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 レウム・ア・ルヴァーナを発って三日が過ぎた。  ルヴァーナ山脈を北に迂回しつつ、フェルムス=トレンティア連合王国の王都メルドリンへと続く街道を黙々と進む二人。  街道は風雨に晒され痛んではいるものの、通行に支障をきたすものではない。  しかし街道沿いの旅籠(はたご)は、どれも無人でボロボロに朽ちていた。  『黒の災禍』の爪痕は、未だこの大陸を蝕んでいるのだ。 「『白銀皇女』の所に着く前に、ひとつおぬしに聞いときたい事があるんじゃが」  不意に『黒獅子姫』が尋ねる。  先頭を行くダグボルトが振り返った。 「何だ?」 「なぜおぬしは生きとるんじゃ?」 「は?」  ダグボルトは意味が分からず、ヘルムの中で戸惑った顔をする。 「おぬしの顔の火傷、確か『黒の災禍』の時に、『白銀皇女』につけられたものじゃよな? じゃが『白銀皇女』の『見えざる焔』の力なら、おぬしが逃げる間もなく、瞬時に消し炭に変えられるはず。なぜ火傷だけで済んだのか、ずっと疑問だったんじゃよ」 「……確かにお前が言う通り、『白銀皇女』に立ち向かった審問騎士の仲間は、みんな一瞬で焼き殺されたよ。だが最後に戦いを挑んだ俺だけは、何故か助かった。もしかすると、俺と戦う時には魔力を使い果たしていたのかもしれんな。だとすれば運が良かったんだろう」  ダグボルトは顎に手を当て、考え込むように言った。  しかし『黒獅子姫』は納得しない様子であった。 「『白銀皇女』は、そんなに簡単に魔力を使い果たしたりはせんのじゃ。もしやおぬしは、人間だった頃の『白銀皇女』と知り合いじゃったのではないか? あの娘に人間だった頃の記憶は無いはずじゃが、深層心理におぬしの記憶が焼きついてたなら、無意識のうちに手加減した可能性があるやもしれん」 「それは……分からないな。正直言うと、戦いに夢中で『白銀皇女』の顔をちゃんと見てなかったんだ。いや正確には、見る暇すら与えられずに顔を焼かれたと言うべきかな。だから『白銀皇女』について知ってる事を教えて貰いたいのは、むしろこっちの方なんだ」  逆に尋ねられた『黒獅子姫』は、目を閉じて『白銀皇女』に関する事を少しでも思い出そうとする。 「そうじゃのう……。外見的には褐色の肌と銀の髪じゃが、他には何も。実を言うと本名すら分からんのじゃ。あの娘は精神的に錯乱してて、コミュニケーションがとれるような状態ではなかったのでの う。手がかりと言えば、魔女に認定されて教会の牢獄に移される前は、どこかの精神病院に入れられておったって事ぐらいじゃな」 「そうか。外見だけなら、昔の知り合いに似た奴がいたな。ただそれだけの手がかりじゃ、何ともいえないが」  ダグボルトは断定を避けるように、あいまいに答えた。  どこか事実を認めるのを恐れているような口調だ。 「あっ、そういえばもう一つ大事な手がかりがあったのじゃ。あの娘には舌が無かったのじゃ。じゃがあれは審問騎士の拷問の痕ではなかった。もっと古い傷じゃ。きっとあれが、あの娘を狂わせた原因に違いあるまい」  舌が無いと聞いて、ダグボルトの顔が急に厳しいものになった。 「リンジー?」 「やっぱり知り合いなんじゃな?」  しかしダグボルトは、認められないとばかりに首を横に振った。 「いや、そいつは有り得ない。リンジーは『黒の災禍』よりずっと前に亡くなってるんだ。きっと偶然の一致だ」  ダグボルトは弱々しくそれだけ答える。  そして再び塞ぎ込んでしまった。 「……おぬしとその娘との間には、つらい思い出があるのじゃな。だったら、これ以上は何も聞かないでおくのじゃ」  『黒獅子姫』はそれだけ言うと、ダグボルトを追い抜いて先に進んで行った。 (リンジーが生きてるはずがない。あいつを殺したのは俺なんだから……)  ダグボルトは心の中でそう呟いた。  彼の瞳は、空模様と同じように鈍く重たげな輝きを放っていた。    **********  五日目の正午頃、地平線の彼方に王都メルドリンをぐるりと囲む高い城壁が見えてきた。  幸いな事に、イスラファーンの王都デルシスのように消滅させられてはいなかったようだ。  城壁の周囲のなだらかな丘陵地帯には、一面に畑が広がっている。破壊の痕跡など微塵も見えない。  とてもここが『災厄の皇女』が支配する地域だとは思えない程だ。  二人が街の城門前までたどり着いた時には、すでに日は暮れていた。  巨大な門扉はぴったりと閉じられている。  二人がどうするか相談していると、門の前に立っていた若い守衛が近づいてきた。 「もしかして街に入りたいのかい?」  守衛はのんびりとした声で尋ねる。  よく磨かれたプレートメイルを身に着け、腰にはブロードソードを帯びている。  ダグボルトが頷いて見せると、守衛は困ったように頭を掻いた。 「うーん……。実は夜間には、この門は閉じてしまう決まりになっていてね。明日の朝にならないと開かないんだよ」 「そこを何とかならないか? 見ての通り俺達は長旅で疲れてるし、融通を利かせてくれてもいいと思うんだが」  ダグボルトは懐の財布から古王銀貨を数枚取り出して、守衛の手に握らせようとする。  だが守衛は、急に厳しい顔になって賄賂を拒絶した。 「そういうのは困るんだよ。よそならともかく、『白銀皇女』殿下が支配する、この徳治の都ヴィ・シランハでは賄賂なんてとんでもない。街中で同じことをしたら、追放処分を受けるかもしれないから、気を付けたほうがいいよ」 「そうか……。余計な事をして済まなかったな。ところでここは王都メルドリンだったはずだが、いつの間に改名したんだ?」 「それは『黒の災禍』の一年程後に、この地を訪れた『白銀皇女』殿下が新たな支配者になってからさ。命名された殿下によると、千年以上昔にこの地にあった古代エルドリア王朝の言葉で、『真の善はここに在り』という意味らしいよ。『黒の災禍』以前のこの街は、経済こそ発展していたけど、同時に麻薬、売春、奴隷売買、とにかくありとあらゆる悪が蔓延っていたんだ。だけど殿下がやって来てからは、そうした状況は大きく変わったんだ。殿下は強大な力をもって、道徳に反する行為を禁じたんだよ。そして今じゃここは、誰もがうらやむ素晴らしい都に生まれ変わったのさ。外の世界の人間は、殿下の事を『災厄の皇女』なんて呼んでいるらしいけどとんでもない! 殿下こそ、この荒廃した世界に現れた救世主。善の体現者と呼ぶにふさわしいお方なんだよ」  守衛は目を輝かせ滔々と熱弁を振るった。  ダグボルト達は圧倒されてしまい、何も言う事が出来ない。 「ああ、それから一般市民は、後天八の刻(二十時)以降は外出禁止なんだよ。特別な理由があって『白銀皇女』殿下の許可が得られれば別だけどね。勿論、よそから来た人にも適用されるから気を付けるようにね」  守衛の言葉を聞いて、『黒獅子姫』は眉を顰める。 「つまり夜遊びは禁止という事じゃな? それはちと厳しいのう」 「何を言ってるんだい。健全な市民が夜遊びなんてとんでもない話だよ。文化的堕落に身を染めるような下等な人間は、この街にはふさわしくないのさ」 「徳治の都だか何だか知らんがつまらん場所だな。どちらにしても入れないんじゃ仕方ない。どこか近くで野宿して明日まで待とう。行くぞ、ミルダ」  ダグボルトはさっさと城門から離れていった。  『黒獅子姫』も仕方なくその後を追った。  翌朝、ようやく街に入れた二人は、まず中央区画にあるという市役所を目指した。  守衛の話によると、外部からの来訪者がこの街に留まるには、市役所で滞在届を発行して貰う必要があるらしい。  市役所への道すがら、二人を見た通行人は皆が笑顔で会釈する。  彼らには、二人がよそ者である事は丸分かりらしい。  しかし大抵の場所では、よそ者は警戒されるものだ。  ダグボルトとしては、ここまで歓迎されると逆に奇異に思えてしまう。  歩き続ける二人の目の前で、塵一つ無い歩道に街路樹の枝から枯葉が一枚落ちた。  するとどこからともなく現れた掃除夫が、さっとその場を掃いて綺麗にする。  仕事を終えると、再び掃除夫はどこかに姿を消した。 「この街の住人は、どいつもこいつも礼儀正しいし仕事熱心なようだが、ここまで瑕疵が無いと逆に気味が悪いぞ」  ダグボルトは胡散臭げに呟く。  しかし『黒獅子姫』は、大げさだと言わんばかりに笑いかける。 「じゃが今の所、問題になるような事は何もないのじゃ。必要以上に気を病む必要もあるまい」  やがて二人はレンガ造りの市役所に辿り着く。  ダグボルトは馬の手綱を近くの木に繋ぐと、『黒獅子姫』と共に中に入った。  受付に行くと、すぐに案内係の若い女が声を掛けてきた。 「外界から来られたお客様でしょうか? 滞在届の発行でしたら二階の三番窓口になります」 「うむ、分かったのじゃ。ダグ、手続きはわしがやってくるから、ここで待っとるがよい」  『黒獅子姫』はひとり階段を昇っていった。  手もちぶさなダグボルトは近くのベンチに腰を下ろす。  受付係の一人がお茶を運んできたので、それを飲んでのんびり待つ事にした。  すると役所の上役と思しき男が近づいてきた。 「お客様、この街は初めてでございましょうか?」 「ああ」  余計な会話が面倒臭いので、適当に相槌を打つ。  だが上役はさらに話を続けてきた。 「それではお泊りになられる宿などは、もうお決めでしょうか。よろしければ、こちらでお勧めの宿をご紹介させて頂きますがいかがでしょう? ところでこの街へは観光で参られたのですか? それともご商売で?」 「いや、俺の事は気にしないで仕事に戻ってくれ。用が済んだらすぐに出て行くから」  話が長くなりそうな予感がしたダグボルトは、強引に会話を打ち切ろうとした。  しかし上役に会話を止める様子は無い。 「いえいえ、そのような事をおっしゃらずに、何でもお申し付け下さいませ。外界から来られたお方をサポートするのも、我々の重要な務めですから。我々はヴィ・シランハの名を穢さぬよう、この街で暮らす者のために、常に額に汗して活動しているのです。他にも――」 「あー、そういえばこの街の人口ってどのくらいなんだ?」  やむを得ずダグボルトは、適当に話題を変えようとした。 「人口でございますか……。本日正午時点のものでよろしゅうございますか?」 「ああ、何でもいい」  どうでもいい長話を止められて、ダグボルトはほっと胸を撫で下ろす。  すると上役は、受付の奥で書類を整理していた男に声を掛けた。 「おい、ギムレー君、服装が乱れてるぞ」 「あ! 済みません……」  はみだしている上着の裾を、ギムレーは慌ててズボンに突っ込んだ。 「ところでギムレー君。ここにいらっしゃるお客様に、本日正午時点でのヴィ・シランハの人口をお教えしてくれないか」 「え? えっ!?」  いきなりの質問に、ギムレーは動揺して顔を引き攣らせた。 「君のいる部署は統計課なのだから、そのぐらいの質問には簡単に答えられるだろう?」 「は、はい……」  ギムレーはぶつぶつと呟きながらしばらくの間考え込んでいた。  そして気が進まないように重い口を開く。 「五千四百八十六……。いえ八十七人です……」  すると上役はスッと目を細める。 「五千四百八十八人だよ。今朝、マボールさんのところに男の子が生まれたんだ。今日遅刻してきた君は、最新の人口統計にきちんと目を通していなかったようだね」 「す、済みません……。知らなかったんです……。どうかお許しを……」  ギムレーは顔面蒼白になってぶるぶると震えている。  全身が冷や汗でびっしょりと濡れていた。  何か不穏なものを感じたダグボルトは、二人の仲裁に入ろうとする。 「おい待て。別に俺は正確な人口を知りたかったわけじゃない。一人間違えたぐらい大した問題じゃないだろう」 「いえ、これは大問題ですよ。外界から来られた大事なお客様に、誤った情報を教えてしまったのですから。しかもその理由が本人の職務怠慢ときている。それでも彼を許すとおっしゃるのですか?」 「ああ。喜んで許すとも」  ダグボルトはきっぱりと言った。 「何と寛大なお言葉でしょう。しかしあなたがそうおっしゃっても、『白銀皇女』殿下はどうでしょう?」 「何?」  突然、ギムレーの全身が黒く変色し、みるみるうちに炭化していった。  表面がまるで罅割れたガラスの様にきらきらと輝く。  悲鳴を上げる間もなくギムレーは息絶えた。  炭化した肉体が崩れ、その場に黒い塵が残った。  すると掃除夫が箒とちりとりを持って現れ、すぐに塵を片付けると、どこかに姿を消した。 「どうやら彼は、殿下の逆鱗に触れてしまったようですね」  上役はあっさりとした口調でそう言った。  ダグボルトは唖然とする。  上役もそうだが、周りにいる者達が何の反応も示さず、淡々と働き続けている事が不気味だった。 「あれは一体どういう事だ!?」  ダグボルトは上役の襟首を掴んで自分の顔に引き寄せた。 「ど、どうと言われましても、不心得者が一人処罰されただけの事でしょう? お客様が気に病むような事ではないかと思われますが……」 「この国では、たかが人口を一人言い間違えただけで殺されるのか!? この状況がイカれてると誰も思わないのか!?」 「ああ、そう言う事でございますか。彼が処罰を受けたのは、言い間違えだけが原因ではございません。彼は遅刻や仮病による欠勤、さらに職務に手抜きが目立つため、前々から殿下に目をつけられていたのでございますよ」 「『白銀皇女』が? 一国の支配者であるあいつが、わざわざ一役人の勤務態度までチェックしてたっていうのか?」 「全市民を常に監視しているわけではありませんが、問題の多い者は殿下の監視対象に入ります。自ら望んでこの街で暮らす以上、殿下の定めたルールには完全に従わなければならないのです。とは言っても別に難しい事ではないのですよ。快楽に溺れたりせず、与えられた職務に全力で取り組み、隣人や家族を慈しむ。守らなければいけない理念はそれだけです」 「要するに、『白銀皇女』を満足させるために善良な市民を演じろって事だな」  ダグボルトは冷やかな口調で言った。 「演じる、という言葉はどうかと思いますが、善良な市民でありさえすれば、何も問題は無いのでございますよ。……ああ、そうそう。もうひとつ大事なルールを忘れていました」  そして上役は急に声を潜めて、こう付け加える。 「『白銀皇女』殿下を決して怒らせない事。これは大事なので、あなた方も絶対に覚えておいてくださいね」    ********** 「どうしたんじゃ、ダグ。市役所を出てから、ずっと黙り込んどるが」 「……別に何でもない」  手続きを終えて戻って来た『黒獅子姫』に、ダグボルトは焼き殺された男の事を話せずにいた。  たとえ話したところで、頑固な彼女は『白銀皇女』を説得するのを止めないだろう。  それなら説得に悪影響を与えないように、黙っていた方がいいと判断したのだ。  だがダグボルトの胸の中には、言いようのない不安が広がっていた。  二人は市役所で貰った街の案内図を元に、『白銀皇女』の住むという白銀城に向かう。  市街地を抜けると、目の前の丘の上にこじんまりとした城が建っていた。  華美な装飾の無い素朴な外装だが、外壁も尖塔の屋根も全てが純白で、きらきらと輝いている。  造りが比較的新しいところを見ると、ここに元からあった城ではなく、『白銀皇女』が住まう場所としてわざわざ建てられたのだろう。  城の入口で立哨していた守備兵が、二人を見てうやうやしい仕草でお辞儀する。 「白銀城へようこそ。本日はどういったご用件で御座いましょう?」  黒き獅子から降りた『黒獅子姫』が一歩前に進み出た。 「古い知り合いの『黒獅子姫』が会いに来たと、『白銀皇女』に伝えてくれんか? 具体的な用件は、あやつに直接話すのじゃ」 「成程。殿下への謁見をご希望という事ですね。かしこまりました」  城を囲む城壁の上にいる兵士に向かって合図すると、大門がゆっくりと下りた。  中から若い兵士が現れ、守備兵と同じようにうやうやしくお辞儀する。 「私が殿下に伝言をお伝えしに行く間に、この方達を客室まで案内してくれ」  そう言って守備兵が先に城内に入っていった。  若い兵士に連れられ、二人も城内に足を踏み入れる。  ダグボルトは城の前で、乗っていた黒馬を馬丁に預けた。  一方、『黒獅子姫』の黒き獅子は、さも当たり前のようにずっと主人の隣にいる。  兵士は何か言いたげな様子だったが、黒き獅子があまりにも堂々としているため、口出し出来なかった。 「殿下がお会いになられるとの事です。どうぞこちらへ」  城の二階にある客室でしばし待たされた後、、戻って来た守備兵が二人に告げる。  ダグボルトと『黒獅子姫』は顔を見合わせ、無言で頷きを交わす。  ここまでは順調だ。 「武器は預けなくていいのか?」  廊下の途中でダグボルトが尋ねる。  ダグボルトの腰には、鈍い輝きを放つスレッジハンマーがぶら下がっていた。 「ええ、構いません。殿下を傷つける事の出来る者など、この世に誰もおりませんからね」  守備兵は当然の事のように答える。 「二人をお連れ致しました」  両開きの扉の前まで来ると、守備兵は扉の外から声を掛けた。  すると扉が音も立てずに開く。  そこは飾り気の無いシンプルな玉座の間だった。  壁には柄の無いタペストリーが掛けられ、床には刺繍も何も施されていない滑らかな青絨毯。  奥の玉座には、小柄な少女がちょこんと腰かけている。  玉座の間には他に人はいない。  守備兵は玉座の少女に深々と一礼すると、部屋を出て、外から扉を閉めた。  少女は外見上は十台後半ぐらいに見える。  瞳の色はホーリーグリーン。  顔立ちはすっきりとしていて、素朴さと純粋さを兼ね備えた美しさだ。  滑らかな褐色の肌が映える、裾の短い純白のドレスを纏っている。  ドレスから伸びる脚はほっそりとして長く美しい。胸は小ぶりだが均整のとれた体だ。  長い銀髪の頭には。小さな金の王冠を載せている。  少女の両肩には、子猫ほど程の大きさの仔竜が乗っている。  右肩には黒の仔竜、左肩には白の仔竜が。  『黒獅子姫』の姿を見て、少女は舌の無い口をぱくぱくと動かす。  すると白の仔竜が、少女の声で言葉を発する。 『『黒獅子姫』! 会いに来てくれたのね!』  銀髪の少女は玉座からぴょんと飛び降りると、『黒獅子姫』に駆け寄り、両手をとった。 「久しいのう、『白銀皇女』。ガーネットブレイズと、ペリドットフェローも元気そうじゃな」  そう言うと、『白銀皇女』の両肩に留まる黒の仔竜(ガーネットブレイズ)と、白の仔竜(ペリドットフェロー)の頭を撫でる。  二頭は、まるで猫のようにごろごろと喉を鳴らす。  ガーネットブレイズの瞳は赤。  ペリドットフェローの瞳は緑。  二頭が合わさると、まるでアレキサンドライト(光の反射具合によって、緑と赤に色を変える宝石)のようであった。 「いやー、北の城からここまで来るのは大変だったのじゃ」  それを聞いて銀髪の少女――『白銀皇女』の眉根に僅かに皺が寄った。 『そういえば、あなたはずっと北の城に閉じこめられてたんだっけ。可哀相に……。あんな残酷な真似は止めるように言ったのに、みんな言う事を聞かないんだもの……』  それから『白銀皇女』は、ダグボルトの方を見て小首を傾げる。 『そちらの殿方はどなた?』  『白銀皇女』は無邪気な声で尋ねる。  だがダグボルトは、まるで蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。  それは『白銀皇女』への恐怖のせいでは無い。  彼女の顔が、見覚えのある少女とそっくりだったからだ。 「そやつはダグボルト・ストーンハート。わしの相棒じゃ」  すると『白銀皇女』はにっこりと微笑んだ。 『まあ! じゃあ、あなたが『魔女殺しの騎士』様なのね。噂には聞いていたけど会えて嬉しいわ』  その言葉に『黒獅子姫』は目を丸くする。  ダグボルトもヘルムの中で驚いた顔をする。 「そやつの事、知っておるのか?」 『勿論よ。ここにも外の世界の情報は色々と飛び込んでくるわ。あなたとそちらの騎士様が、少し前に『紫炎の鍛え手』と『碧糸の織り手』を倒して、レウム・ア・ルヴァーナを奪還した事も知ってるのよ』 「……そこまで伝わってたとは驚きじゃ。魔力を取り戻すためとは言え、あの二人を殺さなければならんかったのは、正直残念じゃったよ」  『白銀皇女』の顔から、すっと笑顔が消える。  そして遠い目をして呟く。 『いいえ。あの二人は戦争の種を振りまいて、罪の無い多くの人達を傷つけていたんだから仕方ないわ。私も何度か手紙を送って、戦いを止めさせようとしたけど全然効果無かったみたい』 「他の『偽りの魔女』が、みんなおぬしみたいな子じゃったら、何も問題無かったんじゃがのう。ところでおぬしに頼みがあるんじゃが……」 『なあに? 私に出来る事なら喜んでお手伝いするわ』 「……それなら、わしの魔力を返してくれんか?」  すると『白銀皇女』は、子供のように目をぱちくりと瞬かせる。 『私は、他の子みたいに魔力を悪用してない! それなのにどうして……』 「用途に関係なく、その魔力はおぬしらが持っていてよいものではないのじゃ。聖天教会が滅んだ時点で、おぬしらの役割は終わったのじゃから、もう普通の人間に戻って欲しいのじゃ」  『白銀皇女』は困惑した表情で一歩後退した。  万一に備え、ダグボルトは腰のスレッジハンマーに手を伸ばす。 『で、でもこの力があれば、世界をより善い方向に変える事ができるわ! あなたもこの街を見たでしょう? ここの人達は、私の庇護の下で安定した生活を送っているのよ! それを全て壊してしまうの? そんなの絶対に駄目よ!』  しかし『黒獅子姫』は首を横に振る。 「だとしたら、ますます返して貰わんといかん。わしは悪の導き手じゃ。わしの力は悪のために使うものであって、善のために使うものではないのじゃからな」 『……………………』 「本気で世界を善い方向に変えたいなら、魔女の力に頼るのはもう止めるのじゃ。分かってくれんかのう、白銀皇女』や」  『白銀皇女』は何も答えず、泣きそうな目で『黒獅子姫』を見つめた。  しかし『黒獅子姫』は、わがままを言う子供を突き放す母親のように、毅然とした態度を崩さない。  しばらくして『白銀皇女』が諦めたように口を開く。 『…………分かった。返すわ』  ペリドットフェローの口から発せられる『白銀皇女』の言葉。  それを聞いて『黒獅子姫』は思わず『白銀皇女』に抱きついた。  『黒獅子姫』の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。 「よう決心してくれたのう……。力を失うのはつらいじゃろうが、これもみんなおぬしのためなんじゃよ……」  『黒獅子姫』に抱きしめられた『白銀皇女』は、子供のようにすすり泣いている。  二人の姿を見て、ダグボルトもスレッジハンマーから手を放す。 (まさか本当に説得がうまくいくとはな。後は『白銀皇女』が人間に戻れば、真実が明らかになる。他人の空似なのか、あるいは……)  『黒獅子姫』は、自分の薄い唇を『白銀皇女』のみずみずしい唇に重ね合わせる。  『白銀皇女』の身体から魔力の光が溢れだし、『黒獅子姫』の華奢な身体に注ぎ込まれる。  だが時が過ぎても、『白銀皇女』の身体から溢れる魔力の奔流は、全くおさまらなかった。  『黒獅子姫』はやむを得ず、『白銀皇女』から身体を離して、魔力の流れを止めようとした。  しかし『白銀皇女』は、目を閉じたままの状態でぴったりとしがみついて、全く離れようとしない。 (何だか分からんが、このままではまずい!)  背後から『白銀皇女』の肩を力強く掴むと、『黒獅子姫』から強引に引き剥がす。  床に倒れ、ぐったりした『黒獅子姫』の身体を軽く揺さぶるが、目を閉じたまま無反応だ。  呼吸は弱々しく、汗ばんだ肌は蝋のように青白く輝いている。 「ミルダに何をした?」  『白銀皇女』を鋭い眼光で睨み付ける。  しかし当の『白銀皇女』は、訳が分からないと言いたげな顔をしている。 『何って、魔力を返しただけだけど……?』 「ふざけるなッ!! 本当に魔力を返したのなら、お前は普通の人間に戻っているはずだ!! だが今もお前は魔女のままだ!! 最強の存在のくせに、こんな姑息な手段でミルダを倒して満足か!?」  頭の中が真っ白になったダグボルトは、反射的にスレッジハンマーを振り上げていた。  右手のガントレットの隙間から、黒蟻が這い出してきてスレッジハンマーを覆う。 『待って! 私の話を聞いて!!』  ペリドットフェローが言葉を言い終えるよりも先に、『白銀皇女』の脳天にハンマーの突部が叩き込まれる。  一撃で『白銀皇女』の頭はぐしゃりと砕け、銀髪と金の王冠の破片と共に、頭蓋骨の欠片が飛び散った。  二つの眼球と赤黒い脳味噌の断片が床に零れ落ち、美しかった顔の上半分を失った身体は、どさりと床に崩れ落ちた。  『白銀皇女』の惨たらしい死体を見て、ダグボルトはようやく正気に戻る。  衝動的な行動とはいえ、思わぬ結果にしばし呆然とする。  怒りにまかせて、最強の魔女をあっさりと倒してしまっていた。  とはいえ、今まで『偽りの魔女』を倒してきた時のような勝利の高揚感は無い。  それどころか、口の中に苦く嫌な味が広がる。 (何も考えるな、ダグボルト……。こいつはリンジーじゃない……。リンジーはもう死んだんだ……)  罪悪感から逃れようと、何度も自分に言い聞かせる。  『白銀皇女』の死体は魔力の霧へと変わっていき、風に飛ばされる砂のように消えてしまった。 「何と惨い事をするのだ、人間よ!! 殿下のお言葉も聞かずに暴力に訴えるとは!!」  急に何者かがダグボルトを非難する。  上を見ると、主を失った二匹の仔竜が羽ばたいていた。  今の言葉は、黒竜ガーネットブレイズが発したものであった。  だが今は、そんな生き物に構っている状況では無い。  ダグボルトは床に横たわる『黒獅子姫』を抱きかかえ、謁見の間から出ようとした。  しかし抱きかかえた肉体が冷たくなっている事に気付く。  震える手で細い首筋にそっと触れる。 「脈が止まってる……」  その言葉と同時に、『黒獅子姫』の衣服となっていた黒蟻が、次々と泡のように弾けて消えていく。  玉座の間の入口にいた黒き獅子、そしてダグボルトの右腕の代わりとなっている黒蟻も同様に。  右腕のガントレットが絨毯に落ちて鈍い音を立てる。 『『黒獅子姫』は死んだの?』  今度は白竜ペリドットフェローの口から『白銀皇女』の声が発せられた。  背後に気配を感じて、振り向いたダグボルトは言葉を失う。  消滅したはずの『白銀皇女』がそこにいた。  砕かれた顔は、まるで何事も無かったかのように元通りになっている。  確かに魔力を帯びた致命的な一撃を与えたはず。  再生など出来ないはずなのに、なぜ――。 『――あなたに殺されたのは、これで二度目ね』  『白銀皇女』の肩に留まったペリドットフェローが彼女の言葉を代弁する。  それを聞いて、ダグボルトはぎくりと身を震わせる。 「じゃあやっぱりお前はリンジーなのか?」  『白銀皇女』はこくりと頷いた。 「という事は、お前には人間だった時の記憶が残ってるんだな? それに、さっきの一撃で死ななかったのはどういう事なんだ?」 『質問が多いわよ、ダグ。私が死ななかったのは、肉体を魔力に変換する『強制魔力転換』っていう技を使ったからなの。致命的な傷を負った時には、肉体が魔力に変換されてね。それから無傷な状態の肉体に再変換されるってわけ。しかも私の場合、全ての細胞にこの設定を組み込んで自動で発動するようにしてるから、実質的に不死身なのよ』  いつの間にか『白銀皇女』の声は、先程よりも親しげになっている。  人間だった頃のリンジーが話しているかのようだ。 「そんなとんでもない能力を持ってる事を、ミルダは知ってたのか?」 『ううん。十年前には持ってなかった力だから、たぶん『黒獅子姫』は知らないと思う。十年前と違って、今の私はどんな触媒も必要とせずに、胎内で魔力を無限に生成出来るの。だからたとえ『黒獅子姫』が死んだとしても、私だけは魔力を失わずにいられるのよ。でもその力のせいで、借りてた以上の魔力を返しちゃったみたい。それで『黒獅子姫』は、魔力の過剰摂取(オーバードース)状態に陥ってしまったんだわ』  『白銀皇女』はダグボルトの隣に来ると、『黒獅子姫』の頬に触れた。 『私の力なら他の魔女も、私と同じように蘇生させられるはず』  しかし言葉とは裏腹に『白銀皇女』は顔を曇らせる。 『……でも『黒獅子姫』は無理かもしれない。この身体からは、もう魂が飛び去ってしまってる。これじゃあ肉体を再変換しても意識は戻らない……』  そう言いつつも、『白銀皇女』は目を閉じて精神を集中させる。 『黒獅子姫』の裸体が魔力の粒子へと変わり――そして再び、元の肉体に再変換される。  しかし心臓の鼓動は止まったままだ。 「お前でも無理なら、もうどうしようもない……。こんな形で終わるのか……? こんな……」  ダグボルトは放心し切った様子で、その場にがっくりと膝をつく。  彼は理解していた。  『黒獅子姫』が死んだのならば、残りの『偽りの魔女』は全員魔力を失ったはずだ。  無論、ここにいる『白銀皇女』を除けばの話だが。  それでもモラヴィア大陸から、魔女の脅威をほぼ完全に排除出来たのだ。  『黒の災禍』で崩壊した世界の復興も、これでようやく捗る事だろう。  不本意ながら、ダグボルトの戦いはここで終わったのだ。  『白銀皇女』は何度も精神を集中させ、『黒獅子姫』を何とか生き返らせようとしている。  必死な彼女の横顔を見ているうちに、ダグボルトはかつて深く心を通わせた相手、リンジー・ブーシェと過ごした日々を思い出していた。
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