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――モラヴィア大陸北西部、カティラーラ湾に面する独立商業都市アンフレーベン。  イスラファーン王国と、アドラント王国に挟まれた交易の要衝であり、領主のマウリットランツ家は砂糖貿易で財を成した大富豪の一族である。  一族の祖先が、百二十年程前に当時のアドラント国王からこの都市を買い取って以来、どこの国にも属さずに自治権を守り抜き、十数年後に『黒の災禍』によって灰燼に帰すまでは繁栄を続けていた。  アンフレーベンは交易で栄えた豊かな都市ではあったが、貧富の差も激しく、市街地の外れには高い塀で囲まれた貧民街(スラム)があった。  貧民街の表通りは定期的に衛兵が巡回しているが、迷路のような裏通りは放置されており、犯罪の温床となっていた。  そこで貧民街の住人で結成された自警団が、衛兵の代わりに裏通りの巡回を行い、かろうじて治安を維持していた。  そこが全ての始まりの地――ダグボルトの人生に深い影を落とす事になる、二人のシスターと知り合った場所であった。  貧民街の中心部には、こじんまりとした教会が建っている。  場所柄を反映してか、全ての窓に鉄格子が嵌められ、玄関のドアは頑丈な鋼鉄製で、鍵が五つも付けられている。  教会の二階にある寝室のベッドでは、この教会のシスターであるリンジー・ブーシェが、すやすやと吐息を立てて眠っていた。  褐色の肢体に、白の清楚なビスチェとパンツを身に着けただけの無防備な姿。  窓からは朝の陽射しが差し込んでいるが、全く目を覚ます様子は無い。 「おーい、朝だぞ。さっさと起きろよ」  不意に枕元から、ぶっきらぼうな声が投げかけられる。  しかしリンジーはまるで目を覚まさない。  すると今度は、剥き出しの華奢な肩を大きな手が乱暴に揺する。 「ううん……」  リンジーの瞼がうっすらと開いた。  同時に彼女のホーリーグリーンの瞳に、浅黒い肌の大男の、厳つい顔が飛び込んでくる。  その男――若きダグボルト・ストーンハートと目があった瞬間、リンジーは驚きのあまり、反射的にベッドから飛び跳ねていた。 「んぎゃああああああッ!!」  そしてベッド脇の床に着地――いや、顔面から床に自由落下する。  リンジーの口からは、しっぽを踏まれた猫のような悲鳴が上がる。  そして沈黙。  ダグボルトが声を掛けようとすると、急にリンジーはガバッと顔を上げた。  彼女の可愛く小さな鼻は、赤く腫れ上がっている。 「ななななな、何で? 何であなたがこここ、ここにいるの?」  リンジーは鼻を押さえつつ、言葉を何度もつっかえながら尋ねる。  普段は普通に話せるのだが、興奮した時には、どもり癖が出てしまうのだ。 「朝食が出来たからお前を呼んできてくれって、セオドラから頼まれたんだ。だけどドアをいくらノックしても出てこないから、直接起こしに来てやったんだぞ。少しは感謝しろよな」 「ででで、でもドアには鍵が……」  そう言いかけてリンジーはハッとする。  この寝室の鍵は壊れていたため、普段は眠る前にドアノブに椅子を立て掛けておいていた。  しかし昨日は、夜遅くまでベッドに寝転がって本を読んでいて、そのまま寝てしまったのだ。 「だだだ、だけど、返事が無いからってレディのへへ、部屋に入るなんてじじじ、常識が無さすぎるわよ! 変な事、かか、考えてたんじゃないでしょうね?」  リンジーは軽蔑するような冷淡な視線を投げかける。  しかしダグボルトの方も、彼女を冷たく見つめ返していた。 「ガキの身体になんか興味無いって。それよりさっさと着替えて下に降りてこいよ」  この当時、リンジーは十六歳。  しかし顔にはどこか幼さが残り、まだ未成熟な体つきだ。  一方のダグボルトは、つい先日、二十歳の誕生日を迎えたばかり。  外見的には、すでに青臭さなど全く感じさせない、野性的で精悍な大人びた顔つき。  そして鎧のような厚い筋肉のついた、がっちりとした身体には無駄な脂肪など全く無い。 「がががが、ガキとは失礼ね!!」  リンジーはいきなり立ち上がる。  と同時に、ダグボルトの脛目がけ、蹴りを放った。  だがダグボルトは、いとも簡単にそれをかわす。  勢いのついたリンジーの右足の小指が、ベッドの側の本棚の角にぶつかり、ゴツッと鈍い音を立てた。  リンジーの口から、今度は潰されたヒキガエルのような悲鳴が上がる。 「ひどいぶつけ方したけど大丈夫か? セオドラ呼んで来ようか?」  リンジーの右足の小指が紫色に腫れ上がっているのを見て、さすがのダグボルトも心配げに尋ねた。  しかしリンジーは目に涙を溜めて、身体をぶるぶると震わせながらも、首を横に振った。 「いらないおお、お世話よ! セオドラ様のいいい、癒しの秘跡は聖天の女神に授けられたききき、貴重な力なんだから、私の小指ごときに使わせる訳にはいかないわ!」 「ずいぶんと大げさだな。そこまで萎縮しなくてもいいと思うぞ。俺なんか、前に聖堂騎士団の寮で、仲間にうつされた水虫を治して貰ったしな」 「みみみ、水虫ィ!?」 「それに癒しの秘跡も万能って訳じゃない。欠損した身体部位ですら再生出来るのに、なぜか死んだ毛根だけは無理だったりするんだ。ここまでセオドラを訪ねて来て、その事実を知って、がっかりして帰っていった奴らを、俺は何人も見てきたよ」 「そそ、そいつらには全員、天罰が下ればいいわ!! ついでにあなたもね!!」 「あいつらはもう下っているようなもんだ。俺はまだまだ大丈夫だと思うが……」  そう言いながらも、ダグボルトは生え際を確かめるようにそっと頭を撫でる。  リンジーは呆れたように深いため息をついた。  足の小指はまだ痺れるように痛むが、気付けば怒りは収まっていた。 「……着替えるから、さっさと出てって」  寝室のドアを指差して、リンジーはぶっきらぼうに言った。  ダグボルトは肩をすくめると、大人しく外に出て行った。  ダグボルトが一階の食堂にやって来ると、テーブルには三皿のカボチャの冷製スープと、新鮮な生野菜のサラダが並べられている。  そして中央の大きな一皿には、焼きたてのアップルパイが載せられていた。  パイからは湯気が立ち昇り、甘ったるい匂いを漂わせている。  ダグボルトは思わずパイに手を伸ばす。  すると大きな手を、白く柔らかな手がぴしゃりとはねのけた。 「まだ駄目だよ。全員そろってからじゃないとね」  腰掛けていた椅子から立ち上がったシスターが、きっぱりと言った。  彼女がセオドラ・エルロンデ。  外見上は十六、七くらい。  リンジーとは異なり、長身でスタイルのいい金髪の少女だが、実年齢は不詳。  聖天教会のシスターにして、教会唯一の癒しの秘跡の使い手である。  アンフレーベンの中央広場には、フラムト聖堂という聖天教会の立派な建物があるのだが、救済を必要としている人が大勢いるからという理由で、セオドラは貧民街のこの名も無き小さな教会で働いていた。  この教会が、癒しを求める人々で溢れかえらないのは、皮肉な事にセオドラの聖女認定を頑なに拒否し続ける教会上層部の『世俗派』のおかげであった。  一度でも癒しの秘跡を見た者は、それが決してまやかしなどではないと理解するだろうが、そうでない者達の間では、まだまだセオドラは疑いと偏見の目に晒されているのだ。  セオドラ自身は、教会内部の権力争いには全く関心が無いらしく、そんな待遇にも不満一つ漏らさず、今も一介のシスターに甘んじている。  それに本人曰く、聖女という偉ぶった存在よりも、ただの気さくなシスターとして見て貰った方がいいらしい。  しかし頼まれさえすれば、決して力を出し惜しみする事無く、誰でも気軽に癒した。  そういうところも彼女の人となりを表しているといえた。 「さっき、すごい音がしたけどどうしたの?」 「何でもない。起こすのにちょっと手間取っただけだよ」  それだけ言うと、ダグボルトはセオドラの隣の席に着いた。  しばらくして食堂にやって来たリンジーは、テーブルの上のジャンボサイズのアップルパイを見て驚いた顔をする。 「セオドラ様、素敵な食事を作っていただいて申し訳ないのですけど、朝から甘い物をこんなに沢山は……」  するとセオドラは僅かに顔を曇らせる。  しかしそれは、彼女の作った料理を非難されたからでは無かった。 「敬語はいらないって前から言ってるじゃない。君も私も同じシスターなんだし、年もあまり変わらないんだしさ。もっと気楽に話そうよ」  親しげな口調でそう言うと、セオドラはにっこりと笑う。 「見た目は同じくらいでも、実年齢は大分かけ離れてるんじゃないか?」  ダグボルトがぼそりと呟く。  しかしセオドラが、この世の物とは思えない凄まじい形相で睨んでいるのに気付き、青ざめた顔で俯いてしまった。 「――ダグが半分以上食べるから大丈夫だよ。それに残りは私が食べちゃうし。こう見えても私って、いくら食べても太らない体質なんだよ」  セオドラはリンジーの方を見て、にっこりと笑う。  先程までの鬼のような形相は跡形も無く消えている。 「太らない体質なんてうらやましいわ。私は逆に太りやすいから、食事の量には気を使ってるのに」  今度は砕けた口調でそう言うと、リンジーはダグボルトの正面の席に着いた。  本来は四人目の席に、セオドラとリンジーの上司である老司祭デニンズがいるはずであった。  しかし、教皇庁で行われているクレメンダール教皇の、就任一周年記念式典に参加するために、二週間程前に街を出て、まだ戻っていなかった。  デニンズは元々、教皇庁で働いていた大司教なのだが、高齢を理由に教会の中枢から外れていた。  そして聖女のいる、この教会で働く事を希望して、わざわざ司祭に降格までしていたのだ。  一介の司祭でありながら教皇庁の式典に招待されたのも、そうした前歴があればこそであった。  三人は聖天の女神ミュレイアに簡単な祈りを捧げてから食べ始めた。  他愛も無いおしゃべりを楽しみつつ、朝食を満喫する。  食事が済むと、ダグボルトは教会の外を見回りに出ていった。鎧は身に着けていないが、スレッジハンマーを腰のベルトに吊るしている。  この街の聖堂騎士は皆、中央広場のフラムト聖堂の警備を担当している。  しかしダグボルトだけは聖女警護の任務を与えられ、特別にこの教会で寝泊まりしていた。  セオドラは自分に護衛がつくのを、堅苦しいからという理由で嫌がっていたが、友人であるダグボルトだけは例外として特別に認めているのだ。 「……ねえ、ダグが君を起こしに行った時、何かトラブルとかなかった?」  リンジーと二人きりになるとセオドラが尋ねた。 「うん、少しね。ドアをノックしても出てこなかったからって、あいつったら勝手に部屋に入って来たの」 「ああ、やっぱり……。ごめん。私が起こしに行けば良かったね」 「いえ、セオドラさ……セオドラが謝らなくてもいいわ。だって悪いのは全部あいつだし!」  紅茶の入ったティーカップを強く握りしめて言った。  それを見てセオドラは苦笑する。 「ダグは責任感が強い反面、ちょっとがさつな部分があるんだよね。私は余計な気を使われなくて逆に有り難いんだけどさ」 「それって単にデリカシーが無いだけじゃ……」 「フフッ! まあ確かにそうかもね。でも私に気を使い過ぎて見えない壁を作る人が多い中で、ダグみたいにデリカシーの無い人は逆に貴重な存在なんだよ」 「見えない壁……。だけどそれは、聖女のあなたを敬う気持の表れでしょう? 敬意を持って接するのは当然だし、むしろそうでない人の方がおかしいわ」  するとセオドラは急に真剣な顔になって、リンジーの顔の前に人差し指を突きつける。  思わずギョッとするリンジー。 「ミュレイア様を敬うのは分かるけど、私を敬うのはおかしいよ。だって癒しの秘跡はミュレイア様の力であって、私の力じゃないんだもの。それにそうやって周りにちやほやされて甘やかされちゃうと、どんなに高邁な人間でも腐っていくもんだよ。私はそういう風には絶対になりたくないの。だから敬意なんか持たれると、かえって迷惑なんだよね」  有無を言わさぬ口調でセオドラは言い切った。  圧倒されたリンジーは、何も言えずただ黙って頷くしかなかった。  するとセオドラは温和な表情に戻り、まるで何事も無かったかのように尋ねる。 「ところで紅茶をもう一杯どう?」  正午近くになると、礼拝堂には十人程の人が祈りを捧げにやって来ていた。  司祭が留守のため、懺悔を聞く事は出来ない。  しかし代わりにセオドラが、何か困っている事は無いか、ひとりひとり親身に尋ねて回る。  礼拝堂の燭台の蝋燭を交換していたリンジーは、その姿を見て思わずため息をついた。 「どうした? お前も悩みがあるんなら、セオドラに相談してみたらどうだ?」  近くにいたダグボルトが声を掛ける。 「そういうんじゃないわよ。何て言うか、あの人には敵わないなあって思って。まだ出会ってから、半年ぐらいの付き合いしかない私が言うのも何だけど」  するとダグボルトは急に考え込むような顔つきになった。 「そうか。お前がここにやって来て、もう半年になるのか。そう言えば前任者のネリスが死んだ時、セオドラは酷く落ち込んでたな……」  シスター・ネリスは、元々は中央広場のフラムト聖堂で働いていたのだが、素行に問題があったため、この貧民街の教会に左遷されていた。  しかしここでも彼女は、昼間から酒を飲んで酔っ払っていたり、突然姿を消して何日も帰ってこないなどの問題行動を起こしていた。  そして半年前、いつものようにふらっとどこかに姿を消したネリスは、溺死体となって埠頭近くの海に浮いているのを漁師に発見されたのだ。 「でも事故だったんでしょう? 確かに気の毒だけど、そこまで心を痛める必要は無いと思うけど」  リンジーの言葉通り、ネリスの死は事故として処理されていた。  彼女の死体と一緒に空の酒瓶も浮いていたため、酔って足を滑らせて海に落ちたと見られたのだ。 「いや、問題は死因じゃないんだ。実は亡くなったネリスの部屋を、セオドラと二人で片付けている時に、ベッドの下に隠されてた日記を見つけてな。そこには聖天教会に入信する前から抱えてた、色々な悩みが書かれてたんだ。ギャンブルに嵌って借金を抱えた夫に暴力を振るわれてたとか、他にも色々とな。ネリスが酒に溺れるようになったのは、そのせいだったんだ。そして夫と離婚してシスターになってからも、死ぬまで酒を断てなかったってわけだ」 「…………」  いつの間にかリンジーはじっと話に聞き入っていた。  ダグボルトは躊躇いつつも先を続ける。 「……あの日記を二人で読んだ後、セオドラは俺にこう言ったんだ。『シスター・ネリスはこんなに苦しんでたのに、私は彼女を救う事が出来なかった。癒しの秘跡で、体の傷はいくらでも癒せるけど、心の傷までは癒せないんだ。聖女だなんて持ち上げられてるけど、私は無力な存在だよ』ってな」 「そんな! セオドラ様は無力なんかじゃないわ。シスター・ネリスを救う事は出来なかったかもしれないけど、他に大勢の人を救済してきたでしょう?」 「ああ、その通りだ。そんな事は俺だって良く分かってるよ」  そしてダグボルトは、心の中で密かにこう付け加える。 (何と言っても、俺もセオドラに救われた一人なんだからな……)    **********  六年前のとある晩、ダグボルトはこの教会に盗みに入った。  孤児だったダグボルトは、生きるために犯罪行為を毎日のように繰り返していたのだ。  教会には金目の物はあまり無かったが、錫の燭台や皿などを適当にカバンに詰め込む。  そして手早く仕事を終えたダグボルトは、侵入してきた台所の窓から外に出ようとした。 「待ちなさい!」  不意に背後から鋭い声。  振り返ったダグボルトは、戸口に立つセオドラと目が合った。  深夜なので、教会の住人は全員眠っているはずだ。  大きな物音をたてていないはずだが、どうして気付かれたのだろう。  だが今更そんな事はどうでもいい。  ダグボルトは、セオドラを無視して窓枠に足を掛けた。  するとセオドラは即座に走り寄り、ダグボルトの腰のベルトを掴んで逃げるのを阻止しようとした。 「その手を離せよ。まだ死にたくねえだろ?」  ドスの利いた声で恫喝するダグボルト。  十四歳にして二ギット(メートル)近い長身で、凶暴な顔つきをしている。  大抵の人間なら怯むところだ。  だが目の前の少女は、まるで動じる風は無い。冷静な口調ですぐにこう答える。 「逃がしてあげてもいいけど、君の顔はもう覚えたよ。後で衛兵に通報すれば、すぐに捕まえてくれるだろうね。だって君、図体がでかくてすごく目立つもの」  その通りだった。  ダグボルトの外見はあまりにも特徴的過ぎる。  衛兵に外見を伝えれば、すぐにでも見つけられてしまうだろう。  ダグボルトは腰のベルトに挟んであった短刀を引き抜いて、セオドラの眼前に突きつける。 「俺の事は誰にもしゃべるな。もししゃべったら、こいつでてめえのはらわたを引き摺り出してやるからな!」  だが今度もセオドラは動揺する様子は無い。  それどころか手を差し出してこう言った。 「そんな物騒な物を出してくるなんて感心しないなあ。ほら、早く渡しなさいって」 「う、うるせえッ!!」  反射的にダグボルトは短刀を振り回した。  セオドラの左頬にさっと赤い筋が走る。 「あッ!」  脅すだけのつもりだったのに、傷つけてしまったと気づいてダグボルトは青ざめる。  一方、セオドラは頬を押さえてうずくまる。 「お、お前が悪いんだぞ! お前がふざけた事ばっか抜かすから……」  すると急にセオドラが立ち上がる。  頬の傷は、まるで初めから無かったかのように消え失せていた。 「気にしないで。もう治っちゃったからさ」  唖然とするダグボルト。  ようやく目の前の少女が何者なのか理解する。 「ま、まさかお前が聖女様なのか? そ、そんな風には全然見えなかったぞ!」  癒しの秘跡を持つ聖女が、この街にいる事は知っていたが、まさか貧民街の古ぼけた教会で暮らしているなどとは思っていなかったのだ。 「うん。いろんな人によくそう言われるよ」  セオドラは苦笑いを浮かべながら言った。 「聖女を……女神の使徒を傷つけるつもりなんてなかったんだ。俺はただ脅すつもりで……」 「分かった、分かった。私は別に気にしてないってば。で、どうするの? まだ逃げる気?」  ダグボルトは持っていたカバンをセオドラに差し出した。 「……これは返す。後はあんたの好きにしてくれ。俺を衛兵に引き渡したいんなら、そうすればいい」  それだけ言うと、ダグボルトは観念したようにその場に膝をついた。  セオドラは思わず口笛を鳴らす。 「ずいぶん殊勝な心がけだね。君みたいな悪い子でも、聖天の女神には敬意を感じてるんだ。感心、感心」 「フン。だからと言って、女神が俺に何かしてくれた訳でもねえけどな。あんたら聖職者共は、『聖天の女神はあまねく人々に救済を与えて下さる』なんて偉そうに抜かしてやがるけど、俺は生まれてからただの一度だって、女神に救われた事なんてねえよ。そう。ただの一度もな……」  目を伏せたまま苦々しげに呟くダグボルト。  するとセオドラは、そっと彼の両手をとった。 「そうでもないんじゃないかな? 今ここで私と出会った事、それがいわばミュレイア様が与えてくださった救済みたいなもの。そう考えられない?」 「救済?」 「君を衛兵に引き渡すのは簡単だけどね。でも若い君には、まだまだ無限の可能性がある。未来がある。それをこんな形で潰しちゃうのは、勿体無いなあって思うんだ。どう? 今からでも罪を悔い改めて、聖天教会で働いてみない? 選択するのは君だけど、これは人生を取り戻すチャンスだと思うよ」  その瞬間、二人の目が合った。  セオドラのダークブルーの瞳は、ダグボルトが今まで見た事も無いような、慈愛に満ちた美しい輝きを帯びていた。  ダグボルトは彼女の瞳から目を反らせなくなる。 「まだ出会ったばかりだから、君の事はよく知らないけど、どうしてこんな事をしたのかは何となく想像出来るよ。だって私は、君みたいな子を今まで大勢見てきたもの。生まれ育った環境に恵まれず、ただの一度も這い上がるチャンスを与えられず、可能性の芽を摘まれた子供達をね。この世界は持たざる者に対しては残酷だよ。人生のスタートラインにすら立てないまま、表舞台から消えていった人達が星の数ほどいる。教会の教えに反するようだけど、人を救うのは神じゃないと思う。人を救えるのは人だけなんだよ。だから私は、女神の使徒としてではなく、一人の人間として君を救いたいんだ」  セオドラの熱意に溢れた言葉が、まるで雷のようにダグボルトの胸を打つ。  ダグボルトは零れ落ちる涙を抑える事が出来なかった。 「何でだよ……。何で見ず知らずの他人にそこまで言えるんだよ……」  するとセオドラはにっこりと微笑んで、ダグボルトの胸を軽く叩いた。 「今はもう他人じゃないよ。こうして知り合えたんだからね。君の名前は?」  ダグボボルトは涙を拭って答える 「ダグボルトだ。あんたは確か……セオドラだったよな?」 「うん。セオドラ・エルロンデだよ。君のラストネームは?」 「そんなのは知らない。もし知ってたとしても、俺を捨てた親の家名なんて名乗りたくないし」 「そうか。そうなんだ……。それなら私が、君のラストネームを決めてあげるよ」  そう言うなり、セオドラはダグボルトの了承も得ないまま、いい名前を捻りだそうと腕を組んでひたすらに考え始めた。  長い沈黙に耐え切れず、ダグボルトが声を掛けようとした瞬間、セオドラは大きな声で叫んだ。 「そうだ! 『ストーンハート』なんてどう? どんな困難や逆境にも、決して押し流されない堅牢な巌の心。君の新たな人生の幕開けにふさわしい名前だと思うよ」  そしてただのダグボルトから、ダグボルト・ストーンハートになった彼は、聖天教会に入信して二年後――十六歳の時に聖堂騎士団の入団試験に合格する。  彼はセオドラによって第二の人生を歩む事を許されたのだ――。    ********** 「あっ、いけない! そろそろお昼の準備をしなきゃ!」  リンジーの言葉が、回想に浸っていたダグボルトを現実に引き戻す。 「そう言えば台所の小麦は切れてたんだっけ。悪いけど倉庫から新しいのを持ってきてくれない?」 「ああ、分かった」  ダグボルトは、教会住居部の地下にある狭い倉庫に、小麦の袋を取りに向かう。  その時、住居部玄関の呼び鈴が鳴った。  ダグボルトが鍵を外して玄関のドアを開けると、そこには大きな旅行鞄を手にしたデニンズ司祭がいた。今年で八十になるというのに、長旅で疲れた様子はほとんど無い。 「デニンズ様、ずいぶん早く戻られましたね。帰ってくるのはもう少し後になるかと思ってましたよ」  ダグボルトはすぐにデニンズから旅行鞄を受け取った。中に何が入っているのか分からないが、ずっしりと重い。 「あんな退屈な集まりに長くいても仕方ないのでな。ちょうど教皇庁経由でこの街に向かう馬車があったんで、式典への参加を早めに切り上げて同乗させて貰ったのじゃよ」  デニンズの言葉通り、教会の前には四頭立ての馬車が止まっている。  馬車の前に立っている初老の男を見て、ダグボルトは顔を引き攣らせた。  その男はダグボルトが聖天教会に入信したての頃、通っていた神学校の恩師であるウォーデン・オルギネンであった。 「おう、ダグボルト! フラムト聖堂で姿を見ないと思ったら、こっちに配属されていたんだな。ずいぶんと久しいではないか」  ウォーデンはダグボルトに気付いて近づいてきた。  顔には深い皺が刻まれ、髪は真っ白だが、司祭服の上でも筋肉の盛り上がりはっきりと分かる。 「どうも、お久しぶりです……」  ダグボルトが気乗りしない様子で返事するのを見て、ウォーデンは高らかに笑い出す。 「ハハハ! 儂を嫌がる気持ちは分かるが、あからさまにそんな顔をするものではないぞ。別におぬしを叱りに来た訳じゃないんだからな」  ダグボルトは勉強が苦手で、他の子供達より覚えが悪く、おまけに礼儀作法なども全く知らなかった。そのせいもあってか、ウォーデンからは時に厳しく躾けられていた。  今思い出しても身体に震えが走るくらいだ。 「別に嫌がってる訳では……。むしろ先生には、どれだけ感謝しても足りないくらいです」  ダグボルトに聖堂騎士団に入るように勧めたのは、他ならぬウォーデンであった。  入信した僅か二年後に入団試験を受ける事が出来たのも、元聖堂騎士のウォーデンが強く推薦してくれたからだ。それもあってダグボルトはウォーデンに頭が上がらないのだ。 「そうか。それなら良かった。ところでおぬしがまだまだ勉学に励みたいというのなら、時間を割いて個人的に教えてやってもいいがどうだ?」 「それは遠慮しておきます!」  即答するダグボルト。  あまりに必死な姿を見て、隣にいたデニンズも思わず笑う。 「ウォーデンよ。一緒に昼食でもどうじゃ? シスター・セオドラも、久しぶりにお前さんに会えばきっと喜ぶじゃろう」 「いえ、お誘いはとても嬉しいのですが、すぐに神学校に戻らなければならんのです。生徒達に宿題をたっぷり与えておきましたので、きちんとやっているか確認せねばなりませんから。昼食は途中で弁当でも買って軽く済ませますよ」 「長旅の後だというのに大した男じゃな、お前さんは。だが熱心なのは結構じゃが、あまり生徒を苛めるなよ。そこのダグボルトのように、お前さんの顔を見ただけで怯えるようになってしまうからな」 「ハハハ! 肝に命じておきましょう。ではこれで失礼いたします。 ……ああ、それとダグボルト。聖女様の警護、決して怠るではないぞ」 「はっ!」  ダグボルトは返事と共に深々とお辞儀する。  ウォーデンは満足げに頷くと馬車に乗り込んだ。  走りだした馬車が表通りの曲がり角を曲がって姿を消すと、二人は教会の中に入った。 「ダグ、小麦はまだ――」  厨房からやって来たリンジーは、ダグボルトの隣のウォーデンを見て、即座に表情を引き締める。 「お帰りなさいませ、デニンズ様。長旅、お疲れ様でした」 「うむ。おぬしも変わりないようで何よりじゃ。済まんが温かい茶を一杯用意してくれんか? ちょいと喉が渇いてしまってな」 「はい、すぐに用意します」  リンジーは厨房に引き返していった。  デニンズはダグボルトと共に食堂に向かう。  デニンズが自分の席に着くと、すぐにリンジーがお茶を運んできた。  ほぼ同時にセオドラも食堂に現れる。  一通り再会の挨拶を済ませると、セオドラは急に厳しい顔でデニンズに尋ねる。 「クレメンダール教皇の演説はどうでした?」  デニンズは考え込むようにしばらく目を閉じた。  それからゆっくりと口を開き、慎重に言葉を発する。 「……あれはとにかく凄いとしか言いようがないな。猊下は外見的には平凡で目立たぬ人物じゃが、ひとたび演説が始まると、苛烈で清廉な言葉が竜の炎のように吐き出され、大衆はたちまち魅了されてしまう。教皇就任前から猊下の演説は素晴らしい物だったが、今回はさらに磨きがかかっておった。言葉の一つ一つから身振り手振りに至るまで、大衆の心を掴むために常日頃から研究を重ねておるのじゃろうな」 「それで、彼はまだ『魔女が世界を滅ぼす』なんて主張しているのですか?」 「主張自体は前と何も変わってはおらんかったよ。ひとつ変わったとすれば、それは聞いている人間の側じゃろうな。以前は魔女の話に懐疑的な者も少なからずおったが、今では皆が猊下の言葉を信じ込んでおるように見えたのう」  話している間、デニンズはずっと渋い顔をしていた。  それはリンジーの淹れたお茶が苦かったのか、あるいは世界がまずい方向に向かっていると感じているのか……。  おそらくは両方だろう。  ダグボルトはそう結論付けた。 「個人的に何度も手紙を送って、いたずらに魔女への恐怖を煽るのを止めて下さるよう陳情してたんですけど、効果は無かったみたいですね」  セオドラは悔しそうに呟いた。 「うむ、残念ながらそのようじゃ。それどころか猊下は、各国の要人が集まった夕食会で、人間に化けた魔女を狩りだすための特務機関を新設するつもりだと言っておったよ。その機関には、独立した捜査権限と司法権を与えたいから、各国にも協力して欲しいともな」 「無茶苦茶じゃないですか!! そんなふざけた要求、どこの国も飲む訳ないですよ!!」  隣の席で話を聞いていたダグボルトは、驚きのあまり思わず叫んでいた。  しかしデニンズは、どこか悲しげな顔で首を横に振った。 「確かに一年前なら、そう言い切れたじゃろうな。しかし今ははっきりと否定出来んのじゃよ。世界各地の教会が危機を煽ったおかげで、魔女に対する恐怖は民衆の間にかなり浸透してきておる。その影響は、すでにあらゆるところに現れておるのじゃよ。例えばイスラファーンの国王は、一月程前に王都の娼館を全て撤去させ、娼婦を全員街から追放したらしい。娼婦は堕落した存在だから、悪魔に誘惑されて魔女になる危険性が高いという理由でな」 「あの人がそんな事を……」  モラヴィア大陸北部の大国イスラファーンの国王アルディーン二世は、壮年の聡明な人物として知られている。二人の息子の仲が悪いとの噂もあったが、国王の人望もあって治世は安定していた。  ダグボルトは聖堂騎士になりたての頃に、王都デルシスでアルディーン二世に謁見を賜っていた。  その時に少し話した限りでは、とても気さくで、なおかつ頭の回転が速い人物という印象であった。 「――とは言え、あの王がそのような極端な政策を進んで実行したとは思えぬ。どちらかと言えば、魔女に怯える民衆に押し切られたようじゃな。その一方で、この街では領主のマウリットランツ家の人間が信仰にあまり関心が無いせいで、聖天教会の力がそれほど大きくはない。幸か不幸かそのおかげで、ここではまだあまり影響は出ておらぬようじゃ。それに大広場のフラムト聖堂の司祭も、魔女の脅威を煽るのには消極的なようじゃしな。無論それは儂も同じじゃ。いずれ猊下が考えを改めてくださるのを信じて、今は静かに時を待つしかあるまい」  そう結論を述べると、デニンズは残りのお茶を飲み終え、寛いだ服に着替えるために食堂を離れた。  リンジーも厨房に戻り、ダグボルトは倉庫に小麦の袋を取りに行った。  食堂にひとり残されたセオドラは、誰にともなく呟く。 「時が解決してくれるなんて思えないな。それに魔女狩りの専門機関の話がどうも気になるし、ここは久しぶりにあの方の助言を仰ぐべきかも知れない……」    **********  昼食を終えると、セオドラは無人の礼拝堂にやって来た。  窓のガラス越しに、冬の冷たい空気が内部にまで伝わってくる。  デニンズから礼拝堂を貸し切る許可を得ていたセオドラは、入口の門を閉めて閂を下ろした。  教会住居部との間のドアにも鍵を掛ける。  これで彼女が交信している間、誰も入ってこれない。  カーテンを全て閉め切ってしまうと、祭壇に置かれた燭台の明かりを除けば完全に闇に包まれる。  蝋燭の炎で照らされた女神像の美しい顔はどこか儚げで、この世界の行く末を案じているようにも見える。  セオドラは女神像の前で膝をつくと目を閉じ、両手を組んで祈りを捧げ始めた。 「重層世界をあまねく統べし諸神の第九柱にして十界の造り手、暁と聖天の女神ミュレイア・ミナス・ル=ゼリアよ。汝の神格者(アバタール)たるセオドラ・エルロンデの声を聞きとげ、聖域の大門を開き給え――」  窓は全て閉まっているにも関わらず、どこからか強い風が礼拝堂を吹き抜けた。  燭台の蝋燭の炎が一瞬で消え、辺りは完全な闇に閉ざされる。  しかしセオドラは、周囲の出来事など気にも留めずに祈りを続ける。 「レイル・ウム・デイン・アスタート――リアウス・ムス・ディサメイン・グエン・オルタリア――オーデンブルード・ザイン・ア――」  やがて祈りは、この世ならざる古き神々の言葉で紡ぎ出されていく。  それは聖天教会の聖典にも記されていない上位言語であった。  いつしかセオドラの意識は、周囲と同じように闇に包まれ、入神(トランス)状態に陥っていた。  そして彼女の霊魂は住み慣れた世界を離れ、遠く彼方にある神聖なる領域へと旅立っていった。  しばらくすると、閉じていたセオドラの瞼の裏側に、急に光が感じられた。  ゆっくりと目を開くとそこは礼拝堂では無く、光に包まれた荘厳な神殿の中であった。  目の前には純白の衣を身に纏った若い女性――聖天の女神ミュレイアが立っていた。  ミュレイアの長い髪は艶やかに輝き、玉虫の翅のように刻々と色を変え続けている。  慈愛に満ちた優しげな顔立ちは、まるで内側から光が溢れてくるかのような絶対的な美しさだ。  純白の衣から透けて見える、慈母の如き柔らかな肢体は完璧に均整がとれている。  その姿を見れば、教会の女神像などミュレイアの完璧な美を全く捉えられていないと分かる。  そもそも彼女の似姿を完璧に創りだせる彫刻家など、世界のどこにも存在しないのだ。  もしここにいるのが、セオドラではなく普通の人間ならば、余りの美しさに見ているだけで涙が止まらなくなったはずだ。 『そろそろあなたがここに現れるのではないかと思っていました、セオドラ・エルロンデ。私に相談したいのは聖天教会の今後について――。いえ、正確には教会の指導者であるヴィクター・クレメンダールについてですね?』  繊細で柔らかな響きのミュレイアの声が、ハープの調べのように神殿内を響き渡る。 「はい。私は今まで、聖天教会内部の政争にはなるべく関わらないようにしてきました。もちろん教会上層部の『世俗派』の腐敗を知った上でです。なぜなら私の『真なる聖女』としての目的は、人々を善の道に導く事であって、教会はあくまでもそのための手段のひとつに過ぎないからです。ですから、たとえ聖天教会が愚行の果てに崩壊したとしても、私は全く心を痛めません。……しかし罪の無い人々を、崩壊に巻き込もうとしているなら話は別です」 『ヴィクターにはその危険性がある。あなたはそう考えているのですね?』 「はい。彼は架空の魔女を使って民衆の心を恐怖で満たし、思考を麻痺させて己の支配下に置こうとしています。しかもそのやり方は段々とエスカレートしているようです。しかしいずれ彼にも事態をコントロール出来なくなり、この世界に大きな災いをもたらすような気がしてなりません」  するとミュレイアは美しい眉間にほんの僅かに皺を寄せてこう尋ねた。 『――あなたは『黒獅子姫』を覚えていますか?』  唐突に話の流れを変えられてセオドラは一瞬戸惑うが、即座に気持を切り替えて返答する。 「私と対になる『真なる魔女』ですね。私が『真なる聖女』になった時に、一度だけ会ったと記憶しています」 『ええ、その通りです。では彼女に会った時、あなたは何を思いましたか?』 「そうですね……。『黒獅子姫』とは少し話しただけですけど、正直言えば、あまり魔女らしくないと感じました。少なくともクレメンダールが考えているような、世界に災厄をもたらす恐ろしい魔女ではありません。もっと言うなら悪を導く存在としてはあまりに優し過ぎるというか……」  ミュレイアはその答えに満足したらしく静かに頷いた。 『悪は人の心の弱さの表れとも言えます。弱さをよく知るがゆえに、寛大な心を持った悪人はどんな善人よりも優しくなれるのでしょう。しかし逆に、狭量な善人はどんな悪人よりも恐ろしい存在となります。なぜならそのような者は、自分と少しでも意見が異なる人間を絶対に許せず、徹底的に滅ぼそうとするからです』  セオドラは目を瞬かせる。  ミュレイアの問いかけは迂遠なように見えて、いつの間にかセオドラを結論へと導いていたのだ。 「狭量な善人、それがクレメンダールの正体なのですね」 『世界に災いをもたらすものがあるとすれば、それは決して魔女などでは無く、ヴィクターの無謬の善意そのものでしょう。彼のような危険な人間を指導者に据えたのは、聖天教会の大きな失態です。そのような過ちを二度と起こさぬよう、彼を含む上層部の人間を全員追放して、あなたが教会の実権を握るべきなのです』 「追放!? でも、それでは……」 『あなたが望みさえすれば、『黒獅子姫』に匹敵するだけの力を手に入れる事が出来るのですよ。あなたに刃向う教会上層部の人間など、力をもって排除すればいいのです。以前のあなたは、善を導くのに力など必要ないと言って、癒しの秘跡以外の力を得る事を拒否しました。しかしそろそろ考えを改める時ではないですか?』 「いいえ、今でもその考えは変わりません!」  セオドラは断言した。  ダークブルーの瞳には、ほんの僅かの迷いも見られない。  確固たる信念が、彼女の心に息づいている事を物語っている。 「暴力であれ権力であれ、力で強制された善になど何の価値もありません! 人々が自らの意志によって選択した結果でなければ駄目なんです! だからこそ私は、もっともっと多くの苦しんでいる人達を救いたい! 彼ら全員を救済したい! 彼らに生きる喜びを与え、この苦しみに満ちた世界にも一縷の救いがあると教えたいんです! そうすればきっと救われた人達も、他の誰かに善を成そうと考えてくれるはずです!」  力強く語るセオドラ。  相手が人間であれば、きっと彼女の言葉に心を打たれたであろう。  しかしミュレイアは違う。  慈母の姿をしていても、相手は温かい血液など一滴も流れていない神なのだ。 『……それがあなたの導き方なのですね。しかし全ての人間を救済する事など、神である私にすら不可能です。神でさえ不可能な事を、元は人間だったあなたが実現しようなどと考えるのならば、それはただの傲慢です。その傲慢さは、いずれあなたの身を滅ぼす事になるでしょう』  ミュレイアの顔からは優しげな表情が消えていた。  余りにも冷たく、あまりにも正確なミュレイアの言葉を前に、セオドラの心は揺らぎそうになる。  しかし、それもほんの一瞬の事。  例え相手が神であっても、己の信念に対しては決して妥協を許さなかった。 「志半ばで命尽きても別に構いません。そうなったら、きっと別の誰かが私の意志を継いでくれるはず。人々の心に善を成そうとする強い意志が、そうやっていつまでも受け継がれていくなら、私はそれだけで満足です」  言い終えてから、ミュレイアの顔が再び優しげな表情に戻っているのに気付く。  単に説得を諦めたからなのか、それともミュレイアが望む回答だったからなのか、セオドラには分からなかった。 『では、これ以上は何も言わないでおきましょう。あまたの人間達の中から、私自らの手で選び出された瞬間から、善なる者達の行く末はあなたに委ねられたのですから。ヴィクターの件もあなたに一任します。あなたのやり方で、彼を変えられるというのなら試してみなさい。そしてそれでも駄目なら、その時は『真なる魔女』に助力を請いなさい。あの心優しい魔女なら、きっとあなたの力になってくれるはずです』 「はい。ミュレイア様の有り難いお言葉、確かに承りました。貴重な時間を私のために割いてくださった事を、心から感謝いたします」  セオドラは深々と一礼する。  会談は終わった。  ミュレイアが軽く手を振ると周囲の光景が揺らぎ、急激に光が失われていく。  ミュレイアの姿が薄れ、完全に消えてしまう前にセオドラはそっと尋ねる。 「……ミュレイア様、もしかして不遜な理想を抱く私を、『真なる聖女』にされた事を後悔されているのではありませんか?」 『後悔? むしろ、あなた以外の誰が聖女になれるというのです? 報われる事の無い、永遠の苦役ともいうべき厳しい使命を、喜んで引き受けるような変わり者があなたの他にいるとでも?』  やがて光の神殿もミュレイアも消え失せ、セオドラの霊魂は再び元の世界へと帰還していった。 (偉い神様も、時には皮肉を言うんだね。またひとつ勉強になったよ)  暗闇に包まれた礼拝堂に戻って来たセオドラは、無意識のうちに微笑んでいた。  しかしすぐにミュレイアから託された使命を思い出し、表情を引き締める。  彼女には、これからすべき事が山ほどあった。
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