2人が本棚に入れています
本棚に追加
「都さん?」
私を責めるように照りつける日差しを残さず吸い込んで、すっかり重たくなった黒色を背負い直す。
黒。真っ黒。
全ての色を遮断する衣に身を包んだ私は、声の発信源にゆるゆると体を向ける。
下がり眉に小さな瞳が二つ。低い鼻、薄いくちびる。派手なんて言葉は近寄った事もなさそうな、ぱっとしない人だ。初めてその顔を見た時も、今も。思う事は同じだった。くたびれたスーツはアイロン掛けを誤ったのか、袖の部分だけ変に光沢を持っている。反するように艶を失いくすんだ革靴がちぐはぐで、足し算したのに全体の印象を下げていく。白髪に黒髪が入り混じった毛髪を掻きながら、男はぎこちなく笑んでみせた。
「あ、ええと…大丈夫ですか?」
向こうから声を掛けたのに、視線が合ったのはほんの一瞬だった。
「大丈夫です。もう一年も経ってますし」
「まだ、一年ですよ。思い出してしまうと、辛いですから…」
見えない何かに押されるように、母の最期の恋人が項垂れる。気が弱く、頼りない。生きる力が足りない人。
何故あの人は、彼を選んだのだろうか。もっとお金を持っていて、華やかな男が好きだったはずなのに。それとも歳を重ねた彼女に選択肢はなくなって、一方的な事故のような関係だったのだろうか。
「添田さんにとってはそうでしょうね。だけど、私には振り返る思い出なんてほとんどないんですよ。…あの人から少しは聞いていたでしょう?」
添田は控えめに首を振る。詳しい事は知らない。それでも貴女は娘だから。そう言いたげに双眸を向けられても、私にあの人は少しも重ならない。
「暁美さんの家族は、貴女だけです」
家族。親子。母と娘。
それはどれだけ尊いものだろうか。それはどれだけ人生の比重を占めるものだろうか。そのどれもを愛しいと思えない。曖昧な笑みを浮かべる私に、添田は鞄から取り出した封筒を差し出した。
薄茶色の封筒には、私の名前が記されている。
遠い記憶の中のあの人の文字と食い違うそれは、細く流々と美しかった。
「…何でしょうか」
「暁美さんの部屋の整理をしていた時に出てきたんです。今まで手付かずだったのがいけなかった。…遅くなって申し訳ないけれど、これは貴女に宛てた物だ。だから受け取って貰いたいんです」
優しい男は他人の空気に敏感なのか。添田は無理矢理私の手に封筒を握らせると、何かあれば連絡して下さいと言って背中を向けた。
私が彼に連絡をする「何か」はもうないのではないか。あの人がいないなら、私と彼は単なる他人に過ぎない。そもそも、私とあの人も他人なのだから。
汗で湿る掌を封筒ごと握り締め誰が待つ事もない家に向かう私を、太陽は照らし続けていた。
最初のコメントを投稿しよう!