願い

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「この前の話なんだけど」  そう切り出すと、理沙の表情が少しばかり強張ったのが分かった。  先程まで上機嫌で、「今日はハンバーグだよー」などと笑っていたことが嘘のように。  考えていることが全て顔に出てしまうとこが理沙の良いところでもあり、悪いところでもある。 「なんだっけ?」  一緒に理沙の作ってくれた夕食を囲みながら、どうということはない話のように俺は話し続ける。 「マンションの話。仕事もそのうち落ち着いてきそうだし、どうかなって」  俺と理沙は、基本的に一緒に夕食を摂ることは少ない。昇進を機に仕事が忙しくなり、俺の帰りが遅くなったことが原因だった。 「とりあえず内見だけなら……」  理沙はいかにも歯切れの悪い返事を寄越した。俺は前回のこともあり、ほんの少しだけ苛立つ。 「理沙が住みたいって言ってたんだろ?」  それでも努めて感情を抑え、理沙に畳み掛けるが、「そうだったね」と曖昧に答えるのみだった。  その表情を見てふと思い出す。これからは帰りが遅くなるから、ご飯は先に済ませていて欲しいと話したとき。思い返せば、そのときも、理沙は少し強張った顔で「そっか、がんばってね」と言うのみだった。  俺の昇進も、マンションの話も全て喜ばしいことのはずなのに、その度に理沙は芳しい反応をしない。俺は理沙の気持ちを推し量ることができずにいた。 「私、今のままがいいよ。思い出のあるこの部屋からまだ出たくない」  やがて、理沙は意を決した面持ちでそう言った。 「隼人が昇進したのもうれしかったし、マンションの話も覚えてくれたんだって思うとうれしかった」 「またすぐ新しい思い出はできるよ。そういうもんだろ?」 「私は何より隼人と一緒に笑っているのが好きだった」 「なんで過去形なんだよ。今も前も、俺と理沙は変わらないよ」  本心からの言葉だった。俺達は何も変わってはいない。環境は変われど、付き合っている頃と変わらず、お互いがお互いを愛しているという確信はあった。 「マンションね、ほんとに住みたいって思ってたよ。でもね、それはあんなとこに住めるようになるまで、ずっと隼人といたいなって意味で」  理沙は訥々と話し出す。元々おっとりしていて、おしゃべりな癖に、口下手なところがあった。そんなところも好きだった。でも、今はそんな理沙に苛立ちを覚えていた。おそらく、初めて。 「じゃあ、なんでそんなまどろっこしいこと言うんだよ。そうならそうとはっきり言えばいいじゃないか」  理沙はいよいよ目に涙を溜めて「ごめんなさい」と小さく謝った。俺はなんだか疲れてしまって、「もういいよ」とだけ答えた。  理沙が張り切って作ってくれた夕食はとうに冷め切っていた。
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