記憶探しの女、猫探しの男

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 翌日、私の気は晴れていた。今まで感じてきた痛みも悲しみも苦しみも、今日で全部忘れられるのだ。そう考えれば十万円もする『アフィン』を衝動買いした私の決定はやはり間違っていないように思えた。水溜りに映る自分のシルエットがあまりにも平凡で健康な人間に見え、私は何に病んでいたんだろうとさえ思う。  昨日駆け込んだのと同じはずの『ファーマシー』が、おしゃれなカフェのように見えた。 「先日ご予約いただいた河野様ですね。こちら商品とご自身の書き置きでございます。副作用が激しい場合はお気軽にご相談ください。では、お大事にどうぞ」  受付は昨日と同じ一重さんだった。高価な商品だけあって紙袋も立派だ。なんだか買い物帰りのセレブのような気分だ。もう少しいい格好をしてくればよかった。  家に帰ってさっそく説明書を読んだ。ラベルにはきちんと「河野麻耶様」と私の名前が記されている。クスリの服用においては、人によって用途も状況も違うため、カウンセリングで具体的な話を聞き出し、個人に合わせた処方箋を作るそうだ。私の場合は一回に一袋を飲みきり、ニ時間程度の仮眠を取ることが指示されていた。中身も『アフィン』の「失恋用」で間違いない。手違いがあると怖いから、念のためよく確認した。  『アフィン』の粉末を水に溶かして濃さが均一になるように混ぜ、一気飲み。初めてのクスリは乳酸菌飲料のような味がした。付属の睡眠薬を最後に飲む。これからどうなるんだろう。興奮状態でベッドに入った。おっと、危ない。書き置きを手に握って眠りにつかなければいけないんだった。目が覚めて記憶を失った私への伝言。あぁ、本当に忘れちゃうんだ。未だに想像がつかないけれど、実感だけが湧いてきた。  さよなら、恵吾くん。さよなら、幸せだった日々。さよなら、私の思い出。どうか、これからはラクに生きられますように。  目が覚めた私は、まるでセーブデータを読み込むかのように起動に時間がかかった。私は、河野麻耶。ここは自宅でベッドの上。今日は五月二十四日、月曜日。職業カフェ店員。あぁ、目覚めた。あれ、朝じゃないの?そして自分の右手が紙を握っていることに気づく。 “どうしても忘れたい過去があったので『アフィン』を使いました。どうか、これに代わる新しい幸せを見つけて  2032/5/23 河野麻耶”  『ファーマシー』の立体ロゴが入ったハガキサイズの高級紙に、間違いなく私の筆跡で、メッセージとサインが書かれていた。私は『ファーマシー』に行った。確かに行った。昨日の雨も今朝の水溜りも憶えている。そうか、私はついにクスリに手を出してしまったのか。でも、なんで?そんなに消したい記憶って何だったんだ?とはいえ、それを思い出したら服用の意味がなくなってしまうのか。日常生活に必要な知識はちゃんとあるみたいだし、本当に何かの記憶が消えているとしても生活に支障が出るわけでもないからいいや。ひとつ挙げれば銀行口座から引き落とされている十万円。「そのお金があったら何が買えたかな」と思ってしまうけど、それを支払ってまで忘れたいほど、昨日までの私は追い詰められていたみたいだ。それなら仕方がない。何があったか知らないけど、私は私の味方をしてあげよう。今の私が生きていられるのだって、その時の私の決断のおかげかもしれないんだから。クスリは悪いものじゃない。書き置きに記された、他の誰でもない「私」からのメッセージを読み返す。 「新しい幸せを見つけて」  そう。消してしまった記憶分の幸せを見つけなければいけない。
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