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7
大聖堂内部は、いつになく慌ただしい雰囲気に包まれていた。
礼拝堂はすでに避難民で埋めつくされ、興奮する人々に司祭達が状況を説明している。
シスター達は、恐怖で泣きだした子供の面倒をみていた。
ダグボルトは彼らの間をかき分けて地下本部に向かう。
そこでは完全武装した本部詰めの隊員達が、廊下を慌ただしく走り回っている。
彼らはピリピリと殺気立っていて、あちこちで怒号が渦巻いている。
(今頃、南エリアではみんなが戦ってるはずだ。すぐに俺も武装して向かわないと)
しかし自室に戻る途中で、本部の隊員に声を掛けられる。
「やっと見つけた! ダグ、すぐに作戦室に向かってくれ。総長がお前に会いたいらしい」
「俺に?」
ダグボルトの脳裏に、前回ワレンツに呼び出された時の苦い思い出が蘇る。
しかし今は非常事態だ。
すぐに頭を切り替えて作戦室に向かう。
ノックして作戦室に入ると、そこは剥き出しの石壁の寒々しい部屋であった。
中央の円卓に描かれたレウム・ア・ルヴァーナの精緻な地図の上には、部隊配置を表す象牙の駒が幾つも置かれている。
円卓の周りの椅子にはワレンツ総長とオッソリオ副長、そして情報参謀と作戦参謀が二名ずつ、その他に北エリア部隊の副隊長リーアンヌが座っていた。
部屋に入って来たダグボルトにワレンツが声を掛ける。
「よく来た、ダグボルト。とりあえず空いてる席に座れ」
「いえ、俺は立ったままで構いません」
「逸る気持ちは分かるが、とにかく落ち着いてまずは座るんだ」
ダグボルトは渋々、空いていた末席に腰を下ろす。
それを合図とするかのように作戦参謀の一人が立ち上がった。
「敵に外壁を破られた場合、本来であれば担当エリアの部隊は、隣接エリアの内壁上部に弓兵が配置されるまでの間だけ戦います。そして内壁から配置完了の銅鑼の合図があったら、すぐに後退して敵を弓の射程範囲内までおびき寄せる手筈になっています。これに関しては何度も訓練や図上演習で経験していると思うので、わざわざ説明する必要は無いかも知れませんが」
「しかし今回はそれがうまくいってないのだな」
ワレンツが確認するように言った。
「はい。今回の名無き氏族は、どこからかトンネルを掘って一気にレウム・ア・ルヴァーナの内部に侵入してきました。おかげで外壁を防衛していた南エリア部隊は裏を取られた形となり、完全に不意を突かれました。現在、部隊長のハイデマンと多くの隊員が、敵の真っただ中で孤立していて連絡が取れない状態です。副隊長と一部の隊員は、市内を巡回していて難を逃れたらしいのですが、独断でハイデマン達を救出に向かい、全員戦死しました」
「じゃあ今は、誰が南エリア部隊の指揮を執っているんだ?」
オッソリオが尋ねると作戦参謀は渋い顔をする。
「誰も執っていません。正確には執れないというべきですが。今は各隊員が独自の判断で戦っている混戦状態です。そのため、このままでは内壁上部からの十字砲火は不可能です。たとえ隊員達がバラバラに後退出来たとしても、そこに射撃を加えれば味方を巻き添えにしてしまうでしょうから」
それだけ説明すると、彼は腰を下ろす。
同時に、今度はもう一人の作戦参謀が立ち上がった。
「……ですので、弓を準備していた東と西のエリア部隊を内壁から下ろして、大聖堂前の広場に展開している本隊に合流させました。これでひとまず大聖堂への侵攻は食い止められます。ハイデマンと連絡が取れ次第、南エリアの残存部隊と連携を取って反攻を――」
「それでは遅いッ!!」
ワレンツは声を荒げ、ブーツの中から取り出した短刀を、円卓にドンと突き立てた。
その衝撃で円卓の上の象牙の駒が幾つか倒れる。
「問題はここ、奴らのトンネルの入口だ! ここを早く塞がねば、蟻のようにどんどんと敵が市内に侵入してきて収拾がつかなくなるぞ。名無き氏族は大人数での作戦行動は苦手だが、個人の戦闘能力は決して侮れん。このまま混戦状態が続けば、我々が数で押し負けるのは必然だ!」
ワレンツは短刀の刺さった位置を指差して言った。
そこは地図上の南エリア外壁近くであった。
「この状況を打開するには、こちらが逆に敵の後背を突いて、トンネル入口付近を制圧するしかない。情報によるとトンネルの入口は、南西エリア内壁の兵士専用搬出路の大型出口のすぐ近くにある。そこでお前さんの出番だ、ダグボルトよ。お前さんは南エリアの担当で地理には詳しいはずだ。だから制圧部隊を先導して欲しいのだ」
「了解しました!」
ダグボルトはすぐに立ち上がった。
今はこうして話している時間すら惜しい気分だったのだ。
しかし情報参謀の一人が慌ててワレンツを止める。
「お待ちください、閣下! 実は間の悪い事に、敵のトンネルの入口が開いた時の土砂で、南西エリアの搬出路出口は塞がってしまったのです」
「何と……。ではトンネルの入口まで少し距離はあるが、南東エリアの方は?」
すると情報参謀の声が急に小さくなる。
「……そちらは新しい搬出路大型出口を、二百ギット先に移す工事の最中でしたが、工事監督によると現在使っている方の出口を先に塞いでしまったとの事です」
それを聞いてワレンツの顔が、驚きと怒りで赤黒く染まる。
「はァ!? そいつは莫迦なのか!? なぜ新しい出口が完成する前に古い方を塞ぐのだ!? 全くもって理解不能だぞ!!」
「その方が工事の日程が少なくて済むからのようです。工事監督はその分、浮いた予算を着服するつもりだったようです」
「成程。そいつは己の利益のために、全市民を危険に晒すような愚かな真似をした訳だ。後で厳正な処罰を与えねばなるまい」
ワレンツは苦々しげに言った。
「だが今は別の作戦を考えるのが先だな。複数設置されている物資用の小型搬出路なら使えるだろうが、大軍を送り込むには狭すぎて各個撃破を招くだけだ。無論、内壁の通用門も同じだ。そうなると犠牲は大きくなるが、先程の参謀の意見を採用して大聖堂の正面側から攻めるしか――」
「いえ、敵の後背を突くのなら、そもそも内壁の搬出路を使う必要は無いと思います」
今まで黙っていたダグボルトがいきなり口を開いた。
だが全員の視線が自分に集中しているのに気づいて、ダグボルトはまごついた。
ワレンツは彼を落ち着かせるように、穏やかな口調で尋ねる。
「何かいい案があるのだな。それでは聞こうか?」
「は、はい! 軍勢を北門か西門から外に出して、レウム・ア・ルヴァーナの外周をぐるっと回って、南門から中に入らせればいいんです。その前に敵の目を大聖堂側に引きつけておければ、背後からの奇襲攻撃が可能になります」
ダグボルトの話が終わると全員黙り込む。皆、その考えを吟味しているのだ。
少ししてオッソリオが手を挙げた。
「しかしそれには大きな問題があるな。現在、南門は堅く閉ざされた状態だ。我々は守備が専門だから、城門を破るための破城鎚などは持っていない。それでどうやって中に入る?」
「南門の近くには、門の開閉装置が設置された機械操作小屋があります。誰かがそこに潜入して、南門を開けるというのはどうでしょう?」
ダグボルトは即座に答える。
今度は黙って口髭を撫でていたワレンツが口を開く。
「その誰か、というのがお前さんと言う訳だな、ダグボルト。しかしそこは敵の渦中だぞ。それを理解した上での志願だろうな?」
「はい。敵に気付かれないように潜入するには、南エリアの地理に詳しくなければなりません。そうなると担当の隊員が潜入するのが一番だと思います」
「分かった。ではそれで決まりだ」
ワレンツは即答した。周りの人間もそれに従うように頷く。
「ダグボルトよ。作戦を考えた以上、潜入班の隊長はお前に務めて貰うぞ。それでどのくらい部下をつければいい?」
「それなんですけど、南エリア部隊の隊員で、俺と同じように休暇で南エリアを離れていた奴はいませんか?」
「今日休暇だったものは二十人程いるようだが、条件に適合して、なおかつ今現在本部に残してあるのは四人ぐらいしかいないぞ。他は伝令として使ったり、別のエリア部隊に合流させているからな」
「ではその四人を全員下さい。隠密任務ですから、人数としてはそれだけいれば十分です」
「宜しい。他にも必要なものがあればすぐに用意しよう」
そしてワレンツは、今度はオッソリオに指示を出す。
「市外からの攻撃には西エリア部隊を充てる。西門を出たら、外壁の上の敵部隊に見つからないように出来るだけ遠くを迂回し、城門が開くまでは荒れ地に潜んでいろと伝えておいてくれ。それと万一、ダグボルトが失敗した場合でも城内に踏み込めるよう、大型の梯子を幾つか渡しておくのだ。トンネルの入口を爆破するための火薬樽も、ちゃんと持たせておけよ。詳細な計画については、すぐに作戦参謀に詰めさせて各自に伝えるから、その指示に従って動いてくれ。では全員準備に取り掛かれ」
「はっ!」
一斉に答えると同時に、リーアンヌ以外の隊員は部屋を出て行った。
ワレンツは、リーアンヌの存在をすっかり忘れていた事に気付いて、気まずい顔をする。
「……そういえば、お前達の隊長のヌティエは戻ったか?」
「いえ。まだです、閣下。おそらくどこかの裏路地で酔いつぶれているのだろうと思われます」
「ふーむ、いつも通りだな。とはいえこれほどの非常事態なのだから、さすがに今回ぐらいは常識的な対応を取って貰いたかったのだがなあ……」
「我々、北エリア部隊は、隊長不在の状況に慣れておりますので何も問題ありません。いつもと同じように、大半の隊員で外壁の守りを固め、残りの者を戦闘区域以外の巡回活動に従事させています」
「うむ、毎度の事とはいえ面倒をかけさせて済まんな。本来ならヌティエは解任すべきなのだが、グレイラント公国のラドウィン公王の従弟ゆえにむげには扱えん。まったくもってやっかいな火種を抱え込んだもんだ……」
ワレンツは苦々しげにそう呟いた。
**********
ダグボルトは共に作戦に当たる四人のうち三人、ジャフ、ナグロア、ゲナと簡単な自己紹介を済ませた。全員が南エリアの隊員とはいえ、班が違うためほとんど面識はないからだ。
そして最後の一人は、ダグボルトの良く知るサラードであった。
四人ともダグボルトより年上で、聖地防衛隊で多くの経験を積んでいるベテランだが、潜入班の隊長になる事に異を唱えたりはしなかった。
特にサラードは、自ら部隊の取りまとめ役を買って出てくれた。
隠密活動のため、五人は普段着用している金属製のプレートメイルでは無く、夜間行動用に黒く塗られたレザーメイル(革鎧)を身に着けた。
腰に帯びた武器はそれぞれの使い慣れたものだが、背中にはそれぞれ狙撃用のクロスボウ(石弓)と、医療品や遠眼鏡などの荷物が入った背嚢を担ぐ。
準備を整えるた五人は、すぐに南東エリアを分かつ内壁の搬出路を通り、外壁にいちばん近い物資用の小型出口から市内の地下道に出た。
そこから階段を昇って商業区に出るが、いつもは夜間でも騒々しい目抜き通りは、今は静寂に包まれている。戦闘の音すらないのが不気味だった。
「静か過ぎる……。うちのエリアの連中、みんなやられちまったんじゃ……」
最後尾を警戒するゲナが思わず弱気な言葉を口にする。
しかし皆に睨まれて、すぐに口を閉ざした。
ダグボルトは懐から南エリアの地図を取り出した。
そこには作戦参謀の手によって、機械操作小屋への幾つかのルートが書き込まれている。
しかし具体的にどのルートを採用するかは、隊長であるダグボルトに委ねられている。
ダグボルトは地図から顔を上げるとサラードを呼ぶ。
「まずここから一番近い監視塔まで行こう。そこで敵の配置を観察してから、機械操作小屋までの最良のルートを決定する」
「分かった。じゃあすぐに行動に取り掛かろう」
サラードは直ちに他の隊員を呼び集めた。
「ゲナとジャフは斥候として俺達の先を行け。月明かりのせいで、通りは昼間みたいに明るい。だから名無き氏族の見張りに見つからないように、出来るだけ建物の影を進め。それから弓が得意なナグロアは、狙撃手として高所から俺達の動きをサポートしてくれ」
三人は黙って頷くと、サラードの指示に従ってきびきびと動き出した。
(サラードがいてくれて助かったな。さすがに俺一人じゃ、ここまで手際良く部隊を率いるのは難しかったろうからな)
てきぱきとした的確な指示にダグボルトは感心していた。
普段はいい加減な男だが、緊急時には頼りになるのだと改めて気付かされる。
それから五人は慎重に歩を進め、近くの監視塔までやって来た。
幸いここまではまだ名無き氏族とは接敵していない。
監視塔内部に敵がいないのを確認すると、ゲナとジャフを見張りに残して、ダグボルト達三人は梯子を使って六ギット上にある監視塔の最上階まで登る。
三人は最上階の監視室から、遠眼鏡を使って慎重に周囲を窺う。
南西内壁に面する大通りには、人影が蟻のように蠢いているのが分かる。
しばらくしてサラードが、東外壁を指差してダグボルトに囁く。
「通りにも外壁の上にも、名無き氏族共がわんさかいるぜ。ざっと見て二、三千人ぐらいってとこか。それでもたぶん本隊ではないだろうな。奴らの本隊が到着すれば一万は越えるはずだ。だから一刻も早くトンネルの入口を潰さないとまずいぜ。あいつらの先遣隊は大聖堂方面に動き出してて、そっちじゃすでにうちの守備隊と交戦してるみたいだ。あれに敵の本隊が加わったら、完全に手が付けられなくなるぜ」
ダグボルトは遠眼鏡を覗いたまま無言で頷いた。
初めて見る名無き氏族の姿に、ダグボルトは圧倒されていた。
彼らは全員、奇怪な鬼の仮面を被って目と鼻を隠している。
肌は灰色がかった不健全な色、筋肉質の身体はほとんど裸同然で、粗末な毛皮の腰巻の他にはまともな服や防具は身に着けていない。
どこで精鉄技術を身に着けたのかは不明だが、手にしている武器は鉄の斧や槍などであった。
名無き氏族達は、通りに倒れている死体を引きずって、服を脱がせて裸にしてから外壁の近くに次々と積み上げていた。
聖地防衛隊の隊員と思しき男性の死体だけでなく、逃げ遅れた市民と思われる女子供の死体もあった。見ているだけで吐き気を催すような光景だ。
「……たぶん死体は自分達の集落に持ち帰るつもりなんだろう。あいつらにとって俺達は、敵であると同時に食料でもあるからな。これでハイデマン隊長が、奴らを悍ましいけだものだって言ってた意味が分かったろ? あんな奴らに慈悲なんか与えてやる必要は無い。害獣を駆除するつもりで行動しないとな」
吐き捨てるようにそう言うと、サラードは遠眼鏡を下ろした。
ダグボルトは懐から取り出した地図を広げて、サラードと共に進行ルートの検討に移る。
「あいつらの侵入してきた南西内壁近くのトンネル入口から、外壁までは完全に占拠されてるみたいだな。こうなったら少し遠回りになるが、南東側の地下道を経由して――」
「ちょっと待った! 二人共、あれを見てくれ」
それまで静かだったナグロアが、急にダグボルトの声を遮った。
ダグボルト達は再び遠眼鏡を取り出して、ナグロアが指差す一点を見た。
そこは本来は市民の憩いの場である公衆浴場であった。
しかし今は、名無き氏族の群れに包囲されている。
怪物共は、斧やハンマーで封鎖された入口の扉を破ろうとしていた。
屋上には逃げ遅れた市民が五十人くらいと、聖地防衛隊の隊員が二十人程いた。
隊員達は、石壁を登ろうとしている名無き氏族を必死に突き落とそうとしていた。
指揮を執っているのは、見覚えのある禿頭の大男であった。
「あそこにいるのは間違いなくハイデマン隊長だ! まだ生きてたんだよ! 早く助けに行こう!!」
ナグロアはダグボルトの袖を引っ張りながら言った。
しかしダグボルトは、遠眼鏡と地図を懐にしまいながら重々しげにこう言った。
「いいや、駄目だ。俺達は作戦行動中なんだ。今は自分達に与えられた任務の方を優先しないと」
「じゃあ隊長達を見殺しにする気か!?」
頭に血を昇らせたナグロアは、ダグボルトの襟首を掴んだ。
慌ててサラードが、ナグロアの身体を引き剥がした。
「それなら、せめて俺だけでも助けに行かせてくれ!! ハイデマン隊長は俺の育ての親なんだよ!! 頼む、ダグボルト!!」
ナグロアの目から大粒の涙が流れ落ちる。
ダグボルトは一瞬、情に流されそうになる。
しかしナグロアの後ろにいたサラードが、無言で首を横に振るのを見て、感情を殺してこう答えた。
「……悪いがそれも無理だ。俺達はぎりぎりの人数で行動してる。一人でも抜けたら作戦の成功が危うくなるんだ。今の俺達にはあんたの力が必要なんだよ。だから分かってくれ、ナグロア」
ナグロアは何も言わずに立ち尽くしていたが、いきなり近くにあった木箱を蹴りつけた。
そして無言のまま梯子を降りて行ってしまった。
「つらい仕事だが良くやったな、ダグ。時として、リーダーは冷酷な決断を下さなきゃならない時もある。ナグロアには気の毒だが、これも仕方ない事だぜ」
サラードが慰めるようにダグボルトの肩を叩く。
しかしダグボルトに返答する気力は残されていなかった。
ナグロアと同様、無言のまま梯子を降りる。
五人は、極力地上を避けるルートをとって南下した。
巡回する名無き氏族の小隊にひやりとさせられる場面はあったが、一度も見つかる事無く、南外壁の近くにある機械操作小屋が見える場所までやって来た。
小屋とは言っても、重要な機械が置かれているため、堅牢な石造りの建物となっている。
サラードは遠眼鏡で外壁をしばらく観察した後、近くの建物の二階の窓からクロスボウを構えているナグロアを除いた全員を集める。
「外壁に敵の弓兵が何人かいるが、特にこちらに注意を払ってはいないようだ。大きな物音でも立てない限り、見つかる事は無いと思う。ゲナとジャフは弓兵に見つからないように機械操作小屋の近くまで行って、小屋の中に敵がいるか、窓から確認してきてくれ。窓はカーテンが閉め切られてるが、隙間から明かりは漏れてないから、誰もいないとは思うが一応念のためにな」
サラードの指示に従って、ゲナとジャフは建物の影を通って、五百ギット程先にある機械操作小屋にゆっくりと向かう。
ダグボルトは遠眼鏡を使って外壁を窺う。
弓兵が五、六人ほどいるが、ゲナとジャフに気付く者はいないようだ。
しかし急にサラードが、ダグボルトの肩を乱暴に揺さぶった。
「おい、ダグ。ナグロアからまずい知らせが来てるぞ」
遠眼鏡の焦点をナグロアが隠れている建物の窓に合わせると、こちらに手で合図しているのが見えた。意味はこうだ。
――敵が二人、小屋の方に接近している。
ダグボルトの方からも、脇の小道から小屋の方に向かって二人の名無き氏族が並んで歩いてくるのが見えた。
談笑しているようで、ゲナとジャフにはまだ気付いていない。
しかしこのままでは、遅かれ早かれ二人とばったり出くわしてしまうだろう。
「ゲナとジャフは、小屋の方に注意をとられてて敵に気付いてないようだな。一人ならナグロアに始末して貰えばいいが、二人となると俺達がやるしかない」
そう言うと、ダグボルトは肩に担いでいたクロスボウを下ろして矢をつがえる。
「とは言っても正直、俺は狙撃が苦手なんだよな……」
思わずダグボルトは不安を口にする。
同じように矢をつがえていたサラードは軽く微笑んだ。
「心配すんな。俺達の片方が狙いを外しても、ナグロアがフォローしてくれるさ」
「二人共とも外したら?」
「そん時は女神様に祈れよ。日頃の行いが良ければ、きっと女神様が奇跡でも何でも起こしてくれるさ」
サラードは天を見上げて言った。今度はダグボルトが微笑む。
「それと、これを渡しておくから矢に塗っとけ。トリカブトの猛毒だ。これさえあればゴキブリみたいにしぶとい名無き氏族もイチコロだぜ」
サラードは透明な液体の入った小瓶を懐から取り出してダグボルトに渡した。
そしてもうひとつ小瓶を取り出して、自分のクロスボウの矢に毒液を数滴垂らした。
ダグボルトも同じように毒液を垂らすと、小瓶を懐にしまった。
「無理に急所を狙わずに、当てやすい胴体を狙えばいい。かすり傷でも与えられれば、すぐに毒が回って始末できるはずだ」
ダグボルトにそうアドバイスすると、『フォローを頼む』とナグロアに手で合図してから、クロスボウを構えた。
「俺は右の敵を狙う。ダグ、お前は左を頼む」
「分かった。俺が合図したら二人同時に撃とう」
ダグボルトもクロスボウの狙いを定める。
「三……二……一……今だ!」
合図と同時に、二人はクロスボウの引き金を引いた。
サラードの矢は、右側の名無き氏族の腹部を確実に捉える。
しかしダグボルトの矢は狙いを外し、左側の名無き氏族の背後の木に刺さる。
命中する直前に、左側の名無き氏族が急に道端の石に躓いて体勢を崩したせいだ。
左側の名無き氏族は、つい先程まで談笑していた相手が矢を受けて倒れているのを見て、周囲をきょろきょろと見渡した。
「ちいッ!」
ダグボルトが舌打ちした瞬間、ナグロアの放った矢が左側の名無き氏族の喉を貫いた。
名無き氏族はぱったりと倒れ、声を上げる間もなく息絶えた。
口からはブクブクと血の混じった泡が流れ落ちている。
「お見事(グッドキル)」
ダグボルトは遠くにいるナグロアに向けて、賞賛の言葉を呟いていた。
小屋の中には誰もいないと合図が来たため、すぐにダグボルト達三人も合流した。
小屋の近くの二つの死体を見せられて、ゲナとジャフは驚いた顔をする。
やはりまったく気付いていなかったようだ。
ダグボルトとサラードは死体を引きずって側溝に隠した。
作業の途中、ダグボルトは名無き氏族の一人が被っていた鬼面を外してみた。
その下にあったのは、額が大きく突出した五角形の平たい顔であった。
小さな両目は離れていて、長く先が尖った耳のすぐそばにあった。
瞳が白く濁っていてまるで鮫の目だ。
吹き出物だらけの鼻は、熟れ過ぎた瓜のようにだらしなく垂れ下がっている。
口は耳の端までぱっくりと裂け、乱杭歯に混じって下顎から二本の長い犬歯が飛び出している。
べっとりと油に塗れたざんばらの黒髪は、針金のように固そうだ。
「こいつら、本当に人間なのか……?」
人間と言うよりも、むしろおとぎ話に出てくる洞窟鬼(トロール)のような恐ろしい素顔を目の当たりにして、ダグボルトは唖然とする。
一緒に作業していたサラードが、肩を軽く叩いてこう説明する。
「こいつらは何百年にも渡って、近親相姦と食人を繰り返して先祖返りを起こしたらしい。さっきも言った通り、悍ましいけだものさ。同じ人間とは言っても、俺達とこいつらとの間には共通点なんて全くないし、意志の疎通なんて絶対に成り立たないだろうな」
「確かに。それにしても聖天の女神が、こんな人間もどきの邪悪な生物を創造したなんて、とても信じられないな。いっそ完全に絶滅させられればいいのに」
ダグボルトは嫌悪も露わに呟いた。サラードも賛同するように頷く。
「ああ、そうだな。隊員の間には、そういう意見も数多くある。だけどこいつらの巣穴がある深緑の辺獄は、暗黒地帯とも言える未開の領域なんだ。風の噂じゃ絶滅したはずの恐竜なんかもまだ生き残っているらしい。おやっさんは、そんな所に攻め込むなんて正気の沙汰じゃないって言ってるよ。俺が総長なら、南部諸国と連携してこいつらを攻め滅ぼしてやるんだけどなあ。……いや、今はそんな話は置いといて、早くこいつらの死体を隠して戻ろう。ナグロア達が首を長くして待ってるぜ」
ダグボルト達が小屋の入口に戻ると、ナグロアがゲナに小声で食って掛かっていた。
ジャフは二人を止めようとしているが、全く相手されていなかった。
「もう一度確認するが、本当に小屋の中には誰もいなかったんだな、ゲナ?」
「お前もしつけえなあ。カーテンのせいで小屋の中は真っ暗だったけど、何も動く気配は無かったから、たぶんいないって言ってんだろ」
「それはお前の感想だろ。俺は本当にいなかったかどうか聞いてるんだ。あれを見れば、名無き氏族の奴らがこの小屋に入ったのは一目瞭然だ。今もまだ中に残ってる可能性だってあるんだぞ」
ナグロアが指差す地面には、ドアに掛けられていたはずの南京錠が落ちていた。
それには鈍器で砕かれた痕跡がある。
ナグロアの言葉通り、名無き氏族はダグボルト達が来る前に、この小屋を探索しているようだ。
「だから、いるかどうかなんて暗くてよく分かんねえんだよ! 不満があるなら自分で窓を覗いて確かめてみりゃ――」
「もういい。二人共、その辺にしておくんだ」
戻って来たダグボルトが二人の間に割って入った。
「言い争いしてる時間なんか無いぞ。これから小屋に突入する。念のため、敵がいるという想定で準備してくれ」
ゲナが戸口の脇に立って、引き戸となっているドアの取っ手を掴む。
反対側の戸口の脇には、スレッジハンマーを持ったダグボルトと、シミターを手にしたジャフが陣取る。
ドアの正面には、片膝をついてクロスボウを構えたナグロアとサラード。
二人の矢には猛毒が塗ってある。
ダグボルトが手で合図すると、ゲナがゆっくりとドアを開けた。
それと同時に、小屋の中からむっとするような濃厚な鮮血の匂いが漂う。
ドアの正面にいたサラードは、真っ暗な小屋の中で何かが蠢く気配を感じた。
「ゲナ、そこを離れろッ!」
正面にいたサラードが叫ぶ。
次の瞬間、ブンという音と共に、巨大な肉切り包丁が飛んできた。
それは樫の木でできたドアを破壊し、取っ手を掴んでいたゲナの右腕をぶつりと切断した。
さらに勢いが衰えぬまま飛び続ける肉切り包丁。
咄嗟にクロスボウを盾にしてそれを受け止めるサラード。
だが勢いを殺し切れず、衝撃で後ろに吹き飛ばされてしまう。
(サラード!!)
そう叫びたくなる衝動を、ダグボルトは何とかこらえる。
やがて小屋の中から三ギット近い長身の巨漢が姿を現す。
他の名無き氏族とは異なり、でっぷりと太った身体の持ち主で、鬼面が脂肪のついた大きな顔に食い込んでいる。
全身血塗れだが、身体に傷が無い所を見ると全て返り血のようだ。
しきりにあくびをしている所を見ると、今までぐっすりと眠っていたらしい。
そのため窓から中を窺ったゲナは、何の気配も感じなかったのだろう。
吹き飛ばされたサラードの身体をかわしたナグロアは、冷静にクロスボウの矢を放った。
矢は狙いを過たず、ぶすりと巨漢の名無き氏族の膨れ上がった腹に突き刺される。
だが毒に対して免疫があるのか、あるいは血の巡りが悪いだけなのかは不明だが、まるで倒れる様子は無い。
巨漢の名無き氏族は無造作に矢を引き抜くと、穴の開いた腹をぽりぽりと掻いた。
蚊に刺されたようなむず痒さしか感じていないようである。
慌ててナグロアは次の矢をつがえようとした。
それを見た巨漢の名無き氏族は、唸り声をあげてナグロアの方に突進する。
その刹那、今度は戸口の脇に隠れていたダグボルトが、スレッジハンマーを巨漢の名無き氏族の後頭部に叩きつけた。
ガンという鈍い音。
まるで金属の兜にハンマーを叩きつけたかのような、手が痺れる感覚。
信じがたい事に、瘤だらけで髪の毛が全く生えていない巨漢の名無き氏族の頭は、鋼鉄製のスレッジハンマーですら砕けない程の石頭であった。
反射的に放たれた巨漢の名無き氏族の反撃の拳が、ダグボルトの脇腹にめり込む。
隠密任務のため、盾を持ってきていないダグボルトには受け止める事が出来なかった。
肋骨を砕かれたダグボルトは、苦しげに咳き込みながらふらふらと後退する。
さらに巨漢の名無き氏族は、シミターで斬りかかるジャフの襟首を掴んで、激しい頭突きを浴びせた。
ハンマーすら効かないような石頭を叩きつけられたジャフの頭蓋骨は、地面に落ちた卵の殻のように粉々に砕ける。
血と脳味噌を撒き散らしてぐったりと力を失うジャフの手から、シミターをもぎとった巨漢の名無き氏族は満足げな笑みを浮かべた。
矢を装填し終えたナグロアが顔を上げると、シミターを手にした巨漢の名無き氏族が眼前にまで迫っていた。
ナグロアは、今度は顔目がけて矢を放つ。
「フンッ!」
しかし巨漢の名無き氏族は気合と共に、放たれた矢をシミターで叩き落としてしまった。
もはや次の矢を装填している暇など無い。
腰に帯びたロングソードを抜く暇すらも。
ナグロアの眼前に迫った巨漢の名無き氏族は、奇声を上げてシミターを振り上げた。
「この野郎オオオォッ!!」
激しい雄叫びを上げて、サラードが巨漢の名無き氏族の両足にタックルを浴びせた。
肉切り包丁の食い込んだクロスボウは真っ二つになりかけていたが、サラード本人はほぼ無傷だったのだ。
それでも巨漢の名無き氏族の身体はまるでぐらつかない。
だが攻撃の手が止まった。
「こいつに俺に任せて小屋に行け、ナグロア!! 早く門を開けるんだ!!」
「わ、分かった!」
ナグロアはクロスボウを巨漢の名無き氏族に投げつけ、僅かにひるんだ隙に脇を通り抜けて小屋の中に入っていった。
両足に必死に縋り付くサラードの背中を、巨漢の名無き氏族はシミターの刃先で執拗に刺して、身体を引き剥がそうとする。
「この手は死んでも離さねえからなああッ!!」
サラードは全身血塗れになりながらも、その叫び通り、巨漢の名無き氏族の足を離そうとはしなかった。
すると巨漢の名無き氏族は、今度はサラードを引き剥がそうとするのではなく、逆に押し潰すかのように肥満した肉体で思い切りのしかかった。
全体重を受け止めたサラードの背骨が、ミシミシと嫌な音を立てる。
余りの苦しさに声にならない悲鳴を上げるサラードを見て、巨漢の名無き氏族はニタニタと嬉しそうに笑っている。
――コツン。
突然、巨漢の名無き氏族の後頭部に何か硬い物がぶつかった。
振り返った巨漢の名無き氏族の目に、鬼のような形相のダグボルトが映る。
次の瞬間、巨漢の名無き氏族の左目にスレッジハンマーの鋭い突部がめりこんだ。
眼球が破裂し、中の水分を飛び散らせる。
同時にスレッジハンマーに塗られたたっぷりの毒液が、一気に脳まで染み渡る。
先程、巨漢の名無き氏族にぶつけたのは、空になった毒の小瓶だった。
サラードは急に身体が軽くなったのを感じる。
人並み外れた生命力を持つ巨漢の名無き氏族も、さすがにこの攻撃には身体をぐらつかせ、ハンマーの突部が刺さったままの左目を押さえて地面に這いつくばっていた。
ダグボルトは、サラードのクロスボウから肉切り包丁を外し、巨漢の名無き氏族に跨った。
「俺が調理してやるぞ、豚野郎ッ!!」
ダグボルトは全力を込めて肉切り包丁を振り下ろした。
ブツンという音と共に、巨漢の名無き氏族の首が胴から切り離されて、地面をごろごろと転がった。
それと同時に、南門が大きな軋みを上げて開くのが見えた。
ナグロアの方も無事に開閉装置を操作してくれたようだ。
先程の戦闘の音は、城壁にいる敵兵にも聞かれただろうが、今は南門の方に意識が向いているようで、こちらに攻撃してくる様子は無い。
困難な任務を成し遂げたという達成感が、ダグボルトの胸を熱くする。
肋骨の折れた脇腹の痛みも忘れさせる程に。
「どうでもいいけどそろそろ俺の心配もしてくれよ……」
背中から血を流して倒れているサラードが虚ろな声で呟いた。
「大丈夫か、サラード?」
「いや、遅いって……。はっきり言って全然大丈夫じゃないぜ。ひでえ痛みだよ……」
「命があるだけまだましだろ」
背嚢から痛み止めの丸薬を取り出して、サラードの口の中に押し込んだ。
噛み砕くと口の中に苦い味が広がる。
だが少しすると、サラードの背中の痛みが和らいできた。
ダグボルトが肩を貸そうとしたが、サラードは自分のシミターを杖の代わりにして一人で立ち上がった。
ダグボルトも肉切り包丁を投げ捨て、切断された首からスレッジハンマーを回収した。
「ゲナとジャフは?」
「ジャフは見ての通りだよ。だけどゲナは腕を一本失っただけでまだ生きてる」
そう答えると、上着を裂いて簡単な止血帯を作り、痛みで気を失っているゲナの出血を押さえる。
「それより、いつまでもここにいるのは危険だ。援軍が来るまで小屋の中に入っていよう」
ダグボルトはゲナの襟首を掴んで小屋に向かって引きずり始めた。
サラードもふらふらと後に続く。
しかし小屋の入口に現れたナグロアが二人を制止する。
「ここに入るのは止めとけ。中はまさに地獄だ」
ナグロアの顔からは血の気が引いていた。
背中越しに小屋の中を覗いたダグボルトは、胃液が逆流する感覚を覚え、ウッと小さな声を漏らす。
小屋の中は床も壁も血に塗れ、細かい肉片が辺りに散乱している。
床に置かれたいくつかの樽には、人間の手足が無造作に詰め込まれ、部屋の中央のテーブルには中身を洗った人間の腸がグルグル巻きにされている。部屋の端には、内臓を抜かれた胴体が積み上げられていた。
「ここは解体小屋として使われてたらしい。あの名無き氏族、よくこんな場所で眠れたもんだよ」
ナグロアは顔をしかめて呟く。
それを聞いたサラードは、慌てて小屋の入口から目を反らした。
「それにして味方の援軍は遅いなあ……。せっかく門を開いてやったのに何をやってるんだあ……?」
サラードはどこか酔っぱらっているような舌足らずな声で不平を漏らす。
痛み止めの薬は麻薬の成分を含んでいるため、副作用で意識が混濁しているのだ。
「ぼやくなよ、サラード。口を閉じて、耳をよく澄ましてみろって」
その言葉に従ってサラードは聞き耳を立てる。
すると地鳴りのような音がレウム・ア・ルヴァーナに近づいてくるのが聞こえた。
その音は徐々に大きくなり、やがて五百人程の騎馬部隊となって南門から現れた。
騎馬部隊は門前広場にいた名無き氏族達を一瞬で薙ぎ倒し、トンネルの入口方面に向かって、外壁沿いの通りを制圧しつつ進んでいった。最後尾には火薬樽を搭載した三台の荷馬車が続く。
外壁にいた名無き氏族の弓兵達は、奇襲によるショック状態から立ち直ると、騎馬部隊に矢を浴びせようとした。
しかし騎馬部隊の後から千人規模の歩兵部隊が現れ、外壁の階段を昇ってバサバサと斬り捨てていく。外壁から突き落とされた弓兵の死体が、大地に次々と積みあがっていった。
「これで俺達の仕事は終わったな。それじゃあ俺はもう行くぜ」
ナグロアは地面に落としていたクロスボウを背負いながら言った。
「行くってどこへ?」
「そんなの決まってるだろ。ハイデマン隊長の所だよ。まさかまた俺を止めるつもりじゃないよな、ダグボルト?」
ナグロアはダグボルトをぎろっと睨み付けた。
「別にとめるつもりはないさ。それなら俺も一緒に行くよ」
「そうしてくれると有り難いんだが、お前はここに残った方がいいだろう。重傷のゲナとサラードを置いていく訳にはいかないからな。それにお前だって、あの怪物にあばらを何本か折られてるんだろ?」
痛みがぶり返した脇腹をしきりにさすっているダグボルトを見て、ナグロアはそう言った。
副作用を考えて、まだ痛み止めを飲んでいなかったのだ。
「じゃあな、ダグボルト」
ぶっきらぼうな口調でそう言うと、ダグボルト達を置いて立ち去った。
ナグロアがいなくなってしばらくすると、今度は南西エリア内壁の方で大きな爆音が上がる。
それと同時に、黒煙がもうもうと吹き上がって美しい星空を乱す。
ここにきて、大聖堂前で防衛部隊と交戦中だった名無き氏族達も、ようやく事態を理解する。
敵の作戦にまんまと引っかかって、トンネルの入口を塞がれてしまった事。
そして退路を断たれて完全に孤立している事を。
だが彼らは、降伏など知らぬ狂気の戦士であった。
敵中で孤立したまま死ぬのなら、せめて大聖堂だけでも荒らしてやれと言わんばかりに、さらに攻勢を強める。
名無き氏族達の、あまりにもがむしゃらな戦いぶりに防衛部隊は押され、混乱状態に陥った。防衛部隊の指揮を直接執っていたワレンツも、一時は死を覚悟した程である。
だがそれも、外壁の弓兵を倒した歩兵部隊が大聖堂前の戦闘に加わるまでであった。
今度は挟み撃ちにされた名無き氏族達の方が混乱し、次々と討たれていく。
夜が明ける前に勝敗は決していた。
激戦の末に、聖地防衛隊はレウム・ア・ルヴァーナを守り抜いたのだ。
**********
長い戦いが終わりを告げるかのように、靄に包まれた地平線の彼方から光が差し込む。
一晩のうちに、聖地レウム・ア・ルヴァーナの景観は大きく損なわれていた。
幾つもの建物が名無き氏族の手によって破壊され、激しい略奪を受けていた。
通りは血と臓物に塗れ、死体が山となっている。
それでも生き延びた市民達は、まだ命がある事を素直に喜び、直ちに復興に取り掛かった。
ダグボルト、サラード、ゲナの三人は負傷のため、病院に担ぎ込まれていた。
手当を受けた後、ダグボルトとサラードは一階にある同じ病室に入れられたが、深手を負ったゲナは個室に運び込まれ面会謝絶となった。
やがてダグボルト達の病室に、ワレンツがオッソリオを伴って姿を現した。
「今回の戦いにおいて、お前さんたちの功績は計り知れない物がある。そこで全員に戦功勲章を授与しようと思う。さしあたってお前さん達二人に先に渡しておく」
オッソリオが鞄から取り出した小箱から、銀細工の勲章を手に取ると、ひとりひとりの上着に留めて固い握手を交わし、丁寧に礼を述べた。
オッソリオが小箱を鞄にしまっている間に、ワレンツは話を続ける。
「無論、勲章だけでなく十分な金銭的報酬も与える。それに加えて『聖堂騎士史録』に、お前さん達五人の名前を加える事を約束しよう」
ダグボルトとサラードは驚いて顔を見合わせる。
『聖堂騎士史録』とは、聖堂騎士団発足以来、多大な功績を遺した聖堂騎士の名前と業績を記録する歴史書である。
現在では初代総長を含め、五十三名の聖堂騎士が記述されている。
そこに名を残すという事は、言うなればモラヴィア大陸の歴史に名を残した事に等しいのだ。
「しかしそれでも儂としてはまだ足りん。何と言っても、お前さん達は儂ら全員の命の恩人なんだからな。だからさらなる報酬として無期限の特別休暇をやろう。好きなだけ休んでゆっくりと傷を癒し、疲れがとれてから隊に復帰するがいい」
「最後のやつが一番嬉しいですよ、おやっさん。けど休みが長過ぎると、身体が鈍るかもしれませんねえ」
思わず軽口を叩くサラード。
病院でさらに痛み止めを与えられたせいか、どこか多幸感に包まれた顔をしている。
「ふむ。それは休暇を切り上げたいという事か? それなら来週ぐらいから勤務に戻ってくれても別に構わんぞ、サラード」
「え? そ、それはちょっと……。やっぱゆっくり休ませて貰います……」
困惑した様子のサラードを見て、他の者は笑った。
つい数刻前まで、激しい戦闘を繰り広げていたとは思えないような和やかな雰囲気に包まれる。
やがて笑いが止むと、ワレンツとオッソリオは二人に礼を言って病室を後にした。
「……まさか歴史に名を残せる日が来るなんて、お互い長生きはするもんだなあ、ダグ」
サラードは勲章を手の中で弄びながら感慨深げに言った。
しかし隣のベッドのダグボルトは、それを聞いて眉を顰める。
「いや、俺もお前もまだそんなに生きてないだろ。むしろ人生はこれからだよ、これから」
すると急にサラードが深刻な顔をする。
「これからねえ……。けど若いうちに人生のピークを迎えると、その後に転落が待ってそうで何か怖いな」
「気持は何となく分かるけど気にし過ぎだって。それより俺は少しここを離れるから、医者が来たら適当にあしらっといてくれよ」
ベッドを抜け出したダグボルトが病室の窓枠に足をかけるのを見て、サラードは目を丸くする。
「お前、どこに行く気だ?」
「どうしても今すぐ無事を知らせたい人がいるんだ。じゃあ後はよろしく頼んだよ」
それだけ言うと、ダグボルトはひらりと窓から外に出た。
急に明るい屋外に出たため、日差しが目に眩しい。
ダグボルトは、リンジーの元へと一目散に走りだした。
**********
東エリアに七つある避難用地下壕のひとつにダグボルトはやって来た。
リンジーと別れた公園にいちばん近い場所にあるため、彼女が避難するならここだろうと考えたのだ。
避難用地下壕の入口は、大広場に置かれた騎士像の土台にカモフラージュされていて、そこを開くとスロープ状の下り坂となっている。そして長々とした下り坂を進んだ先にある、ぶ厚い二重構造の扉を抜けると、広々としたホール状の避難用地下壕が姿を現す。
ダグボルトが中に入ると、そこに避難していた市民の姿はすでになく、初老の管理人と何人かのスタッフが後片付けをしている最中であった。
ダグボルトは管理人を捉まえ、リンジーが来ていなかったか尋ねた。
しかし全く姿を見ていないとの事であった。
念のため他のスタッフにも尋ねて回るが、同様の回答しか得られなかった。
(あの状況で避難するならここだと思ったんだがな……。だとしたら別の避難用地下壕に逃げたんだろう。よし、他も回ってみよう!)
すぐにダグボルトは次の避難用地下壕に向かう。
しかしそこにもリンジーの姿を見た者はいなかった。
そうして七つの避難用地下壕を次々と回るうちに、だんだんと心の中に不吉な予感が去来する。
(まさかリンジーの身に何か起きたのか? ……いいや、考え過ぎだ。名無き氏族はこのエリアには来てないんだから。きっと次の避難用地下壕に逃げ込んだに違いない)
だがとうとう七つ目の避難用地下壕も空振りに終わる。
ダグボルトの背筋に嫌な汗が流れ落ちた。
(糞ッ! これは一体どういう事だ? いや、もしかしたらリンジーは大聖堂に逃げ込んだのかも知れない。すぐに行ってみよう!)
ダグボルトは踵を返して大聖堂に向かう。
リンジーの上司のアレンゾに安否を尋ねるのが一番いいのだが、それでは昨晩逢引したのがばれてしまうだろう。
仕方なく大聖堂内をうろうろしていたダグボルトは、礼拝堂でリンジーの友人のシスター・ラーナを見つけて声を掛けた。
「リンジーはどこにいるか、ですって? そんなのあたしが聞きたいですよ。正直、あなたとずっと一緒にいたんだと思ってました。あなたに大事な話があったみたいですし」
それを聞いてダグボルトは、昨晩のリンジーの台詞を思い出した。
『もし良かったら、あなたも聖堂騎士を辞めて、私と一緒に暮らさない? あなたが側にいてくれれば、とっても心強いから……。だから……』
しかしダグボルトは回答を後回しにしてしまった。
聖地防衛隊の一員として仕方なかったとはいえ、彼女をないがしろにしたのも事実だ。
『待って!! お願いだからさっきの返事だけでも――』
リンジーの最後の言葉が、ダグボルトの脳裏に反芻する。
(まさかリンジーは俺を追って南エリアに向かったのか? でもどうやって? 内壁の出入口は全て封鎖されていたはずだ……)
それでも結局、ダグボルトは南エリアに向かった。
他に行くべき場所が思いつかなかったからだ。
だが死体や怪我人を運ぶ人々に一通り聞いて回っても、リンジーの行方については何も掴めなかった。
気が付くとダグボルトは人が大勢集まっている場所にやって来た。
別エリアからかき集められた百人近い聖地防衛隊の隊員達が、ショベルを手にして大通りが陥没している部分に大量の砂利を敷き詰めている。これが名無き氏族のトンネル跡に違いない。
入口は土砂によって塞がれているが、その際に火薬樽を積んだ馬車ごと爆破したらしく、周囲には大量の木片と馬の肉片が飛び散っていた。
「お前、もしかしてダグボルトじゃないか? おぅい、みんな! 聖地を救った英雄のお出ましだぞ!」
突然、隊員の一人が言った。
周囲の視線が一瞬でダグボルトに集まる。
拍手と歓声が上がり、隊員達は次々と彼に握手を求める。
仕方なくダグボルトは、無理に笑顔を作ってそれに応えた。
「お前ら、休憩はその辺にしてさっさと作業に戻れッ! ここの埋め立てが完全に終わらないなら、徹夜で作業させるからな!」
北エリアから来た部隊の副隊長が隊員達を怒鳴りつける。
ここの埋め立ての指揮を執っているようだ。
隊員達が慌てて作業に戻っていったので、ダグボルトはほっとする。
「ところでお前、入院してたんじゃないのか? どうして病院を抜け出してきたんだ?」
「実は……」
リンジーが昨日から行方不明になっている事、そして彼女の外見などを説明し、ここに来なかったか尋ねた。しかし副隊長は首を横に振るばかりだった。
「力になれなくて済まんな。後で他の隊員にもシスターを見なかったか聞いてみよう。何か分かったらすぐに知らせるから早く病院に戻れ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
ダグボルトは礼を言うと、その場を離れようとした。
その時、近くにいた若い金髪の隊員が、泥で汚れたアクセサリーを手にして副隊長の元にやって来た。
「副隊長殿、トンネルの近くでこのような物を拾ったのですがどうしましょう?」
だが金髪の隊員は、副隊長に渡そうとする際に手を滑らせてしまう。
地面に落ちたアクセサリーを見て、ダグボルトの顔色が変わる。
「そいつを俺に見せてくれ!」
そう言うやいなや、ダグボルトは地面からそれを拾い上げた。
間違いなく見覚えのある白の仔竜のペンダントだ。
首から下げる紐が無残に引きちぎられているのを見て、心臓が締め付けられるような気分になる。
「これはリンジーのペンダントです……」
「何? それは本当か?」
驚いた副隊長が尋ねる。
「はい。露店の店主が自作した物で、同じデザインの物は売ってないはずですし、それに……」
ダグボルトは上着の中から自分のペンダントを取り出し、拾われたものに近づける。
二匹の仔竜が、カチリと音を立ててくっ付いた。
「この通り、二つで一組になってるんです。間違いありません」
「だとしたらその人、名無き氏族に殺されたか、拉致されたのかも……」
二人の話を聞いていた金髪の隊員が青ざめた顔で呟いた。
「ば、莫迦な事を言うなッ!! まだそういう結論を出すには早過ぎるだろうが!!」
副隊長が慌てて否定しようとするが、金髪の隊員はさらに続ける。
「だったらそのペンダントの裏を見てみて下さいよ」
金髪の隊員の言葉に従ってペンダントをよく見ると、白の仔竜の足の裏に何か文字が刻まれているのに気付く。
釘でひっかいたような文字で筆跡は乱れている。
そこには僅かにこう刻まれていた
『助けて。鬼が――』
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