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「ずいぶんとやつれているようだが、きちんと睡眠を取っておるのか? いや、それ以前にちゃんと医者の許可を得て退院したのだろうな?」  執務室で書類の整理をしていたワレンツは、部屋に通されたダグボルトを見て怪訝な顔をする。  二日前に病院で勲章を渡した時も、疲労で疲れた顔をしていたが、今はその比では無い。  目の下には大きな隈があり、まるで死人のような土気色の顔をしている。 「いえ、許可は得てません。勝手に病院を抜け出してきました。でも俺の事はどうでもいいんです。それよりリンジーが……」  ダグボルトは簡潔に事情を説明した。  話を聞き終えたワレンツは、考え込むような顔をして椅子に深く座り直す。 「……入院中のお前さんには、心労をかけまいと黙ってたんだがな。実はアレンゾ大司教からも、名無き氏族の襲撃があった日からシスター・リンジーが行方不明だと相談を受けててな。今、手の空いた隊員に市内を捜索させている所なのだ。だがまさかお前さんが病院を脱走してたとはなあ」 「心配をお掛けして済みません。それで何か成果はあったんですか?」 「いいや、残念ながら今の所、何も分かっておらん。市内で回収された市民の遺体は、大聖堂の礼拝堂に集められて身元の照会作業が行われておるが、幸いな事にそこに彼女の姿はなかった」 「そうなるとリンジーに繋がる唯一の手がかりは、これだけという事になりますね。南エリアで見つかったペンダントです」  懐から白の仔竜のペンダントを取り出して、ワレンツに足の裏の文字を見せた。 「『助けて。鬼が――』とな。これはシスター・リンジーの筆跡か?」 「それは分かりません。字がひどく乱れてるので。だけど所有者であるリンジーの他に、そのペンダントにそんな言葉を彫り込むような人間がいるとは思えません」 「ふーむ……」 「リンジーの行方を捜して色々と情報収集した時に、逃げ遅れた市民の何人かが名無き氏族に生け捕りにされたと聞きました。しかもほぼ全員が女性のようです」 「うむ。基本的に奴らは、遭遇した人間は食料にするためにその場で全て殺し、腐らないように死体を塩漬けにして集落に持ち帰る。だがまれに、女性を生きたまま連れ帰る事もあるようだ。拉致された女性は、奴らの崇める原始神への生贄にされるという説もあるが、真実は定かではない。儂としては彼女達が慈悲深い最期を遂げた事を願うばかりだがな。……まさかお前さん、拉致された市民の中にシスター・リンジーも含まれていると考えておるのか?」 「はい。それでリンジーを含む市民の奪還のために、志願兵を募って深緑の辺獄に遠征する事を許可していただきたいんです」  驚いたワレンツは椅子から飛び上がった。 「待て待て待て! それはあまりにも短絡的過ぎる! 大体、シスター・リンジーが名無き氏族に拉致されたのを目撃した者はおらんのだろう? このペンダントの文字だけで、誘拐事件と判断するのはあまりにも早急というものだ。とにかく今は、市内を捜索している隊員達の報告を待つのだ」 「だけど奴らの襲撃から、もう二日も経ってるんですよ!! これ以上もたもたしてたら手遅れになります!!」  本当は昨日のうちに、この話をするつもりであった。  しかしワレンツは、今後の対応について大司教達と協議するのに忙しく、なかなか面会する時間を作って貰えなかったのだ。  ダグボルトとしては、もうこれ以上待つつもりなど無かった。  今すぐ行動を起こさなければ、二度とリンジーと会えなくなってしまう。  そんな予感をひしひしと感じていた。  しかしワレンツは、きっぱりとした口調でこう告げる。 「――でははっきり言おう。深緑の辺獄への遠征など絶対に承認できん。例えシスター・リンジーが名無き氏族に拉致されたというはっきりとした証拠が見つかったとしてもだ。そもそも聖地防衛隊は、その名の通りレウム・ア・ルヴァーナを防衛するために創設されたものだ。深緑の辺獄への遠征で貴重な隊員を失うなど本末転倒というものだ。分かってくれ、ダグボルト」 「………………」  ダグボルトは何も言えなかった。  ワレンツの言葉は組織の長として当然のものである。  ダグボルト自身、話をする前から提案を却下される事を当然予想はしていた。  それでも内心密かに、力を貸してくれるのではないかと淡い期待を抱いていたのだ。 「……了解しました。ではこれで失礼します」  痛切な表情のダグボルトは、力無い声でそう答えると一礼して部屋を出ようとした。  すると急にワレンツが引き留める。 「待て、ダグボルト。まさかお前さん一人で深緑の辺獄に向かおうなどとは考えておるまいな?」 「………………」  ダグボルトはまたも沈黙する。  それはどんな言葉よりも雄弁に、ワレンツの懸念が正しい事を裏付けていた。 「言っておくが、そんな事は絶対に認めんぞ」 「休暇をどういう風に過ごそうが俺の勝手でしょう?」 「黙れッ!!」  ワレンツはテーブルをドンと叩いて一喝した。 「休暇の間、街の外に出る事を禁止する! もし破ったら、お前さんの隊員資格をはく奪するからな!」  ダグボルトは無言のままワレンツを激しく睨み付けた。  広い肩が小刻みに震えている。  今にも殴り掛かりそうな雰囲気だったが、強引に怒りを押さえつけて部屋を飛び出していった。  ワレンツはすぐ呼び鈴を鳴らして、執務室にオッソリオを呼ぶ。 「何でしょう?」 「すぐに外壁の守備兵に連絡を取って、城門だけでなく、通用門など全ての出入口を厳重に見張るように伝えてくれ」 「まさかこのタイミングで、名無き氏族が再度襲撃をかけてくると考えているのですか?」 「違う。外から来る敵に警戒するのではなく、外に出ようとする者を警戒して欲しいのだ。まあ、はっきり言ってしまえばダグボルトの事なんだが……」  説明を受けたオッソリオは納得した顔をする。 「ははあ、そういう事でしたか。しかしダグボルトの性格を考えれば止めても無駄でしょう。それならいっそ好きにさせてやればいいのではないですか?」 「そうはいかん。あいつは将来有望な若者だ。戦闘能力に秀でているだけでなく、頭も切れるような人材はなかなかおらん。経験を積めば、ゆくゆくは騎士団の幹部にだってなりうると儂は考えているのだ。それをこのような形で失う訳にはいかん。あいつにはこの試練を何とか乗り越えて欲しいのだ」 「成程、分かりました。ではさっきの命令を守備兵に伝えてきましょう」  オッソリオが立ち去ると、ワレンツは書類の整理に戻った。  しかしダグボルトの痛切な表情を思い出して心が掻き乱され、なかなか仕事に集中できない。 「無茶だけはするなよ、ダグボルト……」  ワレンツは思わず呟いていた。    **********  西エリアの裏通りにある酒場『流砂と蠍亭』の奥のテーブル席で、ナグロアはちびちびと安酒をあおっていた。昼間だと言うのに、窓にはカーテンが掛けられ店内は薄暗い。  ここは聖地防衛隊の隊員達が愛用している酒場だが、今日はナグロアに貸し切られているため、他の客の姿は無い。カウンターの向こうで、バーテンが無言でグラスを拭いている。  ナグロアが空のグラスに酒を注ごうとした時、急に酒場の入口から店内に光が差し込んできた。  陽光の中から一人の客が姿を現す。 「お客さん、今日は臨時の休業日なんですよ。店の入口にも、そういう札が掛けてあったはずなんですけどねえ」  マスターが済まなそうに言った。 「ああ、こいつの事か?」  ずかずかと店内に踏み込んできた不躾な客は、カウンターに本日休業日の札を置いた。  そして奥の席にいるナグロアを指差す。 「休業日の割には客が入ってるじゃないか」 「ええと、あの方は……」  マスターは困った顔をする。  だがナグロアは、不躾な客に挨拶するようにグラスを掲げた。 「いいんだ、マスター。そいつは俺のツレだ。……よお、サラード。傷が治ってないのにもう退院か。もしかして看護婦を口説こうとして、病院を追い出されたんじゃないだろうな?」  すると不躾な客――サラードは、ニヤリと笑ってナグロアの対面の席に座った。 「生憎と、あそこには俺の好みのタイプの看護婦はいなかったよ。背中が痛むって何度も言ってるのに、医者が痛み止めの薬をなかなかくれなくてな。それで酒で痛みを紛らわそうと思って、病院を脱走してきたんだよ」  そう言うとサラードは、テーブルの上の酒瓶を手に取って、直接ごくごくと飲み始める。  ナグロアは呆れつつもグラスの酒を一口あおった。 「そりゃあ当然だろ。痛み止めには麻薬の成分が含まれてるんだ。せっかく勲章まで貰ったのに、麻薬中毒になっちゃ人生台無しだぞ」 「じゃあ黙ってこの痛みを我慢しろってのか? 愚痴を言おうにも、ダグの奴はどっかに行っちまうしなあ」 「ダグボルトが?」 「ああ。誰かに会いに行くって、病院を出てったきり戻ってこなかったよ」 「奴ならそこにいるぞ」 「えっ?」  サラードが振り返ると、いつの間に店内に入って来たのか、ダグボルトが背後に立っていた。 「よう、ダグ。今までどこに行ってんだ? そういえばあの戦い以来、こうして三人で集まるのは初めてだな。酷い顔色だが、お前も傷が痛むのか? ここに来て一緒に飲めよ。多少は苦痛が紛れるぜ」  サラードは隣の席を指差すが、ダグボルトは首を横に振った。 「俺は酒を飲めないし、今はそんな気分じゃないんだ。それより深緑の辺獄に精通した案内人(ガイド)を知ってたら教えてくれないか」 「えっ? それを知ってどうする気だ?」  深緑の辺獄という単語を聞いて、サラードは目を丸くしている。  そこでダグボルトはこれまでの事情を説明した。 「シスター・リンジーがねえ……。だけどおやっさんが言う通り、名無き氏族に拉致されたって決まったわけじゃないんだろ? そのうちひょっこり姿を現すかも知れないぜ」 「そんなわけ無いだろ!! リンジーのペンダントには、助けてくれって刻まれてたんだぞ!! あいつの身に危険が迫ってるのに、ぼーっとしてる訳にはいかないんだ。頼むから教えてくれッ!!」  ダグボルトは、サラードの肩を揺さぶって必死に懇願する。  するとサラードは空の瓶を振って、マスターに代わりの酒を持ってくるよう合図した。  運ばれてきた新しい酒を一口あおってから、ゆっくりと口を開く。 「……深緑の辺獄の奥地には、珍しい生き物や植物が無数に生息しててな。そういうのを高値で買ってくれる好事家のために、あそこに潜って命懸けで商品を集める探検家ってのがいるんだ。一般人の深緑の辺獄への立ち入りは禁止されてるから、探検家達は入手した珍品を闇で取引しているみたいだけどな。だけどそういう連中なら、あそこの道案内も可能だろうぜ」 「どこに行けば、そいつらと会える?」 「北エリアに行って聖槍通りの裏にある『女王の棺亭』を探しな。あの酒場はそういった連中の溜まり場になってるんだよ」 「ありがとう、サラード! 後でちゃんと礼をするからな!」  そう言うや否や、ダグボルトはものすごい勢いで酒場を飛び出してった。  するとそれまで無言だったナグロアが、吐き捨てるように呟く。 「ケッ。ハイデマン隊長は見殺しにしたくせに、自分の女の事となるとやけに必死じゃないか、あの野郎」  ナグロアの脳裏に、一人でハイデマン達を助けに行った時の光景が浮かぶ。  彼らが立て籠もっていた公衆浴場に行った時には、名無き氏族はすでに立ち去った後であった。  公衆浴場の入口の扉は無残に破られ、屋上は切り刻まれた死体でぎっしりと埋まっていた。  その中には、市民を庇うような形で絶命しているハイデマンの姿もあった。 「そういう言い方はよせよ、ナグロア。ダグボルトの判断は正しかった。あの時、俺達が南門を開けられなりゃ、もっと多くの犠牲が出てたろうさ。そんなのを亡くなった隊長が望むと思うか?」 「………………」 「いつまでもそんな陰気な顔すんな。今日は一晩中飲み明かそうぜ」  そう言うとサラードは、ナグロアの空のグラスに飲みかけの酒を注いだ。 「さあ、ぐっとやれ」 「……ああ」  勧められるまま、ナグロアはグラスに口をつけ、一気にあおった。  きついアルコールが五臓六腑に染み渡る。  二人は無言のまま酒を酌み交わした。  亡くなった仲間達を弔い、彼らとの思い出に浸るかのように。    **********  夕暮れの赤い陽射しに照らしだされた、北エリアの商業区を縦断する聖槍通りは、いつになく買い物客で賑わっていた。  南エリアの商業区がまだ閉鎖されている為、そちらから買い出しに来る市民が増えているのだ。  店頭に並ぶ食料品などは若干値上がりしていたが、ワレンツの指示で一時的な価格統制が行われているため、市民達の間ではそれ程問題にはなっていなかった。  賑やかな表通りとは対照的に、小汚い安酒場や看板の無い怪しげな店が並ぶ薄暗い裏通りは人気がほとんどない。  聖地では売春行為が禁じられているので売春宿は無いが、女を抱きたければ、通りに立っているポン引きに声を掛ければすぐに娼婦を連れてくるだろう。  聖地といえども悪の根を完全に断つ事は不可能だし、ワレンツもそうした行為を熱心に取り締まるほど野暮ではないのだ。  裏通りの端にある『女王の棺亭』から出てきたダグボルトは、疲労と心労でぐったりとしていた。  酒場にたむろう探検家達に、名無き氏族の集落に案内して欲しいと声を掛けたが、全員に断られていた。  彼らは名無き氏族に見つからないように隠れて珍品を収集するのが仕事であって、幾ら金を積まれても名無き氏族に見つかるようなリスクだけは犯したくなかったのだ。 「待ってろよ、リンジー。案内人なんかいなくても、必ず俺が助けに行くからな……」  ダグボルトは、ついに一人で深緑の辺獄に行く決意を固めた。  案内人無しでの救出作戦など、あまりにも無謀だと自分でも分かっていた。  隊員資格はもとより命すら失うだろう。  だが命と引き換えにリンジーを救えるのなら悔いなど無い。  旅に必要な物資を調達するため、ダグボルトは表通りに出た。  聖槍通りは相変わらず人でごった返している。  雑貨店に急ぐダグボルトの肩に、フード付マントと革鎧を身に着けた傭兵風の男が思いっきりぶつかった。大柄なダグボルトはびくともしないが、傭兵風の男はふらついて転倒しそうになる。 「気をつけろよ」  それだけ言うとダグボルトはその場を離れようとした。  すると傭兵風の男がダグボルトの肩を掴んだ。 「おい、てめえ。ぶつかっておいて、出てきた言葉がそれか?」 「は? ぶつかってきたのはお前の方だろ。言いがかりもいい加減にしろ。こっちは急いでるんだ」  ダグボルトは男を睨み付けて言った。  大抵の人間は、大柄で強面のダグボルトに睨まれれば怯むものだが、この男は全く動じているようには見えない。かなりの場数を踏んだ戦士のようだ。 「その辺にしておけ、レンビナス。目立つような振る舞いはするなと言っておいたはずだぞ」  不意に傭兵風の男の背後から、囁くような女の声が聞こえた。  睨み付けられても全く動揺していなかった男の顔がさっと青ざめる。  男の背後から、フード付マントを纏い、フードを目深にかぶった女剣士が現れる。  女剣士がフードを下ろすと、そこには見覚えある無表情な顔があった。 「マデリーン・グリッソム!」 「久しぶりだな、ダグボルト。いや、今は聖地を救った英雄殿とでも呼ぶべきかな」 「あんたなんかに褒められても嬉しくないね。それよりどうしてそんな恰好をしてるんだ?」 「審問騎士団の制服は、普段の活動の際にはあまりにも目立ちすぎるからな。だからこうして周囲に溶けこめるような姿をしているのだ。ところで前に会った時と比べると、大分やつれてるな。何か悩みがあるのなら聞いてやるぞ」 「はあ? なんであんたなんかに悩みを相談しなきゃならないんだ? あんたとは他人どころか、言うなれば敵同士みたいなもんだぞ」 「だが他人であれ敵であれ、お前の話をまともに聞いてやれる人間は、今は私しかいないはずだ。お前の友人達は、ほとんどが名無き氏族の襲撃で命を落とすか負傷してるだろうし、上司のワレンツは、その戦いの後始末で忙しいだろうからな」 「……たとえそうだとしても、あんたにだけは何も話す気無いね」  ダグボルトは冷然とそう言い放った。  しかしマデリーンは構わずこう答える。 「話す気が無いというのは、お前の恋人であるシスター・リンジーの事か?」 「な、何でそれを!?」  驚くダグボルトを見て、マデリーンはほんの微かに笑みを浮かべる。 「我々の情報網を甘く見ないで貰おう。ワレンツが各エリアに隊員を送って、彼女の行方を調べている事はすでに把握済みだ。しかし今の所、何の成果も無いようだな。お前は彼女の行方についてどう考えているんだ?」 「……たぶん名無き氏族にさらわれたんだと思う。これが南エリアに落ちてたからな」  ダグボルトは、白の仔竜のペンダントをマデリーンに見せる。 「これはシスター・リンジーのペンダントか? 成程、確かにここに刻まれた言葉は気になるな。しかし捜索活動を行うのなら、その前にまず、お前と別れた後の彼女の行動を正確に把握する必要があるだろう。とはいえここで立ち話もなんだし、我々の活動拠点に来るといい」  そう言うとダグボルトに真っ赤なスカーフを渡した。 「悪いがこいつで自分の目を覆ってくれ。我々の活動拠点がある場所を、ワレンツに報告されると困るのでな。そうすれば、そこのレンビナスが手を引いて案内してくれるだろう」  それを聞いてレンビナスは露骨に嫌そうな顔をするが、上司の命令とあっては文句など言えなかった。ダグボルトが躊躇っていると、マデリーンはまた軽く微笑んだ。 「まさか罠だとでも考えているのか? 幹部クラスの人間ならともかく、新人隊員のお前を罠にはめて、私にどんな得があるというのだ?」  ダグボルトは覚悟を決めて目隠しをつけた。  レンビナスは、ダグボルトの手を乱暴に引いてひたすら歩き続ける。  やがて周囲の喧騒が遠ざかっていき、代わりに恐ろしいくらいの静寂がやってくる。  ダグボルトは目隠しを外したい衝動を必死に抑えていた。  そのままさらに半刻(三十分)程歩き続け、長い階段を下りた所でマデリーンが声を掛けた。 「もう目隠しを外していいぞ」  スカーフを外して周囲の明るさに目を慣らす。  そこは十ギット四方の飾り気の無い石壁の地下室であった。  ダグボルトが入って来た入口の他に、左右の壁に一つづつ扉がある。  室内には仕事机が並べられ、十人程の私服の審問騎士が、書類の作成や何かの打ち合わせなどを行っている。  壁際には書類棚が置かれており、壁の空いている部分には、レウム・ア・ルヴァーナの大きな地図が張られていた。そこにはバツ印や、汚い字のメモなどが乱雑に書き込まれている。  審問騎士達は、マデリーンが部屋に入って来たのを見て、一斉に立ち上がり敬礼する。  マデリーンは鷹揚に頷いた。 「皆、ごくろう。私の事は気にせずに仕事に戻ってくれ」  審問騎士達はすぐにまた元の職務に戻る。  マデリーンは部屋の隅にある、衝立で仕切られた客人用のテーブルにダグボルトを案内した。  ダグボルトは古びたソファーに腰を下ろす。 「先程の続きだが、お前がシスター・リンジーと別れた時の状況、そしてこのペンダントを見つけた時の状況について、もう少し詳しく話してくれ」  ダグボルトは記憶を探りつつ、当時の状況をマデリーンに詳しく説明した。  マデリーンはメモを取りながら何度か質問をぶつける。  そして全ての質問を終えると、満足げに頷いた。 「よし。これだけ手がかりが集まれば十分だな。これを元に、今度は我々が調査を行おう」 「……分からないな」  ダグボルトはぼそりと呟いた。 「何がだ?」 「俺を助けた所で、あんたにどんな得があるんだ? まさか俺が借りを返すために、あんたの手下として働くとでも思ってるのか?」 「確かにそれも悪くないな。だが現実問題として、シスター・リンジーの失踪問題は、我々がこの聖地で抱えている案件と、大きく重なっているのではないかと考えているのだ」 「案件って何だ? まさかリンジーに魔女の容疑を掛けてるんじゃないだろうな?」  するとマデリーンはくすくすと笑い出した。  彼女の笑い声を聞くのが珍しいのか、部屋にいた審問騎士達は全員聞き耳を立てていた。 「フフッ、お前は本当に面白い男だな。世間では誤解されがちだが、我々の活動は魔女狩りだけではない。我々の最終的な目的は、この世界から悪の根を完全に絶やす事なのだ。魔女狩りなど、言うなればその象徴に過ぎない」 「悪の根を絶やす……」  ワレンツの執務室に乱入してきた時の事を思い出した。  内にある悪を見逃さないように注意する事だ。  それが出来なければ、あなたに聖地を統べる資格など無い。  確かマデリーンはそう言ったのだ。  だが聖地に巣食う悪とは一体何なのだろう。 「――我々の目的に関しては後で教えよう。ところで喉が渇いてるんじゃないか? ……カレナ、水を一杯持ってきてくれ」  マデリーンが衝立の向こうに声を掛けると、十代後半くらいの若い審問騎士が、水の入ったコップを載せたトレイを持ってきた。そばかす顔で赤毛の少女だ。  マデリーンはトレイからコップを取ってダグボルトに手渡す。  喉が渇いていたダグボルトは、そのまま一息に飲み干した。  そして勢いよく立ち上がる。 「あんたの好意には感謝するが、今更だらだらと調査を続けても結果は同じだ。俺は今すぐにでも、深緑の辺獄にリンジーを助けに……」  そこでダグボルトの意識が急に失われる。  ぐらりと傾いた身体を、マデリーンとカレナは二人掛かりで支え、どうにかソファーに寝かせた。  マデリーンは衝立の外に出ると、慌ただしく働いている審問騎士達に声を掛けた。 「みんな聞いてくれ。最優先の任務がある。今お前達が取り組んでいる仕事は後回しにして、先にそちらに取り掛かってくれ」  審問騎士達が集まると、マデリーンは任務の詳しい内容を語り始めた。    ********** 「ううっ……リンジー……。俺を……俺を置いて行かないでくれ……」  ベッドに寝かされたダグボルトは苦しげに呟く。  リンジーを失うという悪夢が、彼の心をひどく苛んでいた。  無意識のうちに大きく手を伸ばしたダグボルトは、ドサッと大きな音を立ててベッドから落ちた。  そしてようやく目を覚ます。 「ここは……?」  そこは窓の無い寝室だった。  壁に掛けられた松明が、パチパチと音を立てている。  ベッドが四つ並んでいるが、ダグボルトが寝ているものの他は空だ。  見慣れない寝室にダグボルトは首を傾げる。  少し考えた後、マデリーンに連れられて審問騎士団の活動拠点にやって来た事を思い出す。  そして彼女が勧める水に口をつけて意識を失った事も。  きっとトレイからコップを取った時に、睡眠薬を混入させたに違いない。  ダグボルトはベッドから抜け出すと、ふらふらと部屋の出口へと向かう。  するとちょうど寝室に入って来たカレナと鉢合わせする。 「あ! 起きてたんですか、ダグボルトさん。ちょうどあなたを起こしに来た所だったんですよ」  だが次の瞬間、ダグボルトの大きな手がカレナの喉を締め上げていた。 「な、何をするんですか……苦しい……」 「だったら俺がどのくらい寝てたか言えッ!」 「ふ、二日半ほど……そろそろ離して……」 「二日半も!?」  手を離したダグボルトは、苦しそうに咳き込むカレナの脇を通り抜けた。  ダグボルトの顔は怒りでどす黒く染まっている。  廊下をまっすぐ進み、奥の扉を蹴り開けると、そこは最初に通された仕事部屋だった。  マデリーンは一番奥の机で書類に目を通している。彼女の近くには五人の審問騎士が立っている。  ダグボルトに気づいて、マデリーンは顔を上げた。 「やっと目を覚ましたか。これから部下に調査結果を報告させる所だ。お前もそこに座れ」  マデリーンは、自分の机の横に置かれた椅子を羽ペンで指し示す。  しかしダグボルトはその椅子を力強く蹴り上げた。  椅子はマデリーンの顔のすぐ横を飛んでいき、激しく壁に叩きつけられる 「黙れ!! なぜ俺に薬を盛って、貴重な時間を浪費させたのか聞かせて貰おうじゃないか。返答次第じゃ、あんたの首の骨をへし折ってやるからな!!」  ダグボルトはポキポキと指を鳴らす。  緋色の瞳は激しい殺意に赫奕と燃えていた。  周りにいた審問騎士達は腰の武器に手を掛ける。  しかしマデリーンは顔色一つ変えようとせず、片手を上げて彼らを制止する。 「落ち着け、ダグボルト。お前は疲労がピークに達していて、冷静な判断力を失っているように見えたから、強引にでも休養を取らせる必要があると考えたのだ。そうでなければ、あんな薄弱な根拠で深緑の辺獄に行こうなどとは考えまい」  図星を突かれてダグボルトは一瞬言葉に詰まる。  だがすぐに気を取り直して反論した。 「俺がどう考えて、どう行動しようが勝手だろ!! 俺はあんたの部下でもなんでもないんだぞ!!」 「だからどうした! 今はそんな事は問題ではない!」  マデリーンは峻厳な口調でぴしゃりと言った。 「よく考えろ。ここがお前の人生において、最も大事な分岐点なんだぞ。もしここで選択を誤れば、おそらくシスター・リンジーとは二度と会えないだろう。失敗は絶対に許されん。だから多少時間がかかったとしても、冷静に状況を分析し、的確な行動を取らねばならないのだ」 「くッ……」  今度こそダグボルトはぐうの音も出ない。  彼女の発言は、まさに正鵠を射ていた。もはや反論の余地などない。 「分かったら、私と一緒に部下の調査報告を聞こう」  審問騎士の一人が、椅子を拾い上げて先程と同じ場所に置いた。  ダグボルトは、今度はおとなしく椅子に腰かけた。  メモの束を手にした審問騎士が一歩前に進み出る。十代後半くらいの黒髪の青年だ。 「では初めに僕からご報告いたします。まず僕達は、シスター・リンジーがサー・ダグボルトと別れてからの行動を調べました。東エリアの市民に聞いて回った所、どうやら彼女は東エリア部隊による市民の避難誘導を手伝っていたようです」 「実に殊勝な心がけだ。一介のシスターであるにも関わらず、聖職者として責任ある行動を取っているのだからな。その一方で大司教共ときたら、市民をほったらかして真っ先に大聖堂に逃げ込んでいるのだから、全員恥を知るべきだ」  マデリーンは冷淡な口調で呟いた。 「――しかしその後、彼女の消息はぷっつりと途絶えています。そこでサー・ダグボルトの考え通り、彼女が南エリアに向かったと仮定します。そうなると問題になるのは、どのルートを通って移動したかです。御存じの通り、非常事態の警鐘が鳴らされた時は、エリアを分かつ内壁の通用門は全て閉ざされてしまうからです」  すると今度は隣の女騎士が前に進み出る。  十代半ばくらいの、まだそばかすの残る童顔の少女だ。 「えーと、私はあの襲撃の際に、通用門のどれかが破損してて開いていた可能性を考え、内壁周辺の市民に聞き込みを行いました。しかし特にそういった事は無く、全ての通用門がちゃんと閉まっていたようです」 「分かった、ありがとう。通用門を通った可能性は捨てていいだろう。そうなると他に考えられるルートは、内壁地下の搬出路だけになる」  マデリーンの言葉を聞いて、ダグボルトは目をぱちくりさせた。 「なぜそれを……」  思わず呟くダグボルト。 「そういえばあの搬出路は、聖地防衛隊だけの秘密になっていたのだな。だが前にも言っただろう。我々の情報網を甘く見るな、とな」 「その情報網ってのは一体何なんだ? まさか聖地防衛隊にスパイを紛れ込ませてるんじゃないだろうな?」 「さあ? そこまでお前に教える義理は無い」  マデリーンは冷たく答えた。 (まあ当然だな。さすがにそこまでお人よしじゃ――) 「スパイを送って何が悪いんですか? ワレンツだって部下に私達を尾行させたり、活動内容を探ろうとしてるんですからお互い様ですよ」  それは戸口の前に立つカレナの発言であった。  まだ呼吸するのが困難なようで、手形の痣がついた喉を苦しげに押さえている。 「この痣を見て下さいよ、団長! さっきそこの人に首を絞められたんですよ! 私は何も悪い事してないのに!」  憎々しげにダグボルトを睨み付けるカレナ。  マデリーンは何も言わずに彼女を手招きした。 「ほら、団長。ここですよ、ここ。ここをぎゅーって絞められたんです」  カレナは喉の痣を指差しながらマデリーンに近づく。  するといきなりマデリーンは、彼女の耳を思い切り引っ張った。 「いだだだだだ!! な、何するんですか、団長ッ!?」 「お前には、前々から発言には十分注意しろと警告していたはずだぞ。何度同じ失敗を繰り返せば学習するんだ?」 「あ! もしかしてスパイの事、あいつに言ったらまずかった――あいだだだだだ!!」  マデリーンはさらに力強く耳を引っ張った。  痛みを必死にこらえるカレナ。顔は真っ赤になっている。 「こいつは私の副官なんだが、職務熱心な反面、いささか軽率な所があってな。正直、ワレンツの副官と交換したいぐらいだ」  目を丸くしているダグボルトに言った。 「そんなひど――いだいだいだああああいいッ!! ごめんなざああい!! もう絶対に口を滑らせたりしませんから、許してぐださああああッ!!」  マデリーンに耳を引っ張られ続けて、カレナは涙声になった。  周りの審問騎士達は、それを見て必死に笑いをこらえている。  だがダグボルトは逆に困惑していた。 「審問騎士団ってのは、冷酷で無慈悲でもっと殺伐とした組織だと思ってたのに……」  その呟きを聞いたマデリーンは、カレナの耳を離す。 「そんな事はない。我々だって人間だ。任務の時は非情に徹するが、そうでない時はそこいらにいる民間人とさして変わらん」 「それはそうかも知れないけど……。それともう一つ気になってたんだけど、あんたの部下はずいぶん若いんだな。みんなまだ十代ぐらいに見えるよ」 「ああ、実際その通りだ。傭兵上がりのレンビナスのような者もいるが、審問騎士団の団員の半数近くが、十代の少年少女で占められている。だがそれにはちゃんとした理由があるのだ。人生経験を重ねた大人は、必要以上に現実主義に陥りがちだ。それ故、彼らはすぐに斜に構えて、青臭い理想論を腐してしまう。だが無垢な少年少女は違う。彼らは真っ直ぐ理想を追い求める事に何のためらいも無い。だからこそ、ひたすらに善を希求する審問騎士団の活動に向いていると言えるのだ」 「それって要は洗脳しやすいって事だろ。純粋で疑う事を知らない子供達を、クレメンダールの思想に染め上げて、都合のいい道具に仕立て上げてるようにしか思えないけどな」  懐疑的なダグボルトの言葉に、マデリーンは軽くため息をついた。 「教皇猊下は、苛烈な発言故に誤解を招きやすいお方だ。だからそういう穿った見方をされても仕方がないだろう。だがそこにいる孤児達に、審問騎士として第二の人生を歩むチャンスを与えて下さったのは、その教皇猊下なのだぞ。いくらお前が猊下の事を卑下しようともその事実は変わらん」  ダグボルトはハッとする。  孤児だった自分が、セオドラに人生をやり直すチャンスを与えられたのと同じだ。  彼らもまた、一人の人間の手によって救いを与えられていたのだ。 「じゃああんたはどうなんだ? あんたもあいつら同様に孤児だったのか?」  するとマデリーンは急に押し黙ってしまった。  答えたくないのかとダグボルトが諦めかけた瞬間、マデリーンは重い口を開いた。 「……いいや、私は違う。私はとある裕福な商人の家庭に生まれ、何不自由なく育った。海洋貿易で成功して、一代で財を成した父は私の誇りだった。だがそんな父には更なる野心があったのだ」  周りの審問騎士達は声も無く驚いていた。  きっとマデリーンが、公衆の面前で自分の事を語るなどほとんどないのだろう。 「父は海賊の一族の末裔で、自分が賎しい生まれである事をいつも気にしていた。それでありあまる金で血統を買おうと考え、アドラント王国の若い没落貴族に私を嫁がせたのだ。だが残念ながら結婚生活はうまくいかなかった。落ちぶれたとはいえ貴族である夫には、借金を肩代わりして貰う代わりに、賎しい生まれの女と結婚せざるを得なかった事がひどい屈辱だったのだ。夫は余所に何人も女を作り、事ある度に私を乗馬鞭で叩いた。皮膚どころか肉が裂けて骨が見えるくらいな」  白い肌に無数に残る醜い傷痕を見て、ダグボルトは顔を強張らせる。 「そいつは酷い話だな……」 「そして結婚から何年かして、夫はとある事故で命を落とし、私は自由の身となった。……まあ、いつまでも過去に囚われていても仕方がない。そろそろさっきの話の続きに戻ろう。シスター・リンジーが南エリアに行くには搬出路を通るしかない。だが搬出路に行くには大聖堂を経由する必要がある。そうだな?」 「ああ」  ダグボルトは渋々認める。  今度は三人目の審問騎士が一歩前に進み出た。 「ですが襲撃の間、大聖堂でシスター・リンジーを見た者はいないようです。聖地防衛隊の隊員だけでなく、司祭や避難民にも確認を取りました」 「……となると、シスター・リンジーが南エリアに向かったという前提そのものがひっくり返る訳だ」  マデリーンはそう結論づけた。  驚いたダグボルトは、懐からペンダントを取り出した。 「じゃあこいつをどう説明するんだ! これは南エリアで見つかったんだぞ!」 「だがそれを見つけたのはお前ではないはずだ。持ってきた男の事を覚えてるか?」  ダグボルトは顎に手を当て考え込む。 「確か若い金髪の男だったけど、正直言うとあまり覚えてないんだ。ただ北エリア部隊の隊員章をサーコートの襟に着けてたから、そこの人間なのは間違いないと思う。隊員章には名前も書かれてたはずだけど、ちょっと思い出せないな」  そこでダグボルトはハッとする。 「まさかそいつが話をでっち上げたとでも言うのか?」  マデリーンは大きく頷いた。 「そう考えた方がむしろ自然ではないか? たまたまシスター・リンジーをよく知るお前のすぐ側で、彼女のペンダントを落とすなど、偶然にしてはあまりにも出来過ぎている」 「だとしたら何のために?」 「ここからは推測だが、シスター・リンジーを拉致した者からすれば、彼女が東エリアで失踪した事になっては都合が悪かったのだろう。だから失踪場所を南エリアに見せかける必要があったのだ。そうすれば誰もが名無き氏族の仕業だと思うだろう。お前がそう考えたようにな」 「………………」  ダグボルトは言葉を失う。  もしマデリーンに出会っていなければ、何も知らないまま深緑の辺獄に旅立っていただろう。  自分が冷静な判断力を欠いていた事を、今更ながら思い知らされる。 「あのう……。こんな事を言うのも何ですけど、シスター・リンジーは拉致されたのではなく、殺された可能性もあるんじゃないですか?」  カレナが恐る恐る尋ねた。  しかしダグボルトにじろっと睨み付けられて、慌てて顔を伏せる。 「いや、あらゆる可能性を考慮するのは決して悪くない事だ。だがこの場合、シスター・リンジーはまだ生きていると判断すべきだろう。もし殺されていたとしたら、南エリアにはペンダントではなく、彼女の死体が置かれていたはずだからな。それならわざわざペンダントをダグボルトに見せる必要もなかっただろう」  マデリーンは、ダグボルトを安心させるように言った。  ダグボルトも自分を納得させるように頷いた。 (そうだ。リンジーはまだ生きてる。今はマデリーンの言葉を信じるしかない。必ず俺が助け出してやるからな)  突然、ダグボルトが入ってきたものとは反対側の扉が開き、レンビナスが部屋に入って来た。  両手が鮮血で赤く濡れている。 「団長、少し手こずりましたが容疑者の口を割らせましたぜ」  レンビナスは、部屋の隅に置かれた水の入った盥で手を洗いながら言った。 「実にいいタイミングだ。ちょうどこちらもダグボルトに必要な説明を終えた所だ。我々は先に出発するから、お前は容疑者を連れて後から来い」  マデリーンは立ち上がると、壁に掛けてあったフード付マントを羽織る。  他の審問騎士も出掛ける準備を整えだす。 「出発ってどこに?」 「ついてくれば分かる」  質問にそれだけ答えるとマデリーンは外に出て行った。  ダグボルトも続いて部屋を出ようとしたが、カレナに腕を掴まれた。 「これを忘れてますよ」  ダグボルトは軽くため息をつくと、カレナが差し出したスカーフで目を覆った。  手を引かれて外に出ると、スカーフ越しに陽光が目に差し込んでくる。  そこから半刻程歩かされた後、今度は椅子に座らされた。 「もう外していいぞ」  目の前からマデリーンの声が聞こえた。  スカーフを外すと、そこは見知らぬカフェのオープンテラスだった。  太陽が真上にあるところを見ると、今は正午のようだ。  テーブルには、マデリーンの他にカレナがいた。  カレナは蜂蜜のたっぷりとかかったパンケーキをおいしそうに貪っている。  テラスにはダグボルト達の他にも二十人程の客がいたが、全員が一般人に扮した審問騎士であった。 「ここはどこだ?」 「北エリアの商業区の外れにある赤鼻通りだ。それとお前はちょっとした有名人だから顔を隠しておけよ」 「俺が有名人?」  マデリーンはカフェの壁に貼られた張り紙を指差す。  そこには南エリアの開門作戦に参加した、ダグボルト達五人の似顔絵が描かれていた。  その下には、五人の名前と共にこう書かれている。 『彼ら五人は死を恐れず敵陣に潜入し、聖地を救った聖地防衛隊の戦士達。その名は聖地レウム・ア・ルヴァーナの歴史に永遠に刻まれる事であろう』  目を丸くして張り紙を見ているダグボルトに、マデリーンが声を掛ける。 「ワレンツはしたたかな男だ。お前達を英雄に仕立て上げて聖地防衛隊の活躍をアピールし、襲撃で被害を受けた市民の不満を押さえるのに利用しているのだろう。おかげでお前達の顔は、市民の間ではかなり知れ渡ってる状態だ」 「だけどこれじゃ英雄どころか、まるで指名手配されてるみたいじゃないか」  ダグボルトはぶつぶつと文句を言いながら、マントのフードを目深に被って顔を隠す。  マデリーンは、今度は通りの反対側を軽く指差した。 「次はあそこの串焼き肉の露店の前にいる男を見ろ。相手に気付かれんように、顔を動かさず視線だけを動して見るんだ」  マデリーンの言葉に従って、ダグボルトは露店の方を視線を動かした。  男の顔をしばらく見ていると、頭の中の靄が急に晴れた。 「思い出した! あいつがリンジーのペンダントを持ってきた男だ!」  ダグボルトは小声で叫ぶ。 「やはりそうか。実はあの男は、我々が前々からマークしていた人物の一人なのだ。お前の話を聞いて、もしやと思っていたのだが、どうやら正解だったらしいな」  ダグボルトが立ち上がろうとするのを、マデリーンが引き留めた。 「落ち着け、ダグボルト。あの男はただの小物だ。だがあの男を追跡していけば、我々の探している大物にぶつかるはずだ」 「大物……。それがあんたが言ってた聖地に潜む悪なんだな」  マデリーンは紅茶を飲みながら軽く頷いた。  やがて金髪の男が露店を離れると、隣のテーブルの審問騎士がさりげなく立ち上がり、距離を取りながら後ろをついていった。 「後は部下が尾行から戻って来るのを待つだけだ。その間にお前も何か食べるといい」  そう言うと、テーブルの隅に置かれたメニューを差し出した。  しかしダグボルトはそれを突き返す。 「俺はいい。腹は減ってないんだ」 「その様子だと、ずっと何も食べていないようだな。だが今は、少しでも腹に入れておけ。ここからは長丁場になるからな」  マデリーンは再びメニューを差し出した。  今度はメニューを受け取ろうとした瞬間、カレナがそれをひったくるように奪いとった。 「あ、団長。私はレモンパイとアップルタルトを追加で――うぐッ!」  カレナは小さな悲鳴を上げた。  よく見るとマデリーンの肘が、カレナの脇腹に食い込んでいる。 「私服で活動している時は、私の事を団長と呼ぶな」 「は、はいい……。済みません………」  ダグボルトは思わず苦笑する。  二人のやり取りを見ていると、僅かながら不安が吹き飛んだような気がした。 「じゃあ俺もそいつと同じのを頼む」 「え?」  カレナはきょとんとした顔をする。  その間にマデリーンがすぐに店員を呼んだ。 「この二人に、それぞれレモンパイとアップルタルトを一つづつ。それと私には紅茶のお代わりを」 「かしこまりました」  店員が運んできた食事を口にしながら、ダグボルト達は辛抱強く待った。  二刻(二時間)程過ぎた時、ようやく尾行していた審問騎士が帰って来た。 「奴は入り組んだ裏通りの奥にある酒場に入りました。これがその場所を記した地図です」  地図の書かれたメモを受け取ると、マデリーン達は立ち上がった。  周りのテーブルにいた部下達も、それに続いて一斉に立ち上がる。  ダグボルトは逸る心を必死に抑えていた。 (もうすぐだ。もうすぐリンジーを取り戻せるんだ。そうしたらすぐにでもあいつの問いに答えてやる。二人で一緒に暮らそう、ってな!)
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