願い

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 本当は内見の予約は理沙にその話を切り出す前に済ませていた。俺は管理会社に断りの連絡を入れ、いつもの忙しい日常に戻っていった。  疲れ果てて帰路に着いた道すがら、ふと昔のことを思い出す。理沙と一緒に暮らし始めたときのことを。あのときと何も変わらないし、これからも何も変わることはないと思っていた。お互いがお互いの帰る場所である限り。しかし、理沙は俺の考えとは少し違うようであることも昨日の話で分かっていた。  買い替えた通勤カバンは、とうに手に馴染み、しかし、くたびれることはないことが上質さを物語っている。理沙は今もあの頃と同じくたびれたカバンを気に入ってるからと言い、使い続けている。  だって、仕方ないじゃないか。形あるものはいつか壊れる。状況が変われば住む場所だって、環境だって変わる。それを受け入れていくしかないのだ。 「ただいま」  腑に落ちない思いを抱えながら、玄関のドアを開く。開けたままにしておくのは物騒だといくら言っても、俺が帰って来るまで理沙は玄関の鍵を閉めることはない。  玄関に入ってすぐのリビングでは、理沙がすうすうと穏やかな寝息を立てて眠っていた。髪を撫でるとサラサラと指通りがよく、風呂上がりのいい匂いがした。俺は理沙を起こさないように、タオルケットをかけてやり、すり足でキッチンに向かって夕食を温め直す。 「あれ? 帰ってたの?」  電子レンジの音で目を覚ましてしまったらしい理沙は寝ぼけ眼でそう言って、頭をもたげた。 「ごめん、起こした」 「帰ってきたら起こしてって言ってるのに」  理沙はそう言いながらも、うれしそうに俺の食事の準備をする。変わらない日常。いつもの繰り返し。理沙の変えたくない生活。 「ねぇ、覚えてる?」  理沙は唐突に話し出した。 「隼人からプロポーズされたときの約束のこと」 「どの話?」 「おじいちゃん、おばあちゃんになっても仲良くいようねって」  理沙は電子レンジから温まった唐揚げを取り出しながら、懐かしそうに目を細めながら言う。 「あのときは、結婚しようって話してるのに、なんでそんな先のことまで話すんだろうって思ったの」  理沙の話を聞いていても、そんなことを口走る自分の想像がつかなくて、俺は押し黙る。 「でも、今なら隼人の気持ちがよくわかる」  理沙はそう言って俺の手を握る。 「贅沢なんかしなくてもいい。隼人が偉くなんてならなくてもいい」
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