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11
掃除の行き届いた清潔な並木通りを、一台の屋根付き馬車が通り過ぎる。
車体に貼られた銀箔に、エッチングで細やかな装飾が施され、ドアには白銀の竜の紋章が刻まれている。道行く人々は、馬車が通り過ぎるまでその場で深々と頭を垂れている。
馬車の窓から、それを眺めるダグボルトは複雑な気分だった。
領民が恭順の意を示すなど、高貴な血筋に生まれた人間には当たり前の光景なのだろうが、貧民街出身のダグボルトは、ヴィ・シランハに留まって二週間が過ぎた今も慣れないでいた。
馬車の中は対面式の座席になっていたが、ダグボルトの正面の席にはガーネットブレイズがちょこんと座っている。
『白銀皇女』は仕事があるらしく、今日はダグボルトとは別行動のため、代わりにお目付け役として同行しているのだ。
「陛下、窓から領民に手を振ってはいかがですかな? きっと彼らも喜ぶ事でしょう」
「そういうのは柄じゃない。それに『白銀皇女』が『異端』の領民に慕われるのは分かるが、俺には全く慕われる要素なんかないぞ」
「それはご自分を卑下し過ぎですぞ。陛下は『白銀皇女』殿下が、唯一対等な存在としてお認めになったお方。それ故、殿下と同じぐらい慕われるのは当然の事なのです」
ダグボルトは即位パレードを拒み続けていたが、代わりに似顔絵が描かれたビラが街中に撒かれていた。そのため領民は、すでにダグボルトを新たに加わった支配者として認めていたのである。
やがて馬車は街外れの小さな鍛冶屋の前で停まった。
御者が恭しい仕草でドアを開ける。ダグボルトはガーネットブレイズと共に外に出た。
「ここに何があるんだ?」
ダグボルトはまだ、この場所に連れてこられた目的を知らされていなかった。
「ホッホッホッ。それは中に入ってからのお楽しみですぞ」
ガーネットブレイズはもったいぶって答える。
そして扉の横のノッカーを短い尾でコンコンと叩いた。
すぐに扉が開き、二十歳ぐらいの若い鍛冶師が顔を覗かせる。
そして目の前に浮いている黒竜と、その後ろのダグボルトを見て驚きの声を上げる。
「こ、皇王陛下!?」
「うむ、そうだ。例の物が完成したと聞いて陛下自ら参ったのだ」
ダグボルトの隣で羽ばたいているガーネットブレイズが厳粛な口調で言った。
「手前の方から伺うつもりでしたのに、陛下ご自身がいらっしゃるとは恐縮の極みです。例の物はほとんど出来上がっていて、後は微調整を済ませるだけです。さあさ、何も無い所でございますが中へどうぞ!」
鍛冶師はぺこぺこと頭を下げながら二人を中へと導いた。
金属と油の匂いが鼻をつく。
壁には真新しい武具が吊るされていた。
とてもこの若い鍛冶師が鍛えたとは思えない、熟練の技が光る逸品ばかりだ。
二人は居間に案内される。
ダグボルトが古びたソファーに腰掛けると、すぐに若い娘がお茶を運んできた。
その間に鍛冶師が、隣の部屋からビロードの布包みを持って現れた。
「お気に召されればよろしいのですが」
そう言うと鍛冶師はテーブルの上に置いた布包みを開く。
ダグボルトはハッと息を飲んだ。
中から現れたのは精巧な造りの義手だった。
耐久性を重視したためか鋼鉄製で、表面は丹念に磨き抜かれて鈍色の輝きを放っている。
ダグボルトは義手を手に取ると、さっそく右腕に嵌めてみた。
するとまるで本物の腕のようにピタリと嵌る。
ここに来る一週間ほど前に、両腕のサイズを測られたのを思い出す。
しかしあれから短時間で、これほどの代物を鍛え上げるとは、この鍛冶師が相当の腕利きなのは間違いない。
「いかがでございましょう? 陛下の左腕を元に作成したのですが、違和感などはございませんでしょうか?」
鍛冶師は遠慮がちに尋ねる。
「いや、そんなのは全く無い。実に見事だ……」
ダグボルトは感極まったように言った。
「それと左手で、義手の肘のダイヤルを操作する事によって、物を掴む事も可能になっております」
教えられた通りにダイヤルを弄ってみると、義手の指が滑らかに動いた。
試しに先程出されたお茶のカップを手に取ってみる。
ダイヤルの動かし方によって、掴む強さも調整できるようだ。
これなら義手でスレッジハンマーを持って戦う事も可能だろう。
鍛冶師は、ダグボルトに柔らかい物や硬い物などを色々と持たせてみて、義手の動作に問題が無いか確認した。それが終わるとダグボルトの腕から義手を取り外し、また布に包んで収めた。
「では先程の動作確認の結果を踏まえて、こちらで調整を行っておきます。二、三日中にはお城の方にお届け出来るでしょう。それまでは不便でしょうが、もうしばらくご辛抱ください」
「正直、あんたには何て礼を言ったらいいか分からない。十分な報酬を渡すよう『白銀皇女』に伝えておこう」
「いえいえ礼には及びません。手前共はこの街に住まわせていただけるだけで、『白銀皇女』殿下から十分過ぎるくらいの恩恵を受けているのですから」
「そうか。だが援助が必要な時はいつでも言ってくれ。俺達に出来る事であれば、いくらでも手を貸そう」
ぐいとお茶を飲み干すとダグボルトは立ち上がった。
「それと旨いお茶を有り難う。さっきの人はあんたの奥さんか? それとも妹?」
「いえ、あれは娘にございます」
「娘!? だが見たところ、あんた達はほとんど歳が離れてないように見えるが……」
その時、ダグボルトはある事実に気付いた。
「あんた、歳はいくつだ?」
「今年で五十一になります。『竜の異端』に変生したおかげで、このように若返ったのでございます」
「成程な。若いにしては鍛冶の経験が豊富な印象を受けたが、その歳なら納得だ。だが年齢など関係なく、あんたが腕利きなのに変わりは無い」
「お褒めいただき光栄に存じます。手前がこうして若さを保っていられるのも、全ては『白銀皇女』殿下のおかげです」
鍛冶師は感謝の気持ちを露わにして言った。
そこでダグボルトは思い切って、気になっていた事を尋ねてみた。
「あんた、『異端』になって悔いはないのか?」
すると鍛冶師は真剣な顔つきになって身の上を語り始めた。
「かつて手前共は、ここから遥か西にあるとある街に暮らしておりました。そして娘の元に婿養子を迎えた手前は、自分の後継者として持てる技の全てを教え込んだのです。しかしある日、『紫炎の鍛え手』が軍勢が街に攻め込んできました。そして手前共を逃がすために、娘婿は囮になり命を落としたのです。この街に逃げ込んできた手前共を、『白銀皇女』殿下は温かく迎えて下さり、庇護する事を約束して下さいました。こうして『異端』になったおかげで、永遠の若さと平穏な生活の両方を手に入れる事が出来たのです。一体何の悔いがありましょう。無論、娘も同じ気持ちのはずです」
鍛冶師の曇りの無い瞳を見る限り、その言葉に嘘は無いようだ。
「そうか。あんた達が満足してるんならそれでいい。じゃあ、これで失礼する」
それだけ言うとガーネットブレイズを連れて馬車に戻った。
馬車が動き出すと、ダグボルトは無言のまま窓の外を見つめた。
行きと同じように、道行く人々が馬車に向かって次々と頭を垂れている。
(あいつらも、あの鍛冶師親子と同じように『異端』にされた事を感謝してるんだろうか? 永遠の若さと平穏な生活。確かにその二つを欲する者は多いだろう。自分の意志で『異端』として生きる道を選んだのなら何の問題も無いんだろうが……)
「……陛下?」
ガーネットブレイズに声を掛けられてダグボルトは我に返る。
「ああ済まない。少しぼうっとしてた」
「城に戻る前に『白銀皇女』殿下をお迎えに行くよう、御者に命じておきました。殿下は今、広場の教会にいるはずです」
ガーネットブレイズの言葉を聞いたダグボルトは眉を顰める。
『黒の災禍』の際に、教会は全て破壊されたはずだ。
しかも聖天教会は魔女の敵だ。
それなのに教会にいるとは、どういう了見なのだろう。
だが教会に着くと、ダグボルトはおぼろげながらも納得する。
尖塔には聖天教会の聖印の代わりに、白銀の竜の彫像が掲げられていた。
ここでは信仰の対象は、女神ミュレイアではなく『白銀皇女』個人らしい。
(強大な力を持つとはいえ、神を称するのはさすがに傲慢過ぎやしないか?)
未だにミュレイアへの信仰心を持ち続けているダグボルトは、何とも言えない気分になる。
教会の礼拝堂には二十人近い人間が集まっていた。
何人かの若い女性は赤子を抱いていた。
そのうちの一人が祭壇の側に立つ『白銀皇女』の前に進み出る。
『白銀皇女』はその女性から赤子を受け取った。
『善良なる市民、モールーン・ミドスとカドン・ミドスの間に生まれし子エイミナよ。徳治の都ヴィ・シランハの主『白銀皇女』の名において、汝を人間としての苦難に満ちた生から救済し、『竜の異端』としての新たな生を授ける。そして『異端』となった汝を、我が庇護の下に置く事をここに誓おう』
詠唱を終えると『白銀皇女』は、腕の中に抱いた赤子の額に爪で軽く傷をつけた。
むずがる赤子の身体が淡い魔力の光を放つ。
額に竜の紋章が浮かび上がる。
それはダグボルトには見覚えのある光景であった。
やり方は異なるが、グリフォンズロックで『石動の皇』が青銅の騎士に施したのと同じ儀式。
『白銀皇女』は洗礼を施していたのだ。
『異端』の洗礼を――。
赤子の額に浮かび上がった竜の紋章はすぐに消えてしまう。見た目は以前と何も変わらない。
だがたった今、この子は『竜の異端』へと変生したのだ。
周りの人間が祝福の声を上げるのとは裏腹に、ダグボルトの心の中に、はっきりとしたわだかまりが生まれる。
『白銀皇女』は他の赤子にも次々と『異端』の洗礼を与えた。
それが終わると儀式は終了となり、赤子の肉親たちは『白銀皇女』に丁重に礼を言って帰っていった。
礼拝堂から二人以外の人影が消えると、ダグボルトはすぐに『白銀皇女』に詰め寄る。
「どういうつもりだ、『白銀皇女』」
『どうしたの、ダグ? そんなに怖い顔して』
「何の分別もつかない赤子を『異端』に変えるなんてどうかしてるぞ。『異端』になるかどうかは、本人の意志で決めさせるんじゃないのか? なぜあんな真似をした?」
『あの子達の両親は了承しているわ。それで問題ないでしょう?』
「大ありだ!! 親の意志を子供に押し付けさせるな!!」
ダグボルトはぴしゃりと言った。
だが『白銀皇女』は冷淡な口調でこう答えた。
『それならこの国で生まれてきた子供は、すぐに外の世界に追放するしかないわね』
「何?」
『だって私の庇護を受ける権利があるのは『異端』だけだもの。あのね、『竜の異端』になるっていうのは、単に人間を辞めるってだけでなく、私と社会的な契約を結ぶ事でもあるのよ。彼らは善良な市民として公共の利益を守り、支配者である私のために奉仕する。その見返りに、私は彼らに永遠の命を与え、外の世界の悪しきものから守る。それが私と彼らとの間で交わされた契約。例え生まれたばかりの子供であっても例外はないわ』
「………………」
『あなたが子供を引き離すために両親を説得して、その上で外の世界で里親を見つけ出すっていうのなら好きにすればいいわ。でもそれが出来ないのなら、私のやり方に異論を挟む権利なんか無いんじゃない?』
そう言われては、もはやダグボルトに反論の言葉などない。
黙り込んでしまったダグボルトを慰めるように、『白銀皇女』は腕をそっと撫でた。
『ダグはまだ古い世界の常識に捉われてるのよ。そういう先入観は全部捨てて、もっと広い視野で世界を見なきゃ。でも大丈夫。あなたみたいに賢い人なら、近いうちにきっと私の考えを理解出来るようになるわ』
二人を乗せた馬車は、城に向けて進みだした。
ダグボルトは先程の口論の後、すっかり塞ぎ込んでいた。
『白銀皇女』やガーネットブレイズが話しかけても、適当に相槌を打つばかりだ。
『悪いけどいつもの場所に寄ってちょうだい』
突然、『白銀皇女』は御者台との仕切り窓を開けて、御者にそう命じた。
「ガーネットブレイズの次はお前か。今度はどこに寄り道するのやら」
ダグボルトは思わずぼそりと呟く。
だが『白銀皇女』は微笑むばかりで何も答えない。
やがて馬車はヴィ・シランハの南門の前で停まった。
『白銀皇女』は馬車から飛び出すと、門を出て丘陵地帯の斜面を下って、どんどんと街から離れていった。ダグボルトも慌ててその後を追う。
「何を考えてるんだ! お前が街から離れたら市民の命が危険に晒されるんだぞ!」
ダグボルトは叫ぶが、前方を走る『白銀皇女』は気にも留めずにこう答える。
『大丈夫だって! この辺ならまだ街は私の二万ギット圏内に収まってるわ。心配しないで。目的地はすぐそこよ!』
斜面を下りた先には小さな湖があった。
湖面は透き通っていて魚が泳いでいるのが見える。
『白銀皇女』は湖に向かって走りながら、器用に服を脱いでいく。
完全に裸になると大きな岩の上に登り、そこから勢いよく湖に飛び込んだ。
ドボンという音と共に大きな水柱が上がる。
「おいおい……」
ダグボルトはそれを見て困惑する。
今の彼女はまるで無邪気な子供だった。
先程までの、魔女としての威厳ある姿は跡形も無く消え失せていた。
「殿下にも困った者だ。ついこの前、この辺りで夜盗に襲われたばかりだというのに」
ダグボルトの横で羽ばたいているガーネットブレイズが呆れたように言った。
だが彼女を襲った夜盗がどうなったか、ダグボルトは聞かなかった。
そんなのは聞かずとも分かる事だ。
湖面から『白銀皇女』の顔がぴょこっと覗く。
水にぬれた銀髪がきらきらと輝いている。美貌も相まって、その姿は人魚のように映る。
『ダグも早くこっちに来なさいよ!』
彼女の頭上を舞うペリドットフェローから声が聞こえてきた。
だがダグボルトは湖に入ろうとはせず、近くの岩場に腰を下ろした。
「俺は水浴びしたい気分じゃないんだ。ここでのんびり日向ぼっこを楽しむさ」
『何言ってるの。水に入ってその汗臭い身体を綺麗にしなさいって』
それでもダグボルトが動かないのを見て、『白銀皇女』は水中に潜った。
そしてダグボルトの近くで浮上すると、ばしゃばしゃと大量の水を浴びせてきた。
「お、おい、止めろ!」
『ふーんだ。嫌だもんね。ダグがこっちに来るまで止めないよーだ!』
ダグボルトはあっという間に全身びしょ濡れになる。下着まで水でぐっしょりだ。
「お前、いい加減にしないと――」
その瞬間、ダグボルトは濡れた岩で足を滑らせた。
バランスを失った身体が湖面に叩きつけられ、水の中に吸い込まれるように消えていった。
「ちょっと、大丈夫!? 岩に頭打ったりしてないよね?」
水中に向かって心配げに声を掛ける『白銀皇女』。
すると次の瞬間、水面から必死な形相のダグボルトが顔を出した。
「た、助けてくれーーッ!! 俺は泳げないんだーーーッ!!」
ダグボルトは絶叫した。
『白銀皇女』に向かって腕を伸ばすが、またすぐに水の中に沈んでいく。
『……ここ浅瀬だから普通に足着くよ』
『白銀皇女』が声を掛けると、再度ダグボルトが水面から頭を出した。
今度はゆっくりと立ち上がる。
確かに膝のあたりまでしか水は無い。
むしろ水底で頭を打たなかったのが不思議なくらいだ。
「………………」
ダグボルトは恥ずかしさで顔を真っ赤にして、水から上がった。
後ろから『白銀皇女』がけらけらと大笑いする声が聞こえる。
「そんなにおかしいか。俺みたいに泳げない人間は浅瀬で死ぬ事だってあるんだぞ」
ダグボルトは苦々しげに言った。
すると背後の笑い声がぴたりと止んだ。
『白銀皇女』はダグボルトの背中にひしとしがみついていた。
『ごめん、ダグ。あなたを傷つけるつもりはなかったの……』
「もういい。俺も少し怒り過ぎた」
そう言って振り返ったダグボルトは『白銀皇女』の裸体を見て思わず息を飲む。
小ぶりだが形の良い胸、恥部にはうっすらと銀色の恥毛、ほどよく筋肉がついていて均整のとれた美しい身体であった。
だがダグボルトの脳裏には、アレンゾの屋敷で見た光景がよみがえる。
虚ろな目で天井を見上げる裸のリンジーの姿が――。
ダグボルトが気まずそうに目を逸らすの見て、『白銀皇女』は両腕で身体を隠した。
『ごめんなさい。こんな穢れた身体、あなたに見せるべきじゃなかったわね』
悲しみと苦悩に満ち溢れたホーリーグリーンの瞳。
それを見た瞬間、ダグボルトは自然と彼女を抱きしめていた。
「そんな事、全く思ってない!! ただリンジーを助けられなかった自分が許せないだけなんだ!!」
涙に濡れた『白銀皇女』の頬を優しく撫でた。
感受性の強い繊細な表情。
今の彼女は記憶が混濁し、『白銀皇女』であると同時にリンジーでもあった。
しっとりと柔らかな唇にダグボルトは自分の唇を重ね合わせる。
レウム・ア・ルヴァーナで初めて味わった感触。
背筋にぞくぞくと快楽的な感覚が這い登ってくる。
まるでうぶな二十台の頃に戻ったかのようだ。
ダグボルトの左手が、『白銀皇女』の胸を優しく揉んだ。
『白銀皇女』の顔に恥じらいと恍惚の表情が浮かぶ。
ダグボルトは反射的に右手も動かそうとしたが、とっくの昔に失っていた事を思い出す。
「いいか、リンジー?」
その名前を聞いて『白銀皇女』は一瞬ためらうが、ゆっくりと頷いた。
了承を得たダグボルトが服を脱ごうとしたのを見て、彼女は軽く手を振る。
すると一瞬で衣服が焼け落ちてただの塵と化した。
「まったく……。大した早業だな」
衣服を失ってしまったダグボルトは呆れたように言った。
『だってずっとこうなる日を、ずっと待ち望んでたんだもん』
そう言って『白銀皇女』は岩に身体を横たえる。
その上にダグボルトは体重をかけないようにそっと身体を乗せた。
左手で恥毛の奥に触れると、『白銀皇女』はまるで雷に打たれたかのように、ぴくっと身体を震わせる。
十分に濡れたのを確認すると、ダグボルトはゆっくりと彼女の中に入った。二つの身体が溶け合うように一つになる。
再び唇を重ね合わせると、ダグボルトは身体を動かし始めた。
『白銀皇女』の額にはうっすらと汗が浮かび、美しい顔には恥じらいと歓喜の表情が混じる。
ダグボルトの身体に回された腕に力が入り、背中に爪が強く食い込んだ。
だがその痛みはむしろ心地よく、長い年月を越えて彼女と結ばれた喜びを実感させた。
ダグボルトの動きが段々と早くなるにつれ、『白銀皇女』の口から喘ぎ声にも似たため息が漏れる。
やがて二人は同時に絶頂に達した。
温かいものが『白銀皇女』の中に広がっていく。
終わった後も、しばらく身体を離そうとしなかった。
まるでダグボルトを失う事を恐れているかのように。
いつの間にか、空は夕暮れの日差しで赤く染まっていた。
遠くの方でペリドットフェローと、ガーネットブレイズが楽しげに追いかけっこしているのが見える。寝転がったままの二人は、身体をぴったりとくっつけて、その光景を楽しげに眺めていた。
「……ところで服を燃やされた俺は、どうやって帰ったらいい?」
ダグボルトがぼそっと尋ねる。
すると『白銀皇女』は地面に落ちていた大きな柏の葉を手渡した。
『はい、これ。あなたの大きさでも、これなら隠れるでしょう?』
『白銀皇女』はそう言って意地悪っぽく微笑んだ。
**********
普段は塵一つない通りに紙吹雪がぱっと舞った。
普段は静かな街が、今は市民の歓声に包まれている。
パレード用に造られた馬車の上で、ダグボルトと『白銀皇女』は歓声に応えて手を振り続ける。
ダグボルトは、緋色の瞳を思わせるエメラルドが嵌め込まれた金細工の王冠を被り、絹で織られた高貴な衣装を纏っている。
それに合わせて、いつもはぼさぼさの髪は丁寧に整えられ、無精髭も綺麗に剃られていた。
右腕には、あの鍛冶師によって鍛えられた義手が嵌められている。
馬車は市内を一周して白銀城に戻って来た。
玉座の間には廷臣達が一列に並び、二人を拍手で出迎える。
二人が玉座に腰掛けると、今度は街に滞在する行商人達が、次々と珍しい贈り物を献上しに現れる。
この街に住めるのは『異端』だけが、外からの来訪者にも十日以内の短期滞在が認められている。
そのため、街の外に出る事が出来ない市民相手に、商売を行う者も多数いるのだ。
一通りの典礼が終わるとダグボルトは玉座から立ち上がった。
「俺……いや、余は皆の祝福を喜ばしく思う。これからは『白銀皇女』と共に、この街に暮らす者達の安寧を図り、善政を敷く事をここに誓う。至らぬ所も多いであろうが、皆も余を支えて欲しい」
万雷の拍手が鳴り響き、廷臣達は『皇王陛下万歳、皇女殿下万歳』と口々に叫ぶ。
それが静まるとダグボルトは話を続ける。
「それで余からの提案だが、まず余を受け入れてくれた市民への感謝の意を込めて、来年度までの全ての税を半分にしようと思う。それと獄に繋がれている者にも恩赦を――」
『この街に犯罪者なんか一人もいないわよ』
ダグボルトの肩に留まるペリドットフェローから、『白銀皇女』の囁き声が聞こえてきた。
「――そうだったな。では今夜は後天八の刻の外出禁止を解除し、市民に全ての酒場を無料で開放しよう。皆も今宵は一晩中飲み明かすといい」
その言葉を聞いて廷臣達は歓声を上げた。
平穏な生活に満足していても、娯楽には飢えているのだろう。
『白銀皇女』は外出禁止解除と聞いて、あまりいい顔をしなかったが、皇王即位式典の主役であるダグボルトに恥をかかせるような無粋な真似はしなかった。
その日は、夜が更けても街に明かりが灯り続け、通りは酒に酔った人々の喧騒で賑わっていた。
ダグボルトと『白銀皇女』は豪華な晩餐会の後、ダンスホールで廷臣達とダンスを楽しんだ。
とはいえダグボルトはまるで踊れない為、『白銀皇女』に少しだけ付き合った後、恥をかく前にひとりテラスへと逃れた。
テラスの下の庭園からは、へたくそな歌が聞こえている。
見ると庭園の噴水前に使用人の男女が集まって、楽しそうに酒を酌み交わしている。
(どっちかと言えば、窮屈なここより気楽なあっちの方に混ざりたいもんだな)
ぼんやりと下を眺めていると、シャンパンの入ったグラスを二つ手にした『白銀皇女』がやって来た。
『こんな所にいたんだ。もう踊らないの?』
「俺はダンスは苦手だからな。みんなが楽しんでるならそれでいいさ」
『白銀皇女』が片方のグラスを差し出すが、ダグボルトはそれを押し戻した。
「いらん。俺は酒は飲まない」
『そういえばそうだったわね。みんなには好きなだけ飲ませてあげる癖に面白いわね』
「俺も昔は普通に飲んでたから、酒飲みの気持ちは分かるさ。だけど酒はもう卒業したんだ」
『どうして?』
「どうしてって……。年をとると、若い連中みたいに酒を飲んで暴れ回るのが阿保らしくなるんだ。それだけ俺も大人になったって事だよ、リンド」
だが『白銀皇女』は懐疑的な眼差しを向けてくる。
『でも私の記憶によると、リンジーと出会った時にはもう禁酒してたじゃない。確かあの時ダグはまだ二十台前半だったはずよ』
鋭い指摘を受けてダグボルトは返答に詰まる。
『私に秘密にしてる事があるなら、今のうちに言っておいた方がいいわよ。でないとここでまたあなたの服を燃やしちゃうわよ。こういう風にね』
『白銀皇女』が軽く手を振ると、チョッキの袖ボタンが一瞬で燃え尽きた。
「わ、分かった! 話せばいいんだろ! だけどそんなにおもしろい話でもないぞ」
ダグボルトは呼吸を整えると話し始めた。
「俺が聖堂騎士になりたての頃、大陸北西にある小国の大聖堂に向かう、大司教の護衛任務に就いた事があったんだ。任務自体は特に問題なく片付いたんだが、その後、酒場で一杯やってた時に同郷のアンフレーベン出身の傭兵と意気投合してな。それで酒場を何軒もはしごして、べろんべろんに酔っぱらった俺達は、いつの間にか話の流れで、どっちの小便が遠くに飛ぶか競争する事になったんだ」
『え? 何それ?』
あまりにも突飛な話に『白銀皇女』はポカンとする。
「しょうがないだろ。酔っ払い過ぎて分別がつかない状況だったんだよ。それでせっかくなら派手な勝負をしようって事で、俺達は衛兵に見つからないように、こっそりと街の城壁に登ったんだ。で、仲良く放尿したわけだ。勢いだけなら圧倒的に奴の方が上だったが、距離に関してはほんの僅かに俺の方が勝っていた。そこまでは良かった。だが間の悪い事に、たまたまその時、街に入ろうとしていた国王の妾の馬車が下にあってな。しかもさらに悪い事に、王妾は街の入口で馬車を降りて、護衛と話してるところだった。そこに俺達の小便が降り注いだ訳だ」
『……それでどうなったの?』
「街に永久に出入り禁止になった」
『それだけ!? むしろ王妾にそんな無礼な真似をして、その程度の罰で済んだのが不思議なくらいだわ』
『白銀皇女』は呆れたように言った。
「そうでもないさ。アンフレーベン出身の傭兵の方は牢屋にぶち込まれて、たっぷりと臭い飯を食わされたんだからな。俺は『聖職者の不逮捕特権』のおかげで、そうならなかっただけだ。問題はその件がセオドラの耳にも入っちまったって事だ。あいつには本当に死ぬほど怒られた。それでもう二度と酒を飲まないっていう誓約書を書かされたんだ」
『じゃあ、あなたは未だにその誓約を律儀に守ってるの?』
「別に誓約だけなら怖くないさ。ただ誓いを破って酒を飲もうとすると、どうしてもセオドラの怒りの形相が頭に浮かんで……」
ダグボルトの声はだんだんと萎んでいった。
『プッ! 『魔女殺しの騎士』と呼ばれるあなたがそんなに恐れるのが、まさかあの聖女様とはね。プフフフ……アハハハハハハハ!!』
『白銀皇女』の彼女の口から激しく息が漏れる横で、ペリドットフェローの口から、彼女の大きな笑い声が響く。ダグボルトは気まずい顔をして頭を掻いた。
「セオドラが怒る事なんて滅多にないんだけどな。あれほどあいつを怒らせたのは、たぶん俺が初めてだろう」
『フフッ。それだけあなたに期待を寄せてたのかもね。あなたの事を気に掛けてなければ、そんなに怒る必要も無かったでしょうし』
『白銀皇女』は笑い過ぎて溢れ出た涙を指で拭っていた。
「だったらいいんだがな。その甲斐があってかは知らんが、そんなふざけた男が今や一国の王だ。運命ってのは本当に分からんもんだな」
『そうね。離れ離れになっていた私達が、この二頭の仔竜みたいに引き寄せ合うのも、そうした運命の導きなのかもね』
『白銀皇女』は両肩に乗る竜達の喉をなでながら言った。
ダグボルトはギクリとする。
その言葉は、レウム・ア・ルヴァーナでリンジーからペンダントを贈られた時の事を思い出させた。
『白銀皇女』がリンジーの記憶を利用して、ダグボルトの心を捉えようとしているのはよく分かっていた。
それでも揺れ動く心を止める事は出来なかった。
――ボン。
突如として宵空に赤光の華が咲いた。
『見て! 花火が始まったわ!』
『白銀皇女』は、ダグボルトに腕を絡ませて言った。
次々と打ち上がる花火を、まるで子供のように上気した顔で熱心に眺めている。
『……ところで、前にダグに決断を迫った事を覚えてる? この世界を新たな色に塗り替えるかどうかの選択についてだけど、あれから三ヶ月経ったし、そろそろ考えは纏まったんじゃない?』
夜空をじっと見つめたまま『白銀皇女』が急に尋ねてきた。
「それなんだが……」
ダグボルトはどう答えたものか迷う。
慎重に言葉を選びながら話を切り出した。
「俺は今までと同じでいいと思う。『異端』となって平穏な生活を望む者はここに集め、危険はあっても人として生きたい者は、外の世界で暮らせばいい。自分の生き方を選ばせるためにも、外の世界はそのまま残しておくべきだ」
『そうかな? 私はむしろ逆だと思うけど』
「逆?」
『選択の余地を残しておくから、人として生きるか『異端』として生きるかなんていう、くだらない葛藤が生まれるのよ。だったら生まれたらすぐに『異端』に変生するのが、当たり前の世界を創ればいいじゃない。それなら誰も悩んだりはしないわ。世界を創り変えるっていうのは、そうやって世間の常識そのものを変化させる事なのよ』
それでもタグボルトは迷っていた。
タグボルトの脳裏には、教会で『異端』の洗礼を受ける赤子の姿が焼きついていた。
(あんな風に簡単に、人としての生を奪ってしまっていいのか? 本人のためとはいっても、結局はただの独りよがりじゃないのか?)
「……済まないが、もう少し考える時間をくれ」
ダグボルトには、そう答えるのがやっとだった。
**********
真っ暗な寝室で、ダグボルトはベッドから身体を起こした。
階下からは、微かに楽士が奏でる音楽が聞こえる。
ダグボルトと『白銀皇女』は、深夜を過ぎても騒ぎ続ける臣下の者達を置いて、先に休んでいた。
隣では『白銀皇女』が可愛らしい寝息を立てている。
『黒獅子姫』は魔力を回復させるために睡眠を必要としたが、無限の魔力を持つ『白銀皇女』には必要なのだろうか? そう考えると少し奇妙でもあった。
『白銀皇女』を起こさないようにそっとベッドを出た。
サイドテーブルに置かれた花瓶から、一輪の花を取って胸ポケットに入れる。
それから暗闇の中で、手探りで壁際に掛けられたガウンを羽織り、部屋の外に出た。
燭台の炎で明るく照らし出された廊下の奥から、大臣がこちらに向かって千鳥足で歩いて来るのが見えた。
「陛下ァ~。楽しんでらっひゃいますか?」
大臣はろれつの回らない口調で言った。
いつもの毅然とした姿からは考えられない泥酔状態だ。
「ああ。お前達のおかげで素晴らしい即位式典になった。感謝しているぞ」
「そんな……お礼なんて……照れま……」
急に大臣は糸の切れた操り人形のようにぐったりと倒れ、その場で大きないびきをかき始めた。
ダグボルトは大臣の身体にガウンを被せてやると、燭台を手に取って階下に降りた。
廊下ですれ違う者達と挨拶を交わしつつ、裏口から城外に出る。
外の空気は冷え冷えとして肌寒い。
ダグボルトは大臣にガウンを与えてしまった事を少し後悔する。
だがすぐに気を取り直して『黒獅子姫』の墓所がある林へと向かった。
鬱蒼と茂る林の奥に、墓碑銘の刻まれた御影石の墓石がある。
ダグボルトはその近くに燭台を置いて片膝をついた。
「最近忙しいせいで、なかなか来れなくて済まなかったな」
胸ポケットに差していた一輪の花を墓石に捧げようとした。
だがその手が一瞬止まる。
彼の手に握られていたのは黒薔薇だった。
「黒薔薇はお前の好きな花だったな。たまたま持ってきたのがこれだったとは何かの因果を感じるな」
『紫炎の鍛え手』との戦いから生還した彼に、『黒獅子姫』が持ってきた見舞いの花が黒薔薇だったことを思い出す。果たしてあの時、今日の状況を予測できた者がいただろうか。
ダグボルトは両手を組んで祈りを捧げる。
そしてぽつりとこう呟いた。
「世界がもっと単純だったら良かったのにな……」
いつの間にか『黒獅子姫』に語り掛けていた。
「『白銀皇女』は俺に世界を変えさせようとしている。それでも俺は、未だに答えを出せないでいる。確かにあいつの考えは一理ある。少し前までの俺は、『偽りの魔女』を全て倒せばそれで全てが解決すると思ってた。だがレウム・ア・ルヴァーナを奪還した後に、そうでは無いと気付いてしまった。主を失って夜盗と化した傭兵共、流入し続ける難民の食糧問題、人種間対立……。むしろ戦いの後の方が問題山積みだったな」
テュルパンは飄々とした性格故に、山積する問題を毎日淡々と処理していた。
しかし他の人間が指導者だったら、とっくの昔にプレッシャーで押し潰されていただろう。
補佐役のウォズマイラもまだ十代でありながら、人々の不満を押さえたり、部署間の調整を行ったりと多忙な日々を送っていた。
いずれ世界が復興するにつれ、あらゆる場所でそうした問題が吹き出して、新たな争いの火種になるだろう。
争いは決して絶える事は無い。
『偽りの魔女』が生み出される遥か昔から、人々は憎み合い、殺し合ってきたのだから。
「お前なら、どんな決断をしただろうな。……いや聞くまでも無いか。お前は他人に自分の人生を委ねるようなタイプじゃないからな。だが全ての人間が、お前みたいに強いって訳じゃない。強者の庇護を求める者は多いだろうし、強者の支配によって世界が纏まるというのも一つの真理だ」
それからしばらくダグボルトは黙り込んでいた。
頭の中で何度も何度も思考を組み立てる。
だが結局、考えは纏まらなかった。
「……やっぱり難しいな、この問題は。もう少し自分で考えてみよう。じゃあな、ミルダ。答えを見つけたらまた会いに来る」
ダグボルトは燭台を手にして立ち上がった。
ふと墓石の上に置かれた黒薔薇を見ると、一匹の黒蟻が蜜を求めて這い寄っていた。
ダグボルトの顔に微かな笑みが浮かぶ。
まるでその蟻が『黒獅子姫』の生まれ変わりのように見えたのだ。
だが、何かがおかしいと気付く。
黒薔薇を手に取ると、蜜を啜る蟻をじっくりと観察した。
蟻の表皮は蛍のように青白く発光している。
「これは魔力の光!? まさかこいつ、ミルダの蟻なのか!?」
ダグボルトは思わず叫んでいた。
『黒獅子姫』が死んでいるのなら、彼女が生み出した蟻が生きているはずはない。
ダグボルトの頭の中に一つの考えが生まれる。
黒薔薇をそっと脇に置くと今度は墓石を観察した。
前に来た時と比べて、僅かに石がずれているように見える。
(石工が墓碑銘を刻む時に動かしたのかもしれない。だがそうでないとしたら……)
ダグボルトは全身の力を籠めて墓石を押した。
上腕筋が瘤のようにぐっと盛り上がり、歯を食いしばった顔は鬼のような形相になる。
やがて墓石が少しずつ動き始めた。
半分ぐらい動かした所で、今度は義手で土を掘り返し始めた。
一刻程掘り続けた所で、ついに棺桶を掘り当てた。
だが中を見る勇気がなかなか湧いてこず、その場に立ち尽くしたまま荒い息を整えていた。
(ええい! ままよ!)
ダグボルトは一か八かに賭けて棺桶の蓋を開けた。
そして中を見て凍りつく。
「フッ」
ダグボルトの肩が震えた。
「フフッ。ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!」
そして彼は狂ったように笑い出した。
棺桶の中に遺体は無く、完全に空であった。
(リンドから大量の魔力を浴びせられて、ミルダは命を失った。それでミルダの蟻は全て消滅した。あの時の光景はそういう風にしか見えなかった。だが実際は違ったんだ。リンドはミルダを大量の魔力で仮死状態にして、その後で蟻を全て焼き殺して、完全に死んだように思い込ませたんだ。そして俺の目の前でミルダを埋葬して、後日こっそりと掘り返して、どこかに移した訳だ。だが蟻を一匹だけ殺し損ねたのはとんだ誤算だったな。おかげでミルダがまだ生きているって証明されたんだからな)
分かってしまえば実に単純なトリックであった。
ダグボルトは初めから『白銀皇女』に騙されていたのだ。
だが不思議と腹は立たなかった。
いや、むしろ喜ばしくさえあった。
求めていた答えはここにあったのだ。
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