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 霊峰ルヴァーナの頂にある、六つの巨石が円形に並ぶ祭祀場(ストーンヘンジ)。  そこは聖天の女神ミュレイアが世界創生の際に降り立った地であり、信徒に度々啓示を授けたと言われる場所である。  西にある聖堂都市(ジグラット)から、ここまで石畳の敷かれた山道と階段で舗装され、女神の信徒が自由に巡礼に来られるようになっている。  轟轟と吹き付ける風が、祭祀場の中央で片膝をついて祈りを捧げるか細い少女の身体に、容赦なく叩きつけられる。  しかし少女は、まるで凪の海にいるかのように穏やかな表情を崩さない。目を閉じて聖天の女神への祈りを根気強く続ける、  年は十七。清楚で整った美しい顔立ち。瞳は明るいブルー。艶のある長い金髪の前髪は、眉のあたりで切り揃えられている。  長身の身体に白のプレートメイル(金属の全身鎧)と真紅のマントが映える。  ペガサスが描かれたカイトシールド(逆三角形の中型盾)を背負い、腰にはバスタードソード(片手でも両手でも扱える長剣)を佩いている。 「急に姿を消したと思ったらこんな所にいたのか、ウォズマイラ。みんなお前を探してるぞ」  背後から声を掛けられ、少女はようやく目を開ける。  立ち上がって振り返ると、そこには見知った大男がいた。  二ギット(メートル)をゆうに超える巨体。  男の長い黒髪には白いものが混じり、三十五歳という年齢よりも老けて見える。  肌は浅黒く、高い鷲鼻。無精髭を生やした顎はがっしりとして、引き締まった顔立ち。  顔の左側には酷い火傷の跡があり、白く濁った左目は眼帯で覆われている。  ダグボルト・ストーンハート。  それがこの一つ目巨人(キュクロプス)めいた騎士の名前。  今では人々に『魔女殺しの騎士』などと仇名されている男である。  ダグボルトは黒く染めた麻の衣服を着ていて、右腕の肘から先にはぴったりとした革の長手袋を嵌めている。 「やっぱり聖天の女神からの言葉は届きません。せっかく皆さんに聖地を取り戻してもらったのに。私が『真なる聖女』じゃないからでしょうか……」  ウォズマイラは自嘲気味に呟く。  ダグボルトは彼女を慰めるように軽く肩を叩いた。 「そいつは違う。女神の声が届かないのは『真なる魔女』であるミルダも同じだ。『黒の災禍』以来、誰も女神の啓示を賜る事が出来ない状態が続いてるようだ」 「まさか聖天の女神がこの世界を見放してしまったという事は……」 「いいや、それは無いと思うぞ。もしそうならミルダは魔力を失ってるはずだ。あいつの力は女神から授かったものだからな。だがそうでない以上、見放したと考えるのは早計だ。きっと何か他に事情があるに違いない。とにかく今は女神に頼らず、俺達の手で世界を復興する方法を模索するしかないだろうな」  それっきり二人は、考え込むように無言で山を下りる。  晴れていた青空が、急に濁った色の曇に覆われる。  山の天気は変わり易い。  だが二人には、それだけでは片付けられないような何かが感じられた。  まるで彼らの前途を象徴しているかような、不吉な何かが――。    **********  霊峰ルヴァーナと、その霊峰を東に抱くように聳え建つ聖堂都市。  二つを合わせてレウム・ア・ルヴァーナと呼ばれている。『黒の災禍』以前は聖天教会の聖地だった場所である。  聖堂都市は中心部に行くほど高度が高くなる、なだらかなピラミッド型に設計されており、かつては最頂部に巨大な大聖堂(カテドラル)があった。  それを取り巻く市街地も、昔は巡礼者で賑わったものである。  だが市街は『黒の災禍』の際に破壊され、十年が過ぎた今もその傷跡が残されている。  大聖堂もまた跡形もなく消失している。  大聖堂の跡地に建つのは、様々な種類の金属の合板を裁断し、捩じり、組み合わせた奇怪かつ幾何学的な超巨大オブジェだった。  だまし絵にも似たこの悪夢の産物は、緻密な計算により生み出されたものなのか、ただ無秩序に金属板を組み合わせただけのものなのかすら分からない。  入口となる大門が無ければ、これが宮殿だとは誰も分からないだろう。  二ヶ月程前まで、この地を支配していた『偽りの魔女』、『紫炎の鍛え手』が創り出した代物である。だが『紫炎の鍛え手』はウォズマイラの手で殺され、この宮殿も今は『偽りの魔女』に対抗するレジスタンス組織、劫罰修道会の新たな本拠地となっている。  『紫炎の鍛え手』の宮殿の一室――窓も家具も無い金属の壁に囲まれた殺風景な場所で、禿頭で長身痩躯の修道士(モンク)が緊張の面持ちでゆっくりと歩を進める。  裸足の足の裏に無数の針が喰い込む。  彼が立つ床は、びっしりと鋭い針が敷き詰められていた。  修道士の不健康な色の肌が汗でぬめぬめと光る。  四十代くらいと思われるが、皺ひとつ無いゆで卵のようにつるりとした顔。髪も眉も無く、耳の先は尖っている。瞳はかなり薄いブルーのため、白目を剥いているようにも見える。  明らかに浮世離れした異様な風采だが、この男こそ劫罰修道会の指導者、テュルパン・ガイスターなのだ。 「テュルパン、早く食堂に来ないと夕食が冷めるのじゃ」  不意に小部屋の扉が開き、黒髪の少女が中に入って来た。  年は十四、五ぐらい。肩のあたりまで伸びた黒髪は、くしゃくしゃとしたくせっ毛。瞳は黒く、気だるげな眼差し。退廃的な美貌の持ち主だ。  肌は不健康な白さで、小柄で痩せぎすの身体。裾の短い黒いフード付ローブを着て、膝上までの黒のロングブーツを履いている。  針の山を歩くテュルパンの姿を見て、少女は目を丸くする。  廊下からの冷たい空気で、天井から吊るされたランプの明かりが揺らいだ。  精神集中を乱されたテュルパンはバランスを崩し、針の山に倒れかける。 「危ないッ!!」  少女が叫ぶと同時に、その脇を黒き獅子がさっと通り過ぎる。  獅子は針の山に飛び乗り、倒れそうになるテュルパンを背中で受け止める。  獅子の黒い体毛がざわざわと蠢く。  よく目を凝らしてみれば、この獅子の身体が、無数の黒蟻によって構成されたものであると気付くであろう。  いや、獅子だけではない。  黒髪の少女が纏うローブやブーツもまた、黒蟻が集まって形作られたものなのだ。  魔力で生み出した黒蟻を使役する。  それがこの少女――『真なる魔女』、『黒獅子姫』の能力なのである。 「いやあ、すまないね。部屋の鍵を掛けるのをすっかり忘れていたよ。しかしこの程度で心を乱すとは、私もまだまだ未熟だなあ」  黒き獅子の背に乗せられて廊下に出たテュルパンは申し訳なさそうに言った。獅子はテュルパンを降ろすと『黒獅子姫』の横にちょこんと座った。 「一体何をしてたんじゃ? 大道芸の練習?」 「大道芸とはひどいなあ、ミルダ(『黒獅子姫』の人間名)君。これは劫罰修道会で行われている精神修養の一環なんだよ。自分の罪深さを痛みとして焼き付けるためのね」 「むむう? そんなふざけた精神修養、生まれて初めて聞いたのじゃ」  『黒獅子姫』は呆れたように呟いた。    **********  飾り気の無い食堂の長テーブルの前に、ダグボルトがひとりぽつんと座っていた。  テュルパンと『黒獅子姫』も席に着く。  テーブルには、堅い黒パンや薄いジャガイモのスープといった質素な夕食が並んでいる。  傭兵に居住地を焼かれ、レウム・ア・ルヴァーナに逃れてきた難民に食料の提供をしているため、今の劫罰修道会には贅沢をする余裕など無いのだ。  『紫炎の鍛え手』と『碧糸の織り手』が抱えていた傭兵団の大半は、雇い主の死を知って逃亡したが、一部は未だに各地で争乱の種となっている。  前回の激戦で負傷した『黒獅子姫』の自然治癒を待つ間、ダグボルトはウォズマイラと共に義勇兵を率いて各地を転戦し、幾つかの傭兵団の残党を掃討していた。  しかしもっとも厄介な相手は、シャッコ率いる新生北狼傭兵団だった。  ダグボルトと『黒獅子姫』が所属していた頃は少人数の傭兵団だったが、『紫炎の鍛え手』が金銭的援助を行ったため、今では五、六百人程に膨れ上がっている。  彼らは投降も退去もせず、未だ堅牢なガルダレア城塞に立て籠もっていた。  『赤銅の異端』が使えた前回とは違い、力攻めで城塞を落とそうとすれば相当な犠牲が出るだろう。  無論、傷が回復した『黒獅子姫』に協力して貰えば話は別だが。  しかし彼女の旅の目的は『偽りの魔女』から魔力を取り戻す事であって、人間同士の殺し合いに介入するのは望まないはずだ。  それが分かっているため、ダグボルトはあえて彼女の協力を仰ぐような真似はしなかった。  そこでダグボルトは、義勇兵にガルダレア城塞を包囲させ、その近辺に無数の簡易砦を築かせた。  時間はかかるが、城塞を孤立させて食料の供給を断つ手段に出たのだ。  兵が多いという事はそれだけ食料の消費も早い。  おそらく、あと一ヶ月もすれば敵の食料は尽きるだろう。それまでじっくり待てばいい。 「ウォズマイラは、負傷した難民の治療のために病院に寄ってくるから、先に食べてて構わないとの事だ」  ダグボルトは空の椅子を指差して言った。 「そうか。では遠慮せずにいただくとしようかね」  テュルパンは女神への祈りを捧げるとスープを啜る。他の二人も質素な食事を黙々と食す。 「……そう言えばさっきのおかしな精神修養、あれってウォズもやっとるのか?」  急に『黒獅子姫』がテュルパンに尋ねる。 「いやいや、勿論してないよ。あれは今の劫罰修道会じゃなく、私が昔入信していた旧劫罰修道会で行われていたものなんだよ。『黒の災禍』のさらに前、聖天教会に合併される前のね」 「劫罰修道会が『黒の災禍』の前からあったとな?」  『黒獅子姫』は首を傾げる。 「魔女であるミルダ君は、善の陣営についてはあまり詳しくないんだね。聖天の女神を崇拝する宗教組織は聖天教会だけじゃないんだよ。聖天教会も元々は中規模な教団だったんだけど、劫罰修道会みたいな小教団を幾つも吸収合併していった結果、モラヴィア大陸全土に影響力を持つような巨大な宗教機関になったんだ。まあ急激に膨張した組織の常として、聖天教会もまた内部的には幾つもの派閥が生まれ、一時は分裂寸前だったんだけどね。そう。『黒の災禍』の十四、五年ぐらい前にあの大事件が起きるまではね」 「『血みどろ(ブラッディ)ダンリーの反乱』だな」  二人の話を聞いていたダグボルトが口を挟む。テュルパンは重々しく頷いた。  だが『黒獅子姫』は、またも首を傾げる。 「じゃがそれは、よくある王位継承のゴタゴタではなかったかのう? ここの西にあったアシュタラ大公国のバリン大公が死んで、息子のガンダーロ公子が大公位を継ごうとしたが、叔父のダンリー公が異を唱えて反旗を翻した。それで激しい戦いの末、ガンダーロ公子がダンリー公を討ち取って無事大公位についた。確かそんな事件じゃったと思うが」 「うん、その通りだよ。でも問題なのはダンリー公の一派に聖天教会の人間、教会内部では『清廉派』と呼ばれる改革派の人間が加わっていた事なんだ」  すると再度ダグボルトが口を挟む。 「そこら辺について話すなら、まずレウム・ア・ルヴァーナの成り立ちについて簡単に説明しておいた方がいいと思うぞ」 「おっと、そうだね。昔、この辺りには名無き氏族(ネームレス)と呼ばれる部族が棲んでいたんだ。土俗神に人間の生贄を捧げるような原始的な宗教観を持つ、言うなれば未開の蛮族だね。だけど彼らの居住地の近くにある霊峰ルヴァーナは、聖天の女神を信奉する者にとっては絶対に欲しい場所だった。だから女神信仰の盛んなアシュタラ大公国の当時の大公は、ここに何度も軍勢を送り名無き氏族を排除しようとしたんだ。だけどここいらは昔は酷い荒れ地で、大軍を展開し難い地形だったのに加え、名無き氏族自体が好戦的で強大な戦力を持っていたために、逆に押し返されてしまってね。それで名無き氏族の襲撃から国境を守るために、大公はガルダレア城塞を建造したんだよ」  そこでテュルパンは話を中断し、コップの水で喉を潤す。  その間に、今度はダグボルトが説明を続ける。 「そこで当時、まだ大陸北部に設立されたばかりの聖天教会が、聖地奪還に名乗りを上げた。教会の創設者で、総司教(現在の教皇職に当たる)のオーギュント・ペイモーンが北部の諸国家を説得し、彼らの助力の元、聖堂騎士団を結成させたんだ。赤竜砂漠を越えて北から攻め込む聖堂騎士団と、西から攻め込むアシュタラ大公国軍による挟撃作戦が実施された。地形的には不利だったが、最後は数が物をいって名無き氏族を南の密林地帯、深緑の辺獄(グリーン・インフェルノ)に追い払う事に成功した。アシュタラ大公国は金と人員を大量につぎ込んで荒れ地を造成し、聖地レウム・ア・ルヴァーナを築いた。そして聖天教会は、レウム・ア・ルヴァーナを無期限賃借する形でアシュタラ大公国と契約を結んだ。それが今から百五十年位前の話だ」 「聖地なんて言ってしまえば美しいが、実際は力ずくで排除した無辜の人々の血に塗れとるのじゃな。教会の連中は綺麗に覆い隠しとったみたいじゃが」  『黒獅子姫』は軽蔑するように言った。 「名無き氏族は断じて無辜の人々なんかじゃない。食人行為と近親相姦を繰り返してきた狂った野蛮人共だぞ。むしろ逃がしたりせずに、ちゃんと滅ぼしておけば、将来に禍根を残さないで済んだんだ。あいつらを生かしておいたせいで、その後もレウム・ア・ルヴァーナが襲撃されるようになったんだからな」  ダグボルトは冷たく言い返す。  二人の間に流れる気まずい沈黙。  慌ててテュルパンが取り成そうとする。 「まあまあ、二人とも。今は倫理的な議論は止めておこうじゃないか。大事なのは聖天教会とアシュタラ大公国との間には、聖地を介して強い結びつきがあったという事なんだよ。それがさっきの話に繋がってくるのさ。『血みどろダンリーの反乱』が起きた頃、教会では『世俗派』と呼ばれる派閥が内部を仕切ってた。彼らは枢機卿(教皇の補佐役)の地位を独占して、世界各地で『免罪符』、つまり今までの人生で犯してきた罪を全て許すという許可証を、高額で売りつけて私腹を肥やしてたんだ。おまけに前教皇ベリアリス三世が亡くなって以来、新しい教皇を選出しないまま四年にも渡って自分達の手で教会を動かしてたんだよ。これがいわゆる『大空位時代』なんだけど……まあ今は歴史の授業じゃないから、これ以上深く説明しなくてもいいよね。要するに当時の教会、特に上層部は腐敗の極みにあったわけだ。そこで『世俗派』を教会内部から排除するために、改革を望む『清廉派』の連中は、自分達の思想に共鳴するダンリー公をアシュタラ大公国の大公位につけようと画策したのさ。大公は教会の人事に大きな影響力を持つからね」 「じゃがガンダーロ公子からすれば、とばっちりじゃな。教会内部の権力抗争には何も関係しとらんかったんじゃろ?」 「うん。だから事実を知ってガンダーロ公子は激怒したさ。だけど結果として、この事件は腐敗し切った聖天教会――特に『世俗派』の存在を明るみに出す事になったんだ。そういう意味では『清廉派』の行動は決しては無駄じゃなかったんだよ。それでガンダーロ公子は教会への制裁として、二大特権である『課税の免除特権』と『聖職者の不逮捕特権』を剥奪しようとしたんだ。さすがの『世俗派』もこれには焦った。この特権はモラヴィア大陸のほぼ全ての国々から与えられてたものだったんだけど、アシュタラ大公国に同調して他の国々も同じ動きに出るかもしれない。そこで『世俗派』は宗教改革によって対外的には教会の腐敗から目を逸らさせ、内部的には敵対派閥を潰して教会を一つにまとめ上げる必要が出てきたんだ」  テュルパンは一息おいて先を続ける。 「改革の旗手として新教皇に選ばれたのがヴィクター・クレメンダール。彼は『清廉派』よりも急進的な改革思想を持つ『断罪派』の指導者だけど、その『断罪派』は最小派閥であるが故に、『世俗派』の後ろ盾が無ければ大きな権力を発揮できない――言うなれば『世俗派』にとって扱いやすい人物だったわけだ」 「そしてあやつは、歪んだ善意を世界中に撒き散らして、聖天教会を崩壊に導いた史上最低の善人でもあるわけじゃ。そうじゃろう?」  『黒獅子姫』は冷淡な口調で言い添える。 「君がヴィクターを嫌うのもよく分かるよ。彼は教会改革を進める一方で、説教を通じて民衆に魔女への恐怖心を嫌という程たっぷりと植え付けたからね。でもそれはたぶん『世俗派』の願望とは異なり、民衆の目を教会の腐敗から逸らすのが目的じゃないと思うんだ。魔女に対抗できるのはヴィクター・クレメンダールただ一人だというイメージ戦略を行い、民衆の心を独裁的に支配しようとしたんだよ。彼は最小派閥の出身とはいえ、黙って『世俗派』の言いなりになるような人物じゃなかったんだ。実際の所、彼はこの世界に善の王国を生み出そうと考えてたらしくて、聖天教会ですらその理想のために利用して――」 「そんなのどうだってよいのじゃ! そもそもわしは、あやつが説教で語ってたような悪事なぞ何もしとらんのじゃぞ! それなのにあやつは、わしとは無関係な者達まで魔女に仕立て上げて、拷問によって嘘の自白をさせて処刑しおった! 自分の独裁願望を満たすためだけに!」  鼻息を荒くする『黒獅子姫』を、テュルパンはまあまあと宥める。 「そうかも知れないけど、人心を操るには仮想敵を創り出すのが一番手っ取り早いからね。そして教会の手で魔女を狩るために、審問騎士団が結成されたのさ」 「じゃが魔女狩りなんぞ表向きの口実じゃろ? そんな目的のためだけに、教皇直属の軍事機関なんぞ造る訳ないじゃろうが。審問騎士団はクレメンダールの政敵を排除するために、犯罪のねつ造、諜報、暗殺、とにかく裏で色々と汚い仕事をしとったって噂じゃぞ」  そう言うと『黒獅子姫』は、元審問騎士のダグボルトを横目で見る。  しかしダグボルトは、下を向いたまま黙々と食事を続けている。  テュルパンは気まずそうに咳払いした。 「コホン。ともかくそういう訳で、ヴィクターは教会の威信を高める事に成功し、同時に政敵を排除して教団内を一つにまとめ上げた。教義の異説を提唱した、私みたいな異分子は破門されてしまったけどね。それでも彼は宗教改革を一応成功させたんだよ」 「成功だと?」  黙っていたダグボルトが急に口を開いた。 「そいつは違うな。クレメンダールの改革は不完全だった。あいつは強情で自説を曲げない性格だったせいで、内外問わず敵が多かったから、最後まで『世俗派』の後ろ盾を必要としてた。だから教会内部の腐敗を、完全に正す事は出来なかったんだ。だがもっと早い段階で敵対勢力を全て排除出来ていれば、切り返す刃で『世俗派』の連中も一掃出来たはずだ。そうすれば『世俗派』の策略でセオドラが殺される事はなかったし、『黒の災禍』も起きなかったのに……」  ダグボルトは悔しげに呟く。  しかしテュルパンは、ダグボルトの言葉に眉をひそめている。 「待ってくれ、ダグボルト君。君はそういう風に考えているのかい? 『世俗派』がシスター・セオドラを殺した黒幕だと?」 「ああ、当然だ。『世俗派』の連中は信仰心の欠片も無い癖に、セオドラだけが癒しの秘跡を使える事に嫉妬してたからな。だからあいつらは、セオドラを正式に聖女認定するのをずっと拒否し続けてたんだ。そして最後には、癒しの秘跡なんてまやかしだと抜かして、セオドラに魔女の汚名を着せて処刑したんだ」 「だけど魔女認定や審問裁判は、審問騎士じゃないと出来ないはずだよ。それに『世俗派』には審問騎士団は動かせない。何と言っても教皇直属の機関なんだからね」 「たぶん審問騎士の中に『世俗派』に買収された奴らがいたんだろう。そいつらが勝手にセオドラを処刑して――」 「それはあり得ないよ。シスター・セオドラの魔女認定と審問裁判を行ったのは、あのマデリーン・グリッソムだったんだからね」  思わぬ名前を聞いて、ダグボルトは手にしていたスプーンを取り落とす。  金属の床に落ちたスプーンが硬質の響きを鳴らす。 「マデリーンが……?」  ダグボルトはそれだけ言うのがやっとだった。 「そう。ヴィクターの懐刀であり、審問騎士団の団長でもある彼女がだよ。他の審問騎士なら買収の線もあるかもしれないけど、彼女に関しては絶対にありえない。何と言っても、彼女はヴィクターに狂信的なまでの忠誠心を持ってたんだからね」 「あんたはその当時、教会を破門されてたはずだぞ! 何でマデリーンが審問裁判を取り仕切っていたなんて分かるんだ?」 「前にウォーデンから聞いたのさ。彼は性急すぎるシスター・セオドラの魔女認定と処刑に疑問を抱いて、密かに調査していたんだよ」 「ウォーデン先生がそんな事を……」  ダグボルトはぐったりと椅子に身を沈める。  ウォーデン・オルギネンは、聖天教会の神学校でのダグボルトの恩師であった。  だが彼は、劫罰修道会の地下拠点が『紫炎の鍛え手』の軍勢の襲撃を受けた際に、天井を崩され生埋めにされたのだ。『紫炎の鍛え手』との戦いの後、ダグボルト達は地下拠点を掘り起こし、ウォーデンを含め生き埋めとなった者達を丁重に弔っていた。  しかしダグボルトは、ウォーデンを助けられなかった事を今でも悔いていた。 「ダグ、おぬしはセオドラの処刑について何か知らんのか?」  『黒獅子姫』の問いにダグボルトは首を横に振る。 「あの当時、俺は別の任務に就いていたから何も知らないんだ。処刑の話を聞いて、すぐにセオドラの元に向かったが、着いた時にはすでに刑は執行されていた……」  ダグボルトの脳裏に、磔にされ炎に包まれるセオドラの顔が映る。  巻き毛の金髪、整った卵形の顔立ち。  業火にその身を焼かれてもなお、ターコイズブルーの瞳は静かに穏やかに輝いていた……。 「ウォーデンもシスター・セオドラ処刑の裏事情については、それ以上掴めなかったみたいだよ。あの処刑については、ヴィクターの命令で色々と極秘扱いになっていたらしいからね」 「クレメンダールの命令? それじゃあ自分を黒幕だと言っとるようなものではないか。きっと絶対的な権力を欲するあやつにとって、聖女であるセオドラは目障りな存在だったんじゃろうな」  『黒獅子姫』は自分の言葉に納得するように頷く。  だがダグボルトは、到底認められないとばかりに厳しい顔をしている。 「……確かにセオドラは、魔女狩りに堂々と異を唱え、何度もクレメンダールに意見書を送りつけていた。だがクレメンダールは、聖女であるセオドラに対して、常に敬意を持ち続けていたはずだ。あいつがセオドラを処刑するような命令を下すとはとても思えん」 「だけど消去法でいくと、ヴィクター以外に処刑を命じられる人間はいないんだよ、ダグボルト君。彼の部下だった君が、真実を認めたくないのは良く分かるけどね」  テュルパンが憐れむように言った。  もはやダグボルトには反論の言葉は残されていなかった。  代わりに椅子から力無く立ち上がる。 「悪い。食欲が無くなった。少し夜風に当たって来る」  それだけ言うと、ダグボルトは食堂を出て行ってしまった。  結局、残された二人は無言のまま味気ない食事を終えた。    **********  分厚い雲の隙間から、三日月のかすかな明かりが差し込む。  ダグボルトは宮殿のテラスで手すりにもたれかかり、ぼんやりと空を眺めていた。  冬の冷たい風が熱くなった頭を心地よく冷やす。 「大丈夫かの?」  背後に現れた『黒獅子姫』が優しく声を掛ける。 「今まで信じてたものが崩れ去ったせいで、最悪の気分としか言いようがないな。セオドラのおかげでまっとうな道を歩めるようになった俺が、セオドラ殺しの共犯者になるなんて皮肉な話だよな」  感情が摩耗し切った虚ろな呟き。  ダグボルトは振り向きもせず淡々とそう言った。 「別に共犯者ではなかろう。クレメンダールの部下だったとはいえ、処刑の裏事情を何も知らんかったんじゃから。それに今は、過去の闇をほじくり返すより、建設的な方向に目を向けるではないかのう。例えば、そろそろ次の『偽りの魔女』に会いに行くとか」  その言葉にダグボルトは思わず振り返る。 「身体はもう治ったのか?」  『黒獅子姫』はローブの袖を捲り上げて、先の戦いで傭兵のザイアスに折られた左腕を動かして見せる。肘に傷跡は残っているが、動きにぎこちなさは無い。 「こうやって動かしても、もう痛みは無いし、他の傷も全て完治したのじゃ。それと前回の戦いで『碧糸の織り手』と『紫炎の鍛え手』の魔力を回収したが、魔力の制御にも特に問題は無さそうなのじゃ」 「そいつはいい。ならそろそろ出発しよう。ここに留まってても、余計な事ばかり考えて鬱勃した気分になるだけだ。それで次はどこに行く?」 「おぬしが良ければ、東のフェルムス=トレンティア連合王国の跡地に行きたいんじゃが……」  その言葉にダグボルトは驚いた顔をする。 「テュルパンの話だと、あそこにはあの『白銀皇女(リンドヴルーム)』がいるらしいじゃないか。それでも行きたいのか?」  ダグボルトが戸惑うのも当然であった。  『白銀皇女』は、『黒の災禍』を生き延びた人々の間で、『見えざる焔の送り手』あるいは『災厄の皇女』の仇名で知られていた。  砂場で遊ぶ子供が砂でできた城を壊すように、幾多の都を無造作に滅ぼしてきた彼女は、他の魔女以上に恐れられてきたのだ。  だが『黒獅子姫』の決心は揺るぎないらしい。  彼女は静かに頷いた。 「勝算はあるのか? 今まで手に入れた魔力だけで奴に対抗出来ればいいが……」  ダグボルトは考え込むようにぶつぶつと呟く。  すると『黒獅子姫』は、ダグボルトの隣で手すりに背中をもたれかけさせた。  ひんやりとした夜風が彼女の細いうなじをくすぐる。 「初めに言っとくが、わしは『白銀皇女』と戦うつもりなんか全くないぞ。あの娘は戦闘能力を全く持たんが、それは弱いからではない。あの娘の持っとる『見えざる焔』が強力過ぎるから、そもそも戦闘する必要なんか無いからなのじゃ。あの娘は、わしを含む魔女の中で最強の存在。例えあの娘以外の『偽りの魔女』全員から魔力を回収しても、わしに勝ち目はないのじゃ」 「じゃあどうやって魔力を取り戻すんだ?」 「戦闘以外の方法、つまり説得じゃよ」  『黒獅子姫』はあっさりと言ってのけた。  ダグボルトはその言葉が理解できず、一瞬ぽかんとする。 「おいおい! 今まで説得に応じて、おとなしく魔力を返してくれた奴なんか、一人もいないだろうが。しかもよりによって、あんな最強最悪の魔女を説得するなんて、絶対に不可能だ!」 「あの娘は最強ではあるが、最悪の魔女ではないのじゃ。もっと最悪で手に負えない魔女が、他におったからのう」 「いた?」  ダグボルトは過去形に疑問を覚える。  しかし『黒獅子姫』は彼の問いには答えず、代わりにこう言った。 「とにかく『白銀皇女』は、他の娘と比べればずっとまともじゃよ。交渉の余地は十分にあるし、むやみに刺激しなければ戦闘にはならなんじゃろう」  ダグボルトはすぐには返答せず、慎重に思考を組み立てる。 (全ての『偽りの魔女』から魔力を回収するためには、『白銀皇女』は避けて通れない。ミルダの言うとおりなら戦わずにすむんだ。一か八か、試してみる価値はある……) 「……分かった。行こう」  ダグボルトはぎこちない声で返答した。  顔の左側の火傷が疼き、掻き毟りたい衝動に駆られる。  『黒の災禍』の時に『白銀皇女』に焼かれた傷だ。  ダグボルトは久しぶりに蘇った『偽りの魔女』への恐怖と必死に戦っていた。    ********** 「ダグボルト!! ダグボルト!! ダグボルト!!」  沿道を埋め尽くす人々が大きな歓声を上げる。  大通りの中央を進むダグボルトと『黒獅子姫』は耳を塞ぎそうになる。  『紫炎の鍛え手』に支配されていた頃の聖堂都市は、通りのあちこちが瓦礫で塞がれていたが、今は市民の手により大分撤去されていた。  ダグボルトが身に着けている飾り気の無い鋼のプレートメイルは、あちこちに戦傷や窪みが残されていて、歴戦の騎士であることをうかがわせる。  特にフルフェイスヘルムの破損はひどく、顔の部分の左側が醜く焼け焦げ、左目の覗き穴が溶けて塞がってしまっている。残された右目の覗き穴からは、緋色の瞳が熟れ過ぎたザクロのように爛れた輝きを発している。  左手にはヒーターシールド(逆三角形の中型盾)、腰のベルトには片側を尖らせた武骨なスレッジハンマー(戦槌)を吊り下げている。  スレッジハンマーの片面には、聖天の女神ミュレイアを象った聖印が施されている。  審問騎士だった頃から愛用していた武器だ。  通常の馬よりも一回り大きめな、フォーラッド地方産の黒馬に騎乗しているダグボルトに対し、隣にいる『黒獅子姫』は黒き獅子に優雅に腰掛けている。  石造りの建物の窓からは市民達が手を振っている。  彼らは皆、『魔女殺しの騎士』ダグボルトを見て声援を送っている。  『黒獅子姫』に脇腹をつつかれ、ダグボルトは仕方なく手を振り返す。  大通りを包む歓声が一段と大きくなった。  彼らはダグボルト達が魔女退治の旅に出ると聞き、出立を見送るために集まっていた。  しかしあの悪名高き『白銀皇女』の元に向かおうとしている事までは知らない。  知っていれば、きっとこのような明るい雰囲気にはならず、重苦しい空気に包まれていただろう。 「ダグボルトさん……」  沿道の人ごみの間からウォズマイラが進み出る。 「本当に行ってしまうんですね」  ウォズマイラは暗い顔をして言った。  ダグボルト達が『白銀皇女』の所に向かうと知っているのは、ウォズマイラとテュルパンだけだ。  当然、二人は猛反対したが、ダグボルト達は強引に出発の準備を進めていた。  そして出発当日の今日、ダグボルトはテュルパンには別れを告げたが、ウォズマイラはどこかに姿を消していたため会えなかった。このまま最後まで会えずじまいだと思っていただけに、こうして姿を見せてくれたのが何より嬉しかった。  思わずダグボルトは、馬上からウォズマイラの金髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。 「そんな顔をするな。今生の別れって訳じゃないんだ」  するとウォズマイラは、ダグボルトの身体にぴったりと寄り添った。 「とにかく無理はしないで生きて帰ってきてください。今の私にはそれしか言えません……」  それだけ言うとウォズマイラは身体を離した。  目尻に溜まった涙を指で拭い、にっこりと微笑んで見せる。 「それと、これを縫っておきました。良ければ使って下さい」  ウォズマイラは抱えていた枯葉色のフード付マントを差し出す。ダグボルトが以前の戦いでロープ代わりに裂いてしまったものだ。  広げてみると、マントの裂け目が頑丈な糸で、不器用ながらも丁寧に縫われている。  さっそくダグボルトは鎧の上に羽織って見せた。  まるで自分の体の一部が戻ったような感覚に満足感を覚える。 「こいつは有り難い。お前には借りを作りっぱなしだな。いつか返せる日が来るといいんだが」 「それはお互い様ですよ。私の方こそ、あなたに何度も助けられてますからね。これでおあいこです」  ウォズマイラはまたにっこりと微笑む。  その笑顔を見て、ダグボルトは急に真剣な面持ちになる。 「……そうだ。出発の前に、お前に一つ大事な話がある」 「な、何でしょう?」  いつになく真剣なダグボルトの声にぎくりとする。 「ガルダレア城塞を包囲している義勇兵に伝えておいてくれ。俺がここに戻る前に北狼傭兵団の連中が動いたら、囲みを解いて逃がしてやるようにとな。あいつらは百戦錬磨の強者ばかりだから、無理に倒そうとすればこっちが痛手を負うだろう」 「えっ?」  ウォズマイラはぽかんと口を開く。 「お別れだっていうのにそれですか? 義勇兵じゃなくて、私に言っておきたい事はないんですか?」 「いや、別に。じゃあな」 「……………………」  そう言ってウォズマイラに軽く手を振ると、先に進んで行ってしまった。 「ダグときたら本当に気がきかん奴じゃ。じゃがあやつの言う通り、二度と会えんわけではない。また戻って来るのじゃ」  二人のやり取りに苦笑していた『黒獅子姫』は、ウォズマイラを慰めるように言った。 「……そうですね。またお会いしましょう、ミルダさん。それと特にあなたは無理をなさらずに。ダグボルトさんは私の秘跡で癒せますが、魔女であるあなたは癒せないんですから」 「ありがとうじゃ、ウォズ。魔女と聖女の友情というのも、なかなか悪くないもんじゃな。それじゃあ元気での」  『黒獅子姫』が手を振ると、黒き獅子はダグボルトを追うように走り去っていく。  ウォズマイラは何度も何度も手を振って、去りゆく二人の姿を見送った。
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