。筋力や持久力なら俺の方が圧倒的に上だが、マデリーンには一撃を与える事すら出来ないだろう。だけど一体どうやってあんな能力を手に入れたんだ?)
ダグボルトの心の声に答えるように、マデリーンは話を続ける。
「私は若かりし日、剣の腕を磨くために放浪生活を送っていた。その時に、ほんの一年くらいの間だがサブーロという名のケンゴー・サムライに師事していた事があるのだ」
「ケンゴー・サムライのサブーロって、まさかあの生ける伝説と呼ばれるサブーロ・クリバヤシですかい!?」
タダシは目を白黒させている。
ケンゴー・サムライとは、サムライの中でも最上級にあたる称号であり、サブーロ・クリバヤシはその中でも更にトップクラスのサムライなのだ。
「残念ながら、私は居合の技を会得する事は出来なかった。だがその代りに、飛んでいる蠅を箸で捕まえられるレベルの身体能力を手に入れたのだ」
それを聞いてダグボルトは、マデリーンが凄まじいまでの動体視力と反射神経の持ち主である理由を理解した。しかしたった一年の修練でそれ程の境地に達するとは、おそるべき才気と言う他は無い。
「サブーロは私にこう言った。サムライにとっては、主君への忠義こそが全てであると。忠義を尽くす事によってサムライの心は鍛え上げられ、さらなる高みへと引き上げられるのだ、と。それ故、フリーのサムライであっても、過去にどこかのダイミョーに仕えた事があるのが普通なのだ。だがお前はどのダイミョーにも仕えた事がないと言う。それはお前が忠義を持たぬサムライ――つまりサムライとしては最下級のスローニン・サムライである事に他ならない。ケンゴー・サムライの居合が相手なら苦戦は必至だが、スローニン・サムライの居合なら私でも十分対応できる」
「黙らっしゃーーーーいィ!!」
タダシは雄叫びを上げて、やけくそともいえるような一撃を放った。
だが当然、そんなものはマデリーンに通用するはずも無く、逆に腿に鋭い一撃を受けて、その場に膝をついてしまった。
「なかなかの腕前だったが、私の敵ではなかったようだな」
マデリーンはタダシの脇に回り込むと、レイピアの切っ先を耳の中に突っこんだ。
右耳から入り込んだ切っ先が、脳を貫通して左耳から飛び出す。
レイピアを引き抜くと、タダシは白目を剥いてその場に倒れた。
血と脳味噌と耳垢のこびり付いたレイピアの刃を、マデリーンはタダシのキモノで拭った。
「ダグボルト、悪いが部屋の外にいる部下達を呼んできてくれ。ここを片付けて撤収しよう」
「分かった」
ダグボルトが酒場に戻ると、審問騎士達が従業員と客を一ヶ所に集めて事情聴取を行っていた。
彼らの手によってヌティエは連行され、負傷したレンビナスも肩を担がれて出ていった。
指揮を執っているマデリーンの前にカレナがやって来る。
「団ち――マデリーンさん」
「今はもう団長でいい。どうした、カレナ?」
「はい、地下室を発見しました。中には人が大勢閉じこめられています」
マデリーンは事情聴取を手伝っているダグボルトの方を向いた。
「私について来い、ダグボルト。シスター・リンジーに再会出来るかも知れないぞ」
リンジーの名を聞いて、ダグボルトの心臓が高鳴る。
ようやくこの時がやってきたのだ。
地下室は酒場のカウンターの床の隠し扉から、長い梯子を降りた先にあった。
ランプを手にしたカレナが扉を開ける。
部屋の中は真っ暗で微かに何かが蠢いている。
ダグボルトが目を凝らして見ると、そこにはいたのはボロボロの服を着た女達であった。
皆、目は虚ろでぶつぶつと何かを呟いたり、口から涎を垂らしている。
ダグボルト達が部屋に入っても全く反応せず、しゃがみこんだままほとんど動かない。
「これは一体どういう事だ、マデリーン!?」
「ヌティエ達はただの窃盗団では無かったという事だ。奴らはここを人身売買の一大拠点としていたのだ」
マデリーンは静かな声で言った。
顔は無表情だが、瞳からは嫌悪の光が溢れている。
「人身売買はモラヴィア大陸のほとんどの国で禁止されている。しかしこの聖地は、そうした違法行為の隠れ蓑にするにはうってつけの場所だ。何しろ名無き氏族に罪を被せてしまえば、大抵の犯罪は誤魔化せてしまうのだからな」
「じゃあまさか女達が名無き氏族にさらわれたっていうのも……」
「全てと言わないが、ほとんどがヌティエ達の仕業だろうな。しかもここは激戦地であるが故に、他国では製造販売が制限されている、麻薬の成分を含む痛み止めを簡単に入手出来る。奴らは病院から横流しされた痛み止めを大量に入手していた。そして誘拐した女達に投与して薬漬けにし、世界各地の闇市場に輸出していたのだ。ここにいるのは、その商品にされた女達なのだ」
「そんな……」
ダグボルトはカレナからランプをひったくると部屋の中に飛び込んだ。
「リンジーーー!! いたら返事してくれーーっ!!」
ランプで女達を照らし、見慣れたリンジーの顔を探し出そうとする。
狭い部屋の中には、ぎっしりと女達が詰め込まれている。
足の踏み場もない状態のため、ダグボルトは何度も女達の身体に躓いて転びそうになる。
それでも必死に探し続け、そして――。
「いない……どこにも……」
部屋の中にリンジーの姿は無かった。
ふらふらと戻って来たダグボルトの背中を、慰めるようにマデリーンが優しく撫でる。
「おそらくはすでに売りに出されたのだろう。部下にヌティエを尋問させて、すぐに買い手を突き止めてやる。だからそんなに気を落とすな」
「それなら俺も手伝わせてくれ!! 奴の手足を切り刻んでも絶対に吐かせてやる!!」
ダグボルトは憎悪に満ちた声で叫んだ。
その顔は怒りで鬼神のように歪んでいる。
しかしマデリーンは首を横に振る。
「いや、お前はひとまず大聖堂に戻れ。買い手が分かったら連絡する」
そして反論しようとするダグボルトの口を手で塞いだ。
「文句を聞くつもりなどない。尋問はプロである我々の仕事だ。お前はシスター・リンジーを取り戻す日のために力を溜めておくのだ」
有無を言わさぬ口調。
ダグボルトは頷くしかなかった。
**********
連絡を待つ時間は苦痛以外の何物でもなかった。
今更病室に戻る訳にもいかず、自室のベッドに寝転がってじりじりと時が過ぎるのを待つ。
とうとうそれにも耐えられなくなると、最後は無心で武具を磨き始めた。
ダグボルトは、東エリアのレストランでのオーナーとの会話を思い出す。
あの時に窃盗団の話を聞いていたのに、色々あってワレンツへの報告をすっかり忘れていた。
もし報告していたら、違った未来があったのだろうか。
だが今は余計な事を考えないようにした。
リンジーを救い出せればそれでいいのだ。
翌日の夕暮れになって、ようやくマデリーンからの使者が来た。
ダグボルトはいつも通り、腰のベルトにスレッジハンマーを吊るすと大聖堂を飛び出した。
待ち合わせの場所には、軽装のマデリーンが一人で立っていた。
「ここにリンジーが?」
「ああ。幸いな事に彼女の買い手は聖地の中にいた。ヌティエ一味は闇商人を経由させて、この屋敷の主人に彼女を売ったらしい」
二人の眼前には広々とした庭園が広がっており、その奥に荘厳な三階建ての邸宅が建っている。
東エリアにはこうした豪邸が数多くあるが、ここはその中でも上位に入る大きさだ。
「すでに屋敷の周りは、民間人に扮した部下達が包囲している。だから屋敷の主に逃げられる心配はない。用意はいいか?」
ダグボルトが頷くと、マデリーンは庭園入口の門扉の隣にある詰所に声を掛けた。
すぐに中から、がっしりとした体格の守衛が現れる。
「そこの門を開けてくれ。中に入りたい」
「主人との面会のご予約は取られていますか? あるいは紹介状か何かお持ちなら見せて下さい」
守衛は恐ろしげな外見とは裏腹に礼儀正しい口調で言った。
きっとここには身分の高い客人が訪れる事が多いのだろう。
「紹介状は無い。だが代わりにこれがある」
マデリーンが腰に手を当てるのを見て、ダグボルトはぎくりとする。
酒場の時のように、守衛の目にレイピアを突き立てるのではないかと思ったのだ。
だがそうではなく、マデリーンは腰のベルトに挟んだ一通の封書を取り出し、中の手紙を守衛に見せた。
「これは教皇猊下からの委任状――つまり猊下の代理人として、私に悪を裁くための権限を与えるというものだ。私に刃向うという事は教皇猊下に刃向うという事に他ならない」
「……失礼ですが、あなたのお名前は?」
「マデリーン・グリッソム。審問騎士団の団長だ」
その名前が与える効果は絶大だった。
すぐに守衛は、中にいる仲間に呼び掛けて門扉を開かせた。
「皆がこういう風に審問騎士団に協力的なら助かるんだがな」
マデリーンはダグボルトの耳元で皮肉っぽく囁いた。
「審問騎士団の方とは露知らず申し訳ありませんでした。何しろそのような格好をしていたものですから。それで本日はどういった御用でしょう? まさかこの屋敷に魔女がいるのですか?」
「いや、今日は魔女を捕まえに来たのではない。お前達の主人に会いに来たのだ。念のために聞くが、今現在、彼は屋敷の中にいるか?」
「はい。主人は本日、ずっと家におります。呼んできましょうか?」
「その必要は無い。むしろ我々が来た事は絶対に教えるな。もし教えたらお前に厳しい罰を与える」
マデリーンの鋭い眼光が、レイピアの切っ先のように守衛の心を貫く。
守衛は今にも心臓が止まりそうな顔になる。
「他の守衛や使用人に声を掛けて、全員を屋敷の外に退避させろ。もしお前の主人に怪しまれたら、避難訓練だとか何とか言って適当に誤魔化せ。分かったな?」
「は、はい! 分かりました!」
守衛は回れ右すると屋敷の方に走っていった。
「私の仕事はこれで終わりだ。ここから先はお前一人で行け、ダグボルト。行って今度こそシスター・リンジーを取り戻してくるがいい」
マデリーンはそう言うと、ダグボルトの胸をどんと叩いた。
「ありがとう、マデリーン。俺はあんた達の事を誤解してたみたいだ。正直言えば、今まで俺は審問騎士団の事を、魔女狩りの名目で残忍な行為を繰り返す悪逆無比な集団だと思ってた。だけどあんた達は、こうして悪を滅ぼすために密かに活動してたんだな」
「ああ。誤解が解けたのは実に喜ばしい事だ。ただ残忍というのは別に間違っていないぞ。この世界から悪を完全に滅しようとすれば、時として人の心を捨てて、手を汚さねばならぬ時もあるからな。そうした非情さが、場合によっては悪に映ってしまうのだろう」
「それでもあんたは俺の恩人だ。いつか必ずこの借りは返す。じゃあ行ってくる!」
ダグボルトは一礼すると庭園の中に入っていった。
手入れの行き届いた広々とした庭園に人の気配はない。
先程の守衛が他の人間を追い払ってくれたのだろう。
静かな庭園にぱしゃぱしゃという水の音だけが響いている。
ポーチの側にある柵で囲まれた場所から聞こえてくるようだ。
玄関に向かう途中、突然そこから緑色の生き物が跳ね上がった。
全身が鱗に覆われ、ぱっくりと裂けた大きな口には鋭い歯が並んでいる。
謎の生き物が再び柵の中に姿を消すと、バシャンと大きな水音と水飛沫が上がる。
「竜の子供!?」
ダグボルトは腰のスレッジハンマーに手を掛けて警戒しつつ、そっと柵の中を覗いて見た。
柵の中は三ギット程の深さまで掘られており、底には藁が敷かれていた。
端の方には大きな溜め池がある。そこでは三匹の生き物が悠々と泳いでいた。
よく見ると伝説の存在である竜とは異なり、羽が生えておらず、どちらかといえば巨大な蜥蜴のようであった。ダグボルトは、この生き物が神学校時代に図鑑で見た鰐(ワニ)だと気付く。
しかし鰐は深緑の辺獄の河畔にしか生息していないはずだ。
それを三匹も入手するためには、かなりの金を積まねばならないだろう。
この屋敷の主人はそれだけの金持ちらしい。
鰐は柵の外へは出てこれなそうなので、気を取り直して玄関に向かう。
玄関の扉に鍵は掛かっていなかった。
ダグボルトは慎重に一階の部屋を探索したが、完全に無人であった。
そこで今度は、踊り場の階段を上がり二階を見て回る。
そして廊下の突き当たりに鍵のかかっている扉を発見した。
そっと聞き耳を立ててみると、呻き声のような声が聞こえてくる。
ダグボルトはためらう事無く扉を蹴り破った。
そこは壁や天井に金箔の張られた豪奢な造りの寝室だった。
部屋の奥には大きな天蓋ベッドが置かれ、その上に二つの裸体があった。
あおむけになった褐色の肌の小柄な娘の上に、毛深い肌の筋肉質な男がのしかかって、一心不乱に腰を振っている。
褐色の肌の娘――リンジーは目を見開いたまま、天井を見つめて動かない。
だが男はそんな事は意にも介さず、びくびくと身体を震わせてリンジーの膣内に精液を注ぎ込んだ。
満足げなため息をついた男は、自分の方に近づいてくる足音にようやく気付く。
振り向いた男は、目の前までやって来ていたダグボルトと視線が合う。
「なぜお前がここにい――」
驚く男の顔面にダグボルトの拳が叩き込まれた。
衝撃で吹き飛ばされた身体が壁に叩きつけられ、剥がれた金箔がはらはらと舞い落ちる。
「ま、待て!! 落ち着け、ダグボルト!! これには深い訳が――」
ふらふらと立ち上がろうとした男の鳩尾に、今度はダグボルトのブーツがめり込む。
グシャという音を立てて肋骨の半分以上が砕けた。
「言い訳なんか聞きたくない。アレンゾ、貴様は人間の屑だ」
ダグボルトは吐き捨てるように言った。
床に這いつくばって呻き声を上げている男――アレンゾは苦しげな声で必死に反論しようとする。
「ううっ……。違うんだよ、ダグボルト……。私はリンジーを……助けようとして……」
「助ようとしただと!? よくもぬけぬけとそんな事を――」
ダグボルトが拳を振り上げるのを見て、アレンゾは悲鳴を上げて顔を庇った。
「頼むから話を聞いてくれ……。私は深緑の辺獄の珍しい生き物や植物を集めるのが趣味で……密かに闇商人と取引していたんだ……。三日前、いつものように闇商人の店を訪れた私は……店の倉庫で檻に入れられた女性達を見てしまった……。商人の話じゃ、余所の国の闇市(ブラックマーケット)で売り飛ばすつもりだったらしい……。要するに……人身売買だよ……。そして私は檻の中に……リンジーがいるのに気付いたんだ……。私は闇商人にリンジーを買いたいと申し出た……。だが彼は断った。奴隷にされている女は、全員この街の人間だから……足がつかないように余所で取引してるらしい……。それでも私は大金を積んで、強引にリンジーを買い取った……。リンジーを救い、保護するために……」
「じゃあなぜすぐにリンジーを大聖堂に連れてこないで、ここに連れ込んだ? なぜリンジーを抱いた? 貴様の言ってる事は支離滅裂だぞ!!」
「それは……。魔が差したんだよ……。リンジーは薬漬けであんな状態だから……大聖堂に連れて行く前に一回くらいなら……抱いても分からないだろうって……。それに知らなかったんだよ……。リンジーが……まだ処女だったなんて……」
「黙れッ!!」
横顔を蹴られて、アレンゾの身体は床をゴロゴロと転がった。
痛みで呻いているアレンゾをそのままにして、ダグボルトはベッドで仰向けのまま動かないリンジーに近づいた。
「リンジー、俺が分かるか? ダグボルトだよ。君を助けに来たんだ。さあ一緒に帰ろう」
するとリンジーは虚ろな表情のまま、唇を微かに動かした。
僅かに開いた口からは、言葉の代わりに吐息が漏れる。
ダグボルトは何かに気づいてリンジーの口を開く。
「舌が……」
アレンゾの方を向いたダグボルトの緋色の瞳は、狂気ともいえる激しい怒りで赫奕と燃え上っていた。
あまりの恐怖にアレンゾの膀胱は緩み、ペニスから激しく噴き出した尿が高価な絨毯をぐっしょりと濡らす。鼻をつくようなアンモニア臭が寝室に充満した。
「ちちち、違うッ!! リンジーの舌を切り落としたのは断じて私じゃない!! や、闇商人が勝手にやったんだよ!!」
「自分に仕えていたシスターを……。しかも薬漬けにされて舌まで切られたシスターを抱けるなんて、一体どういう神経をしてるんだ。清廉派が聞いて呆れるぞ、アレンゾ」
「お願いだ……。殺さないで……。教会の査問会で罪を告白して……ちゃんと罰を受けるから……。だから命だけは……ううっ……」
「査問会? そんなものに貴様を裁かせるつもりなんかない!」
ダグボルトはスレッジハンマーを振り上げた。
ぶんと音を立てて振り下ろされたハンマーが、アレンゾの左膝を叩き潰す。
砕けた骨の欠片が膝から飛び出し、足があらぬ方向に折れ曲がる。
「うわあああああああああッ!!」
アレンゾは絶叫する。
だがダグボルトは、それに構わずもう片方の足にハンマーを叩きつけた。
鈍い音と共に大腿骨が砕ける。
あまりの痛みに、アレンゾは背筋を仰け反らせてぴくぴくと痙攣した。
最後にとどめをさすべく、頭めがけハンマーを振り下ろそうとした。
だが急にアレンゾは、口から泡を飛ばして口汚く弾劾し始めた。
「畜生があああッ!! お前は何の権限があってこんな事をしやがるんだよおおッ? 一介の聖堂騎士に過ぎないお前には、私を裁く権利なんか無いだろうがああああッ!! ええッ? ここで私を殺せばお前はただの人殺しッ!! 私と同類の外道と成り果てるんだからなああッ!!」
アレンゾは血走った目で、ダグボルトを睨み付けた。
その顔は血と涙と涎で汚れ、整った顔が台無しになっている。
「……確かにお前の言うとおりだな。俺に貴様を裁く権利は無い」
ダグボルトは我に帰ったような穏やかな声に戻っていた。
スレッジハンマーを腰のベルトに戻すのを見て、アレンゾはほっとした顔になる。
「そうか……。分かってくれて……嬉し……」
急にアレンゾの声が萎む。
代わりに髪を思い切り引っ張られ、激しい痛みに絶叫した。
ダグボルトはそのままアレンゾを寝室の外に引きずっていく。
「――だから俺の代わりに、神に貴様を裁いて貰う」
階段まで来たダグボルトはアレンゾを蹴り落とした。
一階まで落ちる間に階段の角に何度も身体をぶつけ、全身痣だらけになったアレンゾは子供のように泣きじゃくっていた。
「ヒック、ヒック……。ひどいじゃないか……。頼むからもう止めてくれよ……。ヒック……」
だがダグボルトは、再度髪を掴んでアレンゾを屋敷の外まで引きずり出す。
ポーチの近くにある柵の方に向かっていると気付いたアレンゾは、何をされようとしているのか理解して大声で泣き叫んだ。
「貴様は以前、神の恩寵によって狼から命を救われた事があったらしいな。だから今度も同じ方法で貴様を試す。鰐の群れに放り込まれて喰い殺されなければ無罪。喰い殺されたら有罪だ」
「嫌だあああああああああッ!! お願いだから罪を認めるから何でもするからそれだけは止めて下さい、ダグボルト様あああああああああッ!!」
「命乞いする相手を間違えてるぞ。俺じゃなく神に許しを乞え。さあ、神に祈るんだ。祈れ、アレンゾ!!」
「うう……ヒック……」
アレンゾは泣きじゃくりながら、両手を組んで祈りを捧げ始めた。
「天にあられし……我らが女神ミュレイアよ……。どうかこの……罪深きアレンゾに救済を……。どうか……」
祈りを続けるアレンゾの身体を両手で抱えると、柵の中に放り込んだ。
藁の敷かれた地面に落ちたアレンゾを見て、三匹の鰐の動きがピタリと止まる。
次の瞬間、一匹の鰐がアレンゾの左腕に噛みついた。
鰐はそのまま体をぐるぐると回転させてアレンゾの腕を捩じ切った。
骨と筋肉の繊維が剥き出しになった切断面から鮮血が噴き出す。
「ひぎゃあああああああああああァァァ!!」
絶望の叫びが周囲にこだまする。
くちゃくちゃと音を立てて、鰐が自分の腕を咀嚼しているのを見てアレンゾは嘔吐した。
二匹目、三匹目の鰐も次々と襲いかかり、まるでおもちゃの人形を奪い合う子供のように、アレンゾの身体を解体していく。
手足を引き千切られ、腹を割かれ、溢れ出した自分の臓物を虚ろな目で眺めながら、アレンゾはついに息絶えた。
「二度目の奇跡は起きなかったな、アレンゾ」
ダグボルトは酷薄な声で呟いた。
寝室に戻って来たダグボルトは、ベッドにいたリンジーの頬を優しく撫でた。
そして彼女の身体にそっとシーツを被せ、両腕で抱きかかえようとした。
その瞬間、薬で朦朧としていたリンジーの意識が突如として晴れ、感情が爆発した。
リンジーの顔は恐怖と嫌悪で大きく歪み、舌の無い口から無音の悲鳴を上げて、ダグボルトの腕の中でばたばたと暴れ始めた。
「落ち着くんだ、リンジー!! 君は助かったんだ!! もう誰も傷つけたりしないよ!!」
だが錯乱したリンジーは、爪の伸びた手で自分の顔を激しく掻き毟り始めた。
頬の皮膚が裂け、だらだらと血が溢れだす。
「駄目だ、そんな事するな!! 頼むから落ち着いてくれッ!!」
リンジーの両手首を握り締め、必死に自傷行為を止めさせようとした。
しばらくすると、もがいていたリンジーの身体から力が抜ける。
落ち着いたのを見てダグボルトは手を離した。
すると今度はリンジーが、ダグボルトの両手首を掴んだ。
そしてその手を自らの首に導いた。
すぐにはその意味が分からず、ぽかんとする。
だがリンジーと目が合った瞬間、全てを理解した。
「い、嫌だ!! 俺にはそんな事出来ない!!」
ダグボルトは悲痛な声で拒絶する。
しかしリンジーの目を見れば、彼女の意志が固い事は明らかだった。
リンジーの唇が音も無くこう訴える。
――コンナ ザンコクナ セカイカラ ワタシヲ カイホウシテ。
セオドラの癒しの秘跡なら、リンジーの身体の傷は癒せるだろう。
だが心の傷は?
リンジーにこれから先、一生消えないトラウマを背負わせるのか?
それでもダグボルトには決断出来なかった。
「ううっ……リンジー……。頼むから俺にそんな惨い事をさせないでくれ……。今からでも二人で一緒に暮らそう……」
ようやくあの時の返事を聞けて、リンジーはにっこりと微笑んだ。
そして唇を動かしてこう答えた。
――ワタシハ アナタノナカデ イキツヅケル ズット イッショダヨ。
ついにダグボルトは覚悟を決めた。
リンジーのか細い首を掴む両手に力が入り、ゆっくりと締め上げていく。
目を閉じたリンジーの顔が、徐々に血の気を失っていく。
ダグボルトは目を閉じた。
リンジーの身体はビクッと一度大きく痙攣し、それっきり動かなくなった。
ダグボルトが瞼を開くと、リンジーは手を組んで祈るような姿で息絶えていた。
現世の苦しみから解放されたせいか、死に顔は安らかだった。
ダグボルトは震える手で、リンジーの柔らかい銀色の髪を優しく撫でる。
何度も。
何度も。
何度も何度も何度も何度も――。
「うわあああああああああああああああ!!」
突如としてダグボルトは狂ったように叫んだ。
この歪んだ狂気の世界を呪った。
この悪意に満ちた世界を生み出した女神を憎んだ。
そしてこの瞬間、世界を蝕む悪と戦う事を誓ったのだ。
シーツに包んだリンジーの遺体を抱きかかえ、ダグボルトは屋敷を出た。
門の前ではマデリーンとカレナが待っていた。
「ダグボルトさ――」
声を掛けようとするカレナをマデリーンが制した。
悲壮感に溢れたダグボルトの顔を見れば、救出作戦が悲劇的な結末を迎えた事は一目瞭然であった。
ダグボルトは二人を一瞥すると、何も言わずにその場を後にした。
リンジーを埋葬出来そうな場所を探して、ダグボルトは屋敷から離れた小高い丘にある墓地にやって来た。
日はすでに落ちていて、柔らかな月明かりが墓石群を照らし出す。
ダグボルトは墓石の間を抜けて、墓地の外れに辿り着く。
そこには大きな楡の老木が生えていて、涼しげに枝を揺らしている。
(ここがいい。静かな場所だし、リンジーも気に入るだろう)
ダグボルトは直感的にそう感じた。
リンジーの遺体をそっと置くと、素手で楡の老木の下の地面を掘り始めた。
「あんた、ここで何をやっとるんじゃ?」
墓地を見回っていた老いた墓守が、ダグボルトに気付いてやって来た。
ダグボルトは作業の手を止めずに答える。
「ここを墓として使わせてくれ。金なら払う」
「それは出来んよ。墓地といえども、勝手に死者を埋葬するのは犯罪行為じゃぞ。埋葬したいんなら、まず役所に行って死亡証明書を発行して貰って……」
そこで急に墓守の声のトーンが低くなる。
「……待てよ。その顔、どこかで見たぞ。もしかしてあんた、ダグボルト・ストーンハートか? あの聖地を救った英雄の」
ダグボルトは自分の顔が墓守にまで覚えられている事に驚く。
彼が頷くと、墓守はにっこりと笑って彼の肩を叩いた。
「それなら話は別じゃ。ここを自由に使ってくれ。なあにこの事は、儂とあんたの二人だけの秘密にすればいい。どうせ普段は人などほとんど来ない場所じゃしな」
「ありがとう。感謝する」
墓守は気を利かせてシャベルを持ってきてくれた。
穴を掘るのを手伝うとも言ったが、それは断った。
リンジーは自分の手で葬りたかったのだ。
穴を掘り終えると、シーツに包んだままの遺体を横たえた。
その上に白と黒の仔竜のペンダントを乗せる。
二頭の仔竜は、互いを求めるようにぴったりとくっ付いてた。
(そいつらと同じで、俺達はずっと一緒だ、リンジー)
簡単な祈りを捧げると、シャベルで穴に土を被せていった。
その作業が済むとシャベルを墓守に返し、大聖堂に帰っていった。
自室の机の上には、誰が届けてくれたのか、新しいセオドラの手紙が置いてあった。
いつもの通り封筒は分厚く、中の手紙には優しく温かい言葉がたっぷりと並べられているのだろう。
急にダグボルトは、胃の中がムカムカとしてきて、手紙を手に取るとぐしゃぐしゃと握り潰した。
それだけでは飽き足らず、壁のランプの傘を外してその中に手紙を突っ込む。
さらに今まで読まずにいた他の手紙も入れる。
ランプの炎で手紙はどんどんと黒く焦げていき、一筋の煙が立ち昇る。
ダグボルトはベッドに腰掛けて、その煙をぼんやりと眺めていた。
手紙がただの消し炭へと変わっていくうちに、心の中に残されていた温かいものが消えていくのを感じた。
もはやダグボルトには、セオドラの慈愛に満ちた善など全く必要なかった。
今、必要なのはマデリーンの冷酷で無慈悲な善なのだ。
手紙が燃え尽きると、ダグボルトは荷物を纏めて大聖堂を後にした。
そしてそれっきり二度とこの部屋に戻って来ることは無かった。
**********
大聖堂地下の執務室では、机の上に積み上げられた書類をワレンツが一人で懸命に処理していた。
名無き氏族の襲撃から二週間が過ぎていたが、仕事はまだまだ山積みだった。
襲撃の後、教皇派の大司教達が、聖堂騎士団の人事審査会にワレンツの解任を願い出ていた。
名無き氏族に市内への侵入を許し、多くの犠牲を出したというのが理由である。
幸いにして大聖堂への攻撃は防いだという事で、解任動議は否決された。
しかし他の大司教や市民からも、今回のような事態の再発防止を求める声が高まっていた。
ワレンツの権力は決して盤石という訳ではない。
彼らを納得させる案を考えねば、今度こそ解任させられかねない。
そのため幹部達と連日会議を繰り返し、皆を納得させられるような再発防止案を必死に練っていたのだ。
ふとワレンツが書類から顔を上げると、ノックの音が聞こえた。
仕事に夢中で今まで気付かなかったのだ。
「何だ?」
ワレンツが尋ねると、守衛が扉の向こうから顔を出した。
「総長、審問騎士団のグリッソム団長が面会を求めています。いかがいたしましょう?」
ワレンツは少し考えた後、通すように命じた。
書類仕事ばかりで気が狂いそうだったので、少しでも気が紛れるなら、どんな客人でも大歓迎だったのだ。
「失礼する」
審問騎士団の制服を身に着けたマデリーンが部屋に入ってきた。
両手に少し大きめの皮袋を抱えている。
「久しぶりだな、サー・マデリーン。今日は一人か?」
「ああ。あなたと二人きりで話がしたかったのでな。そのために少しだけ時間を割いてくれると有り難いのだが」
「別に構わんよ。書類仕事には飽き飽きしてたからな」
そう言うとワレンツは守衛に下がるように合図した。
しかし守衛はマデリーンに手を差し出して言った。
「それならグリッソム殿の武器を預からせて下さい。この前の事もありますので」
マデリーンは躊躇う事無く、腰に佩いたレイピアとブーツに仕込んだ短刀を渡した。
すると守衛は、今度はマデリーンが抱える皮袋を指差した。
「申し訳ありませんが、それは?」
「これは武器ではない。見てみるか?」
マデリーンは袋の口を縛る紐を解いた。
中身を見た守衛の顔がさっと青ざめる。
守衛は何か言いたげだったが、結局それ以上何も言わずに部屋の外に出て行った。
「おとなしく武器を預けた所を見ると、今回は儂を殺しに来た訳ではないようだな」
ワレンツの皮肉を、肩をすくめて受け流す。
「今日はお別れを言いに来たのだ。ここでの仕事はすべて終えたので、明朝我々は教皇庁に帰還する」
ワレンツはどういう風の吹き回しなのかと眉を顰める。
「ほう、何をしに来たのか分からんが、もう帰ってしまうのか。せっかくなら少しぐらい観光を楽しんでいけばいいのに。クレメンダールに土産でも買っていったらどうだ?」
「いや、その必要は無い。土産ならもうここにあるからな」
マデリーンは皮袋の中身を取り出して、机の上にどんと置いた。
ワレンツはギョッとする。
それは防腐処理が施されたヌティエ・ストレイキンの生首であった。
「この男は犯罪組織に関わっていたので、こちらで尋問させて貰った。だが尋問の最中に心臓麻痺を起こしてしまってな。出来れば生かして連れて帰りたかったのだが、止む無くこういう形で首だけ持ち帰る事にしたのだ」
ワレンツは信じられないという顔をしているが、マデリーンは何事も無かったかのように生首を袋の中に戻した。
「お前さん、正気か!? こんな事をしたらラドウィン公王が黙っていないぞ!! ローレン・リース(後の『石動の皇(コロッサス)』)の事はお前さんも知っていよう」
「若き不敗の女騎士だな。当然知ってるとも」
「あの娘は将来有望な身だったが、ラドウィン公王のどら息子を、馬上槍試合でこてんぱんに打ち負かして自殺に追い込んでしまった。公王は表向きは彼女を不問に処しながらも、裏で教会に手を回し、魔女として告発させたのだ」
「ローレンに関しては、私も気の毒に思っている。彼女には何の落ち度もないし、魔女の告発も全て出鱈目だ。だからほとぼりが冷めた頃に、審問騎士団の一員に加えようと考えている。無実の罪で殺してしまうにはあまりにも惜しい人材だからな」
「それは結構。だがお前さんは、自分の首の心配をした方がいいんじゃないか? ヌティエが問題の多い人間なのは事実だが、聖地での任務を真面目にこなせば、きっと王族としての責任に目覚めるだろうと公王は考えて、わざわざ儂に預けたのだ。それを殺してしまうとは、とんだ失態を犯したもんだ。お前さんは自分だけじゃなく、クレメンダールの身まで危機に晒したんだぞ」
ワレンツは問い詰めるように言った。
しかしマデリーンは顔色一つ変えない。
「わざわざ私の進退を心配して頂き感謝する。しかし我々だって事前に根回しぐらいは行っている。さすがの公王も、ヌティエが人身売買に関わっている事を知って、醜聞が表沙汰になる前に奴を処分する事に同意して下さったのだ」
「人身売買!?」
驚くワレンツの前に、マデリーンは一通の書類を置いた。
血走った目で文字を追うワレンツの顔色がみるみる悪くなる。
そこにはヌティエと窃盗団の繋がりについて詳細に書かれていた。
「……ここに書かれている事は真実なのか?」
「当然だ。もしそれでも疑うのというなら自分で裏を取ればいい。この一件を内密に処理する事を望んだ公王に感謝するべきだな。聖地防衛隊の隊長が、人身売買に関わっていた事実が明るみになっていれば、何も知らなかったあなたはとんだ大恥をかいただろう」
「…………」
黙り込んでしまったワレンツの前に、マデリーンはさらに一通の書類を置いた。
「それともう一つ。お前の部下のダグボルト・ストーンハートは私が貰っていく。これが審問騎士団への転属届だ」
「ふざけるなッ!!」
ワレンツは怒りのあまり、立ち上がってテーブルを激しく叩いた。
書類の山が崩れ、紙の束が舞い散る。
「ダグボルトには手を出さぬように警告しておいたはずだぞ、この雌犬め!!」
「言っておくが、私は別に何もしていないぞ。彼が審問騎士団に移籍する事を望んだのは、徹頭徹尾あなたのせいなのだからな」
マデリーンは三通目の書類を置いた。
そこにはリンジー・ブーシェを襲った悲劇と、アレンゾの最期について書かれていた。
「あなたは以前、飼い犬の躾けをちゃんとするよう猊下に伝えておけと言っていたな。だがそれは、あなたにも当てはまるのではないか? ヌティエといいアレンゾといい、あなたの飼い犬共は目の届かない所でとんでもない事をしているではないか。いくら何でも人を見る目が無さ過ぎだと思うがな」
ワレンツが黙っているのを見て、マデリーンは微かに笑う。
「今更、知らん顔をしなくてもいい。あなたがアレンゾを反教皇派に引き入れた事ぐらい、私はとっくに知っている。だがあなたは、アレンゾがバーティスのスパイだと知っていたのか? あの男は一介の司祭だった頃に、女性信者と不適切な関係を持ってしまい、それをバーティスに揉み消して貰った事があった。それ以来、バーティスに脅されて清廉派の情報を流していたのだ」
「無論、知っているとも。だがアレンゾはバーティスと手を切りたがっていた。だから密かにバーティスの恐喝行為を告発させる準備を進めていたのだ。それをダグボルトめ。気持ちは分かるが早まった真似をしたものだ……」
ワレンツは口惜しげに唇を噛んだ。
「あんな小物一匹に告発されたところで、バーティスはびくともしなかっただろう。結局は無駄な努力に時間を割いただけだったな」
マデリーンは嘲笑うように言った。
ワレンツは身体を震わせて必死に怒りと屈辱に耐える。
「……お前さんは一体どっちの味方なのだ? クレメンダールか? それともバーティスか?」
「何?」
「もしお前さんがクレメンダールと共に、善の王国なんてものを本当に創る気があるのなら、バーティスのような陰謀家とはさっさと手を切るように勧めるべきではないか? 奴のような存在こそが、お前さん達が打倒しようとしている悪そのものなのだからな!!」
ワレンツは再度テーブルを叩いた。
痛い所を突かれたためか、マデリーンは一瞬言葉に詰まる。
だが、すぐに冷静さを取り戻し反論を企てる。
「大義のためなら、多少は手を汚す事も許される。猊下はそうお考えだからこそ、バーティスのような男の援助をあえて受けているのだ。だがあなたのような敵対者を完全に排除し、権力を完全に掌握した暁には、バーティスは自ずと猊下に膝を屈する事になるだろう」
「本気でそう考えているなら、おめでたい頭をしていると言わざるをえんぞ。バーティスはそんなに手ぬるい男ではない。奴がクレメンダールを教皇の座に据えたのは、別に教会の不正を本気で正そうとしていたからではない。むしろ逆だ。教会が急進的な改革を強行して世界を大混乱に陥れるよりは、少しぐらい腐敗していた方がましだと、人々に思わせるためだ。今となっては、たとえ王侯貴族であっても、クレメンダールに面と向かって文句を言える人間はいないだろう。だがそういう連中は、密かにバーティスや、他の『世俗派』の枢機卿に泣きついている。つまりバーティス一味には、クレメンダールを教皇の座から引きずり下ろす口実などいくらでもあるのだ」
思うところがあるのか、マデリーンは何も言わずに話を聞いていた。
ワレンツはさらに話を続ける。
「それでもバーティスが、お前さん達を好きにさせているのは、イスラファーン王国の王位継承争いにまだ決着がついていないからだ。だがそちらの問題にケリがつけば、用済みとばかりにクレメンダールを切り捨てるだろう。そして後釜として、今度は傀儡となるような従順な人物を教皇の座に据えるはずだ。それまでの短い栄華だという事を、クレメンダール共々心に刻んでおくがいい」
話を終えたワレンツは、ぐったりと椅子に腰を下ろし、ぜいぜいと荒い息を吐いた。
それだけ興奮状態にあったのだろう。
話を聞き終えたマデリーンは真剣な顔で頷いた。
「確かにあなたの言う事にも一理ある。だが猊下が、女神ミュレイアの代理人として正式に認められれば、神のご加護によっていかなる危機や陰謀からも身を守られるだろう。そうなれば、もはやバーティスなど恐るるに足らん」
「代理人だと!? 莫迦を言うな。女神の代理人として認められるのは聖女だけ。セオドラ・エルロンデ殿、ただ一人だ!」
「セオドラ? あんなものは聖女気取りのただの詐欺師ではないか。その一方で、猊下は人類の善性を高め、新たなステージへと導こうとしている。協力しろとは言わん。だがせめて猊下の邪魔だけはするな」
ワレンツは困惑したような表情で頭を横に振った。
「……儂には、お前さん達の考えは理解不能だ。まったくもって狂ってるとしか思えんよ。どこまでいこうとも人間は人間だ。それ以上でも、それ以下でもない。己の器を越えて、高みに登り詰めようなどと不遜な事を考えれば、待つのは破滅だけだ。儂にはそんなのは絶対に認められん」
「あくまでも我々に敵対しようというのだな。残念だ、ワレンツ。所詮、それがあなたの人間としての限界だったという訳だ。もはや何も言う事は無い。さらばだ」
それだけ言うとマデリーンは、くるりと背を向けて部屋を出て行った。
ワレンツは彼女が立ち去った扉を、無言のままじっと見つめていた。
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