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「しないのならすこし代わるがいい。それ、どけどけ」
「……えっ」
マヌケな顔を晒されたところで、私の気は変わらない。神の慈悲とかいて「私」だ。
私の起こした奇跡を私が体験してなにが悪い。
動きの鈍い男を臀部でつきとばしてやると、彼はなにが起こったのか理解ができないようすで目を瞬いた。
「どれ。……む、このスカラベはなかなかに。手に馴染むな。転がすのか、いや、すべらせ……。おお、白手が言うことをきく! どれ、どれ……」
白手はするすると動くが、肝心のキャラが走らない。無表情であらぬ方向を見つめる姿は……なるほど。正面からみると愛嬌がある。ふむ。
「俺、俺、は……」
「キャラが動かぬぞ。何故だ。主人の言うことしかきけぬというのか? 私は偉大なる神の御遣いである。一時といえ、私の声を賜ることを光栄に思うがいい。光を操る壁画の彩りよ」
「…………マウスをクリックで、走ります……」
「……はやく言え。そして、クリックとはなんだ。マウスとはスカラベのことであったな?」
「……あ、えー……、マウスの左側を、カチッと。押す……?」
「左、左……。むっ!?!? おのれスカラベ! 腹に毒毒しい光を隠しているではないか! 何故言わないのだ! 神の慈悲といえど、今のは目に痛い。不敬めが」
「おいたまま、で、大丈夫……」
「ほう」
スカラベ……ではなく、マウスにのせた神託指を沈めてみる。手の中で立つ音は奇妙なほどに小気味よく、もう一度鳴らしたくなってしまうな。
それも、音にあわせて絵が走りだすのだ。白手を動かし、こちらへいけと地面を指してカチリとやれば、不承不承な顔をしてぴょんこぴょんこと愛嬌のある動きをする。
おお。なんという。
「……なんか、急に生き生きし始めたっすね。アナタ」
急にげっそりとした男が、疲れたような声を空間に響かせる。
「あんなに生き生きと楽しそうにされて、気にならないわけがないだろう」
不思議なことばかりいう人間である。
「おぬしも言っていたではないか。たしかに、これは楽しい。うむ。おお、はしるはしる。これは——楽しいぞ」
思わずカチカチカチカチしたくなるな。
おお、ついてくるついてくる。ふむふむ。なかなかに可愛い壁画ではないか。ふむ。
「……う、ん。楽しかった。本当に、本当に、たのしくて、懐かしかった……」
視界の端で、男はだんだんとちいさくなっていった。
む、木にひっかかったぞ。むむ。
「ゲームも、MMOも、したい。けど、時間がなくて。やりたいできないと思うのがつらいから、もっともっと、仕事に専念して」
出られぬ。むむむ。
「社長も、一目置いてくれるようになったんす。現場のはしっこで作業する俺の名前を覚えてくれて、褒めてくれて、感謝までしてくれた。俺、単純なんでもっともっと頑張ろうって思えて……。現場責任者まで任されたんだ、俺はすごいんだ、そう、誇りをもって頑張って、頑張って、頑張って……」
じたばたとしているうちに、罪色の植物が寄ってきてしまった。べちんべちんと叩かれている。画面左上の赤い横棒がじわじわとなくなっていく。
これは、攻撃されているのではないか? むむむっ、どうしたらいいのだ。むむむむむ。
「しらなかったんです……」
弱々しい声がする。
画面のなかにいる壁画顔までもが、助けを求めて泣きそうになっているようにみえてしまった。
「その建物が、なにに使われるかなんて。社長が搬入した補強材のなかに、違法薬物が隠されてたなんて。それが全部全部、俺のせいになっているなんて。ひたすらひたすら、仕事をしていただけだったのに。仕事しか、なかったのに。俺、ぜんぜん……。利用されて、バレたら捨てられるだけの駒として育成されてたなんて、しらなくて」
叩かれている。なす術もなく叩かれて、どうしたらいいかとおろおろしている。
絵は未だに木の引っかかりから出ることができない。
カチリカチリとあたりの地面を指しているのに、ぐるぐると苦しんで回っているだけだった。
「どうすれば、どうすればよかったんですか……。俺、すごくすごく考えたんです。考えて、考えて、社長や会社を恨んだり自分を恨んだり、仕事を呪ったりして、考えて……。
気がつけば俺は、ビルの。俺が作業してたビルの、上から——」
「死ぬぞ」
男の肩は、大袈裟なほどに跳ねた。
「この赤いのは、生命なのではないのか。なくなりそうだ。死ぬ……ではないな、ペロりそうだ。なんとかしてやれ。はやく」
「し、ぬ……って、あ、ゲームのはな——」
「はやく!!」
「は、はい」
石像がはじめて意思をもったかのような、遅々としてぎこちない動きで男はやっと画面の前に立った。
椅子は譲らぬ。下部に車輪がついているらしく、するりと動けるのが楽しい。それも、なんと回るのだ。面白い。
男がキーボードとマウスを触ると、惑っていた哀れなキャラにはあっという間に光が纏われた。
そうして次には、私が操っていたときには一度も見せなかった機敏さで杖を振りあげ、光とも宝玉ともとれる輝きで一瞬にして化け植物を滅してしまうのだ。
凛々しいではないか。壁画顔よ。うむ。
「すばらしい」
「ここ、低レベルマップなんで……。これくらいは、全然……」
「何故だか、身動きが取れなくなった。なんとかしておくれ」
「ああ、こういう木が多いところって処理遅れが多くて……。俺も昔、よくひっかかりましたよ。こうやっ、て……。ちょっとずつポイントをずらしていけば……」
「おお?」
「ほら! 出られた!」
「おおー! やるではないか!」
「……へへへへ」
中腰がつらくなったのか、膝をついて机に腕をかけ、男は液晶を眺める。私はその隣にまで椅子でもどり、こっそりとマウスを奪いとった。
「あぁー。俺、ずっとこの夢をみていたい……」
立てた手に預けられた頬が、マヌケな顔をさらにマヌケにした。ほんのりと細まった目に液晶の彩りが反射し、ほのかな光をみせる。
「生きてても、死んでても、もうどっちでもいいや……。この、無邪気な世界に、ずっと……」
「それは無理だろう」
ぱらり。
画面のなかではない場所で、微かに音がする。
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