記憶探しの女、猫探しの男

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 「踏ん切りがつく」とはこういうことらしい。  雨が降り止まないなか、私は財布だけを持って最寄りの『ファーマシー』へ駆け込んだ。衝動的とも言える行動だった。入口の前で傘を閉じ、重い扉を開けると、受付には白衣を着た女性が二人立っていた。どちらも無表情で、黒髪を一本にまとめていて、二重と一重でしか見分けがつかないくらいそっくりな顔をしていた。  先端技術を用いた高級なクスリを取り扱う薬局『ファーマシー』。初めて足を踏み入れたが、そこは思いのほかシンプルな空間で、怪しげな雰囲気もなく、清潔感のある場所だった。各棚に陳列されているサンプルのうち、噂に聞いていたいちばん安価なものを探す。  これ、これじゃない? 『アフィン』のコーナーから「失恋用」と書かれた薄紫色の空箱を手に取る。他にも、水色の「虐待用」や黄色の「前科用」、乳白色の「総合型」が並んでいた。他のものも気になったけど、今日の目的は「恵吾くんを忘れること」これ一本だ。 「これでお願いします」 「『アフィン』の失恋用をご希望ですね。かしこまりました。こちらのカウンセリング室へどうぞ」  二重さんの案内で奥の殺風景な小部屋に入り小さな椅子に座ると、資料が広げられクスリの説明が始まった。  私が服用を決めたクスリ『アフィン』とは、過去の特定の記憶を削除するクスリだ。人間誰しも消してしまいたい過去がある。思い出したくない記憶がある。それを消すために命まるごと犠牲にする人が増えたことに対し、「ならば記憶のその部分だけを消し去ってしまえばいいじゃないか」といった頭のいい人の発案で開発されたのだそうだ。今では他にも、記憶の中で特定の物や人物を入れ替えたり、そもそも存在しない記憶を植えるクスリも発売している。『アフィン』はそれらの中でいちばん最初に開発されたシンプルなクスリだ。価格も十万円と、他のものよりはかなり安めになっている。ちなみに消した記憶はデータとして『ファーマシー』で保管され、持ち主の同意のもと他のクスリの材料へリサイクルしたり、部分的に移植したりすることもできるのだそうだ。 「それではカウンセリングに移ります」 「他に服用しているものはございますか」「いえ、服用はこれが初めてです」 「服用の目的は?」「恵吾くんにまつわる記憶を消して、まともな生活を取り戻したいんです」 「残しておきたい記憶はありますか?」「特にないので全部消しちゃってください」 「移植・リサイクルのための記憶の提供にはご協力いただけますか?」「あー、はい。私の記憶なんて需要あるんですかねぇ」  カウンセラーである二重さんは記者のように、ボードに挟んだ紙にペンを走らせていた。 「最後に、服用後のご自身へ書き置きをお願いいたします」  カウンセリングを終え、デビットカードで支払いを済ませる。記憶操作の効き方によっては「買った」「買っていない」の混乱を招く場合があるため後払いは一切使えないらしい。受付カウンターで一重さんから契約について説明を受けた。 「明日のこの時間には処方できますがお受け取りは……」 「じゃあ明日で」 「では、お待ちしております」  これら記憶を操作するクスリというのは、それこそ恵吾くんが時々使っていた。フリーランスのカメラマンだった恵吾くんは、まとまったお金が入るたびに『ファーマシー』へと足を運んでいた。そのときの私は、クスリで過去の記憶を変えるなんて負け犬のすることじゃないか心のどこかで嘲笑っていた。確かに記憶をいじりたいと思う時点で人生負け組なのかもしれない。でも今は、過去を変えられないものとして引きずるより、改変してでも今をより良く生きられた方がずっといいと思うのだ。  付き合いたての頃、恵吾くんは話してくれた。四歳くらいのとき、ある日突然お家に警察がやってきてお父さんが連れて行かれたこと、それ以来お父さんには会っていないこと。その前日の夜に、お父さんが買ってきた花火で二人で遊んだこと。それ以来「警察」がトラウマになっていて、花火を見ると「お父さん」を思い出し、切ない思いでどうしようもなくなるのだそうだ。 「『アルジェブラ』を処方してもらったんだ。これで俺はもっと幸せに生きられるんだ」  そう言った次の日から、九州へ引っ越してしまった幼馴染だという田中くんの話をするようになった。家族のように一緒に育ってきた田中くんから、引っ越す前日に「思い出づくりをしよう」と花火に誘われた。それが強く印象に残っていて、花火を見ると彼との楽しい思い出が蘇るんだという。そのとき私は初めて、これがクスリの作用なんだと理解した。恵吾くんの記憶における「お父さん」「警察」は、そっくりそのまま「幼馴染の田中くん」「引っ越し」に置き換わったようだ。それがまた、思い出話を聞いているこちらが疑う隙もないくらいホンモノらしいエピソードなのだった。これが先端技術の産物なのかと驚嘆させられたのを覚えている。それにしてもまさか、私もクスリにお世話になる日が来るなんて。  二重さんからの指示によると、彼との記憶を呼び起こしてしまう可能性のある物品、データは服用時までに全て処分しなければいけない。「辛い、大事に取っておきたい」と思う気持ちにフタをして、記念日にもらったもの、旅行先で一緒に作ったオルゴール、ペアルックのTシャツ、プリクラ、全部まとめて生理用品用の黒いゴミ袋に入れて、焼却場へ持っていった。この際、衝動に任せて取り返しがつかないことをしてしまおう。あとはデータ。パスワードロックのかかったスマホの写真フォルダに残された大量のツーショット、デートで行った場所の写真、プリクラ画像。一括削除して、クラウド上の写真も全て消した。最後にSNS。自分の投稿は一括削除。恵吾くんのアカウントはサブ垢も含め全部ブロックした。記憶そのものを消してしまうのだから、ブロック一覧から探そうなんて思うこともないはずだ。トーク履歴も、思い切って削除。これでもう二度と思い出を掘り返すことはできない。  あぁ、私は何をしてしまったんだろう。ほんのちょっとだけスッキリしたような気もするけど。やっぱり思い出が一つも残らないなんて辛すぎる、もう無理、死にたい。語彙力さえも失った究極の鬱状態。でも大丈夫。この感情も、明日には無くなるんだから。むしろ今しか味わえない鬱憤を存分に味わっておこう。死んでしまわないための『アフィン』なんだから。明日には何もかも忘れて自由になれるんだ。服用まであと十時間ちょっとの辛抱だ。
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