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 リンジーに連れられて、ダグボルトは東エリアにあるレストランにやって来た。  海から距離があるにもかかわらず、料理には港湾地域から運び込まれた魚介類がふんだんに使われている。豪奢な店構えから見ても、相当に高級な店なのは間違いない。 「今日は俺が奢るからどんどん食べていいよ」 「本当? アンフレーベンにいた頃は割り勘だったのに、今はずいぶん気前がいいのね。聖地防衛隊ってそんなにお給料いいの?」 「いや、まだまだ下っ端だからそれなりって所だよ。だけど入隊する前よりは遥かに貰えてる。ここじゃ基本給の他にも、危険手当なんかの特別手当が色々つくから」 「へえ、そうなんだ。じゃあ遠慮なくごちそうになるわね」  リンジーはその言葉通り、ほんの僅かの遠慮すらなく次々と料理を注文して、ダグボルトを震え上がらせる。 (……部屋に着替えに戻った時に、有り金を全部持ってきて正解だったな)  懐に入っている古王銀貨の詰まった財布の重みが、ダグボルトの唯一の支えだった。  幾ら何でも、これを全て使い切る事は無いだろう。  そう信じたいと心より願っていた。 「ねえ、ここっていいお店でしょ? いつもは並ばないと入れないんだけど、今日は運が良かったわ」 「あ、ああ……。 ところで、ここって行きつけの店? 結構な高級店みたいだけど」 「ううん。さすがにシスターの薄給じゃ滅多に入れないわよ。そもそも東エリア自体、あんまり来る機会ないし。でも今日は特別。あなたとまた会えた大事な日だから」  そう言って、リンジーはワインの入ったグラスを差し出す。  酒の飲めないダグボルトは、水の入ったグラスを差出して乾杯した。 「そういえば東エリアって高級住宅街になってるよな。何か理由があるのかな?」 「ええと、それはね。城門のある北、南、西エリアは外敵から襲撃を受けやすいけど、東エリアは険しいルヴァーナ山が防壁代わりになっていて、ほとんど敵が来ないからなの」 「ふーん。このエリアだけ防衛部隊がいなくて、他のエリアの部隊が持ち回りで警備してるのはそういう事か」 「うん。だからこのエリアは、他より地価が二、三倍も高いのよ。こんな所に住めるのは、それこそよほどの大富豪か、一部の大司教様だけね」 「大司教もか。いくら身分が高くても、聖職者なんだから大聖堂に住んでるもんだと思ってたけどな」 「もちろんみんな普段は大聖堂で暮らしてるわ。でも休暇を楽しむための別荘として購入してるみたい。信者にこっそり免罪符を売ったりして、個人的に集めたお金を使ってね」  以前の聖天教会は、信者に免罪符を売って多額の利益を得ていた。  だが今はクレメンダール教皇の勅令により、王侯貴族に限定して販売する形となっていた。  つまり聖職者が、個人的に利益を得る事は禁止されているのだ。  リンジーの言う事が全て事実なら、大司教達は大きな罪を犯しているといえよう。 「聖地にまでそんな悪事に手を染める輩がいるなんて、教会はどこまでも腐り切ってるな。クレメンダールや審問騎士団より、そいつらの方が癌なのかも知れないな」  ダグボルトは吐き捨てるように言った。 「でもまっとうな大司教だっているわ。例えば私がお世話させて貰っているアレンゾ様なんかがそうよ。あの方はルックスが良いせいで軟派な人間に思われがちだけど、実際は慈善事業にすごく熱心で、女性だけじゃなく男性信者にも人望があるの。シスターの間では、いずれは教皇の座も狙えるんじゃないかって言われてるわ」  アレンゾという名前を聞いて、初めて大聖堂に来た時の事を思い出す。 「ああ、あいつか。少し前に礼拝堂で説教してるところを見たよ。昔、狼に喰われそうになったとか何とか言ってたけど、あの話だけはさすがに信じられないな。本当に奇跡だとしたら、あんなすかした奴を助ける女神様の趣味を疑うよ」  それを聞いてリンジーは呆れ顔になる。 「もう、ダグったら! いきなり人の悪口を言うなんて一体どうしたのよ。……もしかして私が褒めたからやきもち焼いてるの?」 「ややや、焼くかッ!」  動揺したダグボルトは思わずどもってしまう。  するとリンジーは余裕の笑みを浮かべる。 「フフッ、昔とは立場が逆転したわね。今じゃ、私よりあなたの方が子供っぽいわ」  そう言ってリンジーは軽く髪をかきあげた。  大人びた仕草にダグボルトの心臓がドクンと脈打つ。  この状況を詩人ならば、きっとこう言うだろう。  人が恋に落ちる瞬間を見た、と――。  しかしそんなダグボルトの想いを打ち砕くかのように、大聖堂の鐘楼から大きな鐘の音が二度鳴り響く。  二度の鐘は警戒を呼びかける合図だ。  レストランの中はざわめきに包まれる。 「皆さん、落ち着いて下さい。うちのウェイトレスが近くの避難用地下壕まで案内しますので、指示に従って慌てずに避難して下さい」  レストランの若いオーナーが慣れた様子で客に呼び掛けると、すぐにざわめきは静まる。  ダグボルトはリンジーを落ち着かせるように、彼女の手の上に自分の大きな手を重ね合わせた。 「俺は今から仕事に戻るよ。一人で大丈夫?」 「うん、平気よ。ここに住んでたら、こんなのしょっちゅうだもん」 「そうか。ひと段落ついたら連絡するよ」 「私はアレンゾ様が説教する時に、礼拝堂の控室にいるからいつでも会いに来て。今日は本当に楽しかったわ。ありがとう、ダグ。今度はお休みが取れたら、一緒に街を回りましょうね」  リンジーは他の客と共に、ウェイトレスに連れられて店を出て行った。  ダグボルトも外に出ようとするが、オーナーが無人のテーブルを回っているのに気付く。 「あんたはなんで避難しないんだ?」 「はい? こちらにも色々と事情がありますので、私の事は放っておいてください」 「いや、そうはいかないね。俺には聖地防衛隊の隊員として、市民の安全を守る義務があるんだ」  今日の訓練を終えたため私服に着替えていたが、代わりに自分の名前が刻まれた隊員章をオーナーに見せる。 「へえ、南エリア部隊に所属されているダグボルトさんですか。聞き慣れない名前ですけど新人の方ですか?」 「まあね。俺は立場上、あんた達が全員避難したのを、ちゃんと確認しなきゃならないんだ。だからあんたも、さっさと避難用地下壕に向かってくれよ」 「心配されなくても、これが終わったらすぐに行きますよ」  オーナーは手にしたバスケットに、スプーン、フォーク、ナイフなどの銀製品を詰め込んでいた。 「ふう、これでよしと。後は今日の売り上げを隠し金庫にしまったら完了です」 「遅過ぎだろ! そんなのどうでもいいから、さっさと避難してくれって!」  頭に血を上らせたダグボルトを見て、オーナーはまあまあと宥める。 「わざわざ心配されなくても、このエリアに名無き氏族が侵入して来る事なんて、まず無いですよ。それより避難用地下壕に隠れている間に、強盗に金目の物を盗まれる方が深刻な問題です。うちも、もう何回もやられてますからね。聖地防衛隊の方々の手で、強盗が何人も逮捕されてますけど、そんなのは氷山の一角ですよ。きっと聖地では、単独犯だけじゃ無くて、大掛かりな窃盗団も暗躍してるはずです。でなきゃこのエリア一帯の高級店が、一斉に被害に合うなんてありえませんからね」  思わぬ話にダグボルトは一瞬戸惑う。 「その話、俺以外の隊員にはしたのか?」 「ええ、何回もね。でもまともに耳を傾けて貰えませんでした。そんな窃盗団なんて、ただの妄想だってね」 「…………」  ダグボルトは何と答えたらいいのか分からず黙り込んでしまう。 (このオーナーの話だけじゃ、窃盗団が実在するかは断定できないけど、何もしないで放っておくのはまずい気がする。機会があったらワレンツ総長に相談してみた方がいいかもしれないな……) 「……分かった。その話は少し気になるから、時間がある時に上に報告しておくよ」 「本当ですか? そうして貰えると助かりますよ」  オーナーが全ての仕事を終えて避難したのを見計らい、ダグボルトは防衛担当区域である南エリアの城壁に向かう。  警戒警報が発令されたため、隣のエリアに行くための内壁の門は全て閉鎖されていた。  大聖堂に戻って搬出路を通らねばならないが、その前に鎧を身に着けてきたため、大分時間を食ってしまった。 「遅いぞ、ダグボルト!」  ようやく南城壁の上に辿り着くと、エリア部隊長のハイデマンにどやされる。  禿頭のハイデマンはダグボルトと同じくらいの巨漢で、背中には巨大なバトルアクス(戦斧)を背負っている。  そこにはすでにダグボルト以外の地区担当の隊員が集まっていた。 「済みません。東エリアの住民の避難確認に時間を取られました」 「担当エリア外の防衛活動は、よほどの事が無い限り、そこの担当に任せておけばいい。次からは気をつけろ」 「はっ! 了解しました!」  ダグボルトは踵を揃えて敬礼する。 「まあまあ、隊長。そんなに大げさに構える必要、無いんじゃないですか? ここから様子を見る限り、あいつらは今日はもう襲ってこないと思いますよ」  近くにいたサラードが宥めるように言った。  しかしハイデマンは渋い顔をする。 「その思い込みが危険なのだ。名無き氏族の行動パターンがいつ変わるか、誰にも分からないのだからな。だから敵襲が無くとも、奴らに動きがあった時には常に鐘を鳴らしているのだ」  鼻息を荒くするハイデマンを見て、サラードはすごすごと引き下がる。 「あのう、敵襲が無いってなぜ分かるんですか?」  恐る恐る尋ねると、ハイデマンは自分の遠眼鏡(望遠鏡)を渡した。 「こいつで深緑の辺獄の方を見てみろ」  遠眼鏡のレンズに映るのは、千ギット(メートル)程離れた荒野の彼方。  月明かりに照らされた広大な森林地帯のシルエット。  そこには無数の松明の明かりがちらついている。  二千、いや五千はあろうか。  あまりの多さに、ダグボルトの背筋にぞわぞわと冷たい物が走る。 「あれが名無き氏族……」 「うむ。しかし奴らは、夜襲を仕掛けてくる時は絶対に明かりなど点けん。少なくとも今まではそうだ。おそらくあれは、いつでも我々を攻め滅ぼせるとアピールしているのだろう。いかにも下等な野蛮人が考えそうなくだらん威嚇行動だ」 「ええ。あいつらの目的がその通りだとしたら、確かにくだらないですね」  それだけ言うとダグボルトは遠眼鏡を返した。  ダグボルトが落ち着かなさ気なのを見て、ハイデマンは軽く肩を叩いた。 「いいか、ダグボルト。奴らを警戒する事はあっても恐れてはならん。恐れは思考を萎縮させるからな。もちろんお前の優れた実績からすれば、俺の忠告など大きなお世話だと思うかもしれん。しかし名無き氏族は、お前が今まで戦ってきたどんな相手とも違う異質な存在だ。奴らを決して人間などとは思うな。あれは地獄から這い出してきた、悍ましいけだものだ」  ハイデマンは嫌悪も露わな口調でそう言うと、城壁の下に向けてペッと唾を吐いた。  きらきらと光る体液が、吸い込まれるように闇の中に消えていく。 「お前はサラードと共に、ここで名無き氏族の動きを監視しろ。何かおかしな動きがあったらすぐ俺に知らせろ。後で交代要員を寄越すから、それまではしっかり見張れよ。いいな?」 「はっ!」  ダグボルトは再度敬礼する。  ハイデマンは満足げに頷くと、外壁の内側にある長い階段を降りて行った。    **********  レウム・ア・ルヴァーナに来てから半年が過ぎる頃には、ダグボルトも聖地防衛隊の任務に大分慣れ、仕事や訓練の後に、疲労で動けなくなる事はほとんど無くなった。  幸いな事に名無き氏族の襲撃はまだ一度も無く、忙しい合間を縫ってリンジーと遊びに出掛ける余裕も出てきた。  セオドラからは相変わらず月に一度か二度、長い手紙が届く。  初めはあまりのボリュームに圧倒されてしまったが、段々と待ち遠しくなるようになっていた。  そんなある日の休日、ダグボルトは何時ものようにリンジーと一緒に市内を回り、昼食を食べに小料理店に入った。  注文を終えて食事を待つ間、リンジーはポケットに入れていた小さな小袋を開けて、中身を取り出してダグボルトに見せる。 「見て見て、これ! すっごくかわいいよねえ」  それは仔竜を模った二つのペンダントだった。  一つは白竜で、もう一つは黒竜。  市内を見て回る途中で、立ち寄ったアクセサリの屋台でリンジーが買ったものだ。  世界に一つしかない、店主の手作りの一品らしい。  首から下げる部分は、鎖でなく革紐と安っぽいが、金属を削って造られた手彫りの仔竜は、意外と精巧に作られている。  リンジーは白の仔竜のペンダントを自分の首に掛けた。 「はい。こっちはあなたがつけて」  手渡された黒の仔竜のペンダントを、ダグボルトも同じように首に掛ける。 「これでお揃いね」  そう言うとリンジーは白の仔竜を近づけた。  すると黒の仔竜がスッと動いて、白の仔竜にぴったりとくっついた。 「これって中に磁石が入ってるの?」 「正解。正確には白い方に磁石が入ってて、黒い方には鉄が入ってるらしいわ。でもこの子達って、私達に似てない? 離れ離れになっても、こうして自然と引き寄せ合う……」  リンジーは感慨深げに呟いた。  するとダグボルトは、突然ニヤニヤと笑い出す。 「そういえばこの間、セオドラからまた手紙が届いてね。今の君の言葉を聞いて、手紙に面白い事が書かれてたのを思い出したよ」 「ふーん。セオドラ様からの手紙なら、私にも時々届くけど、大体は近況報告みたいな内容よ。あなたのにはなんて書いてあったの?」 「君と仲直り出来た、ってセオドラへの手紙に書いたんだ。そうしたら、仲直りのアドバイスを教えた私に感謝しなさい、なんて返事が届いてね。だけどあいつのアドバイスって、『謝罪の気持ちを四行詩にして、君の前で愛を込めて詠め』なんて酷いもんばっかだったんだぜ。『愛を込めて』ってプロポーズじゃあるまいし、そこは『心を込めて』だろって――」  突然、リンジーが立ち上がった。  声を掛ける間もなく、無言で店の外に出て行ってしまう。  慌ててダグボルトも後を追う。  リンジーは人通りの少ない裏通りにいた。  壁に寄りかかってぼんやりしている。 「急に出て行くなんてどうしたんだよ。さっきの話が気に障った?」 「ううん。そういう訳じゃないの。ただ、いきなりプロポーズなんて言葉が出てきたから驚いちゃって」  だからって別に逃げなくてもいいだろ、とダグボルトは言いかけたが止めた。  よく分からないが、女心とはそういうものなのだろう。 「――そういえば、さっさのセオドラの手紙には 『自分や教会に恩義を感じるのはいいけど、それに捉われて生きる必要は無い』って事も書いてあったな。自分の人生は自分だけのもの。生きたいように生きればいい。今の俺なら教会を離れても、まっとうな生き方が出来るはずだって。そう考えると『愛を込めて』って書いたのは、セオドラの間違いじゃなくて、君にプロポーズしろって意味だったのかなあ……」  二人の間に気まずい空気が流れる。  慌ててダグボルトはその空気を打ち消そうとする。 「そ、そんな訳ないか! そもそも君とはまだ……キスすらしてないし」  すると急にリンジーがお腹を押さえてしゃがみ込んだ。 「どうした? 腹が痛い?」  心配するようにかがみこんで、様子を見ようとするダグボルト。  すると大きな唇に、小さく柔らかな唇が押し当てられる。 「なッ――」 「これでキスは済ませたわよ」 「えええええ……」 「ちょっと! なんでドン引きしてるのよ!」  ムッとするリンジー。その顔は鬼灯のように真っ赤である。  ダグボルトは何と答えたらいいか分からず、咳払いをして話題を変える。 「――と、とにかく一度店に戻ろう。このままだと、食い逃げだと思われかねないからな」 「え? 食い逃げって、まだ何も食べてないわよ」 「じゃあ食わず逃げだ」  二人は同時に笑い合う。  少しして笑いが収まった瞬間、今度はダグボルトがリンジーの唇にキスをした。  先程より長く。 「もう!」 「さっきのお返しだよ。じゃあ戻ろう」  そう言うとリンジーの手を取って店に戻った。  和やかな会話と穏やかなひと時。  この時は二人共、幸せな時間が永遠に続くと思っていた……。    **********  翌日の午前中、南城壁の上で数名の隊員と共に監視活動をしていると、私服姿のサラードが声を掛けてきた。 「よお、ダグ。元気してるか?」 「サラード、今日は非番じゃなかったか?」  いつの間にかダグボルトは、サラードに対して馴れ馴れしい口調で話すようになっていた。  サラードも先輩として接されるより、友人として接して貰う方がいいようであった。 「ああ、そうだよ。本当は洗濯物を干した後で、外に遊びに行こうと思ってたんだ。それなのにオッソリオが俺の所に来て、総長がお前に会いたがってるから呼んで来い、って命令しやがったんだ。全くいい迷惑だぜ」 「総長閣下が? だけどまだ見張りが……」 「お前が戻って来るまで俺が見張っててやるよ。その代り、後で飯でも奢れよ。ハイデマンにも話はつけてあるから、早く行けって」  そう言ってダグボルトの背中を押した。  仕方なくダグボルトは執務室に向かった。入口の守衛に事情を伝え、中に通して貰う。 「失礼します」  ダグボルトが部屋に入ると、いつもの椅子に腰掛けるワレンツと、その隣に立つオッソリオ。  そして来客用のソファーにはアレンゾが腰掛けていた。  アレンゾの少し長めの髪は濃いグレー、それとは対照的に瞳は明るいブラウン。整っていて顎の引き締まった力強い顔立ち。  礼拝堂では遠くから眺めただけだったが、こうして直接対面してみると、一分の隙もないような美形だと分かる。  これで性格もいいのだとしたら、女性信者の人気が多いのも頷ける。 「君がダグボルト君だね。シスター・リンジーから話は聞いている」  アレンゾはいきなり立ち上がると、ダグボルトを凍てつくような冷たい眼差しで見つめた。  初対面だというのに、穏便に接するような様子はまるで無い。  ワレンツとオッソリオの表情を見ても、よくない状況だというのが分かる。 「君とシスター・リンジーは、以前は共にアンフレーベンの街で働いてたそうだね。それゆえ君達が親密なのも当然の話だ。しかしそれにも限度と言うものがある」  アレンゾの言葉を聞いて、ダグボルトの顔がさっと青ざめる。 「少なくとも公衆の面前で、聖職者同志が接吻を交わすのは、その限度を踏み越えているとはっきり断言出来る。そういう下劣な立ち振る舞いは、教会の品位を激しく貶めるのだよ、ダグボルト君」  アレンゾは険しい顔をしている。 「こ、公衆の面前って訳では……。あれは人気の無い裏通りで……」 「では接吻の事実自体は認めるのだね?」 「……はい」  俯いたままのダグボルトは、大柄な身体から発せられたとは思えないような小声で答える。 「もうその辺にしておいてくれんか、アレンゾ。君の気持ちも分かるが、若い男女が時として親密な間柄になるのは、別に珍しい事じゃないだろう。たとえそれが聖職者であっても、だ」  黙って二人の話を聞いていたワレンツだったが、とうとう我慢できずに助け舟を出した。  しかしアレンゾは一歩も譲らない。 「ですがここは聖地です。特に最近は聖職者の不祥事が多く、市民の我々を見る目が厳しくなっているというのもあります。聖地を穢すような真似は止めるよう、あなたからもきつく言っておいて下さい」 「分かった、分かった。儂からよく言って聞かせよう」  ワレンツは何とか宥めようとするが、アレンゾに話を終わらせる気配は無い。 「何よりも私はシスター・リンジーの身を案じているのです。彼女は繊細で傷つきやすい年頃です。ダグボルト君のような人生経験豊富な人間からすれば、シスター・リンジーとの交際はちょっとした火遊びのつもりなのかもしれません。ですがそういう浅薄な行動は、結果として彼女を深く傷つける事になるのですよ」 「なッ!?」  挑発的な発言にダグボルトは思わず気色ばむ。  ワレンツはまあまあと宥め、ダグボルトに代わってアレンゾを睨み付けた。 「ダグボルトは決して火遊びを楽しむような軽薄な男ではないぞ。それは儂が保障しよう。それにお前さんも、その男の実績を知っているならよく分かると思うがな」 「……済みません。確かに先程の発言は、いささか思慮に欠けておりました」  アレンゾは謝辞を示し深々と一礼した。 「うむ。儂も別にお前さんを責めるつもりなどない。シスター・リンジーの身を案ずるがゆえの失言だろうからな」 「はい、その通りです。それからワレンツ殿ご自身のためでもあります。今現在、市内には審問騎士達がうろついています。彼らが何を企んでここにやって来たのかは不明ですが、あなたの失脚を望んでいるのは間違いありません。ですから今は、軽率な行動を控えていただくようお願いします」 「うむ、良く分かった。教皇一派に失脚を狙われているのはお前さんも同じだ。お互いに気をつけんとな」 「ええ。もちろん私も、行動には細心の注意を払うようにいたします。それではこれで失礼します」  アレンゾは再度一礼して部屋を去った。  ダグボルトはすぐにワレンツに頭を下げる。 「申し訳ありません、総長閣下」 「あまり気にせんでいい。大司教連中にどやされるのも儂の仕事のひとつだからな。いちいち真剣に取り合っていては身がもたん。ところでお前、まさか聖地警備隊の制服のままでデートしていたのではあるまいな?」 「い、いえ、そんな事はありません! 俺とリンジーはずっと私服で行動していました。それなのに俺達が聖職者だと気付いた人がいたなんて、正直想定外でした」 「そうか。だとしたら、たまたまキスの現場を目撃した人間の中に、お前さん達を知っていた者がいたのかも知れんな。……ところでひとつ聞くが、その娘とは本気なんだろうな?」 「は、はい。それは間違いありません! 少なくとも火遊びなんかじゃないです!」  ダグボルトは即座に力強く答える。  その返事に満足したのかワレンツは相好を崩した。 「よろしい。ならばこの話はここまでにしておこう。シスターと付き合った事のある隊員など、別にお前さんが初めてではないからな。かくいう儂も昔は……」 「閣下!」  オッソリオに怖い顔で睨まれて、ワレンツは口を閉じた。  ダグボルトも、二人のやりとりにほんの少し顔をほころばせる。  それを見てワレンツもニヤリと笑った。 「しかしアレンゾも、たかがキスぐらいであんなに騒ぎ立てなくてもいいだろうに。そうは思わんか、オッソリオ?」 「彼は『清廉派』の人間ですから、ほんの少しの風紀の乱れにも敏感なのでしょう」  オッソリオの言葉を聞いてダグボルトは眉を顰める。 「『清廉派』……。それってもしかして『血みどろダンリーの反乱』の……」 「うむ。お前さんが考えている通り、『血みどろダンリーの反乱』でダンリー公の陣営に加わっていた連中だ。……とはいえアレンゾはあの反乱には与していなかったようだがな」  ワレンツは先程とは打って変わって重々しい口調で答える。 「あの反乱によって『清廉派』は教会に大きな損害を与えてしまった。おかげで派閥はほぼ壊滅状態とも言っていい。だからアレンゾを含め、派閥の生き残りは『清廉派』の立て直しに奔走しておる所だ。『世俗派』の伸張を防ぐためにも、奴らには頑張ってもらわねばならん。結局の所、クレメンダールなど『世俗派』の隠れ蓑に過ぎんのだからな」  ダグボルトは話の流れに乗じて、思い切って今まで聞けなかった事を質問してみる事にした。 「あのう……。セオドラとの協力関係に関しては、あれからどうなってるんですか? セオドラからの手紙には、その件については何も書いてなくて――」  近くにオッソリオがいた事を思い出して、ダグボルトは急に口をつぐむ。  だがワレンツは、気にするなと言わんばかりに笑い出した。 「ハハハ、この男については何も心配いらんよ。儂と共に、かつてはイスラファーンの近衛騎士を務めていた忠実な側近で、反教皇派の一員でもある。この件についても動きづらい立場の儂に代わって、色々と働いて貰っているのだ」  オッソリオはその言葉に同意するように黙って頷いた。 「さて、と。お前さんもこの件には色々と関わっているし、少し説明しておかねばならんな。急進的かつ独善的な振る舞いで、色々と問題を起こしているのは教皇のヴィクター・クレメンダールだが、本来ならその行為を止めねばならん枢機卿達までもが奴を煽っている状況だ。なぜなら枢機卿団の席を独占しているのは、クレメンダールの後ろ盾となっている『世俗派』共だからだ。そして諸悪の根源とも言えるのが、枢機卿団の総帥にしてイスラファーン王国の南部貴族連合を束ねる、ダーレン伯バーティス・ブラックタワーなのだ。バーティスは半年前に亡くなられたイスラファーン王の二人の息子のうち、弟君にあたるエミル王子を唆して、兄の王位継承に異を唱えさせて内乱を起こした張本人でもある。つまり奴は今現在、右手で聖天教会、左手でイスラファーン王国に陰謀の糸を張り巡らせておるのだ。まさに陰謀の首魁と呼ぶにふさわしい邪悪な男と言えるだろう。あのような危険人物に対抗するには、こちらは慎重に同志を増やしていくしかない。表立って『世俗派』に反抗出来なくても、密かに教会の腐敗を正したいと考えている、アレンゾのような誠実な者達をな」 「アレンゾ大司教が同志に?」  自分はずっと蚊帳の外に置かれていたのだと、ダグボルトはようやく気付いた。  知らない所で、教皇や『世俗派』打倒の工作は着々と進んでいたのだ。 「セオドラ殿がお前さんに何も伝えとらんのは、教皇庁内部の政争ともなれば一介の聖堂騎士の手には余るからだ。しかも相手がバーティスのような危険極まりない陰謀家となればなおさらだ。後の事は儂やセオドラ殿に任せておいて、お前さんは今まで通り、聖地防衛隊の任務に精を出せばいい。分かったな?」 「……はい」  ダグボルトは不満を感じながらも、あえて口には出さず一礼して部屋を出た。    **********  それから一月程、リンジーとは別々の日々が続いた。  しばらくは会わない方がいいだろう、と二人で話し合っての事だった。  しかし訓練や業務にもどこか身が入らない。  ここまで腑抜けてしまったのか、と自分に呆れてしまう。  セオドラからの手紙に目を通すのも億劫になり、封も切らぬまま書物机の上に放置してある。  愛は人を強くする、と言うが同時に弱くもするのだろう。  休日になってもする事の無いダグボルトは、大聖堂のテラスでぼんやりと空を眺めていた。  今にも雨が降り出しそうな曇天が、自分の心を代弁しているように見えた。 「心ここに非ずって感じですね」  突然、背後から声を掛けられてダグボルトは、ギクリとして振り返る。  そこにいたのは眼鏡を掛けた若いシスターだった。  リンジーのルームメイトであり友人のシスター・ラーナだ。  リンジーと会う際に度々仲介を頼んでいたので、ダグボルトとは顔馴染みだった。 「これ、リンジーから預かってきましたよ」  ラーナはダグボルトに手紙を渡すとすぐに離れて行った。  心臓を高鳴らせながら自室に戻ったダグボルトは、書物机の上のセオドラからの手紙を端に追いやった。封を切って震える手で手紙を取り出す。  そこには僅か一行、こう書かれていた。  今日の夜、後天七の刻(十九時)に東エリアの丘の上の公園で会いたい、と――。  そこはダグボルトとリンジーが、デートの際に待ち合わせに使っていた場所であった。  もどかしい気持ちを堪えながら、ダグボルトは日が落ちるのを辛抱強く待つ。  夕食を終えたダグボルトはすぐに公園に向かった。  昼間は親子で賑わう公園も、夜は人気が無い。  公園奥の樫の木のベンチに腰かけて、じっとリンジーを待った。  約束の時間の少し前に、彼女は現れた。 「リンジー!」  リンジーを抱きしめるなり、力強く口づけを交わした。 「ちょ、ちょっと! 落ち着きなさいよ、ダグ!」  リンジーは強引に身体を振りほどいた。 「もう! どこで誰が見てるか分かんないんだから、もっと慎重に行動しないと駄目だってば!」  そう言ってリンジーは周囲の様子を窺う。  そして辺りに誰もいないのを確認すると、今度は自分からダグボルトにキスをした。  しばらくして唇を離すと、二人は手を繋いで一緒にベンチに腰掛ける。 「ずっと会いたかったわ、ダグ……」 「俺もだ、リンジー。君のいない休日は、まるで砂を噛んでるみたいに味気ない時間だったよ」  その台詞を聞いて、リンジーは口元にからかうような笑みを浮かべる。 「前はデリカシーの欠片も無い朴念仁だったのに、今じゃずいぶん詩的な台詞が言えるようになったのね」 「そうかな? ロマンチストの君とずっと一緒にいたおかげかもな」 「あら、おまけにお世辞まで上手になったみたい」  そして二人は笑い合う。  笑いが静まると、しばらく二人は無言で視線を交わし合う。  近況など色々と話したい事があったのだが、こうして出会ってしまうと、全てがどうでもいい事のように思えてしまう。  二人が一緒にいるこの時間こそが、今は何よりも貴重だった。 「これ、つけてきた?」  リンジーが唐突に言った。  そして首から下げていた白竜のペンダントを、上着の下から取り出す。  二人がデートする時は、必ずつけてくる習わしになっていたのだ。 「もちろん、つけてるよ」  同じように黒竜のペンダントを取り出したのを見て、リンジーはホッとした顔をする。  ダグボルトが二つの仔竜をくっつけると、チリンという心地よい金属音が鳴る。 「覚えててくれてよかったわ。この子達も久しぶりに会えて喜んでるみたい。やっぱり私達にそっくりよね」 「だけどこいつらと俺達には大きな違いがあるぞ。こいつらには翼があるけど俺達には無い。もしも翼があったら、君と一緒にどこか遠くに飛んで行けたんだけど」 「フフッ、ずいぶんと大げさね。別に一生会えない訳じゃなかったのに。それに恋は障害が多い程、燃えるって言うわよ」 「その余裕がうらやましいよ。俺なんか、君を聖地から連れ出して、どこか遠くに逃げようかとでも考えてたぐらいだから」  するとリンジーは急に遠くを見る目つきになった。 「駆け落ちかあ……。昔はそういうロマンチックな恋愛に憧れてたりもしてたんだけどね。……そういえば私に婚約者がいたって話、もうしたっけ?」 「いいや、初耳だよ。婚約者がいたって事は立派な家柄の娘だったの? そんなの全然知らなかったよ」  リンジーがアドラント王国出身だという事は教えて貰っていたが、どんな家に生まれ、なぜシスターになったのか、まではまだ聞いた事がなかった。 「うーん。今は立派って程でもないけど、昔はそこそこいい家柄だったみたいよ。でも祖父が事業に失敗して、借金のかたに領地を半分くらい手放しちゃったせいで、私が生まれた頃には大分落ちぶれてたけどね。それでも一応は婚約者がいたの。うちよりいい家柄の二十くらいの跡取り息子が」  リンジーは一瞬、当時を懐かしむような顔をする。 「……その人の事は別に嫌いじゃなかったわ。でも決められた相手と結婚するってのが、何となく嫌でね。それで十三になった時、両親にきっぱり言ってやったの。あの人とは絶対に結婚しません、って」  さばさばとした口調で話すリンジー。  そこに後悔の響きは全くなかった。 「何となく、で婚約解消しようとしたのか。それ両親に分かって貰えたのか?」 「ううん、全然。仕方ないから舞踏会の席で、その人の顔にワインをぶっかけて、『あなたと結婚する気なんて全然ないし、顔も見たくない』って言ってやったの。そうしたら色んな人達からものすごく怒られて、最後は両親にまで『こいつは頭がおかしい』って言われて勘当されちゃった」  そう言ってリンジーは悪戯っぽく舌を出した。  あまりにも破天荒なリンジーの生きざまに、ダグボルトは唖然とした。 「でもおかげですっきりしたわ。これでやっと自分の人生が歩めるって思ったもん。とは言っても、年端もいかない女が一人で生きていくのは難しいから、聖天教会に入信してシスターになったの。とりあえず成人するまではシスターとして生活して、残りの人生をどう生きるかは後で考えようって思って」  ダグボルトは何と言ったらいいか分からず言葉に詰まってしまう。  彼の場合、初めから恵まれた境遇ではなかったので、そこそこ恵まれた立場にいながら、それを全部捨ててしまうような生き方は、余りにも想像を絶していた。 「何ていうか……凄いな……。いや君だけじゃなくて、セオドラを含めて全ての女性が凄いんじゃないかって気がしてきた。少なくとも精神的な強さでは、俺なんかまだまだ遠く及ばないような気がする。だってそんな無謀な生き方、とても俺には出来ないから」 「あら? それは子供を助けるために、燃え盛る建物に乗り込んだ命知らずな人が言う台詞じゃないわよ」 「うっ! 確かにそう言われると耳が痛いな……」  ダグボルトが困った顔をするのを見て、リンジーは微笑んだ。 「でしょう? そう言う意味では私達って似た者同士ね」 「何か釈然としないけど、まあそういう部分もあるかも知れないな」  ダグボルトは渋々認める。 「……ところでさっきの話だけど、私と駆け落ちってしようって本気で思ってたの? ただの冗談とか、言葉のあやじゃなくて?」 「もちろん本気だ。それは保障するよ」 「じゃあ今もその気持ちは残ってる?」 「それは……」  ダグボルトは言葉を濁らせた。  確かにリンジーと再会するまではそういう気持ちだったが、今は大分冷静さを取り戻している。  今もそうかと言われると非常に難しい所だ。 「さっきも言った通り、私がシスターになったのは、信仰心のためっていうより生活のためなの。でも今は普通に働いて生きていける年になったし、そろそろ教会を離れようかって考えてるの。実は私、その日のために前々から給金の一部を貯金してきたの。それで二年くらいは何もしないで生きていける額が貯まったわ。それでもし……。もし良かったら、あなたも聖堂騎士を辞めて、私と一緒に暮らさない? あなたが側にいてくれれば、とっても心強いから……。だから……」  リンジーの瞳がまっすぐにダグボルトをみつめる。  神々しさすら感じる程の、曇りの無い純粋なホーリーグリーンの輝きが決断を促す。 (何てこった……。セオドラと出会った時と同じぐらい……いや、へたをするとそれ以上の人生の選択を迫られてる……。今の地位を全て捨てて、リンジーと暮らすか。あるいは……。どうする……?)  ダグボルトの心臓が早鐘のように脈打つ。  かつて炎の中に飛び込んだ時以上の緊張を味わっていた。  リンジーは祈るような顔で返事を待っている。  ダグボルトの頭の中に、今までの人生で出会った人々の顔が浮かび上がる。  神学校の同級生達、ウォーデン先生、聖堂騎士団の同期達、デニンズ司祭、ワレンツ総長……。  そして最後に浮かんだのは、やはりセオドラの顔――同時にそれが答えでもあった。 (そうか。そうだったな。セオドラが手紙に書いてた通り、俺の人生は俺だけのものだ。だったら今望む事を言葉にすればいい。初めから難しく考える必要は無かったんだ)  ついにダグボルトは決断した。  人生最大の決断を。 「俺は――」 ――ガラン、ガラン。  まさに狙い澄ましたようなタイミングで大聖堂の鐘が鳴った。 (よりによって、こんな大事な時に!!)  ダグボルトは己の不運を呪う。  もっと悪い事に、鐘は二回連続で鳴っただけでは収まらなかった。  何度も何度も、執拗に繰り返し鳴らされている。  それが意味するところは一つ。 ――名無き氏族が城壁を破って市内に侵入せり。市民は直ちに避難せよ。  ダグボルトの顔が険しくなる。  もはや一刻の猶予もならない。  南城壁の方から狼煙が上がっていた。  すでに南エリアでは、激しい戦闘が繰り広げられているに違いない。  リンジーの両肩を強く掴んでこう言った。 「話の続きは俺が戻ってからだ。避難用地下壕の場所は分かるよな」 「待って!! お願いだから、さっきの返事だけでも――」  しかしリンジーの言葉は届かない。  ダグボルトはすでに走りだしていた。  任務を全うしなければならないという強い責任感が、心の中から一時的に愛を締め出していたのだ。
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